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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
29/146

ポータツの山

 けもの道は、小さな流れに沿って続いていた。雪解けの水を含んだ小川は、せせらぎの音を響かせて前方から流れてくる。枯れ木に覆われた低い山が左右に続き、今歩いているところはちょうど谷になっていた。

 いつの間にか、道は登り坂になっていた。林の中を登っている間は木々に遮られて見えなくなった雪の頂が、時折は顔をのぞかせたりもした。道は林の中をくねりながら、どんどん登っていく。


「ところでわしはナタンというのだが、君は?」


 老人があっさりと自分の名を名乗ったので、イェースズもためらいはなかった。


「ヨシュアです。アラム語でイエシューですが、親からイェースズと呼ばれていました」


「おお、すごい名だのう」


 イェースズはこのナタン老人がなぜ感嘆の声をあげたのか、理解できなかった。イェースズの故国では、ヨシュアなどという名前はごくありふれたものだ。


「あのう、ひとつお伺いしていいですか?」


「なんだね?」


「この国にはじめて上陸した時に行った村でピコという黄色い肌の人は、名前を聞いたらすごく驚いていましたけど……」


 老人は笑った。そして、言った。


「名前には霊力が宿っていると言われているんだよ、この国では。だから、自分の名前をたやすく人に言ったりもしないし、人に名前を尋ねたりもしない」


 それを聞いてイェースズは、聖書トーラーで神の御名を口にすることが禁じられているのを思いだした。

 この国では神の御名どころか、人間お互い同士の名前でさえそうであるらしい。それだけ、この国の人々は神に近いのだろうか……

 そんなことをイェースズが考えて歩いているうち、道の両脇に雪が現れはじめた。小川はまだそのそばで、激流となっている。そして坂を登るにつれて、道の両脇にしかなかった雪が次第に道全体を覆いはじめ、雪の中から枯れ枝の木が伸びている形となった。歩くときれいな足跡が雪の上につく。すでにくるぶしまでは、雪に埋まりながら歩くようになった。時には雪の上を獣の足跡がくっきり残っているのも見受けられた。

 半日ほどで、山頂に着いた。そこには木がなく雪だけに覆われている平らなスペースが、わずかばかりあった。降り注ぐ日差しを雪が反映してまぶしく、その雪の白さが余計に景色を明るく見せた。

 その平らなスペースに、建物があった。人が住むにはあまりにも小さすぎる木の建造物で、人の背丈ほどのそれはナタンが住んでいた建物と形だけは似ていた。


「これは、なんですか?」


 小さな模型のような建物の前にたたずみ、イェースズはナタンに尋ねてみた。


「これは神殿だよ」


「神殿? こんな小さなのが神殿?」


「天地創造の神様ではないが、この山の神様、そしてモーセを祀っている」


「モーセ?」


 イェースズのいぶかしげな顔にはお構いなしに、ナタンは参拝の仕方の説明を始めた。


「いいかね。手を打ち鳴らすんだ」


「そういえば、この国に来た時に、黄色い人々からも手を打ってあいさつされました」


「しかしそれは、二拍手だっただろう」


「はい」


「人に対しては二拍手だが、神様に対しては三拍手せねばならん」


「なぜですか?」


「人に対するあいさつと神様に対するお参りが同じでは、神様に御無礼じゃろう」


 ナタンはにっこりと笑い、小さな神殿に向かって二回お辞儀をして手を三つ叩いた。イェースズも、同じようにした。

 今までいろいろな国にいってきたが、神参りの時に手を打ちならす国ははじめてだった。しかもそれを目の前では、自分と同胞の老人がやっているのである。


 参拝が終わり、わけが分からないままにイェースズは登ってきた方を振り向くと、遥かふもとの平地、そしてすぐにはじまる大海原が一面に見下ろされた。海岸線は左の方で前方にカーブし、垂直に彼方まで続いている。反対側の陸地は大部分が低い丘陵地帯で、海からこんなに近いのに山また山になる地形は、イェースズははじめて見た。

