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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
26/146

ティァンアンの都のユダヤ人街

 隊商一行はたいまつに火をともし、都の城壁のすぐ北側を流れる大きな川にかかる長い橋を渡った。

 木でできた橋だった。後方の市場からは明かりがこうこうと漏れており、それがちらちらと川面に浮かんでいたりする。そしてその向こうには巨大な城壁が、黒く重く夜の闇の中にたたずんでいた。

 橋を渡りきっても、道はまだ同じ幅でずっと前の方の黒い山まで続いていた。ところが隊商はそちらの方へは進まず、橋を渡りきるとすぐに右に折れた。

 背の低い常盤木の中に延びる細い道だった。しばらくその道を無言で進むうちに、暗闇の中ながらもぱっと視界が開け、いくつものかがりが見えた。集落があるらしい。その周りはやはり低い塀でぐるりと囲まれている。

 その塀の小さな門を、隊商はくぐった。集落のあちこちにある篝火で、町の様子はよく分かった。この国ならどこにでもあるような赤煉瓦の壁と瓦屋根の平屋が、そこには並んでいた。何人かが小ぜわしく歩きまわっていたが、そのうちの一人が隊商に目をやった。


「おお、シャローム!」


 そう言ってその男は、走り寄ってきた。同じくエレアゼルも、


「シャローム」


 と、あいさつをかわした。

 そのひと言に驚いて、イェースズは隊列の後ろの方から頭だけを延ばしてのぞいてみた。走り寄ってきた男は、間違いなくユダヤ人だった。


「やあ、今到着かね」


 その言葉を聞いて、イェースズは驚いた。なんと、ヘブライ語だったのである。


「今回はずいぶん長旅だったよ。キシュオタンの方を回ってきたからね」


「それはご苦労だった」


 どうやらエレアザルとは顔馴染みらしい。ヘブライ語だから、会話の内容はイェースズにもよく分かる。しかし、ユダヤ人なら誰でもヘブライ語は分かるとはいえ、ヘブライ語は祭典用語、すなわち古語であり、普段使っているわけではない。

 一般の日常語はアラム語であり、またエレアザルのような離散ディアスポラは日常的にギリシャ語を話す。だから、ヘブライ語を日常語にしている人々というのを、イェースズは始めて見たのだ。

 さらにイェースズにとって奇異に感じられたのは、この集落の人は皆ハラショという環頭衣を身につけていることだった。ハラショは確かにユダヤ民族独特のものだが、聖書トーラーの中のような古典時代ならいざ知らず、現代では特にヘレニズム化されたイェースズの故郷のカペナウムでもエルサレムでもほとんど見られない服装だった。

 やがて隊商は、再び歩きはじめた。そうして集落の奥へと入っていくにつれて、ここがまぎれもなくユダヤ人の町であることはイェースズにもはっきりと分かってきた。こんな東の果ての文明国にユダヤ人の町があり、そればかりか大時代なハラショとヘブライ語での会話など、イェースズにはそれをどう理解していいのかわけが分からなくなってきた。

 しかしその頭の混乱を収束させられずにいるうちに、隊商は一軒の家の前にたどり着き、エレアザルを先頭に皆でそのイェースズにと入っていった。

 誰もイェースズを意識していないので質問を発することもできず、イェースズはただついていくのがやっとだった。


 家の入り口ではまるで故郷でどの家でも客人を迎えるときはそうするように、家人によって足を洗うための水桶が出された。家の造りこそなんらユダヤのにおいを感じさせるものではなかったが、すでに用意されていた夕食は故郷のそれそのものだった。

 広い部屋で寝そべって食べる食べ方に、イェースズは涙さえ出そうになった。

 思えば長い旅だった。十三歳で故郷を離れてもう四年、その旅路の果てにようやく故郷に帰ってきたという感じだったし、少なくとも彼はそう思い込みたかった。

 それでもまだ戸惑いを隠せないでいるイェースズに、エレアザルはようやく少しだけ意識を向けた。隊商のメンバーは彼らなりにここにたどり着いたのがうれしいらしく、今までイェースズをあまりかまってくれなかったのだ。


