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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
23/146

さらに東へ

 翌朝、イェースズは目覚めてすぐに、両手に金粉きんぷんが無数についていることに気がついた。それは、昨夜の出来事が夢ではなかった証拠となった。金粉は、昨夜見た黄金の光と同じ輝きだった。

 次の瞬間、イェースズは激しい腹痛を覚えた。下腹部が膨れるような感覚だ。これはいけないと、イェースズは慌てて屋外の便所へ向かおうとした。だが、あまりの痛みに立ち上がることもできず、それでも木々の幹につかまりながら、彼はようやく便所にたどり着いた。

 おびただしい下痢だった。

 それが収まるとやっと少しは楽になったものの、今度は体全体が熱っぽく、全身がだるくなって立ち上がることもできなくなった。


 この日は禅定に入ってからちょうど七日目だったので、堂々とアラマー仙のもとへ帰れる。イェースズは付き添いの僧に支えられながらやっとの思いで森を出て、アラマー仙のいる小屋へと向かった。

 迎えに出たアラマー仙は、そんなイェースズの姿を見てもなぜかニコニコしていた。さらに不思議なことに、イェースズ自身も体の苦痛にもかかわらず顔はニコニコできるのだ。


「ご苦労だったね」


 アラマー仙はとりあえず、イェースズを自分の小屋の一室に寝かせた。小屋は内部に全く装飾のない石造りの建物で、質素と簡素という二つの言葉だけで表現ができた。

 イェースズは高熱に意識も朦朧としていたが、周期的に襲ってくる激しい下痢の都度に排泄しなければならなかったので寝てばかりいるわけにもいかなかった。

 一度は、胃の中のものをすべて戻した。そして寝ている間は、おびただしい量の汗が体中をぬらした。このような高い山の上だから医者はいなくて当然かもしれないが、誰一人クスリを持ってくるものはいなかった。


 昼ごろと思われる時分に、アラマー仙がイェースズの寝ている部屋に来た。相変わらずニコニコしているので、イェースズも自然と笑顔を返した。アラマー仙は、イェースズにかゆを持ってきてくれた。


「お食べなさい。食べないと、霊力がつかん」


「はい。有り難うございます」


 こんな体の状態でも、イェースズには不思議と食欲はあった。食事を終えたイェースズに、アラマー仙は言った。


「今まで心の中にたまっていた垢が反省によって物質化し、また魂の曇りもハラわれて、今こうしてどんどんと体外に排出させて頂いているのだ。すべて、感謝だぞ」


 そう言われて、この熱や下痢、腹痛にス直に感謝できるイェースズだった。


 夜になって、アラマー仙は再びイェースズのもとにやってきた。その頃には、イェースズの体はだいぶ快復していた。上半身を起こし、近くに座ったアラマー仙を見てイェースズは言った。


「ブッダの教えとは、反省して過去をやり直すことと執着を取ることに要約されるのですね」


「おお」


 と、いう表情で、アラマー仙は目を細めた。


「自分で、よくそこまでサトッたな」


「いえ。すべてが御守護とお導きによるものです」


「そうか」


 アラマー仙は少し考えてから、ろうそくの火だけが灯された薄暗い部屋でイェースズに言った。


「君になら、先祖代々受け継いだブッダの本当の教えを伝授してもよさそうだな。聞きたいことがあったら、何でも言いなさい」


「え? 本当ですか?」


 イェースズの胸は、はちきれんばかりにときめいた。詰め寄るイェースズに、アラマー仙はゆっくりとうなずいた。

 早速とばかり、イェースズは輝く顔でアラマー仙を直視して言った。


「あれです。あれの本当の意味が知りたいんです」


 普通なら「あれでは分からん」と言われるところだが、アラマー仙はしたり顔で、


「アタ プラジャナー パーラミター ヒルダヤ スートラだな」


 と、言ってから目を閉じ、そのスードラの冒頭の一節を静かに暗唱しはじめた。


「一切を熟知したアポロギータシュバラー・ボディーサトゥヴァーは、深遠なる最高の叡智の行を行じつつありて、かの五つの元素スカンダーは本性として空不実シューニャターのものであると観ぜられた……」


「そうです。それです!」


 アラマー仙は、深く息を吸った。


「では、お聞かせしよう。まず、アポロギータシュバラー・ボディーサトゥヴァーだが、」


 イェースズは身を乗り出し、食い入るようにアラマー仙を見つめていた。


「これは世尊バガヴァッドの時代に実在した人の名前だよ」


「人の名前?」


「そう。そして、世尊が若くして教えを受けた世尊の師だ。ずっとずっと南の、マラヤのポータラカ山に住んでおられた」


「しかし、シュバラーというのは? シュバラーとはアラハンよりもさらに高い境地だと聞きましたけど……」


「いいかな」


 アラマー仙の鋭い口調のひと言が、イェースズの問いを妨げた。


「私の話を聞くなら、今まで学んできたこと、聞いてきたことの一切を捨てるんだ。先入観や既成観念は捨てて、白紙に戻せ。そうして屁理屈申さず、ス直に聞けよ。できるか?」


