奥の座と御神宝
この日も暑い日だった。
強い陽ざしが容赦なく大地に照りつける。
とにかく狩りをしていても漁をしていても一日汗だくになる。陽ざしはあのアーンドラの暑熱乾季の時のようなきついものではないが、それでもこんなに暑いのはこの国特有の湿気のせいだろう。
今まで乾いた空気の大陸の国ばかり旅してきたイェースズにとって、島国の湿気はこたえた。日向と日陰の温度差はほとんどなく、夜になっても気温は一向に下がらない。
「感謝だぞ」
と、それでもミコは言う。
「汗を思いきりかけ。感謝して汗をかかせて頂くのだ」
汗をかくことによって、体の健康と精神の健康が促進される。汗によって体の温度が調整されるばかりでなく、体内に滞留している濁毒・毒素を排泄することができる。体内の毒素が滞留することによって人は業病化するので、汗をかくことはこの業病を防ぐ。つまり、夏のうちにどれだけ汗をかいたかによって、冬の健康が決まるというのだ。
だからその日も汗をかかせて頂くべく、二人の子どもとともにイェースズは狩りに出ていた。背丈以上に繁る草をかき分けて草原を進む。しかし、あまり激しくかき分けると動物が逃げてしまうので、そっと進まねばならない。
平地の東の山壁はほぼ青い山脈となっている。イェースズは狩りの手を休めてそんな山脈を見つめ、いつかはあれに登ってみたいものだと思っていた。
その時、すぐ近くの草むらで悲鳴が上がった。聞き慣れたその声にイェースズはとっさに振り向き、急いで駆けつけようとした。しかし、背の高い草に阻まれ、思うように進めない。そこで腰につけていた石斧で草をなぎ払い、ようやく声の主が倒れている所まで来た。
二人の子どものうちの妹の方が、足を押さえて転がり回っている。ちょっと目を離したすきの出来事だ。兄の方はどうしたらいいのか分からないようでただおどおどしており、イェースズが来るのを見ると、
「お兄ちゃん」
と、兄の方は叫んですがりついてきた。倒れている妹のそばには、一匹の蛇が這っていた。これにかまれたらしい。
蛇はマムシだった。遠い昔、イェースズがまだ幼かった頃、自分の弟もこのマムシにかまれた大変な目に遭ったことがあった。あの時は、自分の不思議なパワーで、弟は全快した。だから、
「心配はいらないよ」
と、イェースズは言った。そして女の子を背負い、とにかくミコの小屋まで帰ろうとイェースズは歩き始めた。幸い、ミコの小屋のある山を降りたすぐの所だった。石段を登ると、御神殿の前の広場にミコはいた。上半身裸になり、何やら木材を加工してちょっとした大工作業をしているようだった。
「おお、どうした?」
イェースズが自分の娘を背負って石段を登ってきたので、ミコは手を休めてこっちを見た。娘はイェースズの背中で、「痛いよ、痛いよ」と、泣きじゃくっている。
「マムシにかまれたみたいです。大丈夫です。私に任せて下さい」
「君に任せるって……?」
怪訝な顔つきで、目つきだけは鋭くミコはイェースズを見ていた。その視線の中でイェースズは女の子を背中からおろし、土の上にあお向けに寝かせ、足の傷口を探した。それは、膝の少し下あたりだった。
その患部に、イェースズはまず自分の手をそっとあてがった。あとは自分の体を宇宙に充満する高次元のパワーにあけ渡し、そのエネルギーを手のひらからあてがっている少女の患部に注入するだけだ。
イェースズは、しばらくそのままでいた。エネルギーがイェースズの体で凝縮され、どんどん手のひら少女の肉体へと注がれていくのが感じられる。イェースズの全身は、汗だらけだった。
ミコは立ったまま、イェースズのしぐさをじっと見つめていた。そして、しばらくの時間が経過した。もう少し時間がたってエネルギーの注入が終わると、少女は何事もなく立ち上がるはずだ。しかし、イェースズの頭上で響いたのは、
「もう、よい!」
という、ミコのいつにない厳しい声だった。そして、少女の兄である息子に、兄妹の母親を呼びに行かせた。あともう少しで少女は完治するはずなのにと、イェースズは内心不満だった。
そして少女の母親がすぐに飛んで来て、娘を抱き上げてどこかほかの場所へとつれて行ってしまった。
わけが分からずにたたずんでいるイェースズに、
「そこへ座れ」
と、ミコは指示した。厳しい表情のままだった。いつもニコニコと笑顔を絶やさないミコだっただけに、とにかく異様な雰囲気をイェースズは感じた。
「君はあの力を、どうして得たんだ?」
「六つの時、自然にです」
ミコにはそう聞かれたが、だがミコはまだイェースズの力を見ていないはずだ。なにしろ、結果が出る前に途中で中断させられたのである。
「ミコ様、どうして最後までやらせてくれなかったんですか」
「あれを見てみろ」
ミコがあごでしゃくった方を見ると、ミコの娘はもう笑いながらこちらに向かって駆けてきていた。イェースズは驚いた。たった今、母親がつれて行ったばかりだ。
自分が手を当てていたのでは完治したとしてももう少し時間を要しただろうと、イェースズはしばらく口を開けていたが、やがてミコの方へ顔を戻した。ミコは言った。
「君がやっていた業は、この国に昔から伝わる神業だ」
「神業?」
「それも、かなりの段階の修行を経て許される業だ。それを君は、自力で得たのだな」
「はあ」
賞賛されているようにも聞こえるが、それでいてミコの表情は硬く、口調も厳しかった。
「君は、あれを自分の力だと思っていないか?」
「いいえ」
慌ててイェースズは、首を横に振った。