 イェースズがそんな景色に見とれていると、ナタンはその背後から、


「今、君の国では、十戒はどのように伝わっているのかね?」


 と、言った。イェースズはすぐに暗唱を始めた。


「はい。

 第一、我は主なリ。われを唯一の神として礼拝すべし。

 第二、汝、神の名をみだりに呼ぶなかれ。

 第三、汝、安息日を聖とすべきことを覚ゆべし。

 第四、汝、父母を敬うべし。

 第五、汝、殺すなかれ。

 第六、汝、姦淫するなかれ。

 第七、汝、盗むなかれ。

 第八、汝、偽証するなかれ。

 第九、汝、人の妻を恋うるなかれ。

 第十、汝、人の持ちものをみだりに望むなかれ。

以上ですね」


「ふうん」


 あごに手を当てて、ナタン何かを考え込んでいるようだった。


「やはりだいぶ変わってしまっておるのう」


「変わってるって? それ、どういう意味ですか?」


「内容が変わってしまっておる。大筋は間違いないが……」


「でもこれは、『出エジプト記』に記されている通りですよ。それが変わるなんて」


「いいかね」


 ゆっくりとナタンは、体をイェースズの方へと向けた。


「たとえどのような書物でも、それが書き記された時点で人知の産物となる。時代がたち、何度も書写されるうちに、内容に人知が入りこんで変わってしまうものだ」


 それだけ言うとナタンは小さな神殿の裏に回りこみ、しゃがんで何かごそごそとやっていた。ちょうど高床になっている神殿の床下が、ちょっとした格納庫になっているらしい。

 やがてナタンは、二枚の巻紙を取り出してきた。広げても、さほど大きくはない。イェースズにそれを示すのでのぞきこんでみると、それは紙ではなく動物の皮のようだった。

 そこにあるのは、イェースズにとってまた新しく見る種類の文字だった。シムの象形文字のジャングルのような複雑な文字に比べると幾分シンプルで、同じ文字が随所に見られるところから表音文字のようだった。


「これが、本物の十戒だよ」


 ナタンは誇らしげにその皮紙を、イェースズの胸元にかざした。しかし、イェースズにはそれは全く読めないので、ただ困惑するだけだった。それを察してナタンは、ニコニコしながら紙を自分の方に向けて目を落とした。


「読んであげよう。えー……テンゴクノクヮミノウォクヮミナムアミン。テンゴクオムヤクヮミパイレシェヨ。ピトノモノトルナヨ。ピトノオミウォヨコトリシュルナヨ。ピトニウソツクナヨ。ピトウォ……」