「どうしたのかね。遠慮はいらんよ」


 食事の手も進まないイェースズに、エレアザルは言った。


「ここは私の家だ。この国でのな」


「あなたの家? あなたの家がなぜここに?」


「ここはイスラエルの民が暮らす町だからさ」


「イスラエルの民の村ですって?」


「なぜこんな遠い国に、イスラエルの村があるんですか?」


「この国にイスラエルの民が村を造って住みはじめたのは、もう何百年も昔からだ」


 イェースズがいたアーンドラにもソロモン王の時代からユダヤ人が多数交易のために訪れていたとは聞いていたし、確かにカーシーの町では今でも多くのユダヤ人と出会った。しかし、そこからさらに遥か東の国で、ユダヤ人の村があるとは知らなかった。


「ここにいる人たちは、どういう人なんですか?」


 イェースズは、エレアザルに聞いた。単なる離散ディアスポラとは思えなかったのだ。


「この村の人たちかね」


 エレアザルはぶどう酒に赤くなった自分の顔の、ひげをさすりながら言った。


「みんな、エフライムだよ」


「エフライム?」


 それきりエレアザルは隊商のほかのメンバーと談笑に入り、イェースズはそれ以上のことを聞く機会を失してしまった。エレアザルはもはや皆ぶどう酒に酔い、完全にできあがっていた。

 

 翌日は安息日だった。

 会堂シナゴーグへ行こうと、イェースズはエレアザルから誘われた。


「え? 会堂シナゴーグがあるんですか?」


「あるとも」


 この隊商と一緒になって以来、イェースズは安息日を欠かさず守ってきたが、これで安息日らしい安息日をイェースズは本当に久しぶりに体験することになる。

 村は静まりかえっており、それはイェースズの故郷の安息日の風景そのものだった。

 会堂シナゴーグとはいっても外観は故郷のものとは全く違ってあくまでもこの国の文化によって建てられた建物だったが、一歩中に入るとそこはまさしく故郷の会堂シナゴーグの空気だった。

 ヘブライ語による厳かな儀式が始まった。数年ぶりに会堂シナゴーグで過ごす安息日の礼拝に、イェースズは頭がくらくらする思いさえした。

 礼拝の儀式は、聖書トーラーの朗読へと進捗していった。その時、思いもかけず朗読者としてイェースズが指名された。おそらくはエレアザルの計らいであろう。とにかくも、イェースズは立ち上がった。

 イェースズの手に、巻物が渡された。そのまま朗読台に上がって巻物を開くと、「民数記」だった。静まりかえっている会堂シナゴーグの中、イェースズの若い声が響いた。

 読み進めるうちに、イェースズは驚きを隠せなかった。

 聖書トーラーを手にするのさえ数年ぶりであるが、今あらためて故国の聖典を手にし、まるで目新しい書物を読むかのごとく文字が新鮮に見えた。本文の内容がスーッと頭に入ってくる。そしてこの部分はこうだったのかと、内容についてもどんどん納得できてしまうのだ。

 昔から聖典の理解については人より勝っていたイェースズだったが、しかし今はそれ以上に理解できてしまう。昔は理解していたといっても頭で分かっていただけであり、それでも大人たちを驚かせるには十分だった。

 だが、今はそれにも増して一字一句が魂に響いてくるのである。

 どうも年齢のせいばかりでもなく、故郷をあとにしてからここへ来るまでの霊的因縁がそうさせているのだと、イェースズは自信にもにた感覚を抱いた。


 朗読個所は、まだユダヤ十二支族の祖の十二兄弟がアブラハムとともにいた時代のことである。

 朗読を終え、目を上げて会堂シナゴーグを埋め尽くしている人々の顔を見渡したとき、イェースズは心の中にはじけるものを感じた。

 