「確かに小さい頃、はじめてこんな力が自分にあると知った時は、いろいろ悪いことにも使いました。でも、今は違います。自分にこんな力が与えられたということは、これで人を救えという神様のみ意だと思っています」
「では聞くが、なぜあれが蛇にかまれた時、すぐその場で力を使わずにここまでつれてきたのだ?」
「さあ、それは……。なにしろとっさのことだったので……慌てて……」
「君はその力を、わしに誇示したいというそんな想いがなかったかね? すごいと思われたい、特別だと思われたい、自分をよく見せたい、感心されたいというそんな『たがる』心、自己顕示欲、承認欲求がなかったかね?」
「いえ、そんな……」
一度はイェースズは首を横に振りかけたが、すぐにうつむいた。自分の想念を点検すると、まさしくミコの言う通りだった。
もちろん、あの時は力を見せつけようなどという気は毛頭なく、とっさの判断でここへつれてきたというのは事実だ。しかし、言われてみれば心の奥底のどこかに、ミコの言う「たがる心」がかけらぐらいはあったような気がする。
「醜い」
と、イェースズは心の中でつぶやいた。自分の想念が、である。
「まあいい、あまり自分を卑下するな。今後気をつければいい」
ミコがやっと声を上げて笑ったので、イェースズは幾分心が楽になった。そこでイェースズは、やっと顔を上げて聞いた。
「あの子はどうして、蛇にかまれた傷が治ったんですか?」
少女はもう広場で、その兄とともに遊んでいる。
「妻がやったんだよ」
「僕と同じようにしてですか?」
「同じようだが同じではない。いいかね。君がやった手のひらをぴたっと当てるのは、神業の中でも初歩のものだ」
ミコは自分の手のひらを、イェースズがやったように患部にぴたりとあてがうまねをした。
「これは真手の業といって、神業では初の座というんだ。それからふっと息を吹きかける、これが真息吹の業といって、中の座だ。だが、まだ奥の座があるんだ」
「奥の座?」
しばらくの沈黙の後、イェースズは目を見開いた。
「それを教えて下さい。その奥の座を。お願いです」
「今はまだだめだ。それは奥儀中の奥儀だから、そう簡単に伝えるわけにはいかぬ。今の段階では教えられない。これからもっと修行を積む必要がある」
再び、ミコの表情が硬くなった。
「すべてが神業なのだ。きちんとしたご神意をサトらないうちに伝授すれば、幼児に石の鏃を渡すようなものだ。これらの神業は、決して傷を癒したり病気を治したりすることが目的なのではない。一切の浄化の業だ。まず魂を浄めることが先決で、それによって人々に神様の御実在をサトらせ、神様のご計画に参加させるためのものだ。自己顕示欲があるうちは、与えられない」
「はあ」
「あくまで目的は霊的な救いで、病気やけが治るのは、乱暴な言い方をすればついでに治るのだ。しかし逆を言えば、病気もけがも治せない力に、霊的な救いの力などないということになる。いわば神業と教えにより想いの世界のひっくり返し、想念転換の二つがあってはじめて、惟神の教えである。業と想念転換の、どちらが欠けてもいけない」
「お兄ちゃあ~~ん」
元気になった少女が、再びイェースズのそばに来て袖を引いた。
「もう一度、狩りに行こうよう」
「行って来い」
と、ミコは、微笑んでうなずいた。イェースズもぱっと顔に陽光を灯した。
「はい、有り難うございます」
イェースズは立ち上がった。その笑顔を見て、ミコも微笑んでいた。
木の上であれほどけたたましく鳴いていた蝉が鳴かなくなったかと思うと、今度は夜になってから草むらの中から虫の声がけたたましくなった。
ただ、蝉のようにうるさくはなく、おとなしく静かに聞こえる鈴の音のようだ。草はもう、すっかり黄色くなっている。すべての樹木が実を稔らせる季節になっていた。
食卓も肉のほかはそれまでの山菜や野草に代わって木の実が多くなってきた。そんな食事も終わり、日の後始末をイェースズがしていた。日が沈むと、そろそろ肌寒くさえなってきている。この後片付けが終われば今日一日の生業は終わり、後は寝るだけだ。
いつの間にか背後に、ミコが来ていた。
「いい虫の声だなあ。心に響いてくる」
「そうですか?」
イェースズは小首をかしげた。あたりの暗がりから聞こえてくる小虫が羽をこすり合わせる音を、ミコは声だと聞いている。何か歌声のような有機的なものとして、ミコの耳には聞こえているらしい。
しかしイェースズにとってそれは、どこまでも雑音で、無機的なものでしかない。無機的な音を有機的な歌声として聞くのは、果たしてミコだけだろうか、それともこの国の人すべてがそうなのだろうか……もし後者だとしたら、この国はやはりただの国ではない。
もうこの国に来てから半年以上たつのに、まだまだイェースズにとっては不可思議なことが多い。やはり文字通り神秘の国のようで、ミコの言葉にそれを再認識した形となった。ミコはもう、夜の闇の中に消えていた。
今日もまたイェースズは、自分の疑問を口に出して尋ねることができなかった。ここ一、二ヶ月ほど、ずっと頭の中を木魂していたある疑問について、毎日の忙しい生活の中でどうしてもそれを尋ねだせないでいたイェースズだった。
ミコは貯えをせよと言い、数多くの獣肉の貯蔵、獣肉保存のための塩分を採るための海岸での貝の採集と休む暇もなかった。
イェースズのみでなくミコの家族も皆多忙を極めていたので、とても落ち着いて話ができるような状態ではない。また、イェースズがその疑問を口にするのをためらっていたのは、「まだ時期ではない」というミコの返事を密かに恐れていたからだともいえた。