「ちょっと待ってください」


 慌てたイェースズは、ナタンの朗読を遮った。


「そんな、この国の言葉で読んで頂いても、分かりませんよ」


 苦笑するイェースズを見て、ナタンはさらににっこり笑った。


「よしよし、では訳して読んであげよう。いいかね。えー……天国の神の大神、ナムアミン」


「何ですか? その、ナムアミンっていうのは」


「天国の神様のことじゃよ。続けるよ。

 一、天国の祖神おやがみ様を礼拝しなさい。

 二、他人のものを盗むな。

 三、他人の妻を横取りするな。

 四、他人に嘘をつくな。

 五、他人をだますな。

 六、他人を殺すな。

 七、他人との境目を破るな。

 八、天国の神に背くな。

 九、わが教えに背くな。

 十、他人を困らすな。

 そして、最後にはこう書いてある。

 アダムイブロクジユウタイロミユラス、イツイロピトノムオシェノトクヮペ、ヨムツクニシナイシャンシロニテツクリ」


 しばらく、二人とも声を発しなかった。


「これが、十戒だよ」


 肌を刺すような冷気が、山頂を覆い始めた。


「これが、神様がモーセに下された、イスラエルの民のための十戒だ」


「イスラエルの民のため?」


「そうだ。そしてもう一つのこれが、全世界全人類のための十戒だ」


 そういえばナタンは、もう一枚皮紙を持っていた。今度は上下を重ね変えて、もう一枚を上にしてイェースズに示した。


「これが、全人類のための本当の十戒だ」


「よ、読んで下さい。訳して」


「じゃあ、読むぞ。いいかね。

 一、日の神を拝礼せよ。

 二、人類発祥国にて日嗣の神を礼拝せよ。

 三、日の神に背くな。背くと死ぬぞ。

 四、天国である世界のもとの神の律法を守れ。

 五、世界の大祖国の大祖王スメラミコトに背くな。

 六、世界の律法を守れ。

 七、それぞれの国の律法を制定するそれぞれの祖国の律法を守れ。

 八、正邪、白黒をはっきり立て別けよ。

 九、聴け!この他に汝モウシェの他に神はない。

 十、日の神を礼拝せよ」


 たとえヘブライ語に翻訳していってくれていたとしても、どうもイェースズにはピンとこない内容だった。


「十戒とはこのように、表と裏の二つがあるんだよ」


「あ!」


「どうした?」


 あまりにイェースズが突然大声で叫ぶので、かえってナタンの方がびっくりしてしまった。


「あのう、聖書トーラーではモーセが十戒石を二枚授かったとなっていますが、今までずっとなぜ二枚なんだろうと思っていたんですよ」


 そこで、ナタンはにっこりと笑った。


「真実は、君が今思いついた通りだよ」


「ではやはり二枚の石に十戒が刻まれていていたというのは、この二つの十戒が刻まれたということなんですね」


「そうだよ。そして今や、イスラエルの民のための十戒だけが、この世に伝えられている。さっき君から聞いたところによると、形や順番は変わってしまったがね」


「もう一度、その紙を見せて下さい」


 ナタンは黙って、二枚の紙を再びイェースズに見せた。やはり、見たこともない文字だった。


「これが、この国の文字ですか?」


「そうだとも言えるし、違うとも言える」


 ナタンの意外な返事に、イェースズはただきょとんとしてしまった。


「この国には文字はない……今は、表向きにはそういうことになっている。昔はあった。それがどこかで温存されているだろうが、それらの文字さえをもあのエフライムたちは消し去ろうとしているのだ」


「この国で、『ウシ』と呼ばれているあのイスラエルの民ですね」


「彼らは故地を出てから久しく、すでに文字を失っている。それだけでなく、この国に昔から何十種類もあった文字を否定し、消し去ろうとしている」


「なぜですか?」


「それは後で話すとして、この文字だが、これも昔からあった文字の一つで、この国の文字というよりは神様が直接お示しになった文字だ。モーセの十戒石も、この文字で刻まれていたそうだよ」


「ヘブライ文字ではなかったのですか……?」


 イェースズは、息をのんだ。


「確かに聖書トーラーには、十戒石に刻まれた文字は神の文字だとありますね。その『神の文字』とはどのような文字なのかと、今までずっと疑問だったんです。この文字こそ、そうなんですね」


「そうだ。モーセはこの文字で書かれた十戒の内容を、ヘブライ語に訳して人々に伝えたんだ」


「さっきの内容にあった『天国』とは、どこのことなんですか?」


「天国とひと口で言っても二通りの意味があるが、ここでいう天国は地上の天国……つまり、この国だよ」


「では、エルサレムの神殿に祀られている十戒石には、この文字が書かれているんですね」


「もう十戒石は、エルサレムにはないだろう」


 ぼそっとナタンが言ったので、イェースズも一瞬はその言葉が頭の中を通り過ぎただけだったが、やがてはっと気がついた。


「エルサレムの神殿にないって……。では、どこにあるんですか?」


「天国だよ」


「と、いうことは?」


「そう。この国にあるんだ。里帰りしたわけだな」


「え? どこにあるのですか?」


「ま、とにかく山を降りよう」


 興奮するイェースズにナタンはそう言って、自分からさっさと山を降りる道を歩き始めた。裸の木々に隠されて目の前に展開していた絶景も見えなくなり、登ってきた時の雪の中の足跡を頼りに二人は山を降りた。

 

 かなり夜も更けてから、ナタンはようやくイェースズにポツリポツリと語りはじめた。それまではというもの、夕食の間もずっとナタンは無言だったのだ。

 木の床が部屋の真ん中だけ小さく四角く掘られており、そこに火が焚かれている。寒くはないが、それでもまだ夜ともなれば若干火が恋しくなる季節だった。

 顔を炎に真っ赤に照らされながら、ナタン老人とイェースズは側面を向け合う形で座っていた。


「モーセがなぜこの国の、今日行ってきたあの山で十戒を授かったんですか?」


 大いなる根本の疑問をイェースズは、思い切って真っ先に単刀直入に切りだした。


「すべてが御神示だったのだ。イスラエルの民を率いてエジプトを脱出したのも、すべて御神示だったのだからな」


「たしかに、聖書トーラーにもそうありますね。柴が燃えてしまわない炎の中から『在りて有るもの』と名乗る神様が御出現になったと」


「その聖書トーラーには、モーセが民をおいて一人でシナイ山に登ったと書いてあるだろう」


「はい」


「その時モーセは、シナイ山を反対側に降りて、この国にやって来て十戒を授かったのだ。すべて、御神示に基づいてのことだ」


「そういう言い伝えなのですか?」


「いや、ちゃんと記録にもある。今、エフライムたちが血眼になって探しているのも、その文献だよ」


「探してどうするつもりなんでしょう?」


「焼き捨てるのだろうよ。おそらくは」


 そんな大それた文献なら、自分ごときどこの馬の骨とも分からない若者がありかを聞いても、そう易々《やすやす》とは教えてはくれまいと、イェースズはあえてそのことを聞くのをやめた。そこで、話題を変えた。