 礼拝が終わっても、安息日だからもう外出はできない。安息日には歩く歩数も決められており、あとは夕方になって安息日が終わるまでエレアザルの家にいるしかなかった。

 その昼下がり、イェースズは気になっていたことを思い切ってエレアザルにぶつけてみることにした。昨夜エルアザルが口にした「エフライム」という言葉についてである。

 部屋の中はイェースズとエルアザルの二人だけで、円形の赤い枠の窓からは春の生暖かい風が吹き込んでくる。


「ここの人がエフライムって、どういうことですか?」


「君もイスラエルの民なら、エフライムという言葉くらいは知っているね」


「はい。昔のイスラエル十二支族のうちのひとつでしょう?」


「確かに聖書トーラーにはそう書いてある。しかし今イスラエルの地にいる部族は?」


「ユダ族とベンヤミン族だけですね」


「君は?」


「ユダ族です」


「今、イスラエルの地にいる部族は二部族だけだ。では、ほかの十支族はどこへ行ってしまったのだろう」


「それは昔、アッシリアに……」


 それが常識的な答えではあったが、イェースズは口をつぐんだ。先ほど会堂シナゴーグで気がついたことを思い出したのだ。

 ユダヤ人の太祖アブラハムの孫のイスラエルの十二人の子供を祖とするイスラエル十二支族だが、ダビデ王、ソロモン王の時代を経て、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、エフライム族、マナセ族、ルベン族、シメオン族、イッサカル族、ゼブルン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アセル族の十支族は北のイスラエル王国に、ユダ族とベンヤミン族の二支族は南のユダ王国に属した。

 その後北のイスラエルはアッシリアに、南のユダはバビロンにそれぞれ滅ぼされて人々は捕囚となるが、やがて解放されて故国に帰ったのは南ユダ王国のユダ族とベンヤミン族のみであった。

 つまり北イスラエルを構成していた残りの十支族は奇怪な消え方をしているのである。


「いいかね。エフライムとは昔は単なる一部族の名だったが、今は違う。今ではユダ族やベンヤミン族ではない十支族の総称となっているんだ」


「ええ?」


 イェースズは思わず身を乗りだした。エルアザルは、目を閉じて暗唱を始めた。預言書である「エゼキエルの書」だった。

 

「神示はこう降った。『人びとよ。木片の上に“ユダとイスラエル”と書け。さらにもう一つの木片をとって“ヨセフ、エフライムの木およびイスラエルのすべての民”と書け。その二つを、あなたの手の中で十字に組み、両方をひとつの木として合わせよ。すると、神の子らは“これはどういう意味か、説明してくれ”と言うだろう。そのときはこう答えよ。“主は仰せられる。私はエフライムの木とユダの木を、時が来れば十字に組む。その時両者は融合し、一本の木となって新たな文明が始まるのだ』」

 

 暗唱を終え、エルアザルは目を上げた。イェースズは、深く息をついた。


「つまり、行方不明の十支族が、この国でこうしてひっそりと暮らしているのですね」


「ひっそりとではない」


 急にエルアザルの口調が激しくなったので、イェースズは思わず身を固くした。


「今のシェンの前の王朝のハンの、さらにその前のジェンという国の王朝はイスラエルの民だったし、その皇帝のジェン・チャーグ・フアンもイスラエルの民だった」


「え? この国が、昔はイスラエルの民の国?」


 すぐにはとても信じられる話ではなかった。地理的にも故国とは遠すぎるし、住んでいる人の顔も違うし、文化も違いすぎる。


「今から、二百年以上も前のことだよ」


 エレアザルはふところからイェースズの感覚では貴重品に属する紙というものを取り出し。それに惜しげもなくこの国の筆記用具である毛筆で一つの文字を書いてイェースズに見せた。このシムの国の文字のようだ。


