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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第1章 幼年・少年時代
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幼時物語=少年の奇跡

 西暦元年というのは、歴史的根拠は全くなくなっている。なぜこの年が西暦元年なのか意味を失ったまま、慣習的に使われているにすぎない。


 その西暦二年のユダヤ・ガリラヤ地方は、ローマ帝国の傀儡かいらい政権であるヘロデ・アンティパスの統治下にあった。

 一応ユダヤ王国はローマ帝国の同盟国となっており、そう言えば聞こえはいいが、紀元前六十三年に共和制ローマのポンペイウス将軍がエルサレムを占領して以来、ユダヤ全域は実際にはローマの間接的支配下に置かれていた。

 そして四十年前後もそのユダヤ全土を委託統治し、ローマの皇帝アウグストゥスオクタビアヌスより「大王」の称号をもらっていたヘロデ王は、この五年前に没していた。

 今はヘロデ大王の三人の王子であるアンティパス、ピリポ、アルケラオスがユダヤを三分割して委託統治しており、ガリラヤを治めているのはそのうちのヘロデ・アンティパスだった。だが、ヘロデ・アンティパスは王ではなく、ローマ皇帝からはただ単に「分邦指導者テトラルコス」の称号を与えられているにすぎなかった。

 ユダヤの中心であるエルサレムを含む地方は「民族指導者エトナルコス」の称号を得ているヘロデ・アルケラオスの統治下にあったが、そのエルサレムから見て異邦人の地と蔑まれているサマリアをはさんだ北側がガリラヤである。

 ガリラヤ湖は豊富な水をたたえる淡水湖で、そこから流れ出るヨルダン川は南の死海へと流れこむ。


 そのガリラヤ湖の北岸に、カペナウムと呼ばれる町がある。

 緑が多く、湖岸には木立もも見られる。町のすぐ後ろは傾斜となっている高台の上に高原が広がり、一面低い草で覆われている牧草地の所々には背の低い木が点在していた。麦畑も多い。

 ガリラヤもユダヤ全土と同様に、エルサレムの神殿を中心とした信仰を持つ人々の住む地域であった。シナゴーグと呼ばれる彼らの会堂で週の終わりの安息日に礼拝を執り行う祭司たちはサドカイびとと呼ばれ、それに対して民衆の側に立つ律法学者はパリサイびとと呼ばれていて、あたかも宗派のごとき感があった。二つの宗派は表面上は共存しているように見えたが、その本音の部分では何かと対立していたのである。


 だが、そのいずれにも属していない一派であるナザレびともこの町には若干住んでおり、その中の一人である大工のヨセフの家は、町が高原にさしかかる傾斜面の下の、ガリラヤ湖の青い湖水がよく見える所にあった。



 少年というと人は邪気がない純真なイメージを持っているが、少年自身の心中には怒りや恨みが満ち、絶えず何かに傷ついているものである。

 ヨセフは新築の石造りの民家の屋根の上での作業中に、五歳になった我が子イェースズが泣きながら走ってくるのを見た。

 ヨセフはそれを見て屋根の上のヘリを年度で固める手をとめ、思わず苦笑を漏らしていた。

 家にいる時でも、イェースズが泣きながら帰ってくるのは日常茶飯事であった。すでに四十歳を越えたヨセフの長男のイェースズは、世間から見れば孫といってもよいくらいの年齢である。

 さらにその下にヨシェ、二歳のヤコブがおり、さらには妻のマリアの腹中に今もう一人の子が宿っている。三十六歳にもなって十八歳の妻を娶った彼にとって、子供たちは荷が重すぎたかもしれない。


 そんなことを思っているうち、足元から、


お父さん(アパぁ)!」


 と、息子の泣きじゃくる声があがってきた。

 眼を落とすと、目を真っ赤にこすってイェースズが路上に立って父を見上げていた。


「上がって来い」


 それだけをヨセフは言い、再び作業を始めた。

 しばらくはためらって様子を見ていたイェースズだったが、ようやく父のいる屋根まで上がり、父と向かい合う形で屋根のヘリの石をまたいで座った。ヨセフは作業を続けたまま、目を落としていった。