 問い詰められるように厳しく言われ、イェースズは首をすくめてうなずいた。


「はい」


 イェースズのしっかりとした返事を聞いて満足そうにうなずいたアラマー仙は、再びにっこりと笑って話をはじめた。


「確かにアポロギータシュバラーという方はシュバラーの境地に達した方だった。そして、ボディーサトゥーヴァーというのは、特に神様から特別の魂を頂いた御神魂ということだ」


 イェースズは、微かに首をかしげた。アラマー仙はそれを見て、またにっこりと笑った。


「シュバラーとは観自在力、すなわち過去・現在・未来の三世を見通すことができ、さらには他人の心まで手に取るように分かるという自由自在な神通力だ。今は難しいだろう。しかし、君にもいつか分かる時が来る。今は分からなくてもいい。分かれと言う方が無理だ」


「はあ」


 力なく、イェースズはうなずいていた。アラマー仙はさらに話を続けた。


「アポロギータシュバラーは世尊にマイトゥリー・カルナーを説いた方だ。このことについても今のサンガーは人知の屁理屈でこねくり回してわけの分からない解釈をしているようだが、要は偉大なる神の愛のことだよ。大らかで優しい母親のような愛であるマハー・カルナーと、厳しい父親のような愛であるマハー・マイトゥリーを縦横十字に組んでこそ、神の偉大な大愛が顕現するということだ」


 イェースズは心の中で氷が溶けていくような気持ちにさえなり、ただ唖然としていることしかできなくなった。サンガーでの教えと違って何と簡明で分かりやすく、しかもそれでいて真を突いていることか……これこそブッダの真の教えではないかと、直勘したのである。


「そのアポロギータシュバラーは深遠なる叡智パーラミターによって、すべてのものをジッと見つめられた。そういうふうに世尊が御自らの師であった方のことをご自分の弟子のシャリープトラーに語っているのが、このスートラなのだよ」


「そのパーラミターのことなんですが」


「ああ」


「質問ならいいですか?」


「いいよ」


「パーラミターとは、本当に向こうの岸に行くという意味なんですか?」


 アラマー仙はしばらくうつむいて、沈黙していたが、やがて目を上げた。


「世尊の教えも、年月がたつと変わってしまうものだな。パーラミターの本当の意味は、言葉の一つ一つに宿る霊的力の働きを知ってからでないと、まだ分からんだろう。今の君には、まだ伝えられる段階ではない。決してもったいぶっているわけではないが、すべてのことには段階というものがある。まあ、ひと言で言えば、パーラミターとはすべてが明るく開かれるのを見たということで、霊的な眼が開かれたということだ」


「霊的な眼?」


「そうだ。今、君が私をみているのは、肉体としての目だろう? ほら、鼻の上に、こうして二つある……」


 アラマー仙は、イェースズの両目を一つずつ指さした。


「この目は、ものごとの外見しか分からない。その人自身を知ろうとすれば、心の眼を開かねばならない。そして、それよりももっと奥深いのが、霊的な眼だ。その霊的な眼で見れば、この世界を構成している五つの元素はすべてシューニャターであることが分かったと、このスートラの最初の部分はそういう意味だ」


「そのシューニャターです」


 イェースズは、さらに身を乗りだした。


「シューニャターについてはサンガーでいろいろ追究したんですけど、誰に聞いてもわけの分からない答えしか返ってこないんです」


「それはそうだろう。今のサンガーには、ブッダの心はもうない。いいかね。五つの元素がすべてシューニャターというのはだね、万象ことごとく一切、霊が主体だということだ。人間のとっても肉体は、この現界で生活するための服にすぎない。中身の霊魂が大切なのだよ。死とは単に服を脱ぎ捨てるだけで、霊魂はなくなるわけではない」


「はい。たとえクシャトリヤがその服を捨ててバイシャの服に着替えても、中の人間は同じですからねえ」


「その通りだ。さすがにサトリが早いな。そしてスートラのその次の部分では、世尊はいちばん弟子のシャリープトラーに呼びかけて、シューニャターはそのままルーパンなのだと言っておられるな。つまり、『ルーパンシューニャターとは別のものでないし、シューニャタールーパンとは別のものではない。 ルーパンはそのままでシューニャターであるし、シューニャターもそのまま ルーパンである』と。このスートラを書いたのも後世の弟子だからこんなわけの分からない書き方になってしまっておるが、世尊の真意は霊とその霊によって構成される霊界すなわちシューニャターと、物質の世界すなわちルーパンとは表裏一体、相即相入で、別々のものではないのだということだ」


 こんな簡単な理屈をスートラはよくもこんなに難解な表現で書いているものだと、こうなるとイェースズはあきれてしまった。


「いいかね。世尊が説法をされたのは学のあるバラモンを相手にしてではない。相手にされたのはクシャトリヤや無学なバイシャ、スードラだ。そんな人々に、今のサンガーで説かれているような哲学を説いたところで人々は救われないし、だいいち理解ができないだろう」