「これは、『ジェン』という文字だよ」


 イェースズはしげしげと、その複雑怪奇な象形文字を見つめた。


「この国の名は、今でもこの国で使われている」


「え? どういうことですか? 二百年以上も前の国の名前ではないのですか?」


「確かにそうだが、今ではこの文字はこの国の人がローマを呼ぶ時に使われている。この国の人々は、ローマ帝国のことをこの字を用いて『ダドゥ・ジェン・クク』と呼んでいる。『ダドゥ』は『大きい』、『クク』は『国』という意味だ」


「ローマのことを、二百年前のこの国と同じ名前で呼んでいるんですね」


「ところが、実はそれはローマではないんだ。我われがイスラエルの民でありながらこの国ではローマの隊商と思われているように、ダドゥ・ジェン・ククはローマ帝国のことだとされている。だが、本当はジェンの皇帝ジェン・チャーグ・フアンの故地ということで、実は我われのイスラエルの土地のことなんだよ。『チャーグ』というのは『始め』、『フアン』は『皇帝アウグストゥス』という意味だ」


 イェースズの呆気にとられている表情を見て、エレアザルは大声で笑った。


「明日、ジェン・チャーグ・フアンの墓へ行こう。そこには墓守がいる。その墓守なら、君が行きたがっている東の、太陽の国のことももっと詳しく知っているかもしれん」


「え? 本当ですか?」


 うれしさを隠し切れぬように、イェースズの顔が輝いた。それを見て満足そうに、エレアザルは微笑んで何度もうなずいていた。

 

 翌日、空は晴れていた。

 透き通るような青い空は、どこまでも高かった。季節は間もなく夏を迎えようとしている。


「ジェン・チャーグ・フアンの墓は、遠いのですか?」


 ユダヤ人の村の門を出た所で、ラクダの上からイェースズはエレアザルに訪ねてみた。この日は、イェースズとエレアザルの二頭のラクダだけでの外出だ。


「そうだな、半日ぐらいで着くだろう。いや、急げば昼前には着くかもしれない」


 そう言って、エレアザルはにっこり笑った。


 ユダや人の村では郷愁にひたりきった生活ができるが、村の外に一歩出ると紛れもなくそこは異国であった。そんな異国の木々の間の小道を大きな川のほとりまで出ると、すぐに長い木の橋が見えた。

 一昨日おとといこの橋を渡った時はすでに暗くなってからだったのでよく分からなかったが、今こうして明るい時に見てみるとかなりの長い橋だった。道の広さもかなりある。橋の向こうにはそんな広い道をも埋め尽くしてしまうほどの人の群れが見え、その人ごみの背後にはティァンアンの都の大城壁と巨大な楼門がそびえている。

 橋の上から右の方の川の上流を眺めると、青い丘陵がほど近い所に横たわっているのが見える。反対側は、空まで視界を遮る山はない。

 まだ早朝だというのに北門外のいちの雑踏はすさまじく、あちこち売り手と買い手の声が響く。そんな人ごみを、二人を乗せたラクダは五階建ての楼閣に見下ろされながらかき分けて進み、やがて都の城門にたどり着いた。ここから中は幾分静けさはあるが、静まり返っているというわけではない。

 二人は都の中央の大路を南下し、ある個所で左に折れた。やはり、かなりの幅がある大路だった。行く手はまだ遠く、正面の楼門は遥か彼方に見える。それでも時間をかけて、二人はその楼門にたどり着いた。すべてが青一色に塗られた門で、これもまたいい趣味とは思えなかった。


 その門から再び都の外へ出ると、そこには市の雑踏などなく、一面に畑が広がる農村の風景がそこにはあった。時折乾いた風が沙ほこりを舞い上がらせ、その中を太い街道は東へと続いていた。