今日もミコは忙しそうにイェースズが収穫してきた木の実を選りすぐって、貯えるために袋に詰めている。その後ろ姿を見ながら、本当にこの人が全世界を支配した世界大王の子孫なんだろうかという疑問がまたわいてくる。
イェースズがなかなか口にできずに悶々としていた疑問とはまさにそれであった。
ミコ自身からそのようなことは一度も聞いたことはないが、ポーダツのナタン老人は、トト山にいるミコは昔の世界大王の子孫だとはっきり言っていたのをこのごろになってイェースズは思い出したのだ。
別に忘れていたというわけではなく常に意識の中にそれはあったのだが、ここ最近になってそのことへの疑問がふつふつと生じてきたのである。
だが、それを面と向かって言うのもまた失礼だとイェースズは尋ねるのをためらっていた。しかし、疑問を疑問のままにしておくのもじれったい。今しかないと、イェースズは思った。ミコの妻も子供たちも、ここにはいない。
「あのう、ミコ様」
思い切ってイェースズは、ミコの背中に呼びかけてみた。ミコはすぐに振り向いた。顔つきは厳しくても、目には柔和さを湛えている。
「あのう、一つお尋ねしても言いですか?」
「何だね」
「あのう、どうして、そうの、今こんな貯えをしなければならないのですか?」
それは、イェースズの思っていた疑問とは全く別の質問で、気がつけばイェースズはそれを言っていた。イェースズは、ここに来てから、前にもこのようなことがあった気がした。
「そうか、言ってなかったか」
ミコは笑った。
「もうすぐ、寒い冬が来るんだ。冬が来たら狩りも木の実の採集もできなくなるからね」
かつてアーンドラでもそうだったように、この国でも大雨季が来るのだろうかとイェースズは思った。ところが、自分が聞きたいのはそのようなことではないと気がついたイェースズは、もう作業を始めていたミコのそばに立った。
「あのう、もうひとつ聞いてもいいですか?」
「何だい?」
今度は、ミコは作業の手も止めずに背中で言った。
「この国に昔いたという世界大王は、」
「ああ。スメラミコト様とおっしゃった」
「そのことは前に聞きましたが、そのスメラミコト様の御子孫は、今は……」
イェースズは単刀直入の質問を避けて、わざとそう言った。ミコは完全に手を止めて体を起こし、イェースズと向かい合う形で立った。
「君が最近浮かない顔をしていたのは、それが知りたかったからなのかね?」
その厳しい表情に圧倒され、イェースズは小さくうなずいた。ミコはまた笑った。
「教えてあげよう。しかし、そのことはこんな気楽な形で簡単に話せるものではない。だから、二、三日待ちなさい」
イェースズはうなずいた。
二日ばかり、それまでの生活がそのまま続いた。
そして三日目の朝、ミコはイェースズのこの日は狩りに行かなくてもいい旨を告げた。その代わりにイェースズが命じられたのは、丘の下を流れる川の所へ行って水浴をしてくることだった。
さすがに、もう水は冷たい。それでもイェースズは命じられるままに川に行って上半身裸になり、持ってきた土器で水を汲んで頭からかぶった。
飛び上がらんばかりに水は冷たく、イェースズの全身は瞬く間に震えだした。それでも言われた通り、同じ動作を三回、彼は繰り返した。
小屋に戻ると、ミコはすでに神殿の前に端座していた。そしてその脇に来るように、上半身をくねらせてイェースズを招いた。
イェースズが同じように座ると、ミコとイェースズは二人で神殿に柏手を打って参拝した。ミコの参拝の言葉は、声が小さくてイェースズには聞き取れなかった。
その後すぐにミコは、家を小屋の中へとつれて行った。そして部屋の中でイェースズと向かいあって座ると、ミコは妻に外から扉を閉めさせた。部屋の中には、ミコとイェースズの二人きりとなった。
こんなあらたまって話される内容は、よほどの内容だろうとイェースズの胸は高鳴った。
「神様が」
沈黙を破って、ミコが最初に発した言葉はそれだった。
「この国で万生とヒトを創造されたことは、すでに話したな」
「あ、はい」
「すべての生きとし生けるもの、そして存在するものは、一切が神様がお創りになったものだ。空も雲も山も海も川も、ウサギも猪も、そして人間も、すべて神様がお創りになった。まず最初に、このことを肝に銘じておきなさい」
言われるまでもなく、それらのことはイェースズの中で「常識」だった。またしばらく沈黙があった。その後、ミコがまた話を続けた。
「この小屋の素材の木も人の体も、人間が作り出せるものは何一つない。木を加工して家を作ることならできるが、それはすでに存在するものを加工して別の形にしたにすぎない」
「はい、確かに」
「神様は無から有を生ぜせしめ得る唯一のお方だ。だからすべてのものは神様からの拝借物であるということを、まず認識する必要がある」
それらのことも、イェースズは幼い頃から父母に叩きこまれてきたことで、聖書にもそう書いてある。
「やはり、神様は唯一の御方なんですね」
「ある意味ではそうだ。宇宙天地万物創造の主神、万生の祖神様はおひと方だ。つまり、宇宙の真中心の神様で、その神様は奥の奥のそのまた奥の、とても人間に理解できる御存在ではない」
イェースズは一つ、ため息をついた。ミコはさらに言葉を続けた。
「しかし、実際に天地を創造されたのは、七柱の神様だ」
「え?」
イェースズは思わず声を発した。唯一絶対神を奉じるユダヤ教の教えとは相容れない話だが、しかしイェースズは普通のユダヤ教徒ではない。
