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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
31/146

スミオヤスミラウォタマシピタマヤ

 池をあがってすぐの所にある神殿の前に、イェースズはミコとともに再びぬかずいた。

 思えばここで同じようにミコと参拝し、その直後にあのお堂にこもったのだった。なぜかそれが、遠い昔のことのように思える。そして、同じ場所の同じ神殿に参拝しているのに、新鮮さを感じるのだ。場所は同じでも、自分の方が変わってしまったらしい。

 拝礼が終わって立ち上がったミコに、イェースズは背後から声をかけた。


「あのう」


 ミコは、笑顔で振り向いた。


「何かね?」


「あのお堂に入ってから、もう何日くらいたったのでしょうか」


「ちょうど四十一日目だよ」


「え? 四十一日も?」


 途中から日数を数えることを放棄してしまった彼だったが、あらためてその日数の長さを知らされて驚いた。


「さあ、山に戻ろう」


 ミコに促されたが、イェースズはまだ食い入るような目でミコを見て言った。


「一つだけ、聞いていいですか?」


「どうぞ」


「あの御神殿の扉にある絵は、何の絵ですか?」


「ああ、あれかね」


 ミコは神殿の方を振り返った。その木の扉にある例の壷のような絵のことを、イェースズは尋ねたのだった。


「あれは、パパダマだよ」


「パパダマ?」


 今のイェースズなら、「パパ」というのが、この国の言葉では母親という意味だということが、すぐに分かる。


「ピピイロガネという金属でできた巨大な壷で、全人類の魂がそれに入れられて天から下ってきたのだそうだ。その場所が、つまりここなんだよ」


 ミコは、自分の足元を指差した。あまりの突拍子もない話にイェースズはしばらくきょとんとしていたが、またミコの目をみた。


「それって、いつごろの話ですか?」


「遠い、遠い昔だ。この国がまだ島ではなく、巨大な大陸の一部だった頃の話だ」


「では、少なくとも一万年前よりも昔ですね」


 ミコは笑った。


「いくらなんでも、そんなに新しくはない。何十億年という悠久の昔だ」


「え?」


 イェースズはしばらく言葉を失した。アダムとイブでさえ、四千年前の人だと聞いている。この国と地続きだった大陸が沈んだというのが一万年前ということさえ、イェースズの常識を打ち破っているのだ。しかし、億の単位がつくと、それどころの騒ぎではなくなってしまう。


「そんな昔から、人間はいたのですか?」


「ああ、いたとも。にくができたのがいつかは別にしても、霊による人のもと、すなわち霊成型ひながたが創造されたのは今から約五十億年前で、その二万年後に女が創られたのだ」


 確かに聖書トーラーでもまず男が創られ、後に男のあばら骨から女が創られたとなっている。しかし、聖書トーラーでは、男が創られた後に女が創られるまでの間の時間的感覚の記載はない。だから、二万年という数字は驚愕であったし、実際の人類の歴史は聖書トーラーの記載よりも遥かに悠久雄大ということになる。


「男が創られてから女が創られるまで、二万年もあったのですか? その二万年の間は、男だけの世界だったのですか?」


「違うよ」


 ミコは笑っていた。


「あくまで今も言った霊成型という霊質による人間の原型の話で、実際に肉体を持つ人間として物質化したのは、ずっと後だろう」


「やはり肉体は、土をこねて創られたのですか?」


「こねてだかどうだかは知らんが、確かに肉体は土だ」


「その土の肉体に、神様が吹きを入れられたと私たちは教わりましたけど、その神様の息吹が霊魂なんでしょうか?」


「霊の本質は火だ。そのへんの話になると複雑になるので、まあ、焦ることはない。追い追いに話していこう」


 ミコは気さくに笑いながらイェースズの肩を軽く叩き、ゆっくりと歩きだした。ミコの話は、すべてポーダツの老人ナタンの話と一致する。だからミコのあとを着いて歩きながら、イェースズは無性にうれしくなった。

 歩きながらイェースズは、また鼻をすすった。


「おや? 洟が出るのかい?」


「はい。あのお堂の中でずっとでした。そればかりか下痢はするし、大変でしたよ」


「熱は?」


「少しあったようです」


「それはよかった」


 やけにニコニコして、歩きながらも振り返りつついった。イェースズは怪訝な顔をした。なぜ洟が出たり下痢をしたり、熱が出るのがいいことなのだろうかといぶかっていると、ミコはすかさず言った。


「熱が出て体内にたまって固まっている毒素を溶かし、どんどん洟水や下痢となって体外に排泄されるのだから、こんないいことはないではないか。それだけ、体の中がきれいになるのだからな。すべて体の清浄化作用なのだから、喜べばいいじゃないか」