「しかし聖書トーラーでは、モーセは四十日間シナイ山に籠もったとなっていますが、四十日でどうやってここまで来られるんでしょうか? 私なんか片道で五年もかかりましたよ。もっとも、途中でずいぶん寄り道をしましたけど」


 次のナタンの返事までには、少しだけ間があった。


「あの頃はな、この国はまだ人類発祥の国にふさわしいそれなりの文明の名残を残していた。瞬時にしてカナンの地よりここまで来られる空を飛ぶ乗り物、つまりアメノウキプネというのがあったのだそうだ」


「え?」


 イェースズは息を呑んだ。彼の関心は空を飛ぶ乗り物などという話よりも、ナタンのたったひと言に向けられていた。これで今までの憶測が、憶測ではなかったのである。


「今、人類発祥の国とおっしゃいましたね」


 東の日の出る国サルナート、人類発祥の国ムー、そしてブンラグ山、それらを目指してイェースズはこの島国までやってきたのだが、今のナタンのひと言でこの地が紛れもなく自分の目指していた国だということを彼は知ったのである。

 イェースズの目が、輝いた。


「やはりここが、人類発祥の国なんですね」


 詰め寄るイェースズにナタンは言い過ぎたかなというような困惑の表情を少し見せたが、やがて大きくうなずいた。


「やはり」


 全身が興奮で震えるのを、イェースズは感じた。


「確かにここは人類発祥の国、つまり天国で、この国の言葉ではアマグニという」


「アマグニ? この国の名前ですか?」


「いや、それはこの国の言葉で『天国』という意味だ」


「では、この国の名前は?」


「この国の名前はいろいろとあるが、そのひとつはトヨアシパラ・ミドゥポの国という」


「ミドゥポ?」

 イェースズの頭の中に、ひらめくものがあった。それは「ミズラーホ」という、ヘブライ語で「東」を意味する言葉だった。語源は、「日の出る処」である。


「昔から私の国でいわれている『ミズラーホの国』とは、この国のことなんですか?」


「さあ。それはよく分からないが」


 イェースズは大きく息をついて、何かを考えていた。ナタンは、ゆっくりと立ち上がった。


「明日、モーセの墓に参ろう。今日は休んだ方がいい」


 そう言い残し、ナタンは部屋を出ていってしまった。一人残されたイェースズは、ただ呆然としていた。どうやらとてつもない国に来てしまったらしいという実感だけが、ひしひしと彼を襲っていた。

 

 モーセの墓というのは、ナタンの家からはポーダツの山と反対側の海岸に向かって少し行った所にあった。山ではない低地はすべてといいほど水田と化し、そうでない部分はたいてい葦の繁る湖沼だった。

 ポーダツの山はもう遠く、左右の山並みと切れ目なく繋がって、山脈は海岸線と平行に延びている。

 ナタン老人の家のある集落とは別の村がしばらく行くとあって、そこで村人たちのうるさいほどの二拍手の礼を受けながら、二人は村を反対側に突き抜けた。


 そこには、小高い丘があった。今は葉が落ちた木々に囲まれているが、夏になればちょっとした森林の中となると思われた。その人家の高さほどの丘の上に、三つの塚があるのが認められた。


「これがモーセの墓だ」


 言葉少なげに、ナタンはそれだけ言った。イェースズはただ呆然と、その三つの塚の前に立ちすくんだ。土をちょうど椀を伏せた形に盛ったそれらの塚は、ちょうど大人の背の高さくらいだった。千数百年の時間が風化させたのか、丸いはずだった塚も若干形が崩れているが、それでも堂々としたものだった。

 物音一つしない静寂の中で陽光が明るく降り注ぎ、ぽかぽかと暖かかった。

 ナタンがゆっくりと塚の周りをまわるので、イェースズもそれについて行った。やがて塚に横穴がついている所があり、そこでナタンは止まった。穴は身をかがめればくぐれるほどだが、丸い小さな木石が積まれていてふさがれていた。


 どうにもイェースズには、実感がわかなかった。あの、イスラエルの民十二部族の大群衆を率いてエジプトを脱出し、契約の地カナンに一大帝国の基礎を築き、聖書トーラーを著し、律法タルムートを定め、イスラエルの父と仰がれた大英雄モーセが今目の前のちっぽけな塚に眠っていると言われても、なかなかぴんとくるものではない。あの、ジェン・チャーグ・フアンの墓さえ、ひと山ほどの巨大な山陵だったではないか。


