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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
33/146

ピダマ神訪

 舟べりから手を差し伸べてすくってみる水は、まだ刺すように冷たかった。

 この国の川の水は、シムの国と違ってどんな大きな川でも水は透明に透き通っている。

 陽ざしは温かく、昼前ごろまで一所懸命に舟を漕いでいたイェースズは、かなり疲れていたこともあって、包み込むような陽光の中で手を休めた。

 途端に、睡魔が彼を襲う。あまりに陽ざしが気持ちいいので思わずこっくりとして、それが時間としては長くなくても、我に帰って舟べりから顔を上げるとしっかりと舟は逆行していたりする。

 上流へとさかのぼっているのだから、船を漕ぐ手を止めると下流へ通し戻されて流されてしまうのだ。そんなことが何回かあったので、夕日が西に傾きかけてもあまり進んでいないような気がした。

 時折川の合流点にさしかかったが、大きい方の川というのがイェースズの行く手を決める手だてだった。

 一度だけかなり迷ったこともあったが、彼は左から流れてくる川へと進路を決めた。やがて川の両側が山がちになった。樹木に覆われた低い山が、互いの境目もなく続く。

 とにかく不思議な国だった。大陸を旅していたときは、来る日も来る日も砂漠や不毛の山という風景で、下手をすると数ヶ月も全く同じ単調な風景の中を歩いたものだった。

 ところがこの国は、実に風景が多彩なのだ。ほんの一日か二日の行程で風景は一変し、海があったかと思うとすぐに山で、その山も実に変化に富んでおり、同じ風景が幾日も続くということはないのである。

 極端な場合、その日のうちに風景は変化する。

 舟からそんな風景の中のずっと列なる山を見て、彼は行くべき地であるクラウィ山に想いを馳せた。

 クラウィ山も目の前の山のような姿なのだろうか……そんな考えを彼はすぐに打ち消した。ピラミドウといわれているような山だから、ひと目でそれと分かるはずだ。

 そんなことを考えているうち、イェースズはあることに気がついた。クラウィ山はミコのいたオミジン山からはちょうど南だとミコは言っていた。ところが、今進んでいる川の上流は、東から流れてきている。つまり、イェースズは東に向かって進んでいることになる。

 しまった……と、彼は思った。どうも先ほどの合流点で、進むべき川を間違えたらしい。合流点まで戻って進み直そうかとイェースズが思った瞬間、左手の低い山並みの向こうにきれいな三角形の山が顔をのぞかせているのが見えた。

 さほど高い山ではなさそうだが、それが実にきれいな三角形なのだ。そしてそれがイェースズの幼児記憶を刺激し、エジプトで見たピラミッドの姿が彼の脳裏に鮮やかに蘇った。

 理屈ではなく直勘的に普通の山ではないと思ったイェースズは、その山へ行こうと思った。行かなければならないと強く感じたのだ。

 どうも方角を間違えたようなのであの山がクラウィ山ということにはならないかもしれないし、ましてやこんな出発してその日のうちにクラウィ山に着くはずもないが、万が一そうだったら通りすぎたら悔やまれる。

 舟を小砂利の河川敷に引き上げ、イェースズは山の方へと歩きだした。


 イェースズが三角山のふもとに着いた時はちょうど日没だった。ふもとから見上げても、確かに異様な山だった。周りの丘陵からは独立して三角形の山は少しだけ高く、山全体が樹木で覆われていた。

 ため息交じりに立ち止まって、イェースズは三角の山を見上げた。日が沈んだとはいっても、完全に暗くなるにはまだ間がありそうだった。山はさほど高くはなく、道さえあれば朝起きてから朝食をとるまでの間くらいの時間で登れるほどだ。

 だが、さすがに今から登れば、頂上に着く頃には真っ暗になっているだろうと思われた。

 それでも、イェースズは登ろうと思った。もし途中で暗くなったら、そこで野宿をすればいい。とにかく少しでも登れば、この異様な山の正体が分かるような気がした。クラウィ山ではないにしろ、この山もピラミドウなのではないかという気がしたのだ。

 イェースズは歩きだした。登る道がないかどうか探すためである。そうしてイェースズが山のふもとでうろうろしていると、彼を呼び止める声があった。獣の皮衣を着た村人で、青年と中年の境目のような年頃の黒い髭の男だった。