 どうもこの国で聞く話は、奇妙なことが多い。しかしイェースズは、疑うな、ス直に受け入れよと自分に言い聞かせるのだった。

 しかし、どうしてもぬぐいきれない疑問もあった。昨夜の衝撃的な出来事が夢ではなかった証拠に、今こうしてミコとこの国の言葉で会話している。しかし、そんなことがあったその翌日に、ミコが自分を連れ出しに来たのは、単なる偶然なのだろうかと思う。

 しかもイェースズが突然この国の言葉が分かるようになっても、ミコはなんら不思議に感じている様子はないのだ。

 その疑問をミコにぶつけたかったが、そうすることは昨夜の神啓接受をも打ち明けねばならないことになる。果たしてそうしていいものだかどうだか、イェースズには判断がつかずにいた。

 イェースズが迷っているうちに、ミコの住む小高い山のふもとに着いた。そして、杉木立の間の登り口に差しかかった時、イェースズは意を決した。


「あのう」


「ん?」


 ミコが振り向いた。しかしイェースズの口をついて出た質問は、


「あ、あのう、この山の名前は何というのですか」


 という、ぜんぜん関係のない内容だった。なぜか気がついたら、口が勝手にそう質問していたのだ。


「この山かね。トトヤマともオミジンヤマともいわれているよ」


 それらは山に登る前に、村人たちからも聞いた名前だった。


「私は、トトヤマと聞いてきたのですが」


「トトとは父という意味だよ」


 父……天の御父の山、それはエジプトではピラミッドを意味していたことを、イェースズは思いだした。


 道が右に湾曲して、五色ごしき絨毯じゅうたんが現れだした。


「この五色の絨毯はね」


 今度は、ミコの方からイェースズに話しかけてきた。


「全世界の人間を表しているんだ。全世界の人間は五つの色の肌を持つ人々で構成されている。その五色人を表すのがこの絨毯なんだよ」


 確かに、イェースズのユダヤ民族の肌は赤い。ローマやギリシャの人々の肌は白く、青い肌の人も時々はいる。アーンドラ国へ行くと、黒い肌の人もいた。


「確かに世界には、いろんな肌の人々がいます」


「それら五色人の発祥地が、この国なんだよ。この絨毯は、そのことをも表しているんだ。この道は、五色人創造の神様を祀る神殿に続いているのだからな」


 聖書トーラーには世界の人々の言語が異なる所以ゆえんについてなら、バベルの塔の話として記載されている。だが、世界の人々の肌の色の違いについては言及されていない。

 二人は階段を登り始めた。やがて小型の模型のような神殿が見えてきた。もしあのような小さな神殿が天地創造の神を祀る神殿なら、神様に失礼じゃないかなとイェースズはふと思った。

 二人は階段を登りきり、神殿に向かって右手にあるミコの住む小屋の前に立った。はじめてここに来た時に見た三本の旗もそのままだ。


「いいかね。この旗をよく見なさい」


 結局イェースズは、肝腎なことはミコに何も聞けないまま、ここに着いてしまった。ミコが旗を見よと言うので、イェースズはまずその旗を見た。旗はミコの住む小屋の屋根よりも高く、風にはためいていた。


「あの真ん中の旗の、赤い丸はどんな意味です? 太陽ですか?」


「その通り。この国がかつて巨大な大陸だったときからこの国は太陽の直系国で、太陽がその象徴だった」


 太陽崇拝自体には、イェースズには抵抗はない。幼い頃からエッセネ教団の特徴である早朝の太陽礼拝を行ってきたし、エジプトの太陽神ラーの信仰も知っていた。

 ただ、太陽の直系国とはどういうことなのだろうかと、ふとイェースズは思った。昨晩お会いした神様は、目もくらむような閃光のお方だった。


「あのう。太陽の直系国とは?」


「太陽の直系国というのはこの国がもとつ国であり、人類発祥、五色人創造の聖地ということで、あの日の御旗はそのことを表しているんだよ」


「霊の元つ国?」


 イェースズは、昨晩の御神霊のお言葉の中にもはっきりと同じ言葉が出ていた。


「昔この国は巨大な大陸で、その頃この国にいて全世界を治めておられた世界大王がいらっしゃった。その大王をスメラミコト様と申し上げるのだが、その二番目の王朝ツクリヌシキヨロドゥオ朝のスメラミコト様が制定されたのがこの旗だ。その後、人類は何回かの天変地異を乗り越えて、二十六番目の王朝であるウガヤプキアペズ朝の初代のスメラミコト様が、この旗を再び国の印に選定遊ばされた。だが、決してこの国の旗ということではなく、日の神様を表す全世界の旗なのだ」


