神秘の島国
砂浜から黄土色の断崖の上に斜めに登る狭い道があるのを、イェースズは見つけた。そこで食糧の袋を背負い、彼はゆっくりとその道を登った。
すぐに、人の背丈の二倍ほどの低い断崖の上に着いた。砂浜はすぐ下に見える。上に登ってしまえばあとは平らな道で、そのまま松林の中に続いている。
そこで上陸以来イェースズがはじめて会ったのは、一匹の犬だった。イェースズの姿を見るとそれはけたたましくほえてきたが、イェースズが向けた笑顔ですぐに犬はどこかへ行ってしまった。
松林はすぐに終わった。パッと視界が開けると、そこは小ぢんまりとした山間の水田地帯だった。今は春先で水田には何も植えられておらず一見沼のようでもあったが、縦横にきちんと畦が作られていたことによってすぐに水田だと分かった。
五十歩も歩けばすぐに山に着いてしまいそうな狭い水田で、その山も丘といってもいいくらいのものであり、土が露出している部分はなく、すべてが緑の木々や草で覆われていた。
わずかばかりの起伏があるだけなのに、視界は狭い。山の向こうがすぐにもう反対側の海なのかずっと陸地が続いているのか、皆目見当もつかなかった。
イェースズは歩を止めて、はじめて見る上陸地の風景を見つめた。カーシーやシムで見てきた悠久の大自然に慣れていたイェースズの眼には、何もかもスケールが小さく見えた。ここは間違いなく島であって、だからこそ自然のスケールが小さいのだろうと思われたが、よく見ているうちにイェースズはひとつのことに気がついた。
小さいなりに、繊細で優しい自然が目の前にある。か弱い母親の腕に抱かれているような優しい山や優しい見晴らしが、今イェースズの目の前に展開されていた。
心の中に心の名かに急に暖かさがこみ上げてくるのを感じ、イェースズは水田の方に向かってなだらかに下降する細い道を歩いた。両側からかぶさる萱草をかき分けながらでないと、なかなか歩けないような細い道だった。
そしてようやく水田の脇まで来たとき、イェースズはそこでこの島に来てはじめて人間に会った。
少女だった。黒い髪と黒い瞳、彫りの深いその顔から、シムの人々と人種は全く同じようだった。ただ髪は黒く延ばして束ねてはおらず、服は木綿の白布の環頭衣で、シムのティァンアンのユダヤ人の村でも見たユダヤの古代の服装そのものだった。
しかし顔を見ても、ユダヤ人ではない。それに奇妙なことに、足に何も履いておらずに裸足だったことである。
少女はイェースズを見るや否や慌てて道の脇の草むらの中に入り、イェースズの方を向いてうずくまった。そして、両手を合わせて二回ほど拍手を打った。
イェースズはただ呆然として、そんな少女のしぐさを立ったまま見下ろしていた。少女は伏目がちにイェースズを恐る恐る見上げ、その唇が動いた。
「シャローム」
「え?」
イェースズは、ただ呆気にとられた。少女は確かにヘブライ語で「シャローム」と言った。聞き間違いかとも思ったが、もう一度少女が、
「シャローム」
と言うので、もはや聞き違いではなかった。少女は再び顔を伏せてうずくまっている。イェースズの顔は、驚きから輝きに変わった。ヘブライ語が通じるのだ。そこでイェースズは、
「どうぞ、お立ちなさい」
と、ヘブライ語で話しかけてみた。だが、少女は動かなかった。
「ここは、何という国なんだい?」
しかし少女はますます恐れ入ったという感じで地に額をこすりつけるので、イェースズは戸惑ってしまった。どうやらこの少女は、今の「シャローム」しかヘブライ語を知らないらしい。
「おお」
と、イェースズはため息をついた。その声に、少女はパッと顔をあげた。そしてそのままニコリと微笑んですくっと立ち上がり、片手である一方を示して何かを言った。シムの言語とも違う言葉で、当然イェースズには全く解せなかった。だから何がなんだか分からなかったが、少女はどうもその方角の方へついて来いと促しているらしい。そこでイェースズは、とにかくついて行ってみることにした。