「どこへ行くんだあ?」


 イェースズは振り向いて、笑顔を作った。


「この山に登るんです」


「この山に登るだって? これから?」


「はい」


 一瞬怪訝(けげん)な表情を見せた後、男は慌てて叫んだ。


「だめだよ。あんたそんな赤い、このへんのものとは違う顔つきだからよそ者だろう。だから知らんのだろうが、この山に日が暮れてから入ったら、クラウィ山のオニにさらわれるだ」


「え? クラウィ山?」


 イェースズは耳を疑った。そして興奮した状態で、男に歩み寄った。


「この山が、まさかクラウィ山……?」


「はあ?」


 男はあきれたように、口を開けた。


「クラウィ山は、ここからもっともっと南だあ。こんな小さな山じゃないよ。これはトンガリ山だ」


「でも今、クラウィ山のオニって」


「だからあ、クラウィ山からオニがやって来てさらって行くだ。この山から南のクラウィ山の方角へ、夜になると時々光るものが飛んでいくのを何人も見てるんだ。それがきっとオニだ。悪いことは言わないから、よしな」


「あのう」


 男は立ち去りかけたので、イェースズは慌てて呼びとめた。


「この山は、ピラミドウなんですか?」


 男の表情が、急に変わった。そして何かに怯えるように腰を引き、


「おらあ、知らん。知らん!」


 問って二、三歩後ずさりしたかと思うと、男はそそくさと行ってしまった。あとに残されたイェースズはわけも分からずに立ちすくんでいたが、オニが出ようがクラウィ山と聞けばかえって登らないわけにはいかなくなった。

 道はなかった。木と木の間の草むらをかき分け、イェースズは登っていった。幸いまだ寒い時期なので、枯れ草がほとんどだった。

 中腹あたりまで登った頃に、宵闇がトンガリ山をすっぽりと包んでしまった。もうこれ以上は無理かなと思いながらもうひと登りした時、イェースズは思わず声を発してしまった。

 道があったのである。しかもそれは石畳の道で、石と石の間は赤土で固められ、明らかに人の手による道だった。

 そのお蔭で後は楽に登ることができ、本当に突然といった感じで頂上が現れた。三角系の山をそこだけ巨大な刀で切り落としたように、頂上にはわずかだが平らなスペースがあった。もう暗くてよく見えないが、何だか中央に置かれている石の周りに、やはり石が円形に配置されているようだ。

 何だろうと思って、イェースズがそのストーン・サークルに近づいた時である。目もくらむような閃光が、彼を包んだ。それからというもの、時間の感覚を全く失ったまま、気がつけば彼は別の空間の林の中にいた。


 山中であることには間違いない。しかし、その傾斜といい、風景といい、明らかにトンガリ山とは別の山の中に突然放り出された感じだった。

 イェースズは何だかわけが分からず、あたりをきょろきょろ見回した。あたりはもう薄暗くてよく見えなかったが、目の前に洞窟があるのだけは何となく分かった。

 もう少し時間がたてば、それもすっかり見えなくなるはずである。今の自分の状況を冷静に分析する暇など彼にはなく、とにかくその洞窟で今夜は泊まろうとうと思った。

 とにかくイェースズは、洞窟の中に入ってみた。食糧袋は舟に残さず、持ってきていた。その荷物の中から松明たいまつを取り出し、石を打って火を起こし、洞窟の中を照らしてみた。

 そこには、誰もいなかった。ちょっとかがんで入らないと頭をぶつけてしまうような小さな洞窟で、五、六歩ほど歩いただけで奥の壁にたどり着いた。幅も狭い。その側面も天井も大きな岩で、土を掘って作った洞窟ではないらしい。足元には平らな石が、石畳状に敷き詰められていた。

 奇妙なのは奥のつきあたりの壁の所が祭壇状になっており、上に人の頭よりはほんの少し小さいくらいの丸い石が乗っていたことだった。見事なまで狂いのない球形の石で、人の手で磨いたとしか思えなかった。

 イェースズはその玉石を、松明の炎を近づけてしげしげと見た。なぜか手を触れてはいけないような気がして、ただ黙って見ていたのである。

 しかし、それが何であるのカを考えるゆとりは、すでにその時の彼にはなかった。空腹と疲労だけが彼を支配し、荷の中の食糧の木の実をむさぼるように食べると、そのまま松明の炎を消して仰向けに倒れ、彼は眠ってしまった。