「その通りだと思います」


「本来、神理というのは分かりやすいものなのだよ。万人に理解できて、そしてまたすぐに実践できるものだ。だからこそ世尊の御名は、五百年たった今でも残っているわけだ。神理から遠くなったものほど人知でこねくり回されて、難解なわけの分からないものになっている」


「霊界と現界が別の存在でないということは、今こうして私たちがいる現界もすなわち霊界ということですか?」


「その通りだ。物質は細かいちりでできておるが、その塵もまた極微の塵の集まりだ。そのスカスカの部分が霊界なのだ。だから肉の眼では見えないし、無でありれいであるといえよう。だからシューニャターなのだ。しかし、本当に何もないかというと、そこには神の智・情・意が充満しておる。その霊を物質化させる、すなわち無から有へと創造し、産みだすことができる唯一のお方、それが神様ブラフマンなのじゃ」


「はあ」


 イェースズはもうなんだかうれしくて、今にも寝床から跳ね起きたい心境だった。アラマー仙は、まだ話を続けた。


「人の感覚も思いも行いも知る力も同様であると、スートラでは言っているな。すべてのダルマーも存在もシューニャターであり、つまりは現象界のあらゆる物質も霊が元であり、霊が主体であるということだ。霊が元になってそれが物質化したのがルーパンすなわち物質なのだ。だから霊界こそが大いなる実在界であり、魂の故郷で、この世はすべて仮の現象界、霊界の写し鏡でしかないのだ」


 イェースズはアラマー仙の話を聞きながら、自分がブッダと出会った美しい花の咲き乱れる光の充満界こそが霊界なのだろうかとうつろに考えていた。確かに自分はどこかをはるばる旅をしてあの世界へ行ったのではなく、瞬時にして気がつけばそこにおり、また気がつけばこの世界に戻っていた。現界即霊界ならそれも然りとうなずける。

 そんなイェースズの心も、すかさずアラマー仙に読み取られていた。


「君が行ってきたのは霊界のうちでも第四トゥシタ界、つまり幽界といって、人が死んでから行く世界であり、生まれて来る前にいた世界でもある。神様のおわします神霊界は、さらに次元が高い。輪廻サンサーラから解脱し得てニルマーナに入ったものだけが、高次元へと昇華していくのだ。輪廻とは幽界で生活し、現界で修行し、また幽界へ帰り、幽界での修行が終わればまた現界に下ろされるその繰り返しのことだ」


 輪廻についてはエッセネの教えでもこれほど詳しく、また分かりやすくは教えてくれていなかった。


「この世のものも、例えば水でも氷になったり溶けて水に戻ったり、湯気になったりもするだろ。あれと同じだよ。水は水だが、氷は土と同じ、湯気は火と同じだ。火と水と土の三位一体が、この世を、いや神界・幽界・現界の三千世界を構成する実相なのだ。つまりブッダもダルマカーヤ、サンボガカーヤ、ニルマナカーヤの三態があることは聞いているだろう」


「あ」


 と、イェースズは声を発した。ダルマヤカーナのベイロシャナー、サンボガカーヤのアミターバ、そしてニルマヤカーナのゴータマ・シッタルダーの三者の関係は、イェースズにとってこれまで今ひとつ理解できないことだったのだ。


「それぞれ神霊界・幽界・現界のブッダということだ」


 思わず、「なんだ。そうだったのか」と、叫びたくなるイェースズだった。聞いてしまえば、簡単なことだった。しかしその簡単なことが、簡単なまま世に伝わっていないのが現実だ。なぜか故意にぼかされているのではないかという気さえ、イェースズにはしてきた。


「霊界こそが魂の故郷であり、幽界は心の世界だ。そしてこの現界だけが肉体の世界で、物質の世界だから、人はとかく現界に下りてきて肉体をまとうと眼・耳・鼻・舌・身の五官に振り回されて、それらで感知できるものがすべてだと思い込んでしまいがちだ。しかし、スートラの後の部分には、実在界である霊界には生滅もなく垢浄もない永遠不滅の世界であると書いてある。つまり五官などという肉体的なものは存在せず、従って迷いもない大調和の世界であり、大いなる光明の世界であると書かれているのだ。そういう所が、本来の魂の故郷なのだよ」


 アラマー仙はそこまで言うと、ニッコリと笑った。イェースズはそんなアラマー仙を見て、不思議な思いだった。こんな場所にだけ正しいブッダの教えが伝承されていて、その他の表向きのブッダ・サンガーは形骸なのだ。


「いいかね。私がこれらのことを先祖から、ただ教えられただけだと思うなよ。私とて心の行を何十年と行って、ここまでたどり着いたのだよ。甘えていては、とてもニルヴァーナには入れぬ。自力だけで行こうという思いあがりはよくないが、他力だけに頼っていてもだめだ。ニルヴァーナとは、自力で入るものなのだよ。他力によって与えられた自力を最大限に発揮して自らの足でニルヴァーナに入るという心意気と祈り、他力にすがる心があってこそ、自力の足りないところを神様の他力は補って下さる。自力だけでは限界があるが、重い荷車を引いて坂道を登って力尽きた時に、他力が後ろから押してくださるのだよ。自力だけではとても重い荷車を坂の上まで上げることはできないし、逆に荷車を引こうともせず他力に頼みますと言っても荷車は動きもしない。さあ、いっしょにこのスートラの、最後の部分を唱和しようではないか」