しばらく歩いているうちに、少女とイェースズは小さな村落に着いた。
村の周りには城壁も柵も塀もなく、建物も質素なことには驚いた。多数点在しているのは庶民の家らしいが壁はなく、干し草を円錐状に積んでいるだけの小さな家ばかりだった。
地面からいきなり屋根のようになっている家の並ぶ中心には、木で造られた少しはましな建物もあった。しかしその木材は素地のままで、シムの国で見られたような彩色や装飾は一切ない。それでいて、かえってシムの国の建物よりもさっぱりとした清潔感が感じられる。
ひときわ目についたのは、集落のはずれにある足の長い建物だった。倉庫のように思われるが、柱が長く延びて建物全体を空中に持ち上げ,はしごが地面までついている。空中に持ち上げられた床は下を柱に支えられ、床の下は空間になっていた。このような建物を見るのは、イェースズにとってははじめてのことだった。
村を行き交う人々は、皆少女と同じ肌の色で、同じ服装だった。それらの人々とすれ違うたびに少女はイェースズを彼らに示し、何かを言っている。それも、イェースズは全くはじめて耳にする言語だった。
その少女の言葉を聞いた村人たちは一様にイェースズを見ては驚きの表情を見せ、たちまち道の脇にうずくまって、ちょうど少女がしたのと同じようにイェースズに向かって二拍手を打った。
イェースズが案内されたのは村の中央の、ひときわ大きくそれでいて簡素な建物だった。屋根は乾燥した草で葺かれ、庶民の家と違って壁はあった。シムの国ではこの規模の家なら必ず瓦葺きだったのを思うと、イェースズにはその屋根の方が新鮮だった。
先ほど見た倉庫と同じように床の下に柱があり、床は空中に持ち上げられている。そこまで、地面からは木の階段がついていた。人々は裸足だからそのまま上り下りしているようなのでイェースズもそのまま階段を昇ろうとしたら、少女は慌ててイェースズの足元を指さして何かを言っていた。
しばらくは分からないでいたが、ややあって履きものを脱げという意味らしいとイェースズは察し、サンダルを脱ぐとそれでよかったらしく少女は何も言わなくなった。
五段ばかりの短い階段を上がったところで、中から若い男が土でできた褐色の瓶を持って出てきた。中には水が入っていた。男は腰を低くかがめ、その土器の中の水とイェースズの足を交互に指さし、うやうやしくお辞儀をした。
足を洗えという意味だとすぐに分かったイェースズは、驚きを禁じ得なかった。それはまるで、故郷の風習と同じなのである。あのティァンアンのユダヤ人村でならいざ知らず、言葉も通じない絶海の孤島に故郷の習慣を見たのだ。
足を洗い終わって通された部屋は、床までもが木張りだった。そこに、一人の別の男がうずくまっていた。そしてイェースズを見ると膝を立て、やはりイェースズに向かって二拍手してまたひれ伏した。
イェースズは、ただ戸惑うしかなかった。そしてその男に上座へと勧められるまま、床に直接腰を下ろした。この座り方とて、イェースズの故郷そのものだった。
ギリシャもローマも、そしてイェースズがこれまで行ってきたアーンドラやシムの国でもすべて椅子とテーブルを使い、決してこのように床に直接座ることはなかった。
「お疲れさまでした」
男の開口のひと言に、イェースズは再び驚いた。たどたどしい口調ではあったが、それは紛れもなくヘブライ語だった。
しかし、黒い髪に黄色い肌で、どう見てもユダヤ人ではあり得ない。あごも一面に黒ひげで覆われ、村を歩いていた人々より少しはまともな環頭衣を着ていた。
「ナの国の方でしょうか? イトの国の方ですか?」
「は?」
イェースズは答えるすべもなく、男を見てきょとんとしていた。イェースズの答えがないので、
「私は、この村のピコでございます」