 

 翌朝、目を開いて、冷たい岩の天井が最初に目に映った時、昨日の出来事がどっと頭の中に甦ってきた。

 それも夕方のことばかりで、ミコに見送られて旅立った朝のことなど、遥か遠い昔のように感じられた。

 確か、トンガリ山という山に登った。そしてその頂上で閃光に包まれたあと、瞬時にして別の林の中にいた。それがここなのだ。その意味を考えなければと体を起こしたが、まだ体に力が入らなかった。

 首をひねると、昨夜見た祭壇の上の玉石が視界に入った。今見ても本当に見事な球形だが、そんな石がなぜここに置いてあるのか、見当もつかなかった。

 イェースズは外に出てみた。あたり一面霧が漂い、空気はひんやりとして肌を刺した。

 明るい所ではじめて洞窟を外から見て、やはりそれが土を掘ったものではなく、岩を組んで作られた岩屋だということを彼は知った。ひと抱えもある巨大な円柱状の柱石が左に、そして右は巨大な板状の岩がその上を覆う大きな岩を支えて、その下に空洞を作っている。岩の巨大さもさることながら、それらをこのように巧みに組み合わせて岩屋を作るというのは、とても人間わざとは思えない。

 だからといって、これは決して自然のものでもあり得なかった。こんな素晴らしい岩屋で一夜を過ごさせてもらえた天の配慮がありがたくて、イェースズは感謝の念に思わず手を合わせていた。


 岩屋の前に、左右に延びる道があった。道は山腹を横ばいに、左上がりの坂だった。それに沿って彼は、山を登り始めた。登るといってもトンガリ山のような急な傾斜ではなく、登っているというよりただ単に坂道を歩いているという感じだった。

 林の中の日の当たらないと思われる所だけ、まばらに雪が残っている。そんな木立の中を歩いていると、やがて視界が開けた。道はもうそれ以上登り勾配ではないので、ここが山頂かもしれないと彼は思った。

 そこは、なだらかで広々とした高原だった。しかし霧が立ち込めているため、どのくらいの広さなのかは正確には分からなかった。それでも、広いということは十分に感じられた。

 山頂がこれだけ広いのだから、かなり大きな山だと思われる。しかし、下界は霧のため何も見えなかった。ここには樹木はなく、一面の熊笹で覆われており、ところどころに雪があった。霧は前方から流れてきて、冷たく全身に当たる。その白いベールのかかった風景のあまりの神々《こうごう》しさに、イェースズは思わず身震いをした。

 その神秘の世界に、彼は一歩一歩と足を踏み入れていった。

 するといつの間にか、前方に人影が見えた。近づくに連れ、霧の中でその人は、次第に姿をあらわにしていった。それは、透き通るような白い衣を着た老人だった。頭髪は耳の周りにしかなく、その代わりに見事な白い髭が胸元あたりまでたれていた。

 イェースズが近づいていっても、老人はじっとイェースズを微笑みのまなざしで見つめたまま、微動だにせず立っていた。それは尋常な人ではあり得ないという風体で、まさしく仙人そのものだった。そしてその老人と向かい合う形となり、イェースズは歩みを止めた。


「あのう、あなたは?」


 と、イェースズの方から口を開いた。


「イスズ君だね」


 イェースズの問いには答えず、いきなり自分の名を老人は口にしたので、イェースズはたじろいだ。しかも、その名はミコが彼をそう呼んだ名だ。


「は、はい。そうですが……」


 老人はさっと両手を上へと広げ、大げさな身振りで、


「ここがクラウィ山だよ」


 と、言った。


「え? でも、クラウィ山はトンガリ山からはずっと南だって……」


「確かに、普通に来れば二日はかかる。トンガリ山はコシの国で、ここはもうピダマの国だからな」


 老人はゆっくりと手を下ろし、イェースズに背を向けて歩きだした。イェースズは慌ててそれを追った。

 無言で歩く老人に、イェースズも同じく無言で着いていくしかなかった。老人は林の中に入って行った。霧が深くて景色が見えないのでよく分からないが、どうも老人は道を下って行っている。