「昔、この国は巨大な大陸だったとおっしゃいましたが、私はかつてキシュオタンという所で、一万二年前に大洋に沈んだムーという国のことを聞きました。そこが人類の母なる国であったということなんですけれど、その巨大な大陸とはムーのことですか?」


「うむ」


 少しうなって、ミコは自分のあごひげをいじった。


「そういっていたかどうかは、ここにある古記録やわしが伝え聞いた話にはない。しかし、そう呼ばれていた可能性はある。神様はこの国で、人類の霊成型をお創りになった。それを物質化されたわけだが、そういうふうに無から有を生じせしめ得るのは、ただ神様だけだ。だから、無有ムウの国といったかもしれない」


 イェースズは、一応納得した顔でうなずいた。


「次にあの右の旗、あれは何だか分かるかな?」


「花……ですか? 菊の花?」


「違う!」


 きっぱりと、ミコは言い切った。しかしどう見ても、中心の小さな円から放射状に花びらが伸びた金色の菊の花の図案にしか見えない。菊の花はイェースズがティァンアンにいた頃、よく目にした花だった。しかし、ミコは厳かに言った。


「あれも日輪だ。太陽を表している」


 そう言われてもう一度旗を見てみると、そう見えなくもなかった。花びらは、中心の太陽から放たれる光条とも思える。


「あの旗も、日の御旗と同じスメラミコト様によって制定された。中心の円は太陽であり、世界の中心であるこの国を表している。そしてそこから伸びる光条は、十六本あるだろう?」


 数えてみると、確かに十六本だ。


「皇統第二代ツクリヌシキヨロドゥオ朝のスメラミコト様の御時に世界の各地に支国えだぐにを建てるため、本家であるこの国から十六人の皇子が派遣されたんだ。その十六人の皇子が建てた国が、今世界に存在するさまざまな国なんだよ」


「じゃあ、隣のシムの国も?」


「そうだよ。シムは何度か王朝が代わっているが、大元は十六人の皇子のお一人のバンシナ・テイセイオウミンという方だ」


「では、私の故国のイスラエルは? 私の国の教えでは、神様が最初に創られた人類はアダムとイブという名の男女ですけど」


「十六人の皇子の中の唯一の皇女様で、ヨイロパ・アダムイブヒ・アカヒトメソ様という方がおられた。派遣された土地を、メソ様が行かれた土地だからメソポタミヤという」


「アダムイブヒ?」


「その王子に、さらにアダムイブ・ミツトソンという方がおられた。君の民族の祖先は、その方だ」


「アダムとイブという二人の男女ではないのですか?」


「二人ではない。アダムイブとういう一人の方だ。いいかね、もし仮に最初の人間が男女二人しかいなかったら、その子どもは誰を嫁さんにしたのかね?」


 そのことはイェースズがかねがね疑問に思っていたことだけに、心の中であっと叫びたい気持ちだった。この話は、たしかに前にも聞いたことがある。

 そしてアダムとイブが全人類の祖というわけではなく、アダムイブヒという方がイスラエル民族の祖というのならば、これでまた長年の疑問が氷解する。

 つまり、世界にはどうしていろいろな肌の色の人びとがいるのかということだ。

 しかし、その後のミコとの言葉は、イェースズにとってさらに衝撃的だった。


「その方は、エデンの園に行かれた」


 エデンの園というのは、イェースズの故国の聖書トーラーにでてくる存在だ。それがこんな遠い異国の人の口からその名が出ようとは、イェースズは一瞬呆気にとられてしまった。


「そのエデンの園も、この国にある」


「え?」


 しばらく目を見開いていたイェースズは、ようやくミコの腕をつかみ、


「もっと詳しく、教えて下さい」


 と、ぽつりと言った。


「神理というものは、そう簡単に一度に教えられるものではない。物事には順序というものがあって、すべてが段々なのだ。階段だって一段ずつ段々に上がるだろう。それを一気に何段も飛びあがろうとしたら、ひっくり返って頭を打ってしまう。夜が朝になるのも段々だ。いきなりパッと明るくなったら、多くの人は気が狂ってしまうだろうよ」


 そう言って、ミコは高らかに笑った。そして、最後に残ったもう一本の旗を指さした。


「今度はあれだ」


「あれは……」


 初めてここに来た時から気になっていた旗だけに、イェースズはじっとそれを見つめた。


「あれは……ダビデの星……」


 正三角形を二つ、上下逆に重ねたヘキサグラム――六芒星は、ダビデ王がその紋章として使っていたマークで、いわばイスラエルの民のシンボルなのだ。


「あれは、この国の言葉ではカゴメという」


「カゴメ?」


「神と人との関係を示した、神秘の紋だ」


「私の国ではダビデの星といいますが……。それがなぜここに?」


「モーセがここで修行していた時、モーセが神から授かった紋だ。それが、ダビデ王に伝わったのだろう」


 何から何まで不思議だった。自分の民族の印が、こんな遠い国にある。しかもそれだけではなく、こちらが発祥元だというのだ。もうひとつの十六光条日輪紋も、幼い頃の記憶をたどれば、エルサレムの城壁のどこかについていたような気もする。