「またゼノンか」


「そう。あいつだよ。僕の遊んでいるものをみんな取り上げて、壊してしまうんだ」


「それでおまえはゼノンが許せないのか」


「うん」


 涙をしゃくりあげながらも、力強くイェースズはうなずいた。


「だからゼノンを懲らしめたいのか」


 イェースズは何も言わなかった。

 懲らしめようとても、腕力ではゼノンにかなうわけはないと分かっているようだ。だからこそイェースズは泣きじゃくって、父親のもとに来ているのだ。

 それはいつものことだった。イェースズはいつもゼノンとその仲間にいじめられて帰ってくるが、たいていイェースズと一緒にいる弟のヨシェはイェースズが泣かされた後も気強くゼノンたちに立ち向かって行った。


「兄ちゃんをいじめるなら、僕を殴れ」


 ヨシェはいつもそう言って兄をかばい、いじめっ子たちの前に立ちはばかる。


「生意気だな。やっちまえ!」


 いじめっ子の攻撃がヨシェに向かっても、ヨシェはただ耐えているだけで、そこでイェースズが泣きながら逃げ出すというのがいつものパターンだった。


「また今日も、ヨシェに助けてもらったのか? 家には帰らなかったのか?」


 作業の手も止めず、ヨセフは家を見ることもなく訪ねた。


「帰った」


「お母さんがいただろう」


「お母さんなんて嫌いだ!」


「お母さんが嫌い? どうして?」


「だって、いじめられるのは僕が悪いって、お母さん、言うんだもの。お母さん、きっとあいつらとグルなんだ。グルになって僕をいじめようとしているんだ」


「自分の子供をいじめる母親が、どこの世界にいるか」


「だって……」


 ふてくされて下を向くイェースズの前で、ヨセフは悲しそうに顔を上げた。


「いいか。お母さんの言うことは正しい。人にいじめられるってことは、目に見えない世界でのそれなりの原因があるはずだ」


 それからヨセフは手に持ったのみをイェースズに示し、息子を見た。


「この鑿は、心の中のでこぼこしたところを削る道具だ。そして、あのカンナ……」


 建物が完成したら部屋の中になるであろう空間の土間に転がっているカンナを、ヨセフは指差した。


「それは自分の心を丸くしろ、何でも自分が、自分がという思い上がりをなくせということだ。なあ、こんな大工道具を通してでさえ、神様は我々に人としてあるべき心の持ち方を教えて下さっているんだ。神様は、無駄なものは決して作られていない」


 くちびるをかみしめて、イェースズは父の言葉を聞いていた。


「そしてこのコンパスはだなあ、これで描いた円の中から出ないように、人は欲望や感情を抑えていけってことだ。怒りという想念は、コンパスの円からははみ出るぞ。まずはどこまでも相手を許さなければならないっていうのが、こういった大工道具を通して神様が我々に与えて下さっているメッセージだと思うんだがな」


「お父さんも嫌いだあ!」


 イェースズはまた大声で叫ぶと、泣きじゃくったまま屋根から地面へと下りた。


「お父さんもお母さんと同じじゃないか。なんでゼノンなんか許さなきゃならないんだよお。僕をこんなにひどい目に合わせたのに」


 そのままイェースズはガリラヤ湖の方に向かって、林の中をわめきながら駆けて行った。ヨセフはそんなイェースズを悲しそうな顔でもう一度見てから、目を落として作業に戻った。



「どうしてあんなやつ、許さなきゃならないんだ」


 走りながらも少年イェースズの心の中では、このことばかりが反芻されていた。イェースズにはどうしても理解ができず、父も母も頭がおかしいとしかこのときには思えなかった。