 視界に写る範囲すべてが畑で、瓜畑のようだった。そんな瓜畑の中を二人のラクダは進み、確かに日が中天にさしかかった頃に、


「さあ、もうすぐだ。もう見えてきた」


 と、エレアザルは言った。彼が指さしているのは、前方の平地の中にぽつんと盛り上がった丘だった。小山ほどもある丘で、ちょうど丸い盆を伏せたようだ。


「あの丘の上にあるんですか?」


「いや、あの丘全体がジェン・チャーグ・フアンの墓だよ」


「え?」


 イェースズは、すぐには状況がのみ込めずにいた。


「あの丘全体が墓……って?」


「あの丘はジェン・チャーグ・フアンの墓碑として、土を盛られて造られたのだよ」


「では、人造の丘なんですか?」


 こんな巨大な墓を、イェースズは今までに見たことがなかった。自然の丘だとしてもかなり大きな山が人工の山で、しかもそれが墓の墓碑だという。イェースズが思い描いていたジェン・チャーグ・フアンの墓のイメージは、はかなくも消え去った。

 街道を外れて丘へと続く細い道の左右は畑だが、今は何も作物が作られていないようだった。やがて丘のふもとにたどり着くと、そこには石造りで瓦屋根が乗った小屋があった。


「シャローム」


 小屋をのぞきながら、エレアザルが声をかけた。すぐに中からも、


「シャローム」


 と、返事が帰ってきた。そしてエレアザルが促すので、イェースズもエレアザルとともに中に入った。人が五人も入ればいっぱいになるような小屋には、頭が禿げて白いひげを生やした老人が一人いた。

 イェースズと目が合うと、老人はにっこりと笑った。慌ててイェースズも笑みを作った。老人は服こそこの国の服を着ているが、顔は明らかにユダヤ人の顔だった。ベッドのような物の上に横たわり、上体だけ起こして布団をかぶっていた。


「よう来たのう」


 老人は、やはりヘブライ語でエレアザルに声をかけた。


「いつ戻ってきたんだ?」


「もう、二日ほど前ですかね。今日は珍しい人をつれてきましたよ」


「その若い方かね」


 老人はイェースズをみた。イェースズも照れ笑いをしながら少し会釈をした。


「なんでも、ここよりもずっと東の国に行きたいと言っている。ダドゥ・ジェン・ククのガリラヤの、大工の息子だそうだ」


「ガリラヤとはカナンにあるのかね?」


 確かにイェースズの故国のある土地は、大昔にはそう呼ばれていた。


「はい」


「そうかい。それで東の国ねえ」


 老人には、何かひらめくものがあったようだ。


「まあ、そこにお座りなさい」


 老人はイェースズたちに、室内にあった腰掛け石を示した。イェースズのそばに座ったエレアザルは、イェースズを見ながら手で老人を示した。


「この方はな、ジェン・チャーグ・フアンのことなら、生き字引だ」


 エレアザルのギリシャ語での説明にかぶせるように、老人はヘブライ語で、


「お若いの」


 と、イェースズに話しかけてきた。


「は、はい」


 イェースズも、久しぶりに使うヘブライ語で答えた。故国ではこのようにヘブライ語を日常会話に使うことはないので、いささかぎこちない返事だった。


「あなたは東の国へ、何をしに行かれるのかな?」


「はい、あの」


 すべてを一気に説明するには、初対面の人にはためらいがあった。そこでしばらく躊躇した後、イェースズは目を上げた。


「この国の東の海を渡れば素晴らしい国があると聞きましたので、そこで真理の勉強をしたいと思ったのです」


「真理の勉強? 何のために?」


「人々を救うためです」


 老人は鋭い眼光をイェースズに向けたあと、何かを考えるごとくうつむいた。しばらくの間、時間がゆっくりと流れた。


「あの」


 そんな空気にたまりかねて、イェースズの方から口を開いた。


「私は聞きました。東の海の向こうにムーという国があって、そこは太陽の直系国で、そこへ行けば真理が学べると」


「どこで、そんなことを?」


「キシュオタンという町でです。そこで聞きました」


 老人はイェースズから視線をそらして、吐き捨てるように言った。


「この国の東の海の向こうに、国などはない」


 イェースズは全身が硬直した。それは恐れていたひと言でもあった。ムーの大陸は一万二千年も前に大洋に沈んだというからないのは当たり前だが、それでも少しは沈み残りがあるのではないかという期待とともにイェースズはここまで来たのだ。