と、言いながら顔を上げた男は、不思議そうにイェースズを見た。
「ウシ様は、失礼ですがご身分は?」
「ピコ」というのも「ウシ」というのもヘブライ語ではなく、イェースズには何のことだか分からなかった。それに、いきなり分けも分からずこの建物の中に通されて上座に据えられ、そして「ご身分は?」はないだろうとイェースズが思っていると、イェースズがさらに答えないので男は慌てた様子を見せた。
「あ、お許しを。ただ、お顔の入れ墨がないもので……」
「顔の入れ墨?」
イェースズははじめて口を開いた。顔の入れ墨とは何のことだろうと、不思議に思ったからだ。故郷でもこれまで行ってきた国でも、そんな風習がある所はなかった。
ピコと名乗った男は、畏まって平伏している。
「あのう、ピコというお名前なのですか?」
ヘブライ語で、イェースズも尋ねてみた。
「いえ。この村でピコの役を賜っているものでございます」
ピコとはどうやら村長とかいう意味の役職名らしい。
「では、お名前は?」
それを聞いてピコは飛び上がらんばかりに驚き、少し後ずさりをした。イェースズはますますわけが分からなくなった。
「め、滅相もございません。いきなり、名前など……」
なぜ名前を聞いただけで、この男はこんなに狼狽するのか……イェースズは頭が混乱し始めた。その混乱を収拾させるためには、疑問点をひとつひとつ解決していくしかない。
その前に自分のことを告げておく必要がある。相手はどうやら、自分のことを何か勘違いしているらしい……そうは思ったが、名前でこの男はこんなに狼狽したのだからと、名前だけは名乗らないことにした。
「私は海の向こうの、シムの国から船でここへ渡ってきました」
「シムの国とは?」
「今は、シェンという国名でしたね」
「え? シェン?」
しばらくピコは、言葉を失っていたようだった。
「でも、シェンは少しいただけで、本当の故郷はずっと西のユダヤのガリラヤという国ですけど」
ピコの反応はなかった。ピコにとっては、はじめて耳にする地名らしい。
「今、私たちがこうして話している言葉こそが、そのユダやの言葉、イスラエルの民の言葉ではないですか」
「いいえ。これはナの国やイトの国の、ウシ様方の言葉ですが」
「ウシ様?」
「あなた様も、ウシ様ではございませんか」
「ナとかイトとかいう国は、どこにあるのです?」
「この島のひとつ西に、大きな二つの島がわずかな海峡を挟んでありまして、そのいちばん北の水門がナの国で、その少し沖合いの小島がイトの国でございます」
「そこに、ウシという人々がいるんですか?」
「ナの国もイトの国も、そこを治めているのはあなた様と同じ茶色の髪と青い瞳を持ち、赤い顔で鼻が高いウシ様たちです。ただ、そこのウシ様たちは皆、顔に入れ墨をしていますが。道でウシ様に会えば、我われ黒い髪で黄色い肌のグェコは、二拍手をもって礼をなさねばならないのです」
「それでか……」
この村の人々はイェースズをナやイトの国の支配層の「ウシ」だと思ったのだろう、だからあんなにパチパチと手を打たれたのだ。
「ナの国もイトの国も、その手前のプミの国も、みんな小さな国です。この島国は、そんな小さな国の集まりなんです」
「ここは?」
「はい、コシの国といいます」
「では、この島全体は、何という国なのですか? 私はシェンの国で東海海中にブンムラグ山という山がある島国があると聞いて、船出してきたんすけど。なんでもジェン・チャーグ・フアンという皇帝が不老不死の薬を求め、そのブンムラグを探させるためにギァグ・ピュアクという人物を遣わしたとか」
「さあ、申し訳ないが、そのような名前の山のことは聞いたことがない。シェンではこの島国のことを、ワールといっているとは聞きましたが」
そのような名は、今度はイェースズの方が聞いたことはなかった。