 そしてかなり下ったあたりで、突然目の前に目をみはるような巨大な岩石が横たわっているのに出くわした。平らな舞台のようなその岩は上に人が六人ほど寝られそうな大きさで、真ん中からさらにもう一枚の岩が一段高く段状に乗っていた。


「ここに座りなさい」


 と、老人に言われるまま、イェースズは弾みをつけて岩の上に上がり、そこに正座した。高さはそう高くないので、まるで故国のシナゴーグの祭壇のようだ。


「日の神様、アマテラス日大神様にここで祈りなさい。この山に天降あもられた神様に。そしてその父神トトがみ様にも届くように」


 イェースズはその言葉通り手を合わせようとすると、老人はもう着いて来いというそぶりで歩いて行ってしまう。どうも、今祈れという意味ではないらしいと察し、イェースズはまたその後を追った。

 老人は再び山を登りはじめた。その間、道の脇にいくつもの巨石をイェースズは見たが、やがて再び山頂近くに登りきったと思われるあたりで、それまでにない巨大な岩に出くわした。今度は板状ではなく、人の背丈ほどの高さに立っている。

 その周りを、さらに天を突くような何本もの背の高い針葉樹が囲んでいた。周りも針葉樹林だ。


「きれいに磨かれているんですね」


 イェースズが思わずそう漏らしたのも道理で、表面は見事に平らに磨かれており、人の姿も映りそうなほどだった。もうだいぶ霧も薄れてきていたが、その時はっきりと空が顔をのぞかせ、すでにかなり高くに昇っていた太陽の光がさっとさした。

 その木々の間をぬってさしこむ陽光はちょうど磨かれた大きな岩の側面に当たり、その光が反射してイェースズを直撃した。イェースズはそのまぶしさに、思わず目を覆った。


「アマテラス日大神様は、雄々しく輝ける太陽の神様だ。その神様が天にお帰りになったあと、人々は神様を慕ってこのように太陽の光を映す鏡岩を作り、この岩に映る太陽の光を通してアマテラス日大神様を礼拝しておった」


 イェースズは振り向いて、老人を見た。


「昨夜私が泊まった洞窟に、玉のような石があったのですが……」


「それは霊石だ。岩の中から生まれる石で、決して人間が磨いたのではない。その証拠に、最初は小さくても段々と大きく育つ」


「え? 石が育つんですか?」


「育つ。だから霊石なんじゃ。玉石は世界中どこを探してもこの島国の中のここピダマの国と、ずっと西のピの国のアソの山のふもとの二ヶ所からしか絶対に出ない。そういった石をこの地にだけ神様が許されているというのはここが重大な霊的因縁の地、すなわちこここそが人類発祥、五色人創造の聖地だということじゃ」


 イェースズはもう一度、鏡岩の表面を見た。それから、


「ところで、あなたは……?」


 と言ってイェースズが振り向いた時、老人の姿はかき消すように消えて跡形もなかった。イェースズはあたりをきょろきょろと見回してみたが、老人が去って行く後ろ姿さえ見当たらなかった。

 まるで狐にでも騙されたような感覚で、イェースズはそこらじゅうを走って老人を探したが、老人は影も形もなかった。


 とりあえずイェースズは、岩屋に戻った。

 明るい光の中で見ると、岩屋もまた針葉樹林の中で、岩に根を張って直接そびえている樹木も多数あった。

 鏡岩は、実際は岩屋のすぐそばだったのだ。その岩屋の洞窟の中で、イェースズは相変わらず鎮座していた玉石を見た。本当に岩がこんな石を生み、そしてこの石も育つのだろうかと当然ながら思うが、イェースズは自分に「ス直」と言い聞かせていた。

 あの老人がそう言うのならそうなのだろうと仰向けに横たわり、今自分が置かれている状況を考えようとした。しかし頭の中は混乱するばかりで、その混乱したままの頭でイェースズはその日一日を過ごした。クラウィ山の姿が見えたらどんな感動があるのかとイェースズは楽しみにしていたが、こんなにも突然に目的地に着いてしまうとかえって気が抜けたようになってしまう。


 翌朝、老人と出会った同じ時刻に、イェースズは山頂のなだらかな高原へと登って見ることにした。同じ時刻の同じ場所なら、またあの老人に会えるかもしれないと思ったからだ。