「私の国の教えでは神様は絶対に御ひと方ですけれど、でも私の家族が属していたエッセネという特殊な教団の教えでは、七位の霊が天地を創造したということになっています。ゾロアスターの『ゼンダ・アベスタ』という経典にもそう書いてありますし、聖書でも神は七日でこの世を創られたと……」
ミコはにっこり微笑んだ。
「前にも言ったように、私の話は特定の教団の教理ではないんだ。全世界に共通の宇宙の根本原理で、万教の大元なんだ」
「確かに、その通りだと思います」
「君の国の聖典の、何だったっけ?」
「聖書」
「その聖書では七日で天地ができたと書かれていると君は言ったが、その何日目に人間は創られた?」
「六日目です」
「そうだろう」
ミコは満足げにうなずいた。
「この七柱の神様この真の天の神様、つまり大天津神様だ。そしてその第六代の神様が直接人間をお創りになったわけで、その神様を父神様と申し上げる」
「天の御父……」
「別名を、弥栄の神様とも申し上げるのだ。だが、本当の御名は、まだ明かすわけにはいかない」
イェースズは絶句した。子供の頃から唯一絶対の最高神、天の御父と崇め奉ってきたヤハエの神様は天神六代目の神様で、その上にさらに神様がいらっしゃることになる。
さらには、あの赤い池のお堂での異次元体験で遭遇した御神霊は、聖書でいう七日目の神様と名乗っておられた。
イェースズは目を上げた。
「聖書では、神様は七日目に休まれたとなっておりますが」
「天神第七代の神様は、これも本当の御神名は今はまだ告げるわけにはいかないが、仮の御名をアマテラス日大神様としておこう。この神様ははじめて天祖としてこの地美、すなわち地上に天降られた神様で、すべての被造物を良しとされ、祝福されて天に帰られた」
「それが『休まれた』ということなのですね」
そのようなことも知らずに、ただ「休んだ」ということを模倣した安息日など、実に馬鹿げた習慣といえる。
「七日といっても現在の一日の長さでの七日ではなく、一日が何億年もの時間を表しているのだがな」
「やはり、すべてを祝福されたのですね」
「思ってもみたまえ。今の我われの目から見ても、この世にあるものはすべて美しい。すべてが素晴らしいではないか。風景でも、どんな風景だって美しい。今こうして見ているこの部屋の中だって、美しい。目に映るもの、すべてが色とりどりで美しい。ただ、いつも見ているから、特別なとき以外は今の人間の目には美しいと感じられなくなっているのだ。もしこの目が白と黒しか見えなくなり、数日してから今の状態に戻ったら、すべてが美しすぎて感動するだろう」
イェースズは室内の、何も装飾も彩色もない壁や天井を見回してみた。確かにちょっと観点を変えて美しいと思って見てみると、何でもないものが確かに美しく見えてくる。
「この世のものはすべて、巧妙に創られているだろう。動物も鳥も雲も、そして人間も、すべて神様が全智全能を振り絞られて創られた最高芸術作品だ。そんなこの世の真っただ中に存在を許され、生かされているということ自体、感謝しかないはずで、それに感謝できないというのはもはや人間ではない。獣だ」
イェースズは、首をうなだれた。
「さあ、そこでだ」
ミコの言葉はさらに続く。大切なことは何としても伝えてしまわなければいけないというような、そんな気概さえ感じられる。
「そのアマテラス日大神様の天祖降臨のあと、当時は巨大な大陸の一部だったこの国に、世界大王様ははじめて世界政庁を開かれた。最初の皇統第一代は
アメピノモトアシカビキミノシミピカリオポカミスメラミコト朝で、二十一世続いた。そして次の皇統第二代
ツクリヌシキヨロドゥオミピカリカミスメラミコト朝の時に前にも話した五色人が発生し、十六人の皇子が全世界に派遣されて、それぞれの民族の祖となったのだ」
「では、最初の人間は?」
「そんなもの、おらんよ」
意外なミコの言葉に、イェースズは首をかしげた。それにはお構いなしに、ミコは話し続けた。
「いちばん最初の頃の人は皆半神半人で、それが段々と今の人間になっていったのだ。つまり神と人はもともと合一で、どこまでも入り組んでいる。代々のスメラミコト様は皆、肉身を持たれていてもそのみ魂は神様、つまり現人神だったわけだ。しかし今の人は、人どころか神様との間が開きすぎている『人間』になってしまった」
そうすると、聖書の「創世記」の第一章は別として、第二章以降はすべて人が人間になってしまったあとの、ずっと新しい歴史を書いていることになる。
「アマテラス日大神様が天降られ、そして神界にお帰りになったあと、皇統第一代の
アメピノモトアシカビキミノシミピカリオポカミスメラミコト朝が始まってから、上古の皇統は二十六代まで続いた。もちろんその御一代に何世ものスメラミコト様がおられるわけだから、御一代が千年か二千年もの期間はあったろう」
「人類の歴史って、そんなに古いんですか?」
「そうだよ。前にも言ったと思うが、モーシェがこの国に来たのは、最も新しい皇統の第二十六代
ウガヤプキアペズ朝六十九世のスメラミコト様の御宇だし、釈尊は同じプキアペズ朝の七十代目のスメラミコト様の御宇にここに来た。ちょうどその頃、巨大大陸の最後の名残として、この島国の南方海上に残っていたミヨイ・タミアラの二つの大陸が大洋に沈んでいる」
もうちょっとやそっとの話で驚くイェースズではなくなっていたし、とにかく今は心をス直にとミコの話に耳を傾けていた。