「特にナやイトの国のウシ様方は、大陸との交流も行っています。大陸にシェンの国ができてからは一時中断していますが、その前のハン王朝の頃には、ずいぶん盛んに交流していたようですよ」
ハン王朝の頃といえば、わずか四年前である。
「だけど私はシェンにいた時に、一度もワールなどという国の名前は耳にしませんでしたけど」
「ワールの使者は、ティァンアンの都までは行っていないでしょう。大海を渡ってすぐの所に、ハン朝の頃はグラックラン郡というハンの地方政府があったそうですから、使者が行ったのはそこまでではなかったですかね」
ピコの言葉を何気なく聞いているうちに、イェースズの心の中にはっとひらめくものがあった。
ナやイトのウシといわれる人々はヘブライ語を使う紅毛碧眼の人々というのだから明らかにイスラエルの民であろうが、船出するときテンチェンのディェン老人はギァグ・ピュアクのほかにもこの大海を渡っていったダドゥ・ジェン・ニェン、すなわちユダヤ人がいたと言っていた。その人々が今この島国で、支配階級になっているのではないかと思う。
そうなるとまぎれもなくユダヤ十支族、すなわちエフライムだ。十支族は歴史の中で消えたと思っていたら、シムではその子孫からジェン・チャーグ・フアンなどのような人物が出てジェンという大帝国を造ったかと思うと、こんな絶海の孤島で支配階級になっていたりする。
エフライムのパワーに、イェースズは呆然とした。同じユダヤ人でもユダ・ベンヤミンの二族は故地にありながらも、今やローマの圧政の下に息を潜めている。
思えばエフライムという部族名の由来ともなっているエフライムというその人自身の父親のヨセフは末子でありながらエジプトの宰相になり、長子のユダはその下に隷属したのであった。
「ところで」
ピコの顔が、急に険しくなった。
「あなた様がナやイトのウシ様ではないと分かったので申し上げますが、今あなた様は確かジェン・チャーグ・フアンとかギァグ・ピュアクとか言われましたね」
「はい、そのギァグ・ピュアクが……」
イェースズの言葉を、ピコは右手を上げて遮った。
「その、ギァグ・ピュアクとかいう人のことは存じませんが、そのようなことはこの島国では口にされない方がいいですよ」
「え? ジェン・チャーグ・フアンが多くの書物を焼いたことと、何か関係があるのですか?」
イェースズの頭は切れすぎるようで、ピコは慌てて部屋の内外の人影を確認し、さらに声を潜めた。
「ここではジェン・チャーグ・フアンのことや、ブンムラグとかのことは言わない方がいいですよ」
「え? なんでですか?」
イェースズの方はあっけらかんとして尋ねたが、ピコの顔はますます険しくなった。
「この国は、あなた様が考えておられる以上にとんでもない国なのです」
「つまりそれは、ここが全世界の人類と文明の発祥国だということですか? 世界の大元であるムーという国が大洋に沈んだ、その沈み残りの国ということですか? 実は、私はここがそんな国なのではないかと思って、それでわざわざ海を渡って来たのですけど」
ピコはほとんど顔面蒼白となり、おお慌てて人差し指を口に当てて、
「シーッ!」
と、言った。
「そんなことをウシ様に聞かれたら、殺される!」
この地でウシと呼ばれている連中はこの国の由緒を抹殺して、自分たちのこの国における支配を正当化しようとしているのだなと、イェースズにはすぐに察しがついた。ジェン・チャーグ・フアンが自分の築いた帝国よりも古くて由緒正しい国があっては困るということで、その関係の文書を焼却したという事実からも、そのことは十分に推察できる。
やはりジェン・チャーグ・フアンもこの国のウシも、同じエフライムなのだ。
「とにかく、そのことには触れない方がいいです」
ピコはそれだけ言うと、立ち上がって部屋から出て行こうとした。
「ちょっと待って!」
イェースズは、慌ててそれに追いすがった。