「これがモーセの墓だ」


 と、ナタンはもう一度言った。


「我われの民族にとって、忘れることのできないお方だ」


「はあ」


 イェースズはまだ、腑に落ちない顔をしていた。


「あれほどのお方だ。墓がないわけがない。しかし、君の生まれ育った故国には、モーセの墓はあるかね?」


「ありません。聖書トーラーに書いてある通りです」


 イェースズは、『申命記ミシュネー・ハットーラー』の暗唱を始めた。


「主のしもべモーセは、ここモアブの地に主の命令通りに死に、主はモアブの地に、ベト・ペオルに面した谷に彼を葬られた。しかし彼の墓はどこにあるのか、今に至るまで誰も知らない」


 もしここにあるのが本当にモーセの墓ならば、イスラエルでその墓がどこにあるのか誰も知らなくて当たり前だ。このような遥か東の、遠い国にそれはあるのだ。


「しかし、聖書トーラーではモーセはネボ山に登って、そのふもとの谷に葬られたとありますね」


 イエスの問いかけにナタンは、昨日登ったポーダツの山を指さした。


「あれがネボ山だ」


「え?」


「ポーダツの山のことを、昔からここのグェコたちはネボ山と呼んでおる」


「ではここが、聖書トーラーに書かれたネボ山のふもとの谷なのですか?」


「そうだ。嘘だと思ったら、そのへんの村人にあの山の名前を聞いてみるといい。みんなネボ山と言うだろう」


「ネボとはどういう意味です?」


「この木だよ」


 塚の周りの木々を、ナタンは指さした。確かにポーダツの山の山頂まで、雪の中で群生していたのはすべて同じこの木だった。


「ネボの木が繁る山だから、ネボ山だ」


 それだけ言って、ナタンはもう帰る仕度をしていた。

 

 明るい間は何かにおびえているように、ナタンの口は堅かった。必要以上のことはしゃべらなかったし、イェースズも退屈だった。

 そこで夕暮れ近くになって、イェースズはナタンの家のある集落の中を散策してみた。

 竪穴の上にわらを円錐形に積んだ粗末な家がいくつか並ぶだけの、この国ではありふれた集落だった。人々はやはり裸足で、木綿の環頭衣を着ている。時折、田を耕してきた帰りだろうか、農具を担いでくる男もいた。木製の鍬や鋤は皆立派なものだ。

 家の周りには、いくつもの瓶が並べられていたりする。黄土色の粘土をこねて火で焼いた瓶で、そればかりでなく青銅器も時折見かけた。村の中央には米の貯蔵庫らしき高床式の蔵と、黄土色の瓶である土器を焼くかまども見られた。

 そんな土器で夕餉を炊いているのか、どの家からも一斉に煙が真っ直ぐに空に昇っていた。

 暗くなるのを待ちかね、夕餉を取りながら、イェースズは今日一日感じていたこと、特に夕方村を散歩した時に強く感じた疑問をナタンにぶつけることにした。


「この国の人々は、大変貧しいですね。ユダヤやアーンドラの奴隷や賎民でさえ、もう少しましですよ」


 イェースズの言葉に、少しむっとした顔をナタンはイェースズに向けた。


「この国の民は、決して奴隷ではないぞ」


「だから不思議なんです。あなたは、この国が人類発祥の国だと言われましたよねえ」


「もう少し、声を落とさんかい」


「はい」


 小声にして、イェースズは続けた。


「一瞬にしてここからユダヤへ行けるような、えっと、何でしたっけ……?」


「アメノウキプネ」


「そう。そんな空を飛ぶ乗り物があったようなこの国が、なぜ今はこんな状態なのです? 文明のかけらもないような気がしますけど」


 しばらく間をおいてから、


「天地かえらく」


 と、ナタンは言った。


「え?」


「天変地異だよ」


「天変地異?」


「そうだ。この国に限らず、全世界が泥の海となったような天変地異が人類創世よりこのかた数百回、巨大なものだけでも六回あったそうだ」


「天変地異って、地震とか?」


「地震だけではない。地震と洪水、火山の噴火、ひどい時には大陸が沈んだり、浮上したりもしたそうだ」


聖書トーラーの、ノアの洪水のことですか?」


「ノアの洪水も全世界規模のもので、しかも一回だけではなかったのだ。聖書トーラーに記載されたのは、六回あったうちのどれかひとつだろう。大昔、人類は母なる大陸で発祥し、そこには世界を統治する偉大な大王がいたが、その大陸も一万年ほど前に沈没したそうだ」