「はい」


 イェースズも眼を輝かせ、アラマー仙を見てうなずいた。


「ガーテ ガーテ パーラガーテ パーラサンガーテ ボディシュヴァーハー イティ プラジャニャー パーラミター ヒルダーヤ スートラ」


 夜は更けていった。薄暗い部屋に、二人の唱和の声は一つになって溶け込んでいった。


 翌朝、イェースズの体はすっかり元通りになり、イェースズは元気になった。

 朝食のすぐあとに、イェースズはアラマー仙に呼ばれた。アラマー仙はいつになく厳しい表情をしており、イェースズも緊張せざるを得なかった。二人が向かい合って座ると、アラマー仙の方から口を開いてきた。


「私の弟子もそれぞれ、この場所で修行に励んでおる。君だけを特別扱いにするわけにはいかないのだが、私の魂は君の顔を見ると騒ぐのだよ」


「はあ」


 イェースズは、どう答えていいか分からなかった。


「だからといって、私の教えをそのまま君に伝授するわけにはやはりいかない。それでは大愛ではないからな」


 厳しい表情はそのままで、それでいて明るい声でアラマー仙は笑った。


「そこでだ。君が質問をして私が答えるという形なら、よいだろうと思う。何なりと聞きなさい」


「有り難うございます」


 力なくイェースズはそう言ったもののしばらく目を伏せ、黙ったまま心を整理しようとした。

 聞きたいことは山とあるが、それを取りとめもなく切り出したところで収拾がつかなくなりそうだった。だからいろいろと考えた末に意を決し、イェースズは顔を上げた。


「実は今まで、サンガーの人たちが心が大切と言うのを聞いて、疑問に思っていたんです。心よりもっと大事な何かがあるんじゃないかって。でも、昨日の夜のお話を伺って、やっと分かりました。心よりも大切なのは魂、霊魂で、霊がすべての主体であるってことなんですよね」


「その通り。心で『死にたくない』と思っても、霊魂が肉体から離れればその人は死んでしまうのだ」


「ええ。ただ、今お聞きしたいのは、ブッダははっきりとそのことを人々に説いたのかということなんです。もしそれを説いていたなら、これほどまでに人々の間で曲解され、元であるはずの霊的なことがどこかへ行ってしまって心ばかりが強調されているのは不自然のような気がするんですけど」


 アラマー仙は、一つ咳払いした。外は柔らかな陽ざしで包まれ、時折さわやかな風が部屋を通り抜ける。


「世尊の教えをひと言でいうとどういうことになるか、君は分かっているのかね?」


「え?」


 イェースズは不意の逆質問に、首をかしげた。アラマー仙は、にっこりと笑った。


「それはね、ブフタ・タタターだよ」


「え? ブフタ・タタター?」


 この「タタター」とは「~のような」という意味の「タター」の名詞形で、「~のようなもの」という意味だ。つまり、「ブフタカティごときもの」ということになる。真理のようではあるけど、真理ではないということだ。


「世尊の弟子に、アーナンダ尊者という方がおられた。世尊の父上のシェット・ダナーの弟のドウロ・ダナーのお子であるから、世尊の従弟にもなる。あの、世尊を迫害したデーヴァダッタの弟でもあるが、そのアーナンダ尊者が世尊に『師の教えをひと言で言うと、どのような教えなのか』と尋ねた時、世尊のお答えが『ブフタ・タタターである』ということだったのだ。つまり『真理ブフタカティには似ているけれども、神理サティヤではない』ということだな」


 それは、イェースズにとっては考えてもみなかった回答だった。どう反応していいのか分からず、イェースズはただ眼をみはって黙っていた。頭の中がこんがらがりそうなのだ。

 故国で聖書トーラーはもちろんゼンダ・アベスタや、この国に来てからはヴェーダなどを研究してきたイェースズがブッダの教えに巡り会い、これこそが絶対かつ至上最高のものと思って求め続けてきた。

 そしてサンガーに入門はしたもののそこで聞く教えに飽き足らず、ブッダの本当の教えはこのようなものではないはずだと、真のブッダの教えを求めてこの山の上にまで来た。そして、ブッダの神霊にも直接会うことができた。

 そのあとになってようやく耳にしたのが、このような衝撃的な事実だったのだ。だから、イェースズは何がなんだかわけが分からなくなってきた。追い求めてきた本当のブッダの教えは、実は仮のものだとブッダ自身が言ったというのだ。

