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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
25/146

ユダヤ人の隊商と絹の道

「おお」


 こんな町で故国ユダヤの青年が、しかもブッダ・サンガーの僧衣のままで暮らしていたので、隊商の方も驚いたらしい。


「シャローム」


 と、ラクダの上の四、五人の人々も一斉に言葉を返してきた。


「君は、この国に住んでいるのかね?」


 挨拶の「シャローム」のあとの言葉はギリシャ語だったが、それでもイェースズにとっては何とも言えない懐かしい響きであった。

 彼らの服装はユダヤ人とはいっても完全にローマ人と変わらず、どうも離散ディアスポラユダヤ人であるようだ。


「私はガリラヤのカペナウムの大工ヨセフの息子で、イェースズといいます。ここから南の白い山脈の向こうのアーンドラで修行していましたけれど、今回どうしてもあることを知りたくてこの町に来たのです」


 と、イェースズもギリシャ語で答えた。


「ほう。今いくつになられる?」


「十七です。故郷を出たのは十三の時でした」


「では四年も、ここにいるのだね」


「はい。皆さんはどちらへ?」


「東へ行くんだよ」


「え?」


 イェースズが思わず大声を上げたので、ラクダの上の人々もびっくりしたようだ。彼らの周囲にはこの町の人々によって、すでに黒山の人だかりができていた。


「そう。東だよ。東のシムの国まで行くんだ」


「ここよりも東に、そんな国があるんですか?」


「ああ。東の多くの山を越えると、その大帝国に行きつくんだ」


「大帝国? そんなに大きな国なのですか?」


「そうだよ。そしてそこにも、イスラエルの民の町がある。我々はいくつもの峠を越えて、その地の絹をローマに運ぶ商人だ」


 イェースズはすぐにでも同行を求めたかった。

 しかし、いきなりそのようなことを切り出してはあまりにも不躾だと思ったので、とりあえずはやる胸を押さえて、


「あの、本日のお泊まりは?」


 と、だけ尋ねた。


「この町を出た頃には日も暮れるだろうから、この町のどこかでテントを張ろうと思っていたところだよ」


「よかったら、私が今いる所に泊まりませんか? 一人の尊師がそこにはいます。お願いしてみましょう」


 隊商たちはしばらく互いに相談していたが、その間、彼らのギリシャ語の一つ一つの懐かしい響きをイェースズは楽しんでいた。


「そうしましょう。有り難う」


 隊商の人たちの決定に、イェースズの顔にもパッと光りがさした。

 隊商は二十代から三十代の男たち五人で、決して若くはない。そんな一行をイェースズは案内し、メングステの屋敷へと連れて行った。メングステは彼らを泊めることについて、和やかに許諾してくれた。

 驚いたのは隊商の一行が、イェースズがまだ堪能ではないこの町の言葉でメングステに挨拶したことだった。

 その夜、夕食の後で、彼らの寝る部屋にイェースズは出向いた。イェースズが最初に尋ねたのは、隊商たちのしゃべったこの町の言葉についてだった。


「何を言っているのかね、君」


 これが、隊商の中でもリーダー格と思われる男の答だった。大笑いしながら、エレアザルと名乗ったその男は言った。


「この広い世界の東の果てのシムから西の果てのローマまで、我われは何回往復したか分からないのだよ。その途中には、十何種類もの言葉があるんだ。そんなことで壁を感じていては、商人は務まらんよ」


「東の果てから西の果てまで?」


「そうだ。シムでは高級な絹が取れる。それを運ぶんだ。ローマ皇帝の服は、全部我われが運んだ絹でできているのだよ」


 絹というのはイスラエルでもローマでも超高級品で、とても庶民の手に入るものではない。もちろんそういう高級品の存在はイェースズも知ってはいたが、それが東の国で産出され、このようなユダヤ人の隊商によってローマまで運ばれていたとか初めて知った。


「そんな東の果てまで、本当に何度も行かれたのですか?」


「ああ。我われイスラエルの民は、世界中どこへ行ってもおひと方のアドナイに護られており、一つの律法タルムードが結んでくれる。この東と西を結ぶ交易は、すべてイスラエルの民の手によってなされている。名目上はローマの商人と異国では名乗っているが、イスラエルの民ではない本物のローマ人やギリシャ人などは隊商の中には一人もいないよ」