「では、この国の東には、海しかないのですね。そこでもう、世界は終わりなのですね」


 あまりにもイェースズが興奮しはじめたので、エレアザルの方が慌ててイェースズの肩に手を置いて落ち着かせようとした。老人の方は落ち着いていたが、それでも何かをためらっているようにも見えた。やがて老人は、イェースズを見た。


「東の海の向こうには、国があるほどの大きな大陸はない。国はないが、しかし」


「え? しかし?」


「国はないが島ならある」


「え?」


 暗くなっていたイェースズの顔が、パッと輝いた。


「どんな島ですか?」


「ブンラグという山がある島で、そこには不老不死の仙薬があるという伝説じゃ」


「ブンラグ……ですか。そこへ行った人は、いるんですか?」


「昔はいた。ジェン・チャーグ・フアンはその不老不死の薬を手に入れるため、ギァグ・ピュァクという家来をそこへ派遣した」


「で、その人は、不老不死のクスリを持ち帰ったんですか?」


「いや」


 老人は、静に首を横に振った。


「ギァグ・ピュァクは大船団で東へ向かって船出したきり、二度とは帰ってこなかったそうだ」


「そのブンムラグについての記録は、この国には残っていないのですか?」


「残ってはいない。ジェン・チャーグ・フアンは、この国の古い文献のありったけをすべて焼いてしまったのだから」


 イェースズはただ、呆然としていた。

 

 ティァンアンへの帰り道、寒風吹きすさぶ瓜畑の中を歩きながらも、イェースズは興奮に口もきけずにいた。時おりエレアザルがラクダの上から話しかけてくるが、イェースズはいつも気のない返事をするだけだった。そのうち柳並木の道を歩きながら、イェースズは思い切って尋ねた。


「ジェン・チャーグ・フアンはなぜ、この国の古い文献を焼いてしまったのですか?」


「さあ、ねえ」


 エレアザルは、前方を見ていた。


「実は文献を焼いただけ出なくて、ジェン・チャーグ・フアンは学者をもずいぶん穴埋めにして殺したそうだ」


「学者を穴埋めに?」


「この国の学者で、この国の歴史だけでなくすべての国々の歴史に詳しい人々は、ほとんどジェン・チャーグ・フアンによって殺されたということだ」


「なぜ、なんですか?」


「そのへんのところは、よく分からない。しかしこの話は、あまり大きな声でしないようにな」


「おかしい、絶対」


 イェースズは、叫んだ。


「学者を殺して文献をも焼いたような人が、自分自身の不老不死を求めて家来を東の海に遣わすなんて」


「自分の意見と違う文献や学者は、都合が悪かったのではないか、ジェン・チャーグ・フアンにとっては」


「いや、違う」


 イェースズはラクダの上から、進むべき道の方を見て言った。


「もっとほかに、何かあるような気がするのです。殺された人々は、真実を知りすぎてしまったとか」


「さあねえ。なにしろもう、二百年も前のことだからな」


 やがてティァンアンの東の城壁と、その中央の青い門が道の向こうに見えてきた。

 

 さっそく次の日、イェースズはユダヤ人の村の会堂シナゴーグ教師ラビに尋ねてみた。会堂シナゴーグの入り口でいきなりブンラグやギァグ・ピュァクのことを切り出したイェースズを教師ラビはじろりと見下し、


「そんなことを知って、いったいどうする」


 と、言っただけで中へ入ってしまった。


 そこで村のユダヤ人の何人かに尋ねてみたが、誰もが口を閉ざすばかりだった。中には大げさなジェスチャーとともに、知らないと言って通り過ぎていくものもいた。明らかに、何かを隠しているようだった。