「さあ、神殿にお参りしようか」


 ミコに促されて、イェースズは小型神殿に向かった。そして、ミコとともに御神前に額ずいて、ミコに合わせて三拍手を打った。参拝が終わって四拍手を打った後、ミコは立ち上がった。


「御神殿の名を教えておこう。スミオヤ・スミラウォ・タマシピ・タマヤという」


「本当にこんな小さな神殿が、天地創造の神様を祀っているんですか?」


 あの巨大なエルサレム神殿のことが、どうしてもイェースズの頭から離れない。偶像崇拝のクリシュナ神の寺院でさえ、あんなにも堂々としていた。

 ミコは黙っていた。イェースズはしまったと思った。またス直になれず、屁理屈を言ってしまった。しかしミコはすぐに、笑顔を取り戻して言った。


「天地一切を創造された主催神はおひと方だが、奥の奥のそのまた奥の神様であって、その神様のみこころを顕現させる多数の眷属けんぞくの神々や御家来神がいらっしゃる。そのすべての八百万やおよろずの神々を合祀するのがこの御神殿だ。神様のみ働きには二つの面があって、一つは霊の面、一つはたいの面で、この御神殿は霊の面のみ働き、すなわち日の系統、火の系統の神様を祀るみやしろなんだ」


 イェースズはばつが悪く、黙って聞いていた。ミコはさらに、話を続けた。


「君が籠もっていたお堂の近くのもう一つの神殿だがね、ほら、先ほど一緒にお参りした」


「はい」


「あの御神殿は月の系統、水の系統の神様をお祀りしている。今はこの山の上とふもとで、火と水の神様がほどかれて祀られている。この御神殿がホドの宮、川の向こうの御神殿がメドの宮ともいう」


 火と水がほどかれていると言われても、この時のイェースズにはまだ何のことだか分からなかった。だから、


「メドの宮の方が、大きいんですね」


 と、率直な感想だけを言った。


「そういう時代なんだよ、今はまだね」


 ミコは、神殿の背後に続く山の頂きに目をやった。


「かつてこの国にまだ世界政庁があり、スメラミコト様が君臨されていた頃はな」


 ミコは山の頂上を指さした。


「あそこに、あの山の上に、今の世界のどこにもないほど巨大な神殿、それもすべて黄金で造られた大神殿があったんだ」


 イェースズも、ミコが指さす山の上を見上げた。若葉萌えいづる木々の緑が覆うだけの、今では何もない山頂だ。


「その黄金神殿は、アマツカミ・クニツカミ・パジメタマシピ・タマヤといったんだ」


 ミコの声が、ひときわ大きくなった。ただ顔は、常に柔和さを崩さずにいた。

 

 ミコの小屋には、三つの部屋があった。それぞれの部屋に行くには、外の廻廊に一度出ないとならない。廊下が中央にある建物になじんだイェースズには、不思議な構造の小屋だった。

 夜になって、中央の部屋でイェースズとミコは灯火を間に向かい合って座っていた。ここは居間か客間のようだ。床は板ばりでその上に直接座ることは、ポーダツのナタンの家と同じだった。右の部屋は寝室のようで、ミコの家族もそこにいる。

 今日の神殿参拝の後、ミコに妻がいること、そして赤い池のお堂にイェースズが籠もっていた時に毎日食事を届けてくれた童女がミコの娘だということを、イェースズははじめて知った。ほかにも、男の子が一人いるという。

 ミコの妻は少し太り気味だが気さくな女性で、今もニコニコ笑いながら酒の入ったかめを持ってきてくれて、冗談を一つ二つ言ってから隣室に帰ったばかりだ。

 酒の瓶はどす黒くて縄目の紋様が入っていることは、このあたりの庶民の集落にある土器かわらけと同じものだ。同じようなどす黒い杯でイェースズは酒を何杯も飲み、ただでさえ赤い顔をさらに赤くしていた。


「よく飲むなあ」


 と、ミコが感心したほどだ。故国を離れた頃はまだ酒が飲める年齢ではなかったイェースズで、そのまま禁酒のブッダ・サンガーに入ったが、酒の味はキシュ・オタンからシムに至るまで一緒だったユダヤ人の隊商との旅の生活の中で覚えた。