 それで彼らは、言葉の壁も何ら苦もせずこなしているのだろう。事実、ユダヤ人でもこのような離散ディアスポラの商人は、数十ヶ国語が話せて普通なのだ。イェースズがヘブライ語、アラム語、ギリシャ語、サンスクリット語、パーリー語が堪能で、この町の言葉も読解だけならできるとしても、イスラエルの同胞の中ではそれは当たり前のことで、イェースズが時に語学の天才でもなんでもなかったことになる。


「バベルの塔を造ろうとした先祖を、いつまでも恨んでいてもはじまらんからなあ」


 またひときわ大きな声で、エレアザルは笑った。イェースズはそんな笑い声の中でも心を静め、東方へ同行させてもらいたい旨を切りだした。


「え? 君がかね? 我われといっしょに?」


「はい。つれていってほしいんです」


「なぜ、また」


 イェースズは東の果てに海に沈んだという伝説の国があること、その国の沈み残りがあるならぜひ訪ねてみたいと思っていることなどを隊商のメンバーに語った。


「さあ、そんな国は聞いたこともないなあ。シムの東は果てしない海で、そこで世界は終わりだよ。ちょうどローマの西も大海で、それで世界が終わりなのと同じだ」


「たとえシムの東は大地の淵でも、この足で行ってみたいんです」


「よし」


 エレアザルは、自分の膝を打った。


「その気概あってこそ、イスラエルの民だ」


「え? いっしょに行ってもいいんですか?」


 イェースズは未を乗りだした。その瞳は輝いていた。エレアザルは、ゆっくりうなずいた。


「ああ。しっかり勉強せい。自分の目で世界の果てを確かめ、勉強するのがいちばんだ。どんなに金銀を蓄えたところで、ある日異民族が来て追放されれば、金銀は奪われてしまう。しかし、どんな敵に襲われようとも、追放されようとも、失われることがないものはしっかりと勉強をして得た知識だ。バビロン捕囚以来、我われの祖先が歩んできた道から得られた教訓だからな」


「はい、有り難うございます」


 イェースズは床に額をこすりつけんばかりだった。


 翌朝、メングステに挨拶をしたイェースズは、一行とともに出発した。いよいよ東に向かって旅立つ。

 明るい陽ざしの中、太陽の町キシュオタンの光景を、イェースズは一度だけ振り返ってその目に納めた。山々に囲まれ、満々と水をたたえているオタン湖……その岸辺の一角のキシュオタンの町……。川沿いに進むにつれてそんな風景も、山の影に隠れるようにして見えなくなっていく。

 荷物だけのラクダの数頭のうち一頭の荷をほかのラクダに分け、その一頭がイェースズに与えられた。

 そして目の前には、多くの山が果てしなく広がっているだけだった。

 

 不思議な道だった。山と山の間の谷間をくねりながら延々と続いている道だが、夕暮れ近くになると必ず集落にたどり着く。はじめからそういうコースで造られた道のようで、その集落は隊商宿が中心になってる。そんな隊商宿である夜、隊商のリーダー・エレアザルは言った。


「我われの祖先はバビロンによって、そしてアレキサンダーによって祖国を追われ、東へ行けば圧迫のない天国たどり着くと信じて、この道を切り開いたのだ」


 しかし昼間の道ときたら天国どころか見渡す限り山また山の地で、空にも雲ひとつない。鳥も飛んでいないし、小動物も全くいない。ただ、空だけは抜けるような青さだった。

 行けども行けども山に挟まれた道は続く。山はすべて不毛の岩山だ。やはりこの道も最初はずっと川沿いだった。東へ向かうはずなのに、太陽の位置からしてどうも北へと進んでいるようだ。

 夜までに本当に次の集落があるのかどうかさえ不安になるほど、人間と出会わなかった。しかし、夕暮れ前には次の集落にたどり着く。


 その頃たどり着いた土壁に瓦屋根の家のある集落では、ちょうど祭りの日だった。赤をベースに原色のみの鮮やかな色彩の衣装を身にまとった少女たちが、円くなって踊る。それをさらに円く取り囲んでいるお囃子の人々は、獣の顔をかたどった面を頭にかぶっていた。