「この国のことを、もっと詳しく聞きたいのですが」
ピコは、力なく振り向いた。そしてだいぶ穏やかになった目で、イェースズを見おろした。
「海岸沿いに東に行くと、ポーダツという山があります。そのふもとに一人のウシ様が住んでおられまして、ほかのウシ様から隠れてそこに身を寄せておられるのですが、その人に聞いて下さい。私の口からは、もうこれ以上は言えない」
ピコは優しくそう言うと部屋を出て行き、イェースズが一人とり残される形となった。
まだ朝食を取っていなかったことを思い出したイェースズは、そのままその部屋で自分が持ってきた朝食を取った。そして、それが終わるとすぐに外に出た。日はすでに、中天近くにまで上がっている。
朝と同じように、道行く人々はイェースズを見るとさっと路傍にうずくまり、二拍手の礼を取ってきた。それには見向きもせず、イェースズは歩いた。そして、上陸した海岸まで戻った。岸の崖の上から見下ろすと、乗ってきた小船がまだ砂浜にあった。
再びその小船で海岸沿いに東行しようかとも思ったが、せっかく上陸したのだからとこの国に対する好奇心から、イェースズはその小船は乗り捨てることにした。
崖の上の松林の中を海岸を左に見ながら、東に向かって彼はとぼとぼと歩きだした。なにしろまともな道はほとんどなく、わずかばかりのけもの道だけが頼りで、左手に大海原が時折見え隠れしながらどこまでも追いかけてきた。
気候は温暖だった。大陸の乾いた空気に慣れていたイェースズは、はじめはじめじめと湿った空気に戸惑ったが、まる一日ほどで気にならなくなった。夜は野宿しなければならないが、世界を股にかけてきたイェースズにとって露営はお手のものだった。
野宿では猛獣よけに焚き火をするのが普通で、イェースズはここでもそうした。木も湿っており、なかなか火がつかずにイェースズは苦労した。
夜になると若干は涼しくなるが、気温が急激に下がるわけでもない。イェースズは林の中の草むらに身を横たえ、焚き火の炎を見つめながらようやくうとうとしはじめた。
海岸が近いので、波の音が繰り返し響いてくる。湿り気が多い木を燃やしているので、やたらパチパチという音もする。そしてあることに、イェースズは夜半近くになって気がついた。
大陸では野宿したときには当たり前に聞こえてきた野獣の咆哮が、ここでは一切聞こえないのである。この国には野獣はいないのだろうか……野獣がいないなら盗賊もいないだろう……寒くもないのだから、明日からは焚き火はやめよう……半分眠っている頭でイェースズはぼんやりと考えていた。
今朝、日の出とともに上陸した時、はじめて見たこの国の神々しさに、イェースズはここがまさしく神の国だと実感した。
ここが本当に自分の目指していた国なのかどうかは、まだ分からない。しかし、あの神々しさからしてここが神の国だとすると、ここは天国なのだろうか……そんなことを考えているうちにイェースズは眠りに落ちた。
朝日に包まれ、イェースズは目覚めた。今日もまた、東へと進まねばならない。透き通るような空気を肌に吸い込み、彼は大きく伸びをした。周りの木々では、うるさいほどに小鳥がさえずっている。柔らかい日ざしが朝靄の中に何本もの光の筋を描き、木の枝と枝の間から真っ直ぐに地面に伸びていた。
昨夜ここで寝ることに決めた時はもう暗くてよく見えなかったが、ここから東の方へは少しばかり平らな土地が広がり、それを靄が一面に覆っていた。
聖書の中で、神が七日をかけて天地を創造された時、すべてが終わったあと被造物をご覧になって「よし」とされたというみ意が、今のイェースズの胸の中にはひしひしとわきあがっていた。そこで、子供の頃からの習慣であった朝日に向かっての礼拝を、イェースズは行った。
海岸線は正確な東というよりも、北東の方角へと続いている。次第に靄が晴れてくると、東の方の平地をさほど遠くない所で、低い山並みが遮っているのが見えてきた。緑に覆われた山はずっと左右に延び、どこまでも続いているようだった。