 そんなイェースズの心をすかさずアラマー仙は見通し、


「驚くのも、無理はない」


 と、言った。


「つまりは、こういうことだ。世尊は輪廻サンサーラからも解脱して涅槃ニルヴァーナに入られ、無上アーヌッターラーンサンミャク正覚サンボディーンの境地に達しておられた方だから、もちろんすべての実相、すなわち神理サティヤにまで到達されていたはずだ。しかし、そのすべてを弟子や民衆に公開することは、その時点では神から許されていなかったのだ。だから、ブッダの教えはブフタ・タタターなのだ」


 この話は、イェースズがブッダの神霊から直接聞いたことと見事なまでに一致する。だが、ブッダと違い目の前にいるのは肉身を持ったアラマー仙なので、疑問もまたぶつけやすい。


「なぜ、許されなかったのですか?」


 アラマー仙は、黙って首を横に振った。


「そういう時代なのだよ。世尊の時も、そして今も。その事情については、まだ君に詳しく告げられる段階ではない」


 しばらくは、沈黙が流れた。やがて、イェースズの方から顔を上げた。


「ブッダも説くことが許されなかった真理ブフタカティとは?」


「それがすなわち、神理サティヤだよ」


 サティヤとは、「厳として存在する」という意味である。すなわちイェースズの故国の聖書トーラーで、モーセが聞いた神の御名である「在りて有る者」とも通じるものがある。


神理サティヤとは、神ののりのことだ。世尊は荒野でブラフマンの声を聞いて、救世の説法に立ち上がられた。世尊が語られたのは大いなる神の法だった。しかし世尊は、そのすべてをあからさまに公開することは許されていなかった。だから世尊入滅後に弟子たちが結集けつじゅうして体系化したブッダ・サンガーの教えや編纂された経典スートラにはデーワという概念は登場せず、すべてが仏陀ブッダということになっている。しかし、法身ダルマカーヤ毘盧遮那ヴェイロシャーナ報身サンボガカーヤ阿弥陀アミターバも、本来はすべてデーワなのだよ。そのへんが、今のサンガーの教えではぼかされておる」


 まだきょとんとしているイェースズをアラマー仙はしばらく黙って見つめた後、不意に立ち上がった。そしてそのまま部屋を出ていったので、イェースズは一人とり残される形となった。 また一陣の風が、部屋を駆け抜けていった。


 もう何も考える気力のなくなったイェースズは、ただボーっとして寝床の上に座っていた。そのうち頭に疲れを感じ、再び横になって何の装飾もない天井を見ていた。 

 しばらくしてからアラマー仙が戻ってきたので、イェースズは慌てて跳ね起きた。アラマー仙の手には、小さな木の箱があった。 ゆっくりと座ったアラマー仙は、イェースズの目の前でその小箱を開け、中に入っていた折り畳まれた布を広げてイェースズに手渡した。

 布にはぎっしりと、文字が書かれている。この国に来たばかりの頃は、それまで文字といえば横に書くものとばかり思っていたイェースズにとっては初めて接する縦書きの文字に面食らったものだが、今ではもうすっかり慣れた。

 その縦書きの文書の右端のタイトルらしきところには、「サッダルマー・ヴィブラローパ・スートラ」と書かれていた。イェースズは首をかしげた。「妙法サッダルマー・蓮華プンダリカ・スートラ」なら、よく知っている。それは必ずしも美しいとはいえない肉体という泥の中に美しく光る魂を、白蓮プンダリカの花にたとえて説いたものだ。

 白蓮は花自体は美しいが、咲く場所はたいてい泥の中である。穢土における肉体の中には神様から頂いた美しい光り輝く魂があるのだということを、このスートラは説いている。

 しかし、イェースズが目の前にしているスートラは「サッダルマー・プンダリカ・スートラ」のような何巻もの巻物ではなく一枚の布に入るほどの短いものだが、「サッダルマー滅尽・ヴィブラローパ・スートラ」とは、いかにも奇妙な題目である。 イェースズは、その本文を目で追ってみた。 


「このように聞いている。ブッダはかつてクシナガラにいたが、タタガータとして三月にニルヴァーナには入ることになり、ビクシュたち、ボディーサトゥーヴァー、そしておびただしい数の民衆がブッダの所にやって来た。ブッダはただ黙って何も説かず、光明も現れない……」


 今までイェースズが接したことがない、ただただ不思議なスートラだった。イェースズは一気に、最後まで読み通した。そしれ背筋に冷たいものが走り、それからというもの震えが止まらなくなった。それは、戦慄すべき未来の予言だったのである。

 スートラはブッダとその弟子のアーナンダとの問答形式になっているが、読み進むにつれてブッダがアーナンダに語る恐ろしい未来図が展開されていくのだ。

 まず、アーナンダが「世尊のこれまでの説法の時はものすごい光を感じたものですけれど、今日はこんなに多くの人々が集まっているのに光を感じません。それはなぜなのですか?」という問いかけにブッダが答えている。

 それによると、正しい教えが滅びるときはまさに五逆五(じゃく)の世となり、魔道が興って魔僧すなわち偽の僧となり、ブッダの説く道を撹乱するようになるという。殺人や性の乱れが横行し、修行僧すら戒律をないがしろにして、魔王マーラ跋扈ばっこする末法まっぽう末世まっせの時代が訪れるというのだ。