 この日は霧もなく、よく晴れていた。空も青みがさし、太陽が昇る準備は万端のようだ。今日は霧がないだけ、山頂の広さが実感できた。

 周りの山々の景色もよく見渡せる。山がひだのように幾重にも重なる山岳地帯の中に、今立っているクラウィ山はある。山岳地帯といってもそれぞれの山は独立して立っており、その間には低地もあって集落も見える。どの山もまだ頂上付近にはうっすらと雪が残っており、山は葉のない木々に覆われていて、特に隣の山はクラウィ山と同じくらいの高さで並んでいた。

 とりわけ朝日が昇った東の方角の遠くには、上部に雪を頂くひときわ高い山脈の壁が横わたって見える。

 イェースズは胸を開き、冷たい空気を大きく吸いこんだ。

 広い頂上のどこにも、人影はなかった。空がどんどん明るさを増して昼間と変わらないくらい明るくなっても、老人が現れる気配はなかった。高原のあちこちを歩き回ってみたが、自分が熊笹を踏む音と木々の方から聞こえて来る小鳥のさえずりが聞こえるほかは、山頂に何の変化もなかった。

 そのままイェースズは昨日見た祭壇石の所まで山を下っていった。もうそろそろ日も昇る頃だ。

 ここで祈れと昨日老人が言ったことを思い出したイェースズは、祭壇石の下の段の所に上がった。この目の前に一段高くなっているもう一枚の巨岩の上に祭具を並べればもうそれは祭壇以外の何ものでもなく、どう見ても自然の産物ではあり得なかった。

 しかし石はこの大きさで一枚岩であり、それがきちんと重ねられているというのは、イェースズの故国やエジプト、ローマなどではいざ知らず、現時点では未開とも思われるこの国の技術としては実に異様だった。

 目の前の林はスロープとなって、なだらかに頂上まで登っている。その方に手を合わせて二拝した後、三拍手を打ってイェースズはひれ伏した。

 今はご神意を頼りにするしか、ほかの手だてはなかった。全身全霊を挙げて神のみ声を聞こう、御指示を仰ごうとイェースズはひたすら祈った。


 ふと目を上げると、頂上の向こうに朝日がさしていた。太陽が昇ったらしい。この祭壇で祈れば自然と朝日を礼拝するという、そういう向きに造られているということも彼は知った。

 それからひとまず岩屋に戻り、持ってきた食料で朝食を済ませた。そして今日は、山全体を一日中探してでもあの老人に会おうと彼は思った。そうして実際にイェースズは山頂を隈なく歩きまわったが、クラウィ山はミコのオミジン山やトンガリ山などとは比べようもないほど大きな本格的な山で、一日ではとても探しきれなかった。

 翌日になってようやく全山を歩き尽くしたが、老人はどこにもいなかった。そしてその代わりにさまざまな巨石を見たが、この山がピラミドウという実感はまだ持てずにいた。

 トンガリ山ならちょうど大きさといい形といいエジプトのピラミッドと似ているのでトンガリ山がピラミドウだというのなら理解できるが、クラウィ山はエジプトのピラミッドよりもとてつもなく大きく、あくまで「自然の山」なのだ。だからピラミドウとまでは思えないまでも、ただの山ではないということだけは実感できた。理屈ではなく、山全体の霊妙な空気を魂が感じるからだ。

 この山が、そしてこのあたり一帯のピダマの国が神々の降臨の地であり、世界の神都であったというミコの話も、この神秘のベールに包まれた霊気からは十分にうなずけると、林の中を歩きながらイェースズは考えた。

 そして、もう老人を探すのはやめようと彼は思った。最初はダンダカ山のアラマー仙のようなこの山に住む仙人かとも思った。それにしてはあれ以来姿を見せないというのも変だ。

 その正体は謎だが、あえてその謎を知りたいとは思わなくなったのである。

 探すというよりも、待とうと彼は思った。待っていれば、忘れた頃にまたひょこりと現れるかもしれない。仙人とはそういうものだ。そう思った彼は、次の日からは毎日岩屋で修行をした。

 食料がなくなりかけても、神との絶対なる信頼感を持っていた彼は何の不安もなかった。果たして本当に食料がなくなった日に山菜の若芽を見つけたし、食料になる小動物も穴から出てきた。しみじみとありがたいと感じた彼は、心から感謝をした。