イェースズは再び、海岸に沿って歩きだした。平地には、やたらと湖沼が多く見えた。水草がわがもの顔に背を伸ばし、その中で水面が光っていた。それでも時には、ちょっとは大きい沼もあった。
これでは、この国は湿気が多いはずだと、歩きながらイェースズは思った。地平線を見ることなど、この国では決して望めそうもなかった。わずかばかりの平らな空間を遮るようにすぐに山地となり、しかもその山というのも空にそびえているというほどのものでもないから、そういうことがこの国の自然のスケールを小さく感じさせているらしい。
その自然は美しく、緑もあくまで優しい緑だった。空の青さもさほどどぎつくなく、微に入り細に入りの繊細な、細やかな美しさだった。
平地は湖沼ばかりでなく、ほとんどが水田ともいえた。水田はこれまでも大陸でさんざん目にしてきたイェースズだが、ここで見る水田は大地の彼方まで続くというようなものではない。
そして水田のほかに、低地にかなりの規模の集落があるのに、時折イェースズは出くわした。それも今まで行ってきた国にあったようなけばけばしい建物や、ごみごみした町並み、あふれるような人の群れというのには、いつまでたってもお目にかかれそうもなかった。
庶民の家もこの国に来てはじめて見た村のそれと全く同じで、円錐形に積まれたわらの山ばかりで、それが何百と集まっているような集落だった。
質素な風景だった。整然と町が造られているというより、これでは人々は一生野営しているようなものだ。
これならシシュパルガルフのスードラの町の方が、まだましだった。彼らの家は、一応は石を積んだ壁を持っていた。今見ているこの国の人々の家は全く壁がなく、壁があるのは中央の倉庫や村長の家らしき建物だけだった。それでも村人たちは、奴隷というわけではなさそうだった。
野営して二日目の昼前に出くわした集落で、イェースズは好奇心から村はずれの一軒の家をのぞいてみた。地面をわずかばかり円形に掘り、その竪穴の上に円錐形に柱を組んでその上にわらをかぶせている。外から見るとわらを積んでいるだけのように見えたが、中に入るとかなり頑丈な柱が組まれていた。
床は自然の土まで、中の空気はやけにひんやりとしていた。そこには人が十人くらいいて、部屋の中央のかまどのようなものを囲んで座っていた。
そして突然入ってきたイェースズに驚き、皆が一斉に後ずさりした。そしてすぐにイェースズが自分たちとは違う紅毛碧眼であるのを見て、ひざまずいて手を二つ打ち、ウシに対する礼をとった。
「ポーダツ」
と、イェースズは、自分が行くべき土地の名を告げてみた。家人たちは最初はきょとんとしていたが、イェースズが何度も、
「ポーダツ、ポーダツ」
と言うので、何かを察したように主人格の男が立ち上がり、イェースズを外に連れだした。そのままさらに海岸沿いに北東に進んだ当たりを指差し、なんだか分からないこの国の言葉でしゃべっていた。とにかく指さす方へ行けば間違いないだろうとイェースズは思った。
だが、その方角を見ても普通の低い山並みがあるだけで、特別に高い山は見当たらなかった。
イェースズが頭を下げてその方角に向かって立ち去ろうとすると、家の人すべてが出てきて、イェースズに向かって深々と頭を下げていた。こんな粗末な家に住んでいる人々までがこんなに礼儀正しい国は、イェースズはこれまで行ったことがなかった。実に礼節が行き届いている国だと、イェースズは驚きとともにこの時に実感した。
そして野宿を重ねて四日目、それでもイェースズは海岸を歩いていた。もはや波は断崖の下ではなく、延々と続く白い砂浜の波打ち際に彼の足跡が続いていたのである。砂浜は風紋鮮やかで、砂に混じって小貝が転がったりもしていた。すべてが明るい陽ざしの中で輝いていた。