 その時に立派な法を説き、善行を行う心正しき者が現れるが、人々はその者を誹謗して寺院より追放し、道徳は全く失われ、寺院は廃墟と化して財宝の集積場となり、戒律も形骸化し、法典も空念仏となって、唱える者がいてもその内容は全く分からず、ただ人々に強要するのみという。

 僧はただ栄華と名声を求め、多くのビクシュは地獄に落ちる。世は罪業で満ち、女性ばかりが精進しても男たちは法を顧みようともせず、僧を見ても糞土を見るがごときになる。

 そこで諸天龍神は嘆き悲しむが、ついに人類は見放されることになる。天候は不順となって作物は稔らず、疫病が流行し、政治倫理も廃れて収賄が横行し、人々は楽をすることばかりを考えて享楽追及し、悪に転じる者は海の砂のごとしである。善人の数は甚だ少なく、人々の寿命も短くなり、女性は長生きする場合もあるが、男性はその淫佚いんいつゆえに精力が尽きて往々にして短命となる。

 さらに恐ろしいことに、そのような悪一色の世を大水が押し流し、人々はことごとく魚の餌になってしまうというのだ。


 イェースズは最後まで読むことができず、途中でうつろな眼を上げ、アラマー仙を見た。


「こんな時代が、本当に来るのですか?」


「ブッダのスートラにそう書かれている以上、そうなるだろう」


「いつですか? それは」


「他のスートラでは世尊入滅後三千年となっておる。このスートラでは大水となっているが、別のスートラでは、世尊は『やがて火事で燃えているような家のごとき世の中になる』とおっしゃっておられる」


「火で焼かれる家のような世?」


「そう。火宅かたくの世だ」


 イェースズは再び両手に広げたスートラに目を落とした。

 かつても世界中に大洪水が起こってノアの一族のみが箱舟に乗って助かったという話は、聖書トーラーをはじめゼンダ・アベスタなどにも載っている。

 そして預言書には過去の大洪水ばかりでなく、未来に天から火が降って人々が焼き尽くされるという話が、エゼキエルの書やダニエルの書など至る所に出ていた。そればかりでなく、エッセネの書にもあった。

 イェースズは今までそれらの書物を、いかに観念で読んでいたかを思い知らされた。どこか遠い世界の絵空事のようなイメージをぬぐいきれずにいたのだ。しかし、魂を開いて思い出せば、それらは今手にしている「サッダルマー・ビプラローパ・スートラ」にも匹敵する戦慄の預言だったのだ。


「このスートラはサンガーでも見ませんでしたし、この題目も見たことないんですが」


「それはそうだ。世尊はこの内容を広く一切に告げよと仰せられたにもかかわらず、後世の弟子たちはこのスートラをたとえサンガーのビクシュやビクシュニーに対してであろうとも公開してはならぬと決め、秘蔵してきたのだ。だから全ヨジャーナでも、こことあと数ヶ所以外には写本も存在していない」


「なんで、そんなに秘密に?」


「内容が内容だから、真意を解しない人々にいたずらに公開すれば混乱を招くということを恐れたのだろう」


「では、その真意とは何なのですか? 神の怒りを買って人々が滅ぼされるまで、神様は救いの手を差し伸べて下さらないのでしょうか?」


 アラマー仙はなぜか自信たっぷりに、ニコニコしてイェースズを見ていた。


「神の世界は奥の奥のそのまた奥がある実に深遠極まりない世界で、ひと言で説明することはできないよ。神大愛は大慈観マハー・カルナーばかりでなく、大悲観マハー・マイトゥリーも厳として持っておられることを忘れないことだな」


「しかし……」


 イェースズは絶句した。果たしてここに記されているような時代が本当に来たら、救いはどこにあるのかということが気になるのだ。そして、今の時代に自分は何をなすべきか、そしてそのことがきたるべき時代にどうかかわってくるのかなどということが、彼の頭の中で渦巻いていた。それをすかさず読み取って、アラマー仙は口を開いた。


「君はそのスートラを、まだ途中までしか読んでいないだろう。最後まで読んでみたまえ」


 言われてみれば確かにそうだったので、イェースズは手の中のスートラに目を落とした。

 その最後の部分には、このような時代を経て後、マイトレーヤーが現生に下生してニルマヤカーナのブッダとなり、そうなると天下泰平となって毒気消除の世を迎え、五穀は稔って人々の背丈も寿命も伸びるという内容で結ばれていた。

 マイトレーヤーとはブッダの弟子の女性、すなわちビクシュニーで、唯識ヨーガ派の祖であるが、ここでいうマイトレーヤーとその人物とは違うと、アラマー仙は説明してくれた。

 それによると、このスートラに出てくる弥勒マイトレーヤーとは、第四兜卒トゥシタ界の内院に菩薩ボディーサトゥーヴァーとして報身サンボガカーヤ仏陀ブッダとなって浄土を構え、やがて法滅サッダルマー・ビプラローパの時代には応身ニルマナカーヤのミロクとなって人々を救済するといわれているみ魂であるという。