 奏でられているメロディーは辺りの風景とマッチし、風が流れるようになだらかに伸び、この道を歩いて行けば必ず希望にたどり着けるという確信を与えるような旋律だった。

 この村でイェースズが加わっている隊商は、別のユダヤ人の隊商と同宿になった。彼らは東から西に向かっている連中で、ラクダには絹が山と積まれていた。これまでも、こんなユダヤ人の隊商とは、三日に一度くらいは必ず出会った。

 夜だけではなく、山道を歩いている時も峠の向こうから別の隊商が歩いて来るときもある。すれ違う二つの隊商のメンバーはどちらも互いに「シャローム」と叫び、歩み寄ってラクダに乗ったまま笑顔で手を握り合う。

 時には行くべき土地の市場しじょうの情報を交換したりもし、そして懐かしい国の同胞と分かれるたびに新しい旅が始まる。


 山道を進む隊商は、七日に一回はまる一日歩みを止める。安息日だからだ。久しく忘れていた安息日などという懐かしい言葉が引き金となり、イェースズの頭の中に一気に幼時記憶が飛び込んできたりして、頭がクラッとなりさえした。

 そして隊商たちは丸くなって座り、聖書トーラーを朗読し、天を仰いでアドナイに祈りを捧げるのだった。


 キシュオタンを出てから一か月ほどして、ようやく視界が開けてきた。山間の谷間ではなく、広い砂漠の中を進むようになった。それでもその大地の果てはどの方角も岩山の連山が横たわっていた。その頃になって、ようやく進路は東へと向くようになった。

 その風景はまるでイェーズスの故国の、ガリラヤからエルサレムへ向かう途中に通過するあの砂漠地帯とそっくりだった。それに拍車をかけるように、道の左にこれまでにない果てしなく広い湖が見えてきた。

 もうその光景は、故郷のガリラヤ湖そのものだ。もしかして故郷に帰ってきてしまったのではないかという錯覚さえ起こさせる。

 イェースズにとって、忘れかけていた過去がここに甦ってきたようだ。湖水はどこまでも青く、はるか遠くの山並みの方まで果てしなく広がっていた。

 二、三日はツォ・ゴンポというその湖の岸に沿って進んでいたが、やがて湖とも別れる時が来た。

 さらに進路は東へと進み、広々とした砂漠地帯から再び山間の谷間の道へと隊商は入っていった。

 だが、二か月ほど進むと、明らかに風景に変化があった。周りの山々が不毛の岩山から、急に緑に覆われた山となったのだ。その谷間の川沿いの左右のわずかばかりの平坦な土地も緑の草原であり、耕地も広がるようになった。

 今や春たけなわである。


 「景色が緑になったら、もうすぐシムの都に到着だよ」


 エレアザルがラクダの上から振り返って、イェースズに言った。

 そうしてある日、夕方にいつものように集落に着いた。

 しかし、目の前に横たわっているのは久しぶりに見る大きな本格的建物だった。長い城壁が左右に延び、その中央にイェースズにとっては見たこともない形の屋根の楼門が乗っている。


「さあ、いよいよ着いた」


 エレアザルがラクダの上から大声で叫んだ。


「あれがシムの国のいちばん西の町、キァムジョンだ」


 夕陽をあびて、大地も城壁の上の楼閣もすべてが真っ赤に輝いていた。

 

 楼門の下の石造りの門をくぐったとき、そこにはこれまでとは異文化圏の世界が展開されていた。人々は前の合わせの長い、袖のだぶつく服を着て沿道に群がっている。

 カーシーなどのように町中が人々であふれているというわけではないが、それでも人々は入城してきたローマの隊商一行を出迎えるような視線を投げかけ、その真ん中をイェースズたちは通る形となった。このときのイェースズは髪も伸び、服装も僧衣からほかのユダヤ人商人と全く同じ服にあらためていた。