「これまで大陸が沈むような天地かえらく、すなわち天変地異は百三十回、全世界規模の巨大なものでも六回あった。君の国の記録には、そういうことは書いてないのかね?」
「あります。聖書の創世記には、大雨が全世界に四十日四十夜にわたって降り、人類は洪水に押し流されて一度滅亡したとあります」
「ほう、あるかね。どこの国の記録にも、同じような内容がある」
「私が行ってきたキシュ・オタンという場所にあった記録では、それまで海岸だったところにある日突然沖合いから巨大な大陸が衝突し、雪の住処という山ができあがってしまったと書いてありました」
「そうか。とにかくこの世はそのような天変地異を繰り返し、その都度大陸の形も変わって、今に至っているのだ。この国ももともとは巨大な大陸の一部だったが一万年ほど前にほとんどが大洋に沈み、最後まで残っていたミヨイ・タミアラが沈んだのが千五百年ほど前だ。ちょうどそのすぐあとに、モーシェが来ている」
「そんなに世界は変わっているのですか?」
「この島国の方が海中に没していた時代もあった。六回あった天地かえらくとは、皇統第四代
アメノミナカヌシカミミピカリスメラミコト朝、皇統第十四代
クニトコタチミピカリアマツピツギスメラミコト朝、皇統第七代
ツヌグイミピカリアマツピツギスメラミコト朝、皇統第十八代
オポトノディオウミピカリアマツピツギスメラミコト朝、皇統第二十一代
イザナギミピカリアマツピツギスメラミコト朝、皇統第二十二代
アマシャカリピムカツピメミピカリアマツピツギスメラミコト朝のそれぞれの御時だ。当時のスメラミコト様は力を尽くして、大天変地異から世界を復興させたのだ。その天変地異の直前は、いつでも高度な文明が発達した時代だったのだ。例えば人が乗り物に乗って空を飛んだり、町はピピイロガネという金属でできていた。スメラミコト様はアメノウキプネに乗って、瞬時にして全世界を御巡行されたのだよ」
「それほどまでの文明が、今は跡形もなく……」
「今は……どころではない。天地かえらくは何度もあったのだから、その都度原始化してはまた文明が栄え、それが滅んでまた原始化の繰り返しだったのだ。今もちょうど千五百年前の天変地異で生き残った人々が、ようやくここまで文明を復興させたということだ。その頃から、つまりウガヤプキアペズ朝が終わった頃から世界はばらばらになって、それぞれ自分たちの国だけになっているのだ。もう世界政庁もなく、世界大王もいらっしゃらなかったからなあ」
「世界政庁は、この国のどこにあったのですか?」
「どこといっても、皇統によってあちこちに動いている。大昔、父神様が人類の霊成型をこのトト山の奥の、南へ一日ほど行った所にあるヒダマの国のクラウィ山でお創りになったのがざっと四十五億年前、そして皇統第一代のスメラミコト朝が始まったのがざっと五万年前。もちろんその前の何十万年も前から人類は存在していたが、それ皇統が始まって以来、世界政庁は今は沈んだ大陸の部分にあったこともあったし、今のこの島国のあちこちにあったこともあった。いずれにせよ、その頃は祭政一致、つまり政治を執るスメラミコト様が天まつり役で天の神様に直接お仕え申していた。その巨大な黄金神殿は、このトト山の上にそびえていた」
「ええ。いつかお話し下さいましたね」
「そう。アマツカミクニツカミパジメタマシピタマヤの黄金大神殿が、この山全体の上にそびえており、全世界から民王たちが集まってきた。そして奥の宮は、ピダマの国のクラウィ山にあったのだ」
今のこの山は小さな山だが、山の一角ではなく山全体に乗る形で建っていた神殿となると、よほど巨大だったっと思われる。
「さっきもお名前を申し上げた皇統第二十二代アマシャカリピムカツピメ朝のスメラミコト様は、実に美しい女性であらせられたそうだ。なにしろ現人神であらせられるから、御体から黄金のみ光が発せられていたというのだが、天神第七代の男神のアマテラス日大神様に対し女神様だから
アマテラススメ大神様とも申し上げるそのスメラミコト様が、御神殿の復興造営式の時に羽衣をお召しになって御自ら舞を舞われたそうだ。その時群臣百官は美しい姫を見たということで、それ以来今でもこの山の下の村はピミの村と呼ばれている」
イェースズは、はじめて聞く村の名前だった。ミコの話だと、ここから南へ行けば「ピダマの国」という国があるらしい。
「あのう、村の名前がピミの村なら、この国は何という名なのですか?」
「この国とは?」
「はじめ、私が上陸した所では『コシの国』と聞きましたが、ここもそうなのですか?」
「そうだよ。アメノコシネの国という。そしてここから南のピダマのクラウィ山までを、地上のタカアマパラともいうんだ」
「地上の……? と、いうことは?」
「するどいな。天のタカアマパラもある。それはこの世ではない。高次元神界で、大天津神様の世界のさらに最奥のことだ」
イェースズは、もぞもぞと足を動かしはじめた。しびれてきたのだ。もう何時間も足を組んで座りっぱなしだった。しかし、話の内容がとてつもないものなので、足を動かす機会さえなさそうだった。それを見て、今夜はじめてミコは笑った。
「いいよ。楽にしなさい」
「はい、有り難うございます」
イェースズはうれしそうに、ス直に足を伸ばした。そしてすぐに、ミコを見た。
「ところで、今は世界大王、スメラミコト様はいらっしゃらないとおっしゃいましたけど」