低い山並みは、ずっと海岸に近くなっていた。昼過ぎになってやっと集落が見えたので、ここでもイェースズは地名を連呼することによってポーダツについて尋ねてみた。
今度は、村人は海岸沿いの行く手を指差さなかった。村人が示したのはこれまでと違って、海と反対側にある山だったのである。
イェースズの顔は輝いた。まさか最初の上陸地点から、わずか四日でたどり着こうとは思ってもいなかった。
頭を下げてから砂浜に背を向け、すぐにはじまる緑の草むらをぬけて、イェースズは指さされた山の方へと水田の間の道を歩いていった。山はあの雪の住処の大山脈などと比べれば山とはいえないかもしれないが、それでも一応は山であった。
まだ冬の名残があって雪をかぶっており、その雪の間から裸の木々が繁り茶と白のまだらの山となっている。夏になれば雪が溶けてこの山も緑一色に塗りつぶされるであろうことは、十分に想像できた。
最初に行った村の村長であるピコの話では、この山のふもとに一人のウシがいるということで、その人を訪ねてイェースズは歩いているのである。
海岸から山のふもとまでは、すぐというわけではなかった。途中、水田の中にくちばしの赤い白い鳥がいてこちらを見ていたが、すぐに鳥は飛び立った。
そうして山のふもとまで来て、イェースズはようやく集落に出くわした。ここから山がはじまるという低地の隅に、集落はへばりつくようにかたまっていた。
村の中を歩くと、やはりここでも人々はイェースズを見て道をさっとあけ、路傍にうずくまって手を二つ打ち鳴らした。その中の一人、子供を抱いた若い母親がいたので、イェースズは思いっきり笑顔を作って、
「ウシ」
と、尋ねてみた。若干の間をおいて、女はすぐに近くの小高い丘を指差しながら、何か言った。イェースズはその言葉は分からなかったが笑顔のまま頭を下げ、その丘の方へと行った。
村のはずれに、その小高い丘は冬でも葉の落ちない緑の木々に覆われていた。丘の淵はそのまま雪の残るポーダツと思しき山の方へと続いている。その丘に向かって、林の中を石段が続いていた。三十段ほど昇ると、丘の上の平らなところに出た。そこに、さほど大きくはないが一つの建物があった。
木の壁を持ち、木に何の塗装もされていない太くて丸い柱が何本かあって、床はやはり地面からかなり高い所にあった。その床はそのまま回廊になって欄干がつき、その上に建物はあった。屋根は草葺きで側面をこちらに向け、左右の端の屋根のてっぺんは稜線が伸びて、その木材が十字に交差している。さらには屋根の上部に太くて短い丸い木材が五本、タテについていた。屋根の頂上のラインとは垂直だ。高い床から地面までは、木の階段がついていて、ちょうど六段であった。
イェースズは履き物を脱いで、その木の階段を上がり、
「ウシ」
と、呼びかけてみた。
しばらくしてから正面の入り口にかかっていた筵が、下からまくり上げられた。そして、明らかにユダヤ人と分かる老人が、こわごわと顔をのぞかせた。イェースズは思い切り笑顔を作って、
「シャローム」
と、言った。
「ひえーッ!」
意外なことに老人はイェースズを見るや白目をむき、すだれを上げていた手を放すと中へ戻っていってしまった。イェースズは何が何だか分からずにそこにとり残されたが、とりあえず自分ですだれを上げて中へ入ってみた。
狭い部屋の片隅で老人はうずくまり、手には短い槍を持って構えていた。槍は自然石を削って作ったもののようだった。
慌てたのはイェースズの方だった。
「わ、私は、怪しいものではない」
「えーい、これまでよ!」
老人は途切れがちなヘブライ語で叫び、槍を自分の喉へと向けた。
「何をするんです!?」
床を蹴って老人に飛びかかったイェースズは、老人としばらく揉み合ったああとやっとその槍を取り上げた。老人はへなへなとその場に座りこみ、やがてカッと目を見開いて、立ったままのイェースズを見上げてにらんだ。