 まさしくイェースズがキシュ・オタンで見た粘土版に記載されていたムー大陸と、完全に話が一致する。


「そしてそれも一度に沈んだわけではなく、その帝国の一部だった今我われがいるこの島国のほかに、ミヨイ・タミアラという二つの大陸がかなりあとまで沈まずに残っていたようだ。だが約千年前、ちょうどモーセがここへ来た頃にそれも沈み、今は人類発祥の大陸の沈み残りはここだけだ」


「すると、モーセが来た頃までは、文明の名残はあったんですね」


「ああ、なにしろアメノウキプネがあったくらいだからな。そのあとのミヨイ・タミアラが沈んだのが第六回目の大天変地異になるが、それからというもの、この国にあった世界政府もなくなり、高度文明も崩壊し、生き残った人々はこんな原始的な生活を余儀なくされるようになったんだ」


「ではこの島国は、人類発祥の大陸の沈み残ったかけらなんですね」


「違う。今残っているこの島国こそ、かつての沈んだ帝国の重要部分だったんだ。いちばん大事な所は沈まなかったということだよ。生き残った人々は工夫して、何とか命を取りとめてきた。きらびやかな服もなくなり、黄金の宮殿も民家もなくなり、人々は動物の皮衣を着て洞窟に住み、何とか生き延びようと必死だった。石を削って武器にして動物を捕らえては食い、やがて土器を焼くことを覚え、そして稲作が始まってやっと今に至っているのだ」


「なぜ、そんなことが分かるんですか? 記録でもあるんですか?」


「ある。しかし今は、おおやけにはできんよ。エフライムはあとからやってきてこの国を統治しようとしている以上、この国が世界の中心だった文明発祥国では彼らにとって都合が悪いのだ。そこで歴史を捏造し、改竄してでもこの国が原始から始まったことにしないと困るのだ。彼らにしてみればな」


「なぜ、都合が悪いのですか?」


「原始文明から始まったこの国の人々に自分たちの文明を教えるということで、自分たちのこの国での支配を正統化しようとしているのだ。今でもそうだ」


 イェースズがまだ頭の整理をつけていないうちに、ナタンは穏やかな口調になり、


「ところで」


 と、話題を変えた。


「私も知りたいことがあるんだが」


「何でしょう」


「私とて君と同族で、君が生まれたところは私の祖先の地でもある。そこが今どうなっているのか、それを知りたいんだ」


「と、言いますと?」


「親のそのまた親の、そのまた親から代々伝え聞いてきた我が民族の歴史は、ダビデ王、ソロモン王まではよいが、その後、王国が北のイスラエルと南のユダに分裂し、北のイスラエルがアッシリアに滅ぼされて離散し、流浪を重ねた挙句にこの地にたどり着いたということしかない。滅ぼされなかった南の王国は、その後どうなったのかな? 君も、南のユダ王国の人だろう?」