 時々人々が何かささやくのが聞こえるが、もちろん言葉は全く分からなかった。人々はキシュオタンの人々と同じように肌の色も黄色で、髪も瞳も黒い。

 イェースズはラクダの上から首を伸ばして、珍しい町をきょろきょろと見まわした。町全体が城壁で囲まれているのはちょうどエルサレムと同じだが、城壁の形はぜんぜん違う。家はほとんど土の白壁で、重そうな黒い瓦が乗っていた。

 イェースズには、こうして庶民の家まで瓦で葺かれているのが珍しくてしょうがなかった。何ヶ月も人間とあまり接しておらず、大自然の中を旅してきただけに、イェースズにとっては久々に接する文明だった。

 しかも、東の果てと思われるこんな所にもこんな高度な文明の国があろうとは予想だにしていなかっただけに、イェースズは驚きを通り越してただ唖然とするばかりだった。

 だがその文明は故国のものとも、アーンドラのものとも全く異質の、イェースズが初めて接するものだった。

 しかしイェースズは、不思議なことに気がついた。なぜか懐かしいのである。はじめて接する文明のはずなのに、初めてという気がしない。

 昔、自分の記憶がない時代に自分はこの国にいたのではないかということすら感じさせるような、そんなデジャブに襲われた。


 その時、人の群れの中から路上に躍り出た三、四歳であろう子供たちが、はしゃぎながらイェースズのラクダの前に出てくる形になった。しばらくは無言で、彼らはじっとイェースズを見つめていた。その中の一人の、吸い込まれてしまいそうになるほどの透き通った黒い瞳の少女に、イェースズは思わずはっとさせられた。

 イェースズはにっこりと笑って見せた。


「シャローム」


 そう言ってはみたが、子供たちは笑いながら一目散に逃げて行った。イェースズは、苦笑を一つもらした。すぐに町並みは切れ、町の中央を横切っている大河のほとりに出た。

 アーンドラの大地で暮らしてきたイェースズは、もう並大抵の自然の景観には驚かなくなっていたが、しかしこの大河には思わず息をのんだ。川はさほど大きくはなく、ガンガーよりは遥かに小さな川だった。川のすぐ向こうにまで、山が迫っている。

 イェースズが驚いたのは、川の水の色だった。それはまるでレモンのような鮮やかな黄色だったのである。目が慣れてくるとそれは土砂による黄土色だとすぐに分かったが、それでも汚いという感じはなかったから不思議だ。この色が視界に映る風景と、妙にマッチしている。

 イェースズは前方のラクダの上の隊商リーダー・エレアザルに、声をかけてみた。


「水がこんなに濁っていますけど、ここニ、三日に大雨でもあったんでしょうか」


「いや」


 にっこり笑って、エレアザルは振り向いた。


「この川は、いつもこんな色なんだよ」


 イェースズはもう一度川の方を見ながら、川沿いの道へとラクダを歩ませた。

 

 この町ではこれまでの簡易テントの隊商宿ではなく、本格的な旅館に彼らは投宿した。イェースズにとってはただ奇妙な建物でしかなかったその旅館は、隊商のほかの仲間の説明によってはじめて旅館だと分かった。

 ローマ領やその属州ならいざ知らず、こんな旅の果てに旅館に泊まれるなど全く予想外のことだった。どうやらこの国は東の果てとはいえ、文化水準はローマに劣らないようだ。


 彼らが通された二階の部屋の窓からは路上がよく見渡され、柳の木が長い枝を風になびかせているのがよく見えた。窓枠にはわけの分からない装飾が施されていたが、柱という柱が皆赤く塗られているのはどうもいい趣味とはいえないとイェースズには感じられた。

 壁には天に垂直に伸びているような岩山を描いた絵や、この国の文字で何か書かれている紙が張られている。紙という貴重品が惜しげもなく張ってあることも十分驚くに値するが、イェースズの気を引いたのはその上の文字だった。

 初めて見るこの国の文字である。それは今までイェースズが知っている文字の中でも、いちばん複雑なものに思われた。きれいな模様にも見える。

 そのうち、女中が料理を運んできた。円いテーブルに乗る久々の本格的な料理で、イェースズも隊商のメンバーとともにそのテーブルを囲む椅子についた。椅子に座っての食事など、イェースズは本当に久しぶりだった。