 つまりブッダ・サンガーのビチャパチ尊者から聞いた「メシア」と音が通じる救世主の「メティア」のことだ。


「そのような聖霊によって世は救済されるのだが、君が今この現世でこの時代にしなければならないみ役は追々示されるであろうよ。しかし、君自身がそれを見出すための努力をすることが、いちばん大切だ。忘れるなよ」


「はい」


 イェースズは力なくうなずいた。


 イェースズはスートラをアラマー仙に返し、尿意を覚えたので席をはずした。外へ出たイェースズの頭の中はいろいろなことが入りすぎ、飽和状態になっていた。彼は歩きながら首を何度も左右に倒していた。

 そして戻ってきたイェースズは、こんな機会だからと用を足しながら考えていた疑問をぶつけることにした。

 それは、先ほどのスートラの冒頭の「ブッダはかつてクシーナーラーにいた」というくだりの、その「クシーナーラー」のことである。クシーナーラーとはブッダ入滅の地と言い伝えられている場所で、カーシーから北へ行った所に今でもある。

 だが、なぜかイェースズにはそれが気になるのだ。部屋に戻ったイェースズは、そのことを早速アラマー仙に聞いてみた。


「それはクイの国だよ」


 アラマー仙はそう言いながらもわずかに目を細めたように、イェースズには思われた。


「本来この部分は『クイの国』となっていたのだ。それを後世になって、勝手に『クシーナーラー』に変えられたのだよ。クイの国はずっとずっと東の国で、すべての 神理サティヤが明かされる国だという」


「カーシーよりも東なのですか?」


「カーシーどころの騒ぎではない。ここからカーシーまでの数十倍も東で、その地はまた世尊がサトリを開かれたサルナートでもある」


「え?」


 アラマー仙はおかしなことを言うと、イェースズは思った。サルナートはカーシーの少し北にある町で、クシーナーラーとは別の町のはずである。しかも、サルナートはブッダが最初に説法をした町であって、サトリを開いたのはブッダガヤという所だともイェースズは聞いている。


「いいかね。よく聞くのだ」


「はい」


 いきなり厳しい表情で言われ、イェースズは身を硬くした。


「世尊がサトリを開かれたのはサルナートだ。しかもそれは、今のサルナートではない。今のサルナートは、本物のサルナートではないのだ。世尊がサトリを開かれた町はサルナートと呼ばれるということだけが伝えられているので、おそらくここがそうだろうと推測してあとから作られた町が今のサルナートなのだよ。世尊の時代には、今のサルナートという町もクシーナーラーという町もなかった」


「では、本物のサルナートとは?」


「今も言ったように、ずっとずっと東のクイの国のことだ」


「カーシーの北ではなく、カーシーから見ても東なんですね」


「そうだ。サルナートとは、太陽が昇る国という意味だろう」


 確かに、サルナートとはそういう意味である。


「世尊がお生まれになったカピラ・ヴァーストも、『太陽の城』という意味だろう」


 カピラ・ヴァーストはゴータマ・ブッダの父のシェット・ダナー王の城だったが、その一族はシャキー・プトラーと呼ばれていた。だからゴータマ・ブッダのことを、釈尊シャキー・ムニーと呼ぶ人々もいる。


「私の先祖のカララー仙とて、その東の国から派遣されてこの国土を開いたものの子孫なんだ」


 イェースズは故国を離れて東の果てのこの国に来たという印象を持っていたが、それよりももっともっと東には何だかとてつもない国がありそうだという気がイェースズにはしてきた。

 そして、イェースズの頭の中にひらめいたことがあった。故国のエルサレムの神殿の東壁には、スザの門と呼ばれる絶対に開かない門があった。幼い頃に両親に聞いた話では、天の国の到来の時には太陽の出る国である東の果てのミズラホの国から白馬に乗ったメシアが訪れ、その門を開くということだった。その国と、今聞いたクイの国とは何か関係がありそうだ。

 イェースズは、目を上げた。


「ブッダは、その国で修行されていたのですね」


 今まで一度も聞いたことのない話だったが、今のイェースズにはス直に受け入れられた。


「そうだ。そして世尊は五十二歳で再びその国に帰り、そこで入滅されたのだ」


「え?」


 忘れかけていた一つの疑問が、イェースズの中で蘇った。それは、ブッダの入滅についてのことである。サンガーに入る前は、ゴータマ・シッタルダーと言う人は従兄のデーヴァダッタに背かれ、陰謀のもと殺されそうになったので逃げ出し、南の島国であるシンハラ国で行き倒れになって死んだと聞いていた。

 ところがサンガーでは、この話は憤りとともに否定された。ブッダは老齢になったので故郷のカピラ・ヴァーストを目指した旅に出たが、その途中クシーナーラーという町で食中毒のため発病し、沙羅シャーラ双樹の木の下で涅槃ニルヴァーナに入ったということだった。