 イェースズが同じユダヤ人でもこの村のものではなく、遠い西の、彼らのいう「カナンの地」から来たということは誰もが知っている。だから、何か知られたらまずいことでもあるのだろうかと、イェースズはいぶかった。そうなると、彼の心の中ではブンムラグやギアグ・ピュァク、ジェン・チャーグ・フアンなどについての疑惑がますます広がっていく。

 さらに次の日からイェースズは毎日(いち)に出てはユダヤ人の商人をつかまえ、ブンムラグやギァグ・ピュァクのことを聞いてみた。しかし、なかなか知っている人は見つからない。

 はじめ、ギァグ・ピュァクという名を出し、東の方へ船出したという人のことを述べただけの時は何とか心当たりを思い出そうとしてくれる人もいたが、二百年以上も前のことだと告げた途端にたいていの人は笑いながらきびすを返した。

 それでもいちでユダヤ商人を捕まえるのが彼の日課となったし、時には何か分かるかもしれないと都城の城中にまで出かけたが徒労に終わった。


 日増しに暑さは増してくる。そんな頃になってやっと、イェースズはわずかながらに情報を持っているものと出会った。三十代くらいの赤毛の男が、同じ市で店を広げているシム人の老人を紹介してくれたのだ。

 ラバンというその赤毛のユダヤ人を通訳にして老人からイェースズが聞きだしたところによると、ギァグ・ピュァクは東海海中にブンムラグ山という黄金や宝で埋まった島があり、そこへ行くと不老不死の薬が手に入るということを自らジェン・チャーグ・フアンに奏上し、そこへ行くことを許可されたのだという。

 つまり、不老不死の薬を持ち帰ることを委託されたわけだ。そうなると、ジェン・チャーグ・フアンの命令によってギァグ・ピュァクが派遣されたのだという墓守の言葉は、大筋はその通りだとしても細部に微妙な違いがあったことになる。

 ギァグ・ピュァクはかつてイェースズがいたアーンドラにて学んだこともあるという人で、そのギァグ・ピュァクがジェン・チャーグ・フアンに建白した内容は、「東海海中にブンラグ、ピャンディアン、ギェンティオンという三つの島があり、ここが世界の大元おおもとの国で、世界の人類も文明もすべてここで発祥した。今でもそこには世界の帝王だった家の子孫がおり、不老不死の仙薬を持っている」と、いうものであった。

 この話を聞いて、イェースズの中には弾けるものがあった。それならあの、キシュオタンで見た粘土板にあったムー大陸以外の何ものでもない。粘土板にも、ムーの国は全世界の人類発祥国だと書かれていた。

 イェースズがうれしくなってさらに聞きだすと、ギァグ・ピュァクは八十三隻の大船団で、巨額の財宝やさまざまな技術者、多くの子供までをも乗せて船出したのだという。

 いったいこの大げさな出発は何を意味するのだろうかとイェースズが考えているうちに、老人の話は終わったようだった。イェースズは何度も礼を言い、その場をあとにした。

 一時的には喜んだイェースズだったが、ギァグ・ピュァクはジェン・チャーグ・フアンの命で派遣されたのか、自分の意志での船出を願い出て許可された形だったのか……そして大げさな大船団での船出は何を意味するのか……イェースズの疑問は誰に問うこともできず、ただ悶々として日々を送っていた。

 ブンラグという島が本当に実在するのかどうか、たとえギャク・ピュアクの時代にはその島は実在したとしても今もあるのか、いずれも確証はない。

 だが、人類発祥の国ということは、キシュオタンの粘土板の記載にあったムーの国とも一致する。

 ムーは巨大な大陸ですでに大洋に沈んだというが、ブンラグはピャンディアン、ギェンティオンとともに三つの島だというのならそのムーの沈み残りだということは十分に考えられる。そしてそこには、かつて世界帝王だった家の子孫がいるとまでいう。もっともそれらは、すべて二百年前の話だ。