 修行といえばまずは祭壇石での朝の礼拝で、エッセネの朝の太陽礼拝よろしくこれは時間をかけてやった。

 それからは鏡岩の前や夕方からは岩屋の中で、ダンダカ山でかつてやったように禅定を組み、これまでのい自分の人生を洗いざらいに点検して反省する行をすることによって、心の垢を落とそうとした。

 そうした修行の毎日が続き、三十日くらいがたった。時折吹き過ぎる風は、もはや早春の風ではなかった。山全体がすっぽりと春に包みこまれ、優しい陽ざしも温かさも増し、その中にかすかな香りもあった。


 ある朝、いつものように祭壇石で礼拝していると、目の前がパッと明るくなった。しかしそれは、朝日のそれとは違った。そっと目を開けると、何と祭壇石の二段目の上が燃えていた。驚いてイェースズは顔を上げた。

 炎は祭壇の上いっぱいに広がっているが、その発する光は普通の炎のそれとは全く異質のものであった。この世のものとは思えない、不思議な光だったのである。

 つまり、現界の物質としての火ではない。そんな炎をイェースズが見たその時、彼の全身に閃光のかたまりがぶつかってきた。軽いめまいを覚え、そしてその次の瞬間には全身が宙に吊り上げられた感じがした。まるで頭を何ものかにつかまれ、空中で振り回されているようだった。

 正気に戻ると、当たり一面が閃光の洪水の中に彼は立っていた。いつぞやの体験と同じで、彼は思わず懐かしさを感じていた。それは魂の奥からにじみ出てくる懐かしさなのだ。


 ――イスズ。イスズ。


 と、前方で声がした。前の時と同じ、耳に聞こえるのではなく心の内に響く声だ。その声の方にすこしだけ、彼は歩いてみた。なにしろ立っている場所、つまり足の下が地面なのかどうかも分からない。

 上も下も前後左右も、全く同じ黄金色の光に塗りつぶされている。確かに立っているし歩くこともできるが、足の裏に地面の感触があるのかどうかといえば、それは何とも言えないのだ。

 そして三歩くらい歩いた時、


 ――ここより近づくこと、許さず。


 と、厳しい口調の声が響いてきた。その声は、自分の背丈の何十倍もあるかと思われる巨大な存在から発せられたようにも感じられた。全身を包みこむ、実に重々しい声だった。

 かといって暗い声ではなく、口調に微笑みを含んだ大らかな声でもあった。


 ――履きものを脱ぐべし。ここは聖なる場所なればなり。


 慌ててイェースズは、その通りにした。閃光はいよいよそのパワーを増し、まるで大風のような圧力を全身に感じてイェースズは立っていられなくなった。足がへなへなと力なく折れ、その場にひれ伏す形となった。これがこのとてつもない光圧に堪え得る唯一の姿勢だった。

 うずくまりながらイェースズは、この状況何か覚えがあるように感じた。

 そして頭の中にひらめいたのが、聖書トーラーの「出エジプト記(シェモット)」でモーセがはじめて御神霊と遭遇した個所であった。それと全く同じである。しかし、同じではあっても、聖書トーラーを読んだだけでイメージしていた光景とはだいぶ違う。モーセは現界の荒野にいるまま神の声を空の方から耳で聞いているように聖書トーラーには描かれているが、実際はこうだったのかとイェースズは何となく感じていた。

 そしてもうひとつ気がついたことは、これまでのこのような体験では内なる声はわけの分からない言語で、それが胸元でどんどんアラム語に翻訳されて彼の意識に入ってきたものだった。

 それが、今度はアラム語に翻訳もされず、またその必要もなくイェースズには理解できる。つまり、これまでわけの分からない言葉と思っていたのは、何とイェースズが今では理解可能のこの国の言語だったのである。

 そこで、今度はその言語でイェースズの方から尋ねてみた。


「神様はモーセに、御名を『エイーエ・アシエル・エイーエ』とお告げになられましたね」


 ――その言葉を、もとつ国の言葉で申してみよ。


 それは、今のイェースズにとっては容易なことだった。


「在りて有るもの……」


 自分でそう言ってから、イェースズは短く「あ!」と叫んだ。


 ――その義、心静に想いを馳すべし。


「『在りて』とは『存在して』、『有る』は『力がおありになる』ということ……」


 この国の言葉で言えば、すべての謎が氷解する。「エイーエ・アシエル・エイーエ」とヘブライ語で言っている間は、イェースズにもその意味が分かりかねていたのである。「在りて有るもの」――すなわち、神様は「厳としておします有力光」なのである。