 料理はどうも油こいものが多く、カーシーにもあった米の飯もあった。ただ驚いたのは手づかみで食べるのではなく、細い棒を二本片手で使って食べるのだということだった。

 さすがにイェースズは使いきれず、隊商のほかのメンバーに笑われながらも手づかみで通した。

 さらには勧められた酒が大変だった。白い透明な酒だが、ぶどう酒のつもりで口に含んだところ、あまりの度の強さにイェースズは思わずそれを吹き出した。隊商のメンバーたちの爆笑が、室内に木魂した。


 翌朝はもう、一行はこのシムの都のティァンアン目指して旅立つことになった。ティァンアンへは、三日もすれば着くという。この国の玄関ともいえるこの町がこんな高度の文明の都市だったので、都ともなればどのようなのだろうかと、イェースズは歩きながらラクダの上からほかの隊商のメンバーに聞いてみた。

 その都度返ってくるのは、メンバーたちの愉快そうな笑いのみだった。同じユダヤの同胞でありながら、この人たちは自分の知らない世界を知り尽くしている……

 イェースズはそう考えると、羨望さえ感じてしまうのだった。

 

 暑くもなく寒くもなく、さわやかな風が頬をなでるそんな季節だった。

 キァムジョンの町を出て以来、風景が急に柔らかくなった。山がちな丘陵地帯ではあるが、山岳というような高い山はなく、豊かではないものの一応緑には覆われている。時には畑も広がり、明らかに文化水準の高い人たちの国と分かった。

 途中、両脇に山がそびえる谷間に差し掛かった。ほとんど日も射すことなく、岩ばかりが空にそそり立つ道を一行は進んだ。

 そんな所に、関所があった。小さな楼閣が門の上に乗り、甲冑に身を固めた兵士が二人、矛を持って守っていた。しかし隊商は、難なくそこを通過することができた。

 その関所を過ぎてからしばらくして、視界が一気に開けた。キシュオタンを出てから、もう三か月が過ぎようとしている。その時イェースズは、初めてこの国の都――ティァンアンを見た。

 ティァンアンは三方をなだらかな山に囲まれ、東の方だけ平野が続いている広い盆地の中にあった。町全体が城壁に囲まれ、大きな川に沿って町は大地にへばりついていた。

 川はキァムジョンで見た黄色い川とは別の川のようで、遠くから見ても水はあのような黄色ではなかった。町の北側をその川が斜めにかすめているため、城壁はきれいな四角ではないようだ。東西はまっすぐだが、南北は相当でこぼこしている。


「エルサレムより大きい」


 イェースズはラクダの上で、そうつぶやいた。それを聞いた隊商のメンバーが、声をあげて笑った。


「君は故郷を離れて久しいから、そう思うのだろうね。実際は、エルサレムの方が大きいよ」


 言われてみれば、エルサレムの町がどれくらいの大きさであったかイェースズ中での記憶は薄く、はっきりと思い出せる自信がない。


「この国では夜の星座の大熊座の、水を汲むひしゃくの形になぞらえているんだ。あの町の北の城壁も南の城壁もちょうどそのひしゃくの星の形に曲がっているから、この町はひしゃくの都とも呼ばれているんだよ」


 イェースズが感心して聞いているうちに、一行は峠を下り始めた。

 そこからティァンアンの町の城壁の南の門に着くまで、沿道はずっと柳並木だった。

 門は高さが人の背丈の十倍はあろう石造りの城壁の上に、二重屋根で威容を誇る楼門が乗っている。黄色い瓦の楼門は何本もの太い円柱で支えられ、柱は木製だがすべて赤く塗られていた。その柱には蛇のような動物が巻きついている彫刻が施されているのが下から見え、屋根の四隅は勢いよく宙に跳ね上がっていた。

 ラクダの上から、イェースズはそんな楼門を見上げた。高い所から垂直に彼らを見下ろしている楼門は、まるで巨大な化け物のようだった。つぶされそうな気にさせる圧迫感がある。