「実は、ユダ王国も滅ぼされたのです」


「何? アッシリアにか?」


「いえ、バビロニアにです。ユダヤの人々はほとんどバビロニアに連れて行かれ、そこで捕囚生活を長きにわたって強いられました」


 外ではふくろうの鳴く声が物悲しげに響き、そのほかの音といえば部屋の中央で焚かれている小さな火がパチパチと燃えている音だけだ。

 イエスはそんな小さな火に顔を照らされながら、バビロン捕囚からユダヤ人は故国に戻り、今では神殿も再建されていることを語った。


「しかしその時、故国に戻らなかった人々もいて、ディアスポラと呼ばれるそれらの人々が今でも世界各地に散らばっています」


「それも、ユダかベニヤミンなんだな」


「そうです。彼らは主に商人として、ローマとこの国の隣のシーンの国の間をいったり来たりしています。私もそういった人たちといっしょに、この国の手前まで来たのです」


「ん? ローマ?」


 ナタンがゆっくりと顔を上げた。その顔もまた、小さな炎にたらされて赤く輝いていた。


「今、君はローマと言ったな」


「はい。ローマは今、西の方の世界のほとんどを支配する大帝国です。かつては王はなくて民衆だけで治めていたのですが、今は絶大な権力を誇る皇帝が君臨しています」


「ほう」


 ナタンは、目を細めて聞いていた。


「ローマが、そんな大帝国になっているのか」


「ローマをご存じですか?」


「よく知っているとも。だが、そんな大きな帝国になっていようとは知らなんだ。イスラエルの民とローマの民は、仲良くやっておるのかね」


「え?」


 イェースズは、いぶかしげな表情を見せた。


「ローマは今、イスラエルをも支配しています。いわば、ローマに服属しています」


「なにッ!?」


 ナタンの顔が、今日にゆがんだ。


「イスラエルがローマに服属?」


 ナタンは、しばらく呆然と言葉を失っていた。そしてしばらくしてから、力なくイェースズを見て言った。


「ローマとイスラエルの民は、仲良くせねばならないのだ」


「それは、どの民族でも……」


「いや、ローマとイスラエルは特にだ」

 それからナタンは、体ごとイェースズの方を向いた。


「ローマという国がどうやってできたか、知っているかね?」


 ナタンの声は、急にトーンが落とされた。


「さあ、詳しくは知りませんが、昔、川に捨てられていた双子のロムラスという人が造った国だとか……」


「そのロムラスとは……」


 ナタンの声のトーンが、一段と落とされた。


「モーセのことだよ」


「え?」


 イェースズはまだ、状況がつかめなかった。だから、ナタンの目をじっと見た。


「では、ローマとは……」


「そう。モーセが造った国なんだ」


 この国に来てからというもの、頭がこんがらがるようなややこしい話が多すぎた。ナタンは小声で、さらに話を続けた。


「モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、カナンの地につくまでの四十年間、その間にシナイ山に登り、実はそう見せかけて反対側に降りてこの国に来て十戒を授かったことは話したよのう」


「はい」


 その時モーセは。この国で一人の娘を嫁にもらっておる。その娘は三人の子を設け、モーセがカナンの地に戻ってからも、モーセの嫁になったその娘さんはこの地にとどまり、六年後に三人の子をつれてカナンの地へと行ったんだ。その女の名が、ローマ姫なのだ」


「え? ローマ?」


「そう。一方モーセはカナンの地にあと一歩という所でイスラエルの民のことは向こうでの子供であるヨシュアにすべて任せて、自分は死んだことにして身をくらませたというわけだ」


「それが、モーセの百二十歳の時のことですね」


「そうだ。その後、モーセはローマ姫とともに、ローマを打ち建てたのだよ。イスラエルの民はその後一時偶像崇拝に走って神の怒りを買い、ほとんど滅ぼされかけたが、モーセの子孫はちゃんと残るという仕組みだったのだ」


「確かに、神様はモーセに『あなたを大きな民に増やそう』と、そう仰せられたと『出エジプト記』にありますね」


「その通りだ。モーセはローマを建国した後、この国からローマ姫がつれていった三人の子のうちの一人のヌーマボンをローマの王とし、そしてアメノウキプネに乗ってこの国に舞い戻ってきたというわけだ」


「そういえばモーセは生まれてすぐにナイル川に捨てられ、エジプトの王女に拾われて育てられたんでしたよね。そしてローマのロムラスも、子どもの時に川に捨てられていたと……」


「同じだろう。ローマの方で双子となっているのは、恐らくローマ姫のことだろうな」


「では、ロムラスが狼に育てられたという話は?」


「モーセは誰に育てられたんだったけかな?」


「エジプトの王女にです」


「君の話では今でこそエジプトもローマの属州だそうだが、かつてはエジプトとローマは仇敵の仲だった。だからローマでは、エジプトの女王のことを狼とも称するだろう」


 イェースズはまだ半信半疑のような顔をしており、それを見てナタンはやっと少し笑うと、立ち上がって小さな窓から外を見つめた。


「ほう」


 ナタンはそれから、感心したような声を上げた。イェースズも窓の方を見ると、ナタンはイェースズを後ろ手で招いた。イェースズがナタンの背後から窓の外を見ても、そこには深くて冷たい夜の闇が支配していた。ここから見下ろせるはずの村の民家からは、ひとつとして明かりはもれていない。日が沈むと人々は、早々に眠りについてしまうようだ。

 しかし、右前方のうっすらとした明かりは、いやでもイェースズの目に入った。そこには、赤い炎の柱のような発光体が、淡くぼんやりと大地から夜空まで真っ直ぐに昇っていたのである。ここからはずっと遠い所のようだ。


「あ、あれは何ですか?」


 慌ててイェースズはナタンの背中に尋ねた。


「あれはちょうど、モーセの墓の所だ」


「え?」


 もう一度イェースズは、赤い火柱を見てみた。モーセがエジプトからイスラエルの民を連れ出した時、夜に先導として見えていた火の柱とはあれのことではないかと、イェースズは思った。そんなイェースズの心を見透かすように、ナタンは笑った。