 ――汝、我が愛する子よ。吾はトト神なり。


「天の、天の御父の神様なのですね」


 ――汝が会いたる日の神のトト神にて、万物の造り主なり。枝国エダクニにまいらば、汝ら吾を弥栄ヤハエの神とも申すならん。


 もはやイェースズは、何も言えなかった。


 ――汝らの申す聖書トーラーにては六日目に、霊の元つ国のヒダマの国にて万物の霊成型造りしなり。ゆえに、天の下造らしし大神とも唱えしめしよ。


「天地の創造主。全能の父なる神……」


 ――されど、宇宙の真中心の大根元神おおねもとかむはさらに奥の奥のそのまた奥にして、今世の汝らにはまだ分からずしてよきなり。吾はもと仮凝身カゴリミなれどまたその大根元神のたいの面の働きとして、大根元神のみこころのまにまに馳り身に化申してけ霊成型造り致せしなれど、にして今は水神の統治の世なれば一時身を引き、うしとらの方へと神幽かみさりあるゆえ、今水神・月神の目を盗みて化身けしんのみここへ来たれるなり。


 イェースズはただ黙って、ひたすらひれ伏していた。こんな感動ははじめてだった。全身が小刻みに震え、涙が流れて止まらない。とにかく、「懐かし」というひと言で片付けてしまっては簡単すぎてしまうほどだがそれに似た感情が堰を切って溢れている。


 ――立て。


 その声で今までえていた足が急に元に戻り、イェースズはすくっと立ち上がった。

 すると、あたりの風景も一変した。えも言えぬ色とりどりの花が一面に咲き誇る中に彼はいた。空も不思議な色彩で明るく輝き、まるで空全体に虹が敷き詰められたようだ。

 気がつくと、目の前に人がいた。その姿を見た時、イェースズの胸ははちきれんばかりに高鳴った。ニコニコしてそこに立っていたのは、イェースズがずっと探し続けていたあの白い髭の長い老人だったのだ。

 目であいさつをしてから、老人は空に向かって右手を上げた。すると空の一角がぴかりと光り、そこからものすごいスピードで光のかたまりが降りてきた。それは、金属の円盤だった。円盤は膝くらいのところで空中に浮遊して停止し、それに乗るよう老人はイェースズに促した。イェースズが乗ると老人もともに乗り、二人で小さな円盤の上に立つ形となった。円盤は白っぽく、鏡のようにものが映る金属でできている。

 たちまちにイェースズは円盤の上で下降感を味わい、次の瞬間、葉のない木々で覆われた山々が連なる丘陵地帯の上空にいた。その一つの山目がけて、円盤はぐっと下降する。


「あれがクラウィ山だよ」


 と、老人は足元の山の頂上を指差して言った。


「え?」


 確かに山頂の地形と熊笹の高原から、クラウィ山に違いなかった。

 山頂から斜面を少し下ったところの山の中腹の林の中には、祭壇石があるのも上空から認められた。しかも、その上で倒れている人影は、ほかならぬイェースズ自身だった。イェースズはその倒れている自分と円盤の上に立っているもう一人の自分の体とを、交互に見比べていた。

 今や霊魂だけの存在でイェースズは円盤の上に立っていることになる。それにしては足も手も体もそのままだし、着ていた服もそのまま着ているのだ。その自分と祭壇岩の上で倒れているもう一人の自分との間は二本の銀色の糸で結ばれていたが、今誰かが倒れている自分を発見したら人事不省に陥っていると思われるだろうとイェースズは考えていた。


「これから三千世界をご案内致そう」


「三千世界?」


大千三千世界おおちみちのよじゃ。現界でいうちっぽけな世界ではなく、大いなる霊の世界を見せるようにと、大神様より申しつかっておる。つまり、仮に死んでもらいましょうということじゃ」


 老人が声をあげて笑うと再び円盤は急上昇し、イェースズは思わず短い悲鳴をあげた。

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