 門に見とれているうちにイェースズのラクダだけ置いてきぼりにされそうになったので、イェースズは慌ててほかの隊商のメンバーを追った。

 門の下の城壁のトンネルをくぐってティァンアンの町に入ったイェースズの目に最初に映ったのは、ずっと真っ直ぐに北まで伸びている大通りだった。幅はちょっとした広場ほどもあり、その道の両側にさらに道があって、中央の道の左右に延々と続くのは、やはり柳並木であった。

 道には一面に小砂利が敷かれ、まるで白亜の道のように見える。左右の道の脇には赤く塗られた高い土の塀が続き、塀の中には黄色い瓦の巨大な屋根が幾つも見えた。

 思わずイェースズは、エレアザルのそばへ自分のラクダを近づけた。目が無言で案内を請うている。リーダーはそんなイェースズを見て、目元で微笑した。


「右も左も宮殿だよ。この町では、庶民の住み家は北側に少しあるだけだ。それもまだ裕福な庶民だけでね、多くの貧しい民は城壁の外に締め出しさ」


「こんな巨大な宮殿に住んでいるなんて、この国の王ってそんなに偉大な人なんですか?」


「偉大だかどうだか……。ただ、あの宮殿の主で、この国を治めているのは王ではなくって皇帝アウグストゥスだ」


皇帝アウグストゥス? 皇帝アウグストゥスってローマの?」


 イェースズが驚いてエレアザルを見たのも、無理ないことだった。彼の世界観では地上に王は多数いても、皇帝アウグストゥスといえばローマにいるそれしかあり得なかった。

 イェースズに限らず、当時の普通のユダヤ人の感覚なら皆そうだ。例外は、この隊商のメンバーのように、交易のため東の果ての国まで往還している者たちだけだ。


「ローマの皇帝アウグストゥスばかりが皇帝アウグストゥスではない。この一大帝国はローマに匹敵するほどの広大な領土があり、統治者もローマの皇帝アウグストゥスに匹敵する権力者だからそう呼んだんだ」


 ローマ皇帝アウグストゥス以外にこの世にもう一人皇帝がいると知ったイェースズはしばらく頭の中が白くなって、ラクダの上から道の左右の宮殿を交互に見ていた。見えるとはいっても宮殿は高い塀の向こうにわずかにその屋根をのぞかせている程度だが、それでもいかに珠玉をふんだんに使った豪華な宮殿であるかははっきり分かる。

 ただイェースズにとって異様だったのは、屋根の瓦と城壁以外は、すべてが木で造られていることであった。


「この道もだね」


 エレアザルの言葉に、イェースズたちが歩いている道の中央には、一段高くなったもう一本の道が走っているといってよかった。

「これは皇帝アウグストゥスしか通れない道なんだ」

 路上はごった返すでもなく、かといって全く人影がないわけではなかった。それでも北上するにつれ、次第に人の数は増えていった。

 かなり歩いてから、ようやく左右の宮殿の壁が途切れた。この都の城壁の門をくぐった時は昼過ぎだったのに、今ではすでに夕刻近くなっている。いよいよここから高官や庶民の居住地となるようだ。

 庶民の居住地といっても商工業者ではなく、一応は政府の役人クラスの屋敷らしい。それらは決して都大路には直接面してはおらず、ひと区画ごと白い塀で囲まれ、その塀の門が大路に向って設けられていた。その門からのぞけば、白い塀に囲まれた中もさらに縦横に道はあって、その小路に向かって屋敷の門は設けられていた。ごく例外的に直接大路に向かって門がある屋敷もあるが、それはよほどの高官の屋敷らしい。

 ここまで来ると、人出もだいぶ増えてきた。ラクダの上からそんな町を見回していたエレアザルは、感嘆の声をあげていた。


「この町は生き返ったな」


 隊商のほかのメンバーも、その言葉にうなずいている。しかしイェースズはいきなりそのようなことを言われても、ただ途惑うだけであった。そこで、すぐに聞いた。


「生き返ったとは?」


「私が前にここに来たのは二、三年前だったが、ちょうどその頃に戦争があって、この都はひどい荒れ方だった」


「このような大きな国が、どこと戦争をしたんです?」


「外国との戦いではない。今の皇帝が前の王朝を滅ぼすための戦争だ」


「この国は、そんなに新しいのですか?」


「ああ、できてからまだ二、三年だよ」


「二、三年で、これだけの都を?」


 イェースズのまじめな問いに、エレアザルは大声で笑った。


「シムは、もっとずっと古い国だ。しかしその同じシムの中で皇統は何回も替わっていてね、我われはこの国を昔からずっとシムと呼んでいるけど、この国では皇統が替わるたびに国の名前を変えている。今のこの国の名はこの国の言葉ではシェンというが、二、三年前まではハンと呼ばれていた。そのハンの皇帝を倒して新しい王朝を開いたのが、今のシェンの皇帝なんだ」