 ゼノンのいじめは、一度や二度ではない。イェースズなりに今日はこれをして遊ぼう、これこれのものを泥で作って遊ぼうなどと思うたびに、ゼノンとその仲間の四、五人の悪ガキがやってきて、イェースズの計画をことごとく破壊してしまうのである。

 なぜ自分だけこんなにいじめられるのかと思うと、イェースズは口惜しくてならなかった。

 自分の両親はナザレ人だが、ゼノンの父親はパリサイ人の律法学者アンナスで、この近辺では人々の信頼も厚く、安息日ごとに会堂シナゴーグ聖書トーラーを朗読している体格のいい男だ。しかしそのことが、ゼノンのイェースズへのいじめに関係あるのかどうかまでは、幼い彼の頭ではまだ処理できなかった。


 いつしかイェースズは、ガリラヤ湖の波打ち際まで来ていた。よく晴れた空を反映して湖水はどこまでも青く、右手の方も左手も、湖は丘陵に囲まれていた。正面の南の対岸は青緑に霞み、水平線のようにも見えた。。


「絶対に許せない」


 湖岸に腰をおろしたイェースズは、水面に石を投げながらも何度もそうつぶやいていた。いじめを受ける原因はイェースズ自身にあると父は言うが、どう考えても自分にそのような報いを受けるべき罪を犯した覚えはない。

 イェースズは目を上げて、遠くを見た。遥かな対岸と水平線に向かって、湖水はどこまでも果てしなく広がっている。これらもみな神様がお造りになったものなのか……それなら……こんな素晴らしい大自然をお造りになった神様なら、きっとゼノンを懲らしめて下さるに違いないと、そんな思いまで彼の中に湧き上がっていた。自分は何も罪を犯していないというのが、その自信の根拠だった。悪いのは全部ゼノンたちの方だというのが、ほとんど信念となっていた。


「神様。僕を苦しめるあのものを罰して下さい。すべてのことが僕の言葉通りになりますように」


 はっきりと強い言葉に出して、彼は湖に向かってそう叫んだ。今やイェースズの憎悪の炎は、湖全体を覆い尽くさんばかりだった。


「畜生! 畜生!」


 イェースズは湖の右手の岸を囲むの小高い丘を見た。あの山を動かせるくらいの力があれば、ゼノンなんか恐くない……そのうち、イェースズの思考はどんどん発展していった……自分には、山を動かせるくらいの力ならある。今まで気づかなかっただけだ。そうでなければ、自分はあまりにもかわいそう過ぎる……そう思っているうちに、またイェースズの目からは涙があふれてきた。


 彼は立ち上がった。

 ふと、昼間なのに湖の向こうの水平線の上に星が見えたような気がした。その次の瞬間、突然全身が力で満たされた気がした。ものすごいエネルギーが、体全体に体当たりしてきたようだ。今のこの強い信念をもってすれば、山でさえ動かすことができると、彼は確信した。要は自分を無にして、大自然の中に自分を置くことである。

 涙を吹き払い、怒ったままの恐い顔で、イェースズはもと来た道を大股の勇み足で歩きはじめた。

 林が途切れた。

 そこから町が始まる。イェースズはそのまま、町に入った。

 体中にエネルギーが満ち溢れていて、それが今なら何でもできるという自信を町を歩くイェースズに与えていた。


 その時、向こうの方から自分と同じ年格好の男の子が走ってくるのが見えた。見知らぬ子だ。イェースズは最初は気にもとめずにいたが、その子供はイェースズとすれ違いざまに激しく肩をぶつけてきた。

 イェースズの意識が、初めてその子供に向かった。それと同時に、今イェースズが発散している憎悪の念が、一気にその子供に集中した。


「この野郎。痛いじゃないか! おまえなんか、倒れちまえ!」


 その時、その子供はたちまち倒れ、足を抑えてもがき苦しんでいた。

 さすがのイェースズも我に返って息をのみ、呆然とそれを見ていた。

 今自分が言った言葉の通りになってしまったのである。心臓が激しく鼓動を打ち始めた。そして自分の言葉が、このようにいとも簡単に現象化したことに驚いた。

 子供のすぐあとから歩いてきていたその子供の両親と思われる大人が、慌てて子供に駆け寄って抱き起こした。それでも子供は歩けないらしく、うめきながら父親の背に抱えられていた。