 とにかく、自分も東の海に船出してみるしかないのではないかとイェースズは思い始めた。確かにここは故郷のようで、居心地もいい。しかしここでいつまで暮らしていても、イェースズの目的は達せられない。なにしろギャク・ピュァク以外にその土地に行ったことのあるものは後にも先にもいないようだし、ギャク・ピュァクとその大船団は出航したきり消えてしまい、戻ってはいないというのだ。とにかく、自分の目で確かめるしかない。


 だが、イェースズはなかなかそのことをエレアザルに告げることができず、いたずらに日々は過ぎ、やがて夏が終わって秋になり、そして冬を迎えた

 そしてある日、やたら外が騒がしい日があった。どうも祭か何かしているらしい。しかも、村の周り等だけでなく、遠く都城の方からも楽器の音やら喧騒が聞こえる。


「いったい何があったのですか?」


 イェースズがエレアザルに尋ねると、エレアザルは笑っていた。


「この国の正月だよ。この国では、こんな真冬が正月なんだ。でもね、この正月を境にだんだんと春になっていく。だから正月とは、春の祭なんだ」


「そうですか」


「もう、正月か」


 エレアザルは、つぶやくように言った。ユダヤ暦での正月はまだまだ先だし、ローマ暦ではすでに正月から一カ月以上たっている。イェースズはもう十八歳で、もはや少年ではなく一端いっぱしの若者だ。

 イェースズは隊商のメンバー数人と、正月の風景を見に都城の方へ行ってみた。そしてイェースズの故国でもこれまで行ってきた国でも正月は暦上の単なる区切りでしかなかったのに対し、この国では何よりも盛大に正月を祝うのだということを知った。

 その夜、いつまでも収まらない戸外の喧騒をよそに、エレアザルはイェースズに、


「ところで君は、今後どうするんだ」


 と、言った。唐突な問いにイェースズは途惑っていたが、エレアザルも神妙な顔つきだった。


「実はこの国での正月が過ぎれば、我われは絹を積んで再びローマに向かって旅立つのだよ」


「え、帰るんですか?」


「ああ」


 イェースズは視線を落とし、しばらく考えたあと思い切って顔をあげた。


「私は東へ行きます」


「やっぱり、そうするんじゃないかと思っていたよ」


「ええ。ここでこうしていても仕方ないですから」


「では、ここでお別れだな。我われは四日後に出発する」


 ちょうどイェースズは東の海に向かって船出をしてみるべきだと考えていた矢先だったので、これでイェースズの方が先に旅立つことになった。

 しかもその考えに目鼻がついたのは、かつて市で老人からギャク・ピュァクの話を聞いたとき、通訳してくれたユダヤ商人ラバンがちょうど東に向かって行く用事があると二日ほど前に聞いていたことだった。そこでイェースズは、とりあえずはラバンに同行して東に行くことにした。

 ラバンは自分の隊商からは離れて、単身東に絹の買い付けに行くのだという。エレアザルの計らいで、イェースズがここまで乗ってきたラクダはそのまま乗って行ってもいいということになった。


 出発の朝、隊商のメンバー全員およびラバンの隊商仲間も、イェースズとラバンを見送ってくれた。見送りは都城を抜けて、都城の東側の青い門から城外へ出てしばらく行った所にある大きな橋のたもとまでだった。


「東へ行く旅人を見送るのかはここまでというのが、この国の風習なのだよ」


 柳並木が橋の手前に並んでいる路上で、エレアザルは言った。そこでイェースズ以外は全員ラクダから降り、エレアザルは近くの柳の木の風に揺らぐ枝を何本か折ってそれを組み合わせ、小さな輪を作ってイェースズに手渡した。


「これもこの国の風習だ。主の平安があなたとともにあるように」


「また、皆さんも霊性とともに」


 イェースズはそう答えてから、しばらくの沈黙のあとで、


「さようなら」


 と、言った。


「さらば」


 と、メンバーも口々に答えると、イェースズの乗るラクダの鼻を橋に続く道の方へ向けた。イェースズのラクダは東に向かって、橋を渡りはじめた。

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