「時々、あれが見えるんだ。特に、話を聞いただけでは信じない屁理屈屋さんが来た時は、これでもかと神様が見せて下さる」


 その言葉に、イェースズは頭を打たれたような気がした。今まで自分なりにいちばん大事だと思っていた「ス直」というものを忘れ去っていたことを、いやと思い知らされたのである。そしてイェースズは、その場にうずくまった。涙が溢れて止まらない。何度も心の中で、彼は神に詫びた。ス直ではなかった自分を詫びたのである。その震える肩に、ナタンは優しく手を置いた。


「明日は、ここから東に行きなさい」


「東へ?」


 潤んだ瞳をゆっくりと上げたイェースズは、首だけねじってナタンを見上げた。


「東へ……ですか?」


「そうだ。ここから峠を越えて、東へ行った所のトトヤマという所に、ミコと呼ばれる方がおられる。そこには天地創造の神々を祀ったこの国でいちばん古い神殿もある。そのミコ様こそ、君が神理を学ぶべき師となろう」


「ミコというお名前の方ですか?」


「いや、その本名は誰も知らぬ。ただ、ミコと呼ばれているだけだ。この国に世界の政庁があった頃、全世界全人類の大王だった家の子孫だそうだ」


「大王の子孫?」


「そこには、世界の本当の歴史を記した記録もあるし、モーセの十戒石もそこにある」


 意外なほど、イェースズは冷静だった。そしてその顔は無表情だった。しかし、ス直にナタンの言葉を受け入れていた。


「行かせて頂きます。明日、早速」


「峠を越えたら、何もかもがまるで違うぞ。文明の度合いも違う。それにミコ様は、ヘブライ語はお分かりになられない」


「大丈夫です。何とかなります」


 やっとイェースズは元気に明るく笑うと、ゆっくりと立ち上がってうなずいた。ほっとしたような表情が、ナタンの顔にもあった。


「ところで、なぜ私のようなどこの馬の骨とも分からないような若僧に、そんな大それたことを教えて下さるのですか? ウシたちに聞かれると、まずいことでしょう?」


「何となく、教えねばならないような気がしたのだ。昨日、ポーダツの山の神殿で祈ったとき、そうひしひしと感じた。これも一種の御神示かのう」


 ナタンは大声を上げて笑い、さらに続けた。


「君のような若者がいずれはやって来て、今まで話したことをその若者に教えるのが私の役目なのではないかと、最近ことにそう感じていたんだ」


 それを聞いたイェースズは大きく息を吸い込んだあと、再び頭を下げてうずくまった。


「有り難うございます。私ごときに」


 その目は、再び潤んでいた。そして、顔を上げて言った。


「もう一つだけ、教えて下さい」


「ん?」


 ナタンの眉が、少し動いた。


「あなたはいったいどなたなのですか? エフライムとは違うのですか? あるいは、ディアスポラですか?」


 ナタンは、黙って笑っていた。そして、しばらくしてから笑顔のまま口を開いた。


「そのどちらでもない。これ以上のことは、聞かないでくれ」


 ナタンはそれきり、笑顔のまま黙ってしまった。

 

 翌朝は早くから、村の方がにぎわっていた。ナタンに石段の上で見送られたイェースズは、村の方へと下って行った。

 にぎわう声のわりには、村の中に人はいなかった。喧騒は、村の中央から聞こえてくる。そこの広場に、村人はみんな集まっているらしい。

 イェースズはちょっと寄り道して、広場の方をのぞいてみた。その中央には舞台のようなものが設けられており、その上で男女二人が舞を舞っている。普段の環頭衣ではなく、黄緑がかった派手な服装をし、顔には面をつけていた。

 その音楽がまた、イェースズには耳慣れないものだった。メロディーは何の特徴もない単一のもので、テンポは気だるいくらいにゆっくりしたものだった。それに合わせて舞う二人の舞いも、動作は自然とゆっくりとしたものになっていた。

 その舞台を囲んで、村人たちは歓声を上げていた。舞台の四隅には細い柱が立てられ、いろんな色の布のふさが何本も下がり、大きな金の鈴と銀の鈴が総の一番上にはついていた。柱と柱は上の方が縄で結ばれ、縄にはところどころにジグザグの白い紙が小さく結んであった。

 イェースズは横目でそれを見ただけで、すぐに村を出た。

 水田の中の道を歩く間も、人々の歓声と舞いのメロディーは、いつまででも後ろからイェースズを追いかけてきた。

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