「ああ。ウガヤプキアペズ朝の皇統が途絶え、全世界が天変地異にやられて人類はほとんど死に絶えた。プキアペズ朝の最後の頃のスメラミコト様方の時代は、度重なる震災と天変地異に見舞われて、高度文明もすべて崩壊してな、命からがら生きのびた人々は全く原始人になってしまって、今に至っている。縄文の紋様の入った土器を使っている彼らだよ」
「実は、ミコ様はそのスメラミコト様の末裔だという話を聞いてきたのですが」
「スメラミコト様の王子のことを、昔は『ミコ』といったんだ。だからわしはミコと称している。もっとも、わしの父がスメラミコト様だというわけではないが、その血統を受け継ぐものとしてな」
つまり、ナタンが言っていたことは本当だったのだ。
「昔はさっきも言ったように祭政一致で、スメラミコト様は世界を統治されるとともに天まつり役だった。しかし、時代は変わった。今はミコであるわしが細々と神様にお仕えし、御神宝を守らせて頂いている」
「これから世の中は、ずっとこのままなのですか?」
「さあ、それは分からん。これからのことはすべて、神様のご計画のままだからな。ただ、わしが思うには、君の同胞で、この島国の西の方で着実に勢力を延ばしている人たち……」
「エフライムですね」
「そう。今では小さなたくさんの国に分かれているこの島国だが、やがては彼らがこの国を統一し、その中にはスメラミコトと称して新しい皇統を開くものも出てくるかもしれん。歴史始まって以来の、赤人スメラミコト様だ」
ミコは、ひとしきり声をあげて笑った。イェースズは無言だった。
「ただしそうなったとしても、昔のような世界大王というわけにはいかんだろう。せいぜい、この島国の大王だろうな」
「スメラミコト……スメラミコト……シュメール……ん?」
イェースズはふとつぶやき、その言葉を何度も口にしていた。
「どうしたのかね?」
ミコの不安げな問いに、イェースズは我に帰った。
「いえ、何でもありません」
「いいかね。上古にあっても皇統は二十六回も代わっている。今は空白期だが、やがてこの国に新しいスメラミコト朝が興ったとしてもそれが連綿と続くとは限らないだろう。やがてすぐに黄人に代わると、わしは思う。しかし、重要なのは血統、血筋の問題ではないんだ。たとえ血統が交代しようと、同じくスメラミコトと称するなら、変わることのないスの霊統で、すなわちこの国では万世一系なのだよ」
ミコは一つ咳払いをした。気がつけば時刻は、すでに昼過ぎになっていた。
「いいかね。もう分かっていると思うが、今日聞いた話は軽々しく口外しないようにな。君の心の中にだけしまっておけ」
と、ミコは言った。
トト山のふもと、ピミの里に雪がちらつき始めた。イェースズにとって別にはじめて見る雪ではないが、この国に来てからははじめてだった。
そして雪は、あれよあれよという間に積もりはじめた。普段見慣れている風景が、白一色になった。そんな中、雪に足跡をつけ、イェースズはミコの子どもたちといっしょになってはしゃいでいた。イェースズの心は、子どもたちのそれと全く同質になっていた。
それから半月ばかりの間に寒さは増し、雪も何日も降り続くようになって、とうとう積雪は背丈を越えた。毎日ミコの小屋から神殿までの道を雪かきするのが、イェースズの朝の日課になった。一日でも休むと、せっかく作った雪の壁の中の道は雪に埋もれてしまう。ミコが食糧を蓄えておけと言った意味も、ようやく分かった気がした。
思えば不思議な国で、夏は湿気のせいでカーシーよりも暑い。秋は草木の色も一変して黄色と赤に山が塗りつぶされたかと思うと、冬は豪雪でいながらにして雪の住処の山中に分け入ったかのごとく白銀世界である。
動くことなく、一年の四季の移ろいの中でいながらにして世界の北の果てと南の果ての旅行をしたのと同じような感覚がある。
ここは雨季も乾季もなく、一年中程よく雨が降る。ここは雨季と乾季で季節を知るのではなく、気温の変化で色とりどりの多彩な変化に富んだ四季があるのだ。
この雪に閉ざされた生活ではとうてい狩りもできず、小屋に閉じこもりっぱなしの毎日に子どもたちも飽きあきしているようで、イェースズは格好の話し相手だった。イェースズは自分が生まれた国のこと、エルサレムのこと、そしてアーンドラや雪の住処やシムの国についてなど、おもしろおかしく子どもたちに語った。子どもたちは目を輝かせて、それに聞き入っていた。
そんなある日、ミコが「ちょっと」と言ってイェースズを招いた。そして部屋を出た廻廊を裏手へとミコは歩いて行く。イェースズもそれに従って行くと、小屋の真後ろに当たる所にまた扉があった。イェースズはここへ来るのははじめてだったので、こんな所に扉があることを始めて知った。
「ちょっと手伝ってくれんかね」
背中でそう言いながら、ミコは扉の錠をはずして中へ入った。ちょうどイェースズが居住している部屋の裏手に当たる。窓は全くなく、薄暗い部屋だった。
ミコは石を打ってたいまつに火をともし、壁の一面に安置した。室内が照らし出されるとそこに見えたのはいくつもの棚で、その上には石だの箱だのいろいろなものが乗っていた。
思わずイェースズは、
「ここは何ですか?」
と、尋ねた。
「御神宝の神倉だよ。冬になると一年に一度、こうして一日がかりで点検するんだ」
ミコのあとについて、イェースズはさほど広くない部屋の中をゆっくり歩きまわった。
「ほい、これ」
人の頭ほどの大きな石をミコは棚から取り、それをイェースズに渡した。
「いいんですか?」
ためらうイェースズに、
「いいとも」