「君はいくつだ?」


「十八です」


 と、イェースズは答えた。そして、ミコを見た。


「ミコ様は何でもご存じで、しかもそのことすべてが、私が求めていたことのようです」


「君は、どんなことを求めてきたのかね?」


 ミコも、杯を口に運びながら上機嫌だ。


「私の国には、聖書トーラーという神の教えがあります。しかしそれを説く教師ラビたちの行動や、今の儀式や形式ばかりの教えに疑問を感じていたのです。同じ神に仕える身でありながら、パリサイ派だのサドカイ派だのに分かれて、お互い争っているんです」


「君はそのどちらだったのかね?」


「私の家はそのどちらでもなくて、エッセネという特別な教団に属していました。でもどれもが唯一の真理とは思えずに、それで故郷を飛び出したんです。そして最初に行った国でゴータマ・シッタルダーという人、つまりブッダの教えに触れ、その教団であるブッダ・サンガーに入りました」


「おお、ゴータマ・シッタルダーか」


「ご存じなんですか?」


「釈尊のことだろう」


「釈尊?」


「彼も、この国で修行していたんだよ」


「ええ、ブッダ・サンガーにいた時、実はブッダが修行したのはサルナート、つまり東の日の出る国だとある人から聞きまして、それでその国に行きたいとここまで来たんです。やはり、ここがそうなんですね?」


「そうだ」


 今までほとんど確信していたとはいえ、自分の疑問に対するはっきりとした回答をイェースズははじめて得たような気がした。


「彼はこの国では、釈迦天空坊と名乗っていた。だから釈迦尊者、あるいは釈尊という」


 確かにゴータマ・シッタルダーは、シャキープトラーという一族の尊者ムニーだった。

 それにしてもこのミコという人は、イェースズの疑問をことごとく氷解させてくれる。そして、ゴータマ・ブッダの名さえすぐに出てきたような人だ。だからイェースズは、居を正した。


「ミコ様、お願いです。私をこの地で修行させて下さい。私を弟子にして下さい」


 ミコはすぐに、大声で笑いだした。


「今さら何を言うのだね。わしは最初からそのつもりだ」


「え?」


 むしろイェースズの方が、きょとんとしてしまった。


「だからこそわしは、君を釈尊やモーセも籠もった赤い池のお堂に入れたのだよ」


「ブッダもあそこに?」


「そうだよ。建物は当時のものではないかもしれないけれど、ブッダもここで修行したのだ」


 そうだったのかと、イェースズは納得した。しかしそれ以上に、モーセやブッダの修行の地がここと聞いて飛び上がらんばかりだった。


「ありがとうございます」


 イェースズは、深々と頭を下げた。


「どうかこの国の教えを、私に伝えてください」


「この国の教えではないぞ」


 ビシッとミコは言った。


「釈尊が学んだのもモーセが学んだのも、単なるこの国の教えではない。一国の教えではなく天地一切の万象弥栄(いやさか)えののり惟神かんながらのミチだ。全人類に普遍の教えなのだよ」


「その通りだと思います。すべての国の神の教えは元一つだと、私はかねがね思っていました。だからこそ、この国に来たんです」


「分かった。その、全世界の教えの大元の教えを、君に伝えよう。ただし、昼間にも言ったように、すべてが段々だぞ。一度には教えられん」


「はい」


 明るく元気よく、イェースズは返事をした。

 

 翌日から、イェースズの修行の日々が始まった。

 まず彼が命ぜられたのは、小屋と御神殿前の広場の掃除だった。

 早朝、まだ太陽も昇らぬ前に起こされ、そのための道具を渡された。掃除が終わったのはようやく日が昇ろうとしている時で、朝食もまだだからかなり空腹を覚えていた。

 しかし次にイェースズはミコにつれられ、御神殿の前に座らせられた。朝の参拝だという。ミコとその家族も整列し、イェースズもそれに加わった。ミコのせんだつで参拝を終え、それからやっと朝食だった。


 それからというもの、毎日がこの連続となった。昼は時には海に行き、魚や貝を採ってくる。北に真っ直ぐに行くと、朝食後すぐ出発すれば、昼前には海に着く。ずっと長く続く白い砂浜で、海岸の松林の緑が鮮やかだった。岸は左右とも湾曲して海に突き出ているので、ここはちょっとした湾になっているらしい。驚いたことに、海に向かって右手の方の湾曲した砂浜の先は、白い壁のような山脈がそのまま海に沈みこんでいる。

 貝は砂浜を掘ればすぐにざくざく出てくるが、これは食用ではなく捕獲した魚や獣肉を腐らないように保存するためのもので、貝肉が含んでいる海の塩分を利用するのだそうだ。

 平地の集落の周りにはそのような貝の殻を捨てる一定の場所もあって、次に海に出る時は貝殻を背負って途中で捨てて行ったりもした。


 イェースズはてっきり毎日のようにミコから神の教えや世界の歴史の真実について矢継ぎ早に教えてもらえるものだとばかり思って期待していたが、実際の生活は清掃と神殿参拝、そして狩猟に明け暮れるというものだった。