「でもなぜ、シムというんですか?」


「さっき言ったハンの前の皇統の国家の、ジェンに由来するんだ。その国があったのは、もう二百年ほどの昔なんだが」


「なぜ二百年も前の名前で……?」


「君もこの国にしばらくいたら、この国の複雑な事情も分かると思う。ジェンの皇帝だったジェン・チャーグ・フアンという人物が、どんな人物だったかもね」


 何気なくエレアザルは言ってのける。それでもまだ理解できないイェースズは、小首をかしげていた。


「でもどうしてジェンがシムなのですか? 今のシェンの方がシムという音に似ているんじゃないですか」


「字が違うのだよ」


「字が違う?」


 同じような発音なのに字が違うという概念は、イェースズには理解が難しかった。ヘブライ語にしろギリシャ語にしろ表音文字で、その中で育ってきたイェースズなのだ。しかも、アンドラでもキシュオタンで接した文字も、すべて表音文字だった。


「この国の文字は音ではなく、ひとつひとつに意味があるんだよ」


 今まで何回かこの国の文字をイェースズはすでに目にしていたが、いったい何種類の文字があるのだろうかと疑うくらいにそれえらは複雑多岐を極め、まるで象形文字のジャングルに迷い込んでしまったような感を受けた。

 とにかくイェースズは、頭が混乱してきた。

 太陽はすでに、西の方に傾きかけている。目の前には、はじめてこの都に来た時にくぐった門と同じような巨大な楼門が行く手に立ちふさがっていた。この町の北の門で、それをくぐれば郊外となる。隊商はさらにその門をくぐろうとしていた。つまり都の南の門から入って南北に都を縦断し、今や反対側の北の門から出ようとしている。

 城壁の外へ出ると、かえって都城の中よりもものすごい人でごった返していた。はるかに活気がある。商工業を営む本当の庶民の居住地域は、この門外にある。道には小砂利がなくなり、自然の土となって砂ぼこりがすさまじかったが、それでも同じ幅を保ちながら道はすぐ先で大河にかかる橋に続いていた。その都城の北の楼門の外と橋との間が、いちばんにぎやかな区域のようだ。そこには市場が広がり、家は白い土壁の家もあれば赤い煉瓦の家もあって、その軒先が店になっている。

 イェースズを含む隊商の一行はそこでラクダから降り、口輪を取った。イェースズもそれにならい、人ごみをかき分けて歩いた。

 そして驚いたことにひと目でユダヤ人と分かる青い目の人々も多く、彼らはイェースズたちとすれ違うたびに必ず「シャローム」と笑顔であいさつしてくれた。

 市場の店先には今までイェースズが暮らしてきたアーンドラなどの産物の小物を扱っているものも多いが、食料を売るところもずいぶんあった。豚を丸焼きにしたものを何頭も、後ろ足から吊るしたような店もある。

 この市場の一角には五階建ての木造の、まるで塔のような高い建物もいくつか建てられており、イェースズがそんな風景を見ながら宵闇迫る喧騒の中を何とか隊商の人々について歩いていくうちに、いつしかまた市場の外れまで来てしまった。


「あのう、今日はどこに泊まるんですか? 旅館じゃないんですか?」


 イェースズはたまりかねて、エレアザルを呼び止めた。隊商の別のメンバーが振り向いて、


「旅館なんて、そんな必要はないよ」


 と、笑って代わりに答えた。イェースズはその意味がよく分からなかったが、とにかく彼らに着いていくしかなかった。そのうち、あたりはもうすっかり暗くなっていた。

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