「いったいどっちが本当なのかと疑問に思っていましたけれど、また今度はブッダが東のクイの国で亡くなったなんて、いったいどれが本当なんですか?」


「シンハラの国で行き倒れになったというのが、嘘で本当で嘘だ。世尊の従兄弟のデーヴァダッタとアーナンダの兄弟はともに世尊の弟子になったが、デーヴァダッタは後に世尊に反感を持ち、世尊を殺して自分が教団サンガーの盟主になろうと謀ったのだ。その陰謀を知った世尊は弟子たちにはっきりと『東の国のジャブドゥーバに帰る』と告げてこの国をあとにし、シンハラ国まで行った時に行き倒れの老人を見つけたのだ」


「行き倒れの老人?」


「そうだ。そして、世尊は自らが変装するためにその老人の衣をもらい、代わりにご自分の法衣をその老人に着せた。世尊の体から出る神のみ光が十分に乗った衣だから、その老人の魂も救われただろう」


「その行き倒れの老人が、ブッダということになって伝わっているのですか?」


「その通りだよ。あとから追ってきた弟子がその老人を見つけたんだが、なにしろ死んでからもう何日もたっておったから遺体も腐って顔も分からなくなっていたし、見慣れた師の法衣を着ていたものだからてっきり世尊のご遺体だと思ったのだな。それも無理はない話なのだが、いずれにせよ弟子たちはどこの誰とも分からない行き倒れの老人の遺体に甘茶をかけて浄め、その骨を世尊の遺骨として現在各地の精舎の仏舎利塔ストゥーヴァーに祀ってあるというわけだ」


「はあ」


 ただただ呆然として、イェースズは聞いていた。自分の知らなかった事実を知ったときの驚きが、氷解した疑問とともに熱い大河となって心の中で激流を作る。


「しかし、その後のブッダは?」


「その後かね。つまりその後に世尊は東の国であるクイの国、つまり日出づる国(サルナート)、世尊ご自身の言葉ではジャブドゥーバに渡って、そこで亡くなられたんだ。それが、世尊百十六歳の時だ」


「では、八十歳で亡くなったというのは……?」


「そんなのは嘘だ。それで、世尊が東の国に去られたのが五十二歳の時で、それで先ほど見せたスートラにも『五十二歳』という数字が書いてあっただろう」


 正直言って衝撃的な内容に気を取られていて、イェースズはそのような細かい所までは記憶に残っていなかった。


「『五十二歳で去る』という記述があるのは、同じスートラでもこの山に伝えられているものだけだ。ほかの物はなぜか故意にその部分が削られているという。本当の歴史を抹殺しようという動きによって、手が加えられたのだな」


 東の果ての日出づる国、サルナート、クイの国、ジャブドゥーバ、ミズラホの国……それらの名称のすべてが今のイェースズに、熱いかたまりとなってぶつかってくる。


「その国に、僕も行ってみたいです」


 ほとんど叫びに近いような声を、イェースズはアラマー仙に向けた。アラマー仙はただ、黙ってニコニコしていた。


「どうやったら行かれるんですか? その国へは」


「さあ。私も行ったことがないから、分からないのだよ」


 アラマー仙は声を上げて笑った。それと対照的に、イェースズは落胆して視線を落とした。


「そんなにがっかりしなくてもいい。ここからまっすぐ東に行った所に、キシュオタンという土地がある。君がいた精舎からだと白い巨大な山脈、雪の住処(ヒマ・アーラヤ)を越えた北側になるが、そこまで行けば何か分かるかもしれない」


「あの山の、北側……?」


 イェースズが最初に入門した精舎からいつも見えていたまるで巨大な白い壁のような山々は、その頂が中点まで達していた。その向こうにも世界があるなどあの時は想像もできなかった。

 だが、ここからカーシーの方に向かってではなくまっすぐに東へ高原の上を進めば、あの山脈の北側に回ることになるという。


「そこには、かなりの数の古文献がある。魂の輪廻サンサーラの秘密とか、昔の天変地異のこととか書いてある古文献だ」


「天変地異?」


「あのヒマ・アラヤーの山脈ができたいわれとか、東の方の海に沈んでしまった大陸にあった大帝国のこととかな」


 イェースズはしばらく考えていたが、きっぱりと顔を上げた。


「じゃあ、そこへ行ってみます」


「そうか」


 イェースズの顔は日がさしたように明るくなり、死んでいたその瞳に一条の光明がさした。それを、アラマー仙はしっかりと見据えていた。


「マハー・ヤーナの機根は東方にある。光も東方より来る。行け! 東へ行け。イェースズ!」


 それから、アラマー仙は不意に出て行った。イェースズが不審に思っているうちにアラマー仙は戻ってきて、イェースズに一通の書状を手渡してくれた。


「キシュオタンにはメングステ尊者という長老がおられる。紹介状を書いておいたから、持って行くとよい」


 アラマー仙は立ったまま両腕を挙げ、左右の手のひらをイェースズに向けた。イェースズは一瞬、頭がくらっとするのを覚えた。

 次の瞬間、イェースズはダンダカ山のふもとの、赤い土の谷間にいる自分を発見した。

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