 その間、ミコから教わったことといえば、石のやじりのついたやりでいかにして草原を走る鹿や猪などを捕らえるかということだけだった。

 海に行かない日は、そうして草原で獣を一日中追っている。それでもイェースズは何か深いわけがあるのだろうと、不平不満の想念だけは持たずに、与えられた任務に力を出しきった。


 東に連なる山脈の雪も少なくなり、青い山肌を見せるようになってきた。頂上には若干雪が残っているとはいえ、気候も一気に暖かくなってきている。そうなると、枯れ草ばかりだった平原に若葉が一斉に芽を吹き、色とりどりの花が咲き乱れるようになった。

 明るい陽ざしの中、その間を蝶が群れ飛ぶ光景は、まさしく天国そのものだった。アーンドラでも一年に一度、国中の花が開く季節があったが、これほどまでには美しくはなかった。

 この美しさと明るさは単に咲き香る花のせいばかりではなく、もっと霊的に高次元な意味での明るさと美しさであって、やはりここが故国で教わってきた天国なのではないかと、イェースズは変わりゆく四季の表情豊かなこの国の自然の中で実感していた。

 大自然というほどスケールは大きくはないが、繊細で優美な自然に抱かれてイェースズは暮らしていた。

 花の季節は終わりはしないが一応一段落つくと、今度は草がものすごい勢いで伸びて、平地中が草いきれの茂みと化していった。


 そんなある夕暮れ時、ミコやその家族とともに夕食をとりながら、イェースズはここ最近質問しようと思っていたことをミコに聞いてみた。

 夕食は外で焚き火をし、その火で今日獲ったばかりの猪の肉を焼き、貝から取った塩水に浸して食べる。ほかの土器には山菜の若芽が盛られていた。


「ミコ様。ここでは獣を御神前で焼き、神様ににえとして捧げるという風習はないのですか?」


「君の国では、そうしているのかね?」


「はい、神殿で子牛や羊などを焼いて、生け贄として捧げています」


「何のために?」


「何のためなんて、私には全くその意味が分かりません。神様の前で動物を殺す、それを神様は本当にお喜びになるでしょうか?」


「確かに、間違ってはおるな。しかし、意味がないとは思わない」


 ミコの口から自分の疑問に対する弁護が出たので、少しイェースズは意外に思った。


「自分が得たものを自分だけの力ではなくて神様のお蔭と感謝して、その感謝を形に表すと言う心は間違ってはいない。ただ、その方法がどうかなというところだ」


「はあ」


「確かに、無益な殺生には違いあるまい。すべての動物も植物も神様がお創りになって生命をお与えになったものだから、それを殺す権利は人間にはないだろう。神様は不必要なものは、一切お創りになっていないはずだ。だから生きものを、食べるため以外に殺すことは大きな罪になる」


「食べるためなら、殺してもいいってことですね」


「いいってわけじゃあないが、大目に見られるということだ。だから食べる時も、今こうして自分に食べられ、自分の生きる力になってくれるのだからと、その動物に手を合わせて感謝するくらいの想いがないとだめだ。もちろん、その創り主の神様にも感謝を忘れてはならん。一切が感謝だ」


「確かに、当たり前と思いがちですよね」


 そばで聞いていたミコの妻も、ふふと笑った。


「そう、それが人間ので、いちばん恐いことよね。よく村に獲物を交換に行くと、これは自分が獲ったんだと鼻にかけている人もいるし」


 この国では貨幣というものがなく、すべて物々交換なのらしい。


「結局自分が、自分がって言っている人は、物欲旺盛で、執着心も人一倍」


「そうだとも。執着は、それ自体で地獄行きだ」


 と、ミコが妻の言葉を引き継いだ。

 それを聞きながらイェースズは、この人たちの言葉は間違いないと実感していた。

 ブッダ・サンガーで聞いた話とも矛盾しないし、自分の故国の教えともまた一致する。それでいて難しく哲学化されているわけでもなく、実に分かりやすい。

 やはり、ブッダの教えの元はこっちなんだと感じる。それだけでなく、ユダヤ教といいバラモン教といいゾロアスター教といい、すべての教えの大元は一つ、つまり万教の元は一つであって、その大元がこの地にあると感じられるのだ。

 ミコはさらに、言葉を続けた。


「猛獣といわれる狼でも、お腹がすけば小動物を捕らえて食べるが、満腹の時はどんなにウサギやネズミが目の前をちょろちょろしていても知らんぷりをしている。この動物を殺し、いい土器や穀物と交換しようなんてそんな欲心で殺生をするのは人間だけだ。ましてや、時には人間同士で殺し合いをする。そんな動物はほかにはいない」