「さあ、殺せ! もはや、逃げも隠れもせぬ!」
イェースズはゆっくりと老人のそばにしゃがみ、なだめるかのように語りかけた。
「私は、あなたを殺すつもりはありません」
「ええい。もう分かっておるわい。わしが守り通してきた本当の歴史は、お前さん方エフライムがこの国を統治するには不都合だからな。とうとう、わしを殺しに来たか。よくここが分かったもんだ。しかしわしを殺したとて、真実は滅びぬぞ!」
一気に老人が語り終わるのを待ち、イェースズは再び口を開いた。
「私はただ、この国の本当の姿を知りたいんです」
「何を! 知ってどうする。おまえさん方には、都合が悪いだけじゃろう」
「私はエフライムではありません。それに、この国を統治しているウシでもないのです」
「え?」
興奮の中でも老人の心は揺れたようで、横目でイェースズを見たが、それでもまだ方で息をしていた。イェースズは語り続けた。
「私は海の向こう、大陸のシムの国よりもさらにずっとずっと西の、ダビデの国、イスラエルの地より来たものです」
「何だって?」
老人の中で、興奮が驚きに変わったようだ。
「イスラエル?」
「はい」
「では、モーセの国かね?」
「モーセって、聖書を書いたあのモーセですか?」
「そうだ。そのモーセの国から来たというのかね?」
「そうですよ」
「たった一人でか?」
「ええ」
「いったい、どれくらいかかったのかね?」
「途中いろいろな国に長く滞在しましたので、国を出てから五年になります」
「ここにはいつ来たんだ?」
「四、五日前に、小船で大陸からこの島国に着いたばかりです」
大きくため息をついて、老人はグッと肩の力を落とした。そして、しばらく沈黙があった。
「で、君は何のため、ここまで来たんだ?」
先ほどとは裏腹に、落ち着いた低い声で老人はゆっくりと言った。かなり気が抜けている。
「実は真理を求めていろんな国で学びましたが、そのうちに東の方に人類発祥国があるということを耳にしたんです。その国があった大陸は大昔に大洋に沈みましたけど、その沈み残りである太陽の直系国がどこかにあるんじゃないかと思って船出してきたんです。教えて下さい。この島国がそうなんですか?」
「今はまだ明るい。その話は夜になってからしよう」
「なぜです?」
老人は、ぐっと声を落とした。
「今この国を治めているエフライムたちは、この国での自分たちの正統性を捏造しようとして、この国の由緒正しきことを何とか抹殺しようとしている。真実を知っているものは、ことごとく殺されてしまうのだよ」
ちょうどシムの国で同じエフライム出身のジェン・チャーグ・フアンが学者を穴埋めにし、書物を焼いたのと同じことである。
しかし、暗くなるまで待つには、イェースズの若い好奇心は抑えきれそうもなかった。それを察したがごとく、老人は立ち上がった。そして窓を内側から押して、開けた。下から外へ木の板を跳ね上げる窓だ。そこでイェースズを手招きして、老人は外を示した。密林の中に雪を残す山が、窓の外間近にそびえていた。
「あれはポーダツの山という」
「はい」
それこそ、イェースズが目指してきた山だ。ところが次の老人の言葉は、実に驚くべきものだった。
「あの山は、モーセが神様より十戒石を賜った山なのだ」
「ええっ?」
イェースズは、一瞬言葉を失った。自分の聞き違いではないかとも思ったのだ。
「モーセが十戒を授かったのは、シナイ山ではなかったのですか? あの山が、シナイ山なのですか?」
「いや、違う」
違って当たり前である。イェースズは今回の旅に出る時、出向の地であるエジプトに向かう途中で実物のシナイ山をその目で見ている。
「いったい、どういうことなのですか?」
途惑うイェースズに、
「あの山に登ろうか」
と、老人はイェースズに言った。