 それを見ながらイェースズは、これでいいんだと自分に言い聞かせていた。わけもなくぶつかってきたやつなど、歩けなくなって然りだと思っていたのである。そして少しだけ、心に満足感を覚えた。

 だが、まだどこか半信半疑だった。先ほどは自分には山をも動かせる力があると考えたりもしたが、まさか本当にそうなるとは思ってもいなかったので、今起こった出来事がまだ信じられなかったのだ。やがて倒れた子供の父親が、イェースズをにらみつけた。


「おまえ。さっきうちの息子に、何か因縁つけていたな」


 イェースズは何も言わず、その父親に背を向けた。


「おまえは、ナザレ人の、大工のヨセフの息子だったよな!」


 イェースズはそんな言葉を気にもとめず、町の中心へと向かって走っていった。走りながらイェースズは考えた。

 自分には、ものすごい言葉の力が授けられたのだ。これで、ゼノンも恐くない……だが、待てよ……とも思う。もし、いざという時にこの力が働かなかったら……。それでイェースズは、この力を試してまわろうと思ったが、もうすぐ夕暮れで、しかも空模様も怪しかったのでイェースズは家に帰ることにした。


 夕暮れ近くになって、果たして雨が降りだした。その頃、急に家の入り口の土間の方が騒がしくなった。イェースズが飛び起きてのぞいてみると、昨日イェースズとぶつかってイェースズに倒された子供の父親が、血相を変えてヨセフに詰め寄っていた。


「だからあ。あんたの息子のせいで、俺の息子は歩けなくなっちまったんだ」


「なんだって? 私の息子? イェースズかい? ヨシェかい? それとも、歩きだしたばかりのヤコブがかい?」


 ヨセフの声からして、どうも真面目には受けあっていないようだ。


「イェースズだよ。何でも、倒れちまえと言ったら、本当にうちのせがれは倒れちまったっていうじゃないか」


 イェースズの耳に、ヨセフの笑い声が続いて聞こえた。


「そりゃあ、あんたの息子が、うちのイェースズの言うことを素直に聞いたってだけのことじゃあないか」


「何だとお!」


 倒れた子供の父親は、ものすごい剣幕でヨセフに向かって怒鳴った。それでもヨセフは微笑んだままその男に背を向けてかがみ、大工道具の手入れをしていた。


「祭司に訴えてやる。このナザレびとめ!」


「どうぞ、ご自由に。イェースズがこののこぎりかなんかであんたの息子の足を傷つけたとかいうのなら話は別だが、言葉だけで倒したなんて、あんな天使も復活も認めない石頭のサドカイの祭司たちが取り合ってくれると思うかね」


 男は言葉を返せず、口惜しそうに背を向けた。そして扉の所で、振り向いて言った。


「あんな恐ろしい子供を持つあんたらとは、同じ町には住めない。さもなくばあんたの息子に、人を呪わずに祝福だけをするように言い聞かせておけ!」


 男が去ってから、恐る恐るイェースズは顔を出した。ヨセフはイェースズを見もせずに言った。 


「イェースズよ。言葉というものには恐ろしい力があるということを、わしは聞いたことがある。よく覚えておくんだな。神様が天地を創造されたときも、『光あれ』という言葉で始められたと聖書トーラーに書いてあることを忘れない方がいいぞ」