 あたりも暗くなりはじめた。焚き火の炎だけを頼りにイェースズは肉を一つ口に運び、それから顔を上げた。そのイェースズに対し、微笑みながらミコはまた言った。


「人間の欲とは、きりがないものだ。不平不満の想いでむさぼれば、余計に新しい欲が湧いてくる。その悪循環を断ち切って想念を転換し、すべて与えられたもので足りる心を知ることが大切。そうすればそこに、おのずから感謝の想いが湧いてくる。どうかな。君はここで暮らせるのが、当たり前と思っていなかったかな? 毎日毎日掃除や狩りばかりさせられ、ちっとも神理を教えてくれないじゃないかと、不平不満の想念になってはいなかったかな?」


「いえ」


 と、だけイェースズは言った。その言葉に嘘はないつもりだったが、心の隅々まで点検すると、どうもぼろが出る。そういった悪想念が出そうになるのを、必死に心で抑えていたのがイェースズの現状だった。

 イェースズが少しうつむいたので、ミコは大声で笑った。


「どんなに真実の人類の歴史を知っていても、どんなに霊的な知識に長けて、また霊的な力があっても、ちっとも偉いということにはならないのだよ。人格、つまり徳が備わってないといかん。まずは自分を創ることだ。あの人の言うことなら間違いないと、無為むいにして化すことのできるくらいの人に、まずおのれが切り替わって見せることだ。明日からはすべてのことをことごと一切感謝してさせて頂くよう。いいかね、『する』んじゃない。『させて頂く』のだ。そう心がけてみなさい。霊的な行がもちろんいちばん大事なのだけれど、心の行もおろそかにしてはいかん」


「はい」


「今こうして生きているのも、実は『生きている』のではない。『生かされて』いるのだ。すべての事は『させて頂いている』んだ。その生かされている意味をよく考え、させて頂けていることに感謝ができるようになると、自然と人は顔つきもにこやかになる。暗い顔つきをしているうちは、感謝ができていないということだよ」

 慌ててイェースズは、ニコッと笑って見せた。それがうけてミコも妻も大笑いをした。

「そうそう。そうしていつもニコニコして明るい想念でいて、明るい言霊ことだまを発していれば、自然と運命さえ陰から陽に切り替わってくる」


「はい。有り難うございます」


 顔を上げ、明るくはっきりとイェースズは言った。ミコも、満足げに笑ってうなずいていた。


「そういて心の行を積んで、そしていちばん大事な霊的な体験をも積んでいくことによって、はじめて神理は体得できる。そうでなければ、いくら言葉で語ったところで、神理というものは到底受け入れられるものではない。まずは、すべて霊が主体であるということをサトるのが、いちばん大切なことだよ」


 そう言ってからミコは、貝の汁を吸った。


 翌日から、イェースズはいつもニコニコするように心がけた。もちろん、自分一人でいる時もだ。そうするだけでこんなにも周りが違って見えるものかと、イェースズは驚いた。

 掃除も狩りも、全くつらくなくなった。明るく楽しくさせて頂いているうちに、感謝ということをかけらでも分からせて頂いたような気がしてきた。

 明るく感謝して過ごすこと自体がス直の行でもあり、自分自身が目指していた子どものような心もこれなのではないかとイェースズには思えてきた。

 その証拠に、最初は話をするにもぎこちなかったミコの二人の子どもとも、打ち解けて楽しく接することができるようになったからである。子どもたちも最初はイェースズとの間に垣根を作っていたかのようであったが、イェースズが変われば子どもたちの態度も変わってきた。

 お兄ちゃん、お兄ちゃんと言ってイェースズを慕い、海に行くのも狩りに行くのも一緒だった。


 しばらく雨ばかり降り続いた季節を通り過ぎると、太陽の陽射しが急に強く当たるようになり、この国にも夏が来ようとしていた。それにしても、こんなに季節感をはっきりと感じ、しかも四季折々独特の風情がある国はイェースズにとってはじめてだった。

 春は若葉と色とりどりの花、そして暖かい陽光に包まれ、夏は夏で強い緑が山を多い、蝉の声がけたたましい。空には大きな白い雲がわき上がり、草原にはトンボが飛びかっていた。

 どこまでも繊細で優しい自然だ。このような気候に恵まれた土地だから、人々は自然の中に溶け込んでそれと一体化し、自然と対峙、対立しようなどという考えは微塵もないようだった。


 そのように季節が変わっても、イェースズはよくなついてくれている二人の子どもの名前を知らずにいた。この国に来てはじめて行った村での体験が、どうしてもイェースズに子供たちの名を尋ねることを躊躇させてしまう。