と、ミコが言うので、イェースズはこわごわそれを手にしてみた。表面にはぎっしり文字が刻まれ、裏には地図のようなものが描かれていた。
「これは?」
「モーセの十戒石だよ」
「え?」
危うくイェースズは、それを落とすところだった。文字はヘブライ文字ではなく、石には穴が三つ開いており、それぞれは貫通していた。
「それから、これ」
もう一つの石を、ミコはイェースズに手渡した。最初の丸い石を右手に抱き、イェースズは今度の細長い石を受け取った。
「これが裏十戒だ。表十戒は君も知っているだろう。裏十戒は全世界の五色人のための十戒だ」
そのことは、ポーダツのナタン老人からも聞いていた。ナタンは、十戒石がこのトト山にあると確かに言っていたのだ。これが本当の十戒石だとすれば、本来のエルサレムのあの巨大な神殿の御神体であるはずだ。イェースズはことの重大さに手が震えだして、慌ててそれらをミコに返した。
イェースズの、そしてすべてのイスラエルの民の想像の中にある十戒石は、二枚のきちんとした形に削られた石だ。しかし、たった今見たミコの言う本物の十戒石は、どちらも自然石だった。
いずれにせよ、現在エルサレムの神殿に祀られているものはイミテーションとういうことになる。
もっとも十戒石が安置されているはずの至聖所には大祭司のみが年に一度だけ入り、その大祭司といえども御神体を見ることは許されてはいない。だからイミテーションどころか至聖所が空であったとしても、誰にも分かりはしないのだ。
そんなことをイェースズが考えているうちに、
「十戒石は、里帰りしたんだよ」
と、言いながら、ミコはもう次の棚の方にと歩いていっていた。
そして次にミコが手に取ったのは、ひと振りの剣だった。イェースズが手に取ると、ずっしりと重い金属製の剣だった。この国に来てから青銅器は見たが、鏃も槍もすべて石器であり、金属製の武器を見るのははじめてだった。
「これは太古の金属、ピピイロガネで造られた剣だ」
「ピピイロガネ?」
「見たまえ。全く錆びていないだろう。この剣が何千年も前のものだと、信じられるかい?」
確かに、さっき出来上がったばかりの新品のように、剣は白く輝いている。
「ピピイロガネは絶対に錆びないんだ。だが今ではもう、世界中のどこを探してもピピイロガネはない。大昔のアメノウキプネも、このピピイロガネで造られていた。この剣は白金色だがピピイロガネは自在に色を変化させ、太古の神殿の屋根は黄金のピピイロガネで葺かれていたんだ」
ミコはまた、にっこり笑った。
次の棚は、膨大な巻物だった。紙質は、動物の皮紙のようだ。ミコがそれを一つイェースズに開いて見せたが、そこにはわけの分からない文字がぎっしり詰まっていた。
「いつか話した、天地創造から現代に至るまでの全世界の歴史を記した古文献だ」
興味深げにイェースズはのぞきこんだが、文字が読めるわけがなかった。ミコはそのほかのいくつもの巻物も開いて見せたが、巻物ごとに何種類もの文字があるようだった。
「これが、この国の文字ですか?」
「いや、違う。この国の文字と言うより、超太古の全世界の文字だ。すべて太古のスメラミコト様がお造りになった文字で、カタカムナ文字という」
「カタカムナ?」
「カムナとは神名、つまり神様の御名ということで、神様の御名を象った文字だからカタカムナというんだ」
言葉を失っているイェースズをよそに、ミコは説明を続けた。
「例えばこれは」
また別の巻物を、ミコはイェースズに示した。
「これはプキアペズ朝末期のアメノコシネ文字、そしてこれが」
また別の巻物を、ミコは開く。
「アメノミナカヌシ朝のアピル文字だ」
「これは、何と書いてるのですか?」
巻物の冒頭の、幾何学的に文字が並んだ部分をイェースズは指さした。
「ピプミヨイムナヤコトモチロラネシキルユウィツパヌソウォタパクメカウオエニサリペテノマスアセウェポレケウウィエ……」
「え?」
イェースズには解せない言語だった。
「すべての文字が、神様のみ働きを現している。このカタカムナの四十八の音は、天地創造の神様の御直系の四十八柱の神様の御名を示しているんだ。言霊の秘密はここにある。だから神霊界の謎を解く鍵は、言霊にあると言っても言いすぎではない」
「あのう、よく分からないんですけど」
ミコは笑った。
「今は分からなくていい。分かろうとする方が無理だ。ただ、ス直に聞いておけよ。段々と分かるようになって、やがてはパッとすべてをサトるときが来る」
そんなものかなあとイェースズが小首をかしげていると、ミコはまた別の巻物を広げた。
「この文字、見たことないかい?」
「さあ
「これはタカミムスビ朝のピプ文字だ。君の国の文字の元だよ」
「え?」
驚いてイェースズは、もう一度その文字をまじまじと見た。今のヘブライ文字とは違う。しかし習い知っている古代ヘブライ文字とは、似ているといえば似ている。
「全世界のどの国の文字も、すべてこの国から発している。もっとも、それぞれの文字をスメラミコト様のミコが持って行かれた後の歳月によって変わってはいるだろうがな」
「ギリシャも字もサンスクリットも字も、シムの国の文字もですか?」
「そうだ。すべての元は一つだ。言葉に言霊があるように、文字にも文字霊がある。文字は単に記録や伝達の道具ではない。カタカムナによって神様の御名を呼び、そのみ力にすがって御神業を行うのだ」
ほかにも鏡や金属製の十六光状日輪紋などの御神宝を見つつ、点検はまる一日かかった。イェースズにとって、胸踊る一日だった。