 イェースズはそれには答えず、黙って入り口の方へと歩いていった。 


「わしはいいがな、お母さんにだけは心配をかけるなよ」 


「何が母さんだ!」 


 イェースズは鼻を鳴らし、外へ出て行こうとした。 


「この雨の中、どこへ行くんだ。しかも、もうすぐ日が落ちる。日が落ちたら安息日が始まるぞ!」


 その言葉が終わらぬうちにイェースズの姿はもうなく、開けっ放しとなったドアからは雨の香りが微かに漂ってきた。 


 それまで怒鳴りこんできた男の剣幕の恐ろしさに奥の部屋に隠れていたマリアが、幼いヤコブを抱いて現れた。 


「あなた。いったい何が……?」 


「イェースズが言葉で言っただけで子供の足が立たなくなったって、親が怒鳴りこんできたんだ」 


 マリアの顔が曇った。ヨセフは、それでも作業を続けながら話していた。 


「こんなことってあるんだろうか」 


「言葉で人を倒したってことですか?」 


「ふん」 


 ヨセフは鼻で笑った。 


「そんなのはどう考えたって、まともな話じゃあない。どうせでっち上げに決まってる。それよりも、今まではいじめられて泣かされて帰ってくるばかりだったイェースズが、初めて他人様の子供に危害を与えて、それでその親が怒鳴りこんできたなんて初めてだ。今までと全く逆じゃないか」


「言葉だけで……」 


 マリアはまだ、そちらの方にこだわっているようだった。しばらく沈黙の後何かを思いだしたように、ヨセフは道具の手入れをする手を止めて不意に立ち上がった。 


「しかしそう言えば、あの子はおかしな子だよなあ。いじめられてばかりいるかと思えば、時々は突然わけの分からないことを言っていた」 


「ええ、昼でも天使やサタンが飛んでるのが見えるって」 


「いつごろからそんなだったかなあ」 


「五つになったばかりの頃だったかしら。でも、昨日帰ってきた時はまるで目つきが変わって、まるで別人のようでしたわ」 


「たしかに、そんな気がした」 


 マリアは少し目を伏せていた。二人の夫婦の間には、言葉に出してはいえない暗黙の了解がある。マリアはもともと、メシアの母候補として修道生活をしていた。そのマリアが選ばれて、ヨセフのもとに嫁がせられたのだ。そしてイェースズが生まれた時や、その直後のいくつかの不思議な出来事も、夫婦の共通の記憶の中に残っている。だが夫婦は、イェースズが生まれてから一人前になるまではと、普通に育てることにしていたのだ。 

 そのマリアが、思い切ったように顔を上げた。 


「実は私、あの子が生まれる前に……」 


 ヨセフは視線を、さっとマリアに向けた。 


「あ、いえ。食事のしたく……」 


 マリアは慌てて立ち去った。マリアは、イェースズが生まれる前のあの不思議な体験だけは、まだヨセフにも話していないのだった。


 雨は肩を微かに湿らす程度の小雨で、その中をイェースズは湖岸を左手に見て、西にの方へと駆けた。

 水滴が程よく肩に当たる。それがなぜか気持ちよかった。 

 日はとっぷりと暮れてすでに安息日になっており、さらに雨も降っているせいか、人通りは少ない。

 『神』が六日でこの世を創造され、七日目に休まれたという聖書トーラーの記述から、週の最後の日の七日目、正確には六日目の日没から七日目の日没にかけては安息日として一切の労働は禁じられている。

 幼いイェースズには、どうしてもこの安息日というのが納得いかなかった。だからこうして今も安息日であるにもかかわらず、雨の中を走っている。


 途中からは歩きだした彼は三十分もして、小川に出くわした。湖からすぐのところで川は小さな滝となり、さらに湖に向かってわずかな土の川原とともに小川は流れている。その水は上流の土砂を運んで黄色く濁り、流れもいつもより速かった。