 ここでは名前は聞いてはいけないのだという固定観念が、イェースズの中でできてしまっていた。しかし、ここで生活する以上、名前も知らないではどうもちぐはぐな関係になってしまう。

 ミコに対しては「ミコ様」と呼べばいい。もちろんそれも実名ではないことは分かっている。ここではイェースズは師弟というより家族の一員として遇されている。しかし、上下の縦分けは実に厳しい国のようで、それと同じような現象が名前に対してもあるのではないかとイェースズは勘ぐっていた。


 ある夕食時、イェースズは思い切ってその点をミコに聞いてみた。


「この国では、人に名前を聞いたり自分の名前をやたらに名乗ったりしてはいけないのでしょうか?」


 ミコは意外な質問をされたというような驚きの表情を少し見せた。


「どうして、そのようなことを聞くのかね?」


 イェースズは、はじめての村での体験をかいつまんで話した。


「そういうことか。この国では確かに名前をやたらに名乗らず、人にも聞かないという習慣がある。しかし、絶対に聞いても名乗ってもいけないということではない。ただ、言葉には言霊ことだまという力があって、その言霊の働きがいちばん強く働くのが人の名前なんだ」


「言霊?」


「一つ一つの言霊には、霊力がある。明るい言霊を発していれば運命が陽に開けるということを前にも言ったよな」


「はい」


「逆に悪い言霊を口にしてばかりいると、それはすぐ現象化し物質化して、悪い運命、陰の運命が訪れる」


「名前を告げるということは?」


「言霊の力は、一音ずつでも働く。アならアのみ働き、イならイのみ働き、ウならウのみ働きがあって、人の名前もそれを表している。だから人に自分の名前を告げるということは、その相手に自分の魂をすべて明け渡すことになると人々は考えておるようだ」


「そうだったんですか」


 確かに、神がこの世をお創りになった時も、「光あれ」という神のみ言葉ですべてが始まっていた。


「例えば娘にその実名を尋ねると求婚を意味し、それに答えて自分の名を告げれば承諾したことになる。この国では子どもの実名は母親がつけるもので、時には父親さえ自分の娘の実名を知らなかったりする」


「ええ?」


 これにはイェースズも驚いた。


「でも、その話は本当なんでしょうか。つまり、名前を相手に告げたら、魂を明け渡すことになるというのは」


 ミコは声を上げて笑った。


「それは、この国の村人達が、勝手にそう考えているだけだ。ただ、言霊という霊力の存在は真実だぞ」


「あの」


 イェースズは、真っ直ぐにミコの目を見た。


「私の名を名乗っていいですか? 名前で呼んでほしいんです」


 家族として遇されて数ヶ月もたつのに、イェースズはまだ一度もミコやその家族から名前で呼ばれたことはなかった。いつも「君」とか、「おい」とか呼ばれておしまいだ。

 この時、ミコの妻も子供たちも食事の手を止め、一斉にイェースズを見た。やはりこの国では、名前を名乗るということはかなりの一大事らしい。


「私の名は、私が故国で普段使っている言葉ではイェースズといいます。祭典用の古典語ではヨシュア、故国の周りの国々の共通語ではイエスースです」


「ほう」


 何か重大なことを聞いたかのように、ミコはしばらく言葉を失っていた。食器も床に置いてしまい、何かを考えている。イェースズは思わず身を乗りだした。


「私の名前にも、言霊のみ働きがあるんでしょうか」


「ある。すごい名前だ」


「私の国言葉ででも……ですか?」


「神様は人類の言葉というものを、統一してお創り遊ばされておる。そしてこの国が、言霊のみ働きがいちばん強く出る所なんだ」


 確かに、バベルの塔がなければ、全世界全人類は同じ言葉をしゃべっていたことになる。


「君のイェースズという名だがな」


 ようやくミコは話しはじめた。


「言霊からいうと、イスズになる。それが言霊的に正しい君の名だ」


「イスズ?」


「そうだ。日の神様をお祀りした御神殿には、必ずイスズ川という川がある。御神殿をタテとすれば、ヨコになる水としての川で、それで十字に組むということだ」


「十字に組むとは?」


「まあ、おいおい話すこともあるだろう。イスズのイは日であり火でもあって、そしてスは宇宙の真中心となる神様の御名だから、君の名はすごい名前だ」

 イェースズは照れくさくもあったが、自分の名もそんな強い霊力を持っている――そんなことをいきなり聞かされ、ただ唖然とするイェースズだった。


「よって、ここでは君の名前はイスズだ。今日からはそう呼ぶぞ」


 ミコが高らかに言った。


「はい」


 イェースズもうれしそうだ。故郷ではイェースズと呼ばれていたがアーンドラではイッサと呼ばれた。そしてこの国ではこれからイスズと呼ばれることになるようだ。

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