そのことに刺激され、この部屋を出てミコが施錠した後、イェースズはここ数日思い願っていたことをミコに話した。
「ミコ様。私は、ピダマの国のクラウィ山に行ってみたいのですが」
ミコは、さらりと言った。
「雪が解けたらな」
しかしそのひと言は、イェースズにとっては飛び上がらんばかりの喜びであった。
その雪解けが、イェースズにはただ待ち遠しかった。
しかし、来る日も来る日も雪は降り続き、神殿までの道を毎朝雪かきしなければならない日課はなかなか終わりそうもなかった。わくわくする心を抑えるために、イェースズはクラウィ山のことをいろいろとミコに聞いた。この平野の東に横たわる高い山のことも気になったが、それを越えたところでこのトト山の麓にあるような村が点在するだけの原野があるばかりでつまらんとミコは言った。
クラウィ山は普通の山ではないと、ミコは言うのだ。
「確かに、この山の上にあった巨大神殿の奥宮があったっておっしゃってましたね」
「そうだ。しかし、それだけではない。山自体が、巨大な神殿でもある」
「え? では、人工の山なんですか?」
「いや、違う。昔からある自然の山だ。しかしきちんとした三角形の山なら、たとえ自然の山でも太陽石を置き、その周りに東西南北の方位石を並べて祭壇を造れば、その山はピラミドウという神殿になる」
「ピラミドウ?」
「日の神様のご来臨を祀る神殿だ。クラウィ山に約五千万年前に高次元から天降られた天神第七代の
アマテラス日大神様は、輝くばかりの太陽神であらせられた」
確かにそうだったと、イェースズはかつての異次元体験で遭遇した御神霊の目もくらむ閃光を思い出していた。そして、もう一つ、彼の頭にひらめいたものがあった。
「今ミコ様はピラミドウとおっしゃいましたけれど、実は私が小さい頃過ごしたことのあるエジプトという国には、ピラミッドというのがあるんです」
「それは山かね? 神殿かね?」
「きれいな三角形をした、小さな人工の山です。一般には昔の王様のお墓とされているんですけれど、私の家族が入っていたエッセネ教団の教えではそのピラミドウをヤハエのお山と呼んで、実は太陽神ラーを祀る神殿なのだと密かに語り継いでいます」
「太陽神を祀るのなら、まさしくそれもクラウィ山と同じピラミドウだ」
「でも、クラウィ山っていうのは自然の山なんですよね。エジプトのは人工の山ですけれど」
ミコはやけに嬉しそうに微笑んでいた。
「その国には、自然の山はないのかい?」
「ありません。砂漠が広がる平らな土地です」
「やはりそうだろう。山のない所にピラミドウを造るには、人工で山を造るしかないじゃないか」
「確かに」
「で、太陽石はあるのかね?」
「太陽石とは?」
「頂上の丸い石だよ」
「なかったと思います。でも、古いものですから昔はあったものがなくなってしまったのかもしれませんし、第一私がそのピラミッドを見たのはずっとずっと小さい頃のことですから、私自身の記憶があいまいでよく覚えていないんです。ただ、きちんと東西南北を向いていたということだけは覚えています」
「ふむ、そのことが方位石の代わりとなっているようだな。それは間違いなくピラミドウだ。この国から全世界に散らばった人たちは、各地にピラミドウを建てたと古文献にもある、しかし、それにしても……」
ミコの顔が、少しだけ曇った。
「その超太古からの御神殿であるピラミドウが、今の君の話では王の墓となっているそうだな。歴史の改竄は、ずいぶんと進んでいるようだ」
「エジプトの文明の元も、この国なですね」
「そうだ。いいか。クラウィ山に限らず、そのあたりにはピラミドウが多い。まあ、ひと夏くらいこもってくるといい。神秘な神の力が、ピラミドウには充満しているから。
「はい」
「雪が解けるのももうじきだから、今日あたりから準備を始めるといい」
「え? 本当ですか?」
イェースズの顔には、明るい光が満ち溢れていた。
それから半月、まだ所々に雪は残っているが、もうほとんど黒い土が見えるようになった。
その頃、イェースズは旅立った。当面の食糧を背負い、狩りのための石槍や矢を持ったイェースズを、ミコの家族は山の下の川の所まで見送ってくれた。川には一艘の小舟が、ミコによって用意されていた。
「この川を下っていくとすぐに大きな川と合流するから、そうしたら今度はその大きな川を逆に上流へと上っていくんだ。そのまま下流へ行ってはだめだぞ。すぐに海に出てしまう」
ミコのイェースズもニコリと笑った。
「はい、上流に行くんですね」
「そう。そうすれば二日ほどでクラウィ山のふもとに着く。その大きな川は、クラウィ山の上から流れてくる川なんだ。神に通じる川と、昔からいわれている。ただ、途中でほかにもいくつもの川が合流してくるから、間違えるなよ」
「はい」
ミコの息子が、舟に乗りかけたイェースズの袖をつかんだ。
「お兄ちゃん。ピダマへ行くの?」
「そうだよ」
「途中川が狭くなって流れも急になるから、気をつけてね」
「まあ、一人前に」
と、ミコの妻が笑った。ミコの娘も、じっとしていない。
「こんな小さな舟だから、ひっくり返らないかなあ」
「こら。そういう言霊を出すもんじゃない」
と、ミコも笑って自分の娘を戒めた。
「では」
別れを告げたイェースズは、舟を押して岸を離れた。
「冬になる前には、戻って来いよ」
「はい」
舟はゆっくりと、川の流れとともにすべりだした。やがて、丸太をわたした橋をくぐってイェースズのこもっていた赤池のお堂のそばを舟が過ぎるまで、ミコの子どもたちは岸を走って手を振ってくれた。