 その小川にかかる小さな丸太を渡し打だけの橋の上からしばらく流れを見つめた後、イェースズは意を決して川に向かい、


「川の流れ、ここに集まれ」


 と、川原の一カ所を指差して言葉を発してみた。だが、状況は何ら変わらなかった。

 一瞬失望の色を見せたイェースズだったが、ふと何かに気づき、今度は力強い念を発した。

 川の水が渦を巻いて川原の一カ所に穴を掘り、そこへ集まる様子を強く念じたのである。そしてもう一度、言葉を発した。


「川の水よ。ここに集まれ」


 果たして濁流は急にその淵を乗り越え、川原の一カ所に穴を開けて溜まった。


「うわッ!」


 イェースズは思わず、一歩後ろに飛びのいた。そして、穴に溜まった水を見つめた。言葉の力だけではなく、強い念を乗せなければだめだということも、この時に察した。


「濁った水よ。清くなれ」


 水はたちまち濁水から、透明な水に変わった。前も後ろも右も左も一面にそぼ降る雨の中で天と地を結ぶ無数の銀色の糸にじかに触れ、大自然の懐に抱かれている自分を認識し、かつ自分というちっぽけな存在を捨てて大自然と一体化した時にものすごいパワーが流れ込んでくるというそんな感覚を彼は体験した。

 しかし幼い彼は、なぜ自分に突然こんな力がわいて出たのか理解できないでいた。今認識している自分は本当の自分ではなく、本当の自分を百とすれば認識できる自分はそのうちの十で、残りの九十の力はどこかほかの世界に置いて来ていたのだが、今やその九十の力を取り戻したのではないかという気さえした。

 そしてそのことは、彼が常々思っていた疑問とも関係ありそうだった。

 それは、自分は生まれてくる前にはどこにいたのかということである。人が死んだ後のことについてなら、父も母も教えてくれる。

 天に神の国があり、そこに入れる人と地獄に落ちる人とがあるという。だが、生まれてくる前のことについては、誰一人教えてはくれない。


 そんなことを考えるより今は自分の力を試す方が先だと、彼は今度は泥ですずめを作った。一つ、二つと羽まで広げさせて、今にも飛んでいきそうな形に作ったのである。そのあたりは、さすがに大工の息子だった。


「あッ!」


 その時、近くで声がした。近所に住む中年の女だ。


「あんた、何やってんの。安息日にそんな泥のすずめを作るなんて!」


 その小太りの女を一瞥したイェースズは、何も答えずに目を落として、すずめを作ることに熱中した。女は急ぎ足で去っていった。

 やっとすずめは十二羽になった。その十二羽目のすずめを作り終えた時、


「イェースズ!」


 と、また近くから、大声で呼ぶ声が聞こえた。紛れもなくイェースズの父のヨセフの声だった。知らせを聞いて、慌てて駆けつけてきたのだろう。


「どうして安息日にしてはならないことをするんだ!」


 イェースズはそれにも答えず、泥のすずめたちに強い念を送った。


「飛べ!」


 イェースズのエクトプラズマの波動が強い念となって泥のすずめに物理化現象を起こし、すずめたちはふわりと空中に浮遊した。すずめたちはそのまま、ふわりふわりと夕闇の色濃くなった空へと飛んでいった。ヨセフはただ口をぽかりと開けて、それを見ていた。


 二日後、イェースズは再びその場所に行ってみた。その日は、空はよく晴れていた。

 滝のある小川に着いた時、幾人かの子供が群がっているのがイェースズの目に映った。ゼノンとその手下の悪がきたちだ。いつもなら見つかる前にこそこそ逃げ出すイェースズだったが、今日は自信たっぷりにそのそばまで歩いていった。

 ゼノンたちは小川のそばにある清水の水溜まりを不思議がって、のぞいたり指を水に入れたりしている。もちろんそれは一昨日にイェースズが念動で作ったもので、今日もまだ川の水は濁色であるだけに、ゼノンたちには不思議この上ないもののようだった。


「あ、ナザレの子だ!」


 ゼノンが最初に顔を上げて、イェースズを指差した。イェースズは臆することもなく、どんどんと近づいていく。今日はいつもイェースズの身代わりになる強気の弟のヨシェがいないだけ、ゼノンたちは大威張りでイェースズの前に立ちふさがった。


「やい、何しに来た!」


「僕が作った泉に触るな!」


 普段と全く違って自信に満ちたイェースズの態度に、ゼノンは一瞬だけ驚いた様子を見せたが、すぐにいつもの調子を取り戻した。


「なに意気がってんだよ! おまえが作った泉だと? これがか!」


 そう言ってゼノンは泉を見て、またイェースズをにらみつけた。


「こいつ、夢でも見てるんじゃないのか」


「本当に僕が作ったんだ!」


「なに? じゃあ、おまえが作った泉だって言うんなら、そんなものこうしてくれる!」


 ゼノンはそばに落ちていた柳の枝を拾うと、それで小川と水溜まりの間に溝を掘り、水溜まりの水を全部小川へと流してしまった。ゼノンたちの歓声の中、イェースズは黙ってそれを見ていた。イェースズがいつものように泣いて立ち去るかと思っていたゼノンたちにとって、それが意外だったようだ。


「何だこいつ、気味悪いな。黙って立っててよお。恐い顔しやがって。てめえがそんな顔したって、恐かねえんだよ」


 そう言ってから、仲間に、


「行こうぜ」


 と促して、ゼノンは立ち去ろうとした。


「待てよ!」


 鋭いイェースズの言葉が、それをさえぎった。


「な、何だよ。まだなんか用があるのか?」


「何で僕にばかり意地悪をするんだ。僕がどんな悪いことをしたって言うんだ。この穴の水が、どんな悪いことをしたって言うんだ!」


 普段のイェースズに決して見られることのない剣幕にゼノンたちは足を止めて、思わずたじろいでしまった。そのゼノンたちを、イェースズはものすごい形相でにらみつけて言った。


「おまえの体なんか、枯れてしまえ!」


 果たしてその言葉通り、ゼノンはへなへなとその場に倒れ伏してしまった。

 一目散に逃げて行ったゼノンの仲間たちを追うこともなく、イェースズは鼻歌交じりに家路についた。

 そして、心の中で、つぶやいていた……僕にはもうできないことなんて、何もないんだ。僕にはすごい力がある。僕はきっと、神様の子供に違いない。この力があれば、もう恐いことなんかないぞ。いい子ぶっている律法学者も、偉そうな祭司も、ローマの兵隊も、みんなみんな恐くなんかない。もう誰にいじめられたって、ヨシェの助けなんか借りない!……そのうち、家に着いた。


 その日の夜、珍しくヨセフは激しく怒った。

 ゼノンの父である律法学者のアンナスが、また怒鳴りこんできたからだ。今度は相手がパリサイ人の律法学者だけに難物だったが、いつもの調子で取り合わずに、何とかヨセフはアンナスを帰した。


「ふん、パリサイ人の偽善者め!」


 そうつぶやいた後、ヨセフはイェースズを呼んだ。ヨセフは多分に感情的になっているようだったが、イェースズはその「偽善者」というののしりを耳にしていただけに、今度はそれほど覚悟はせずに父の前に出た。


「この野郎!」


 いきなりヨセフはイェースズの耳を、激しく引っ張った。


「おまえのせいで、受けなくてもいいそしりを受けることになるんだ。ただでさえナザレ人は白い目で見られているというのに!」


「痛い、痛い! 放せよ!」


「父親に向かって、放せとは何だ!」


「畜生! いい加減な告げ口をしたやつらは、みんな目が見えなくなってしまえ!」


 ヨセフはそれを聞いてまたかっとなり、我が子の耳をつかんだまま振り回した。


「放せって言ってるだろ! 父さんは、僕が誰だかも知らないくせに。僕は何でもできるんだぞ! 僕にそんなふうにしない方が、身のためだぞ!」


 その時、


「ごめん下さいよ」


 と、言って、入り口から入ってきた人がいた。イェースズの父お同じくらい年配で、頭髪の薄い男だった。ヨセフも顔は見知っている。教師ラビのザッカイだ。


「今、なんだかただならぬ言葉が聞こえてきましたのでねえ」


 ヨセフはイェースズの耳をつかんだ手を放した。イェースズは何度も耳をなでていた。

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