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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第2章 東方修行時代
12/146

旅立ち

 カペナウムは夏だった。

 空が青い。その青空の中に、槌音は響いていた。そしてそれは、湖畔の涼しい風の中に溶けこんでいく。

 湖水も空を反映してどこまでも青く、湖の周りを囲む小高い丘陵の緑も一段と目に貧しかった。

 そんな広々とした湖畔がよく見える町外れの新築現場で、ここ数カ月イェースズは毎日父とともに作業に当たっていた。


 新築の家は、屋根を残して、外装はほぼ出来上がっていった。そして昼過ぎ、少し休憩しようと父が足元の方から言ってきた。おなかも減った。イェースズは降り注ぐ陽光に、貫頭衣の袖で額の汗をぬぐった。

 そしてど十二段のはしごを降りかけていた時である。下の方から父の声ではない声が彼を呼んだ。


「君がヨセフの息子、イェースズですか」


 そんな言葉にイェースズが振り向いて目に映ったのは、数人の見たこともない風体の異邦人たちだった。

 そのうちの一人は頭に布を巻き、それに宝石を埋めたいかにも高貴そうな若者で、それに通詞らしき男が二人ついていた。

 ほかは、僧侶と思われる五、六人の中年男だった。

 イェースズははしごの途中で頭だけで振り向き、何も答えずにそんな風変わりな一行を見詰めた。

 高貴な若者が、通詞に何かささやいていた。それはギリシャ語に訳され、もう一人の通詞がアラム語でイェースズに語りかけてきた。


「君がイェースズですかね」


「そう、ぼくがイェースズだけど」


 イェースズはギリシャ語で答えた。ギリシャ語の通史が驚いたような表情をした。もう一人の通詞は、これでお役ご免だ。


「ぜひあなたに会いたくて、エルサレムから探しに来ました」


 そのエルサレムという言葉を、家の中から出がしらにヨセフは聞いた形となった。イェースズの父が脇に立ったことには何の意も向けず、異国の貴人は通詞を通してイェースズに語りかけ続けた。


「どうかゆっくり話がしたいので、あなたの家を教えてほしい」


 イェースズはちらりと、横にいる父を見た。それから、ただうろたえているような表情の父から何も言わずに貴人へと目を戻すと、イェースズは父をよけいうろたえさせるかのように手短に自宅への道順を教えてしまった。


「では、のちほど」


 異国の貴人と僧たちは、それで去って行った。面長の褐色がかった皮膚の色は、ただ単に民族だけではなく人種も違うようだ。


 イェースズは黙ってその後ろ姿を一瞥した後、はしごを降りて新築の家に入った。家とはいってもまだ屋根はついていないので、真夏の日差しは遠慮なく飛び込んでくる。


「いったい何なんだ。あの人たちは」


 石材に腰をおろした息子を見下ろし、突っ立ったままヨセフはつぶやいた。


「さあ、何なんだろう。よく分からないけど」


 イェースズはヨセフを見もせず、そこに置いてあった手ぬぐいで汗をぬぐい始めた。


「また論争でもふっかけに来たんじゃないのか。エルサレムと言っていたし、あの一年前のことは関係あるんじゃないか?」


「さあ、どうなんだろう」


「おまえもまたあの時のように、議論でもするつもりか?」


「あの時って?」


「一年前、エルサレムで……」


「ああ。でももう、しないよ。頭でっかちの議論なんて意味ないし、真理とは人と人との議論から生まれるものではないからね。最近、僕はそう思うようになったんだ」


 そう言ってからイェースズは初めて父を見上げ、さわやかな笑顔を作った。

 もはや少年というより、青年らしさがイェースズの体の随所からにじみ出始めていた。幼い弟たちと比べてみれば、そのことはよくわかる。腕に目立つ筋肉や血管、引き締まってきた頬、そして何より父への言葉尻一つも妙に大人びてきていた。

 ヨセフも安心したような顔つきでため息を一つつくと、近くの石材に腰をおろし、老人の目で思春期を迎えつつある我が子を見た。


 あのエルサレムでの出来事以来、イェースズは何かを悟ったらしい。

 毎日ある一定の時間だけを書物に没頭することは変わらないにしても、律法学者と論争することもなく、自分が書物から得た知識を人との話の中で話題にすることもなくなっていた。

 ましてやあの特殊な能力においてはなおさらで、父の生業に共に携わりつつ、ごく普通の少年からごく普通の青年の入口へとさしかかっていた。


「さあ、もうちょっとで隅の石を積み終るから、やってきちゃうよ」


 イェースズは立ち上がり、それでもあの異邦人たちが気になっている父をあとに屋根のはしごを登っていった。


 夕方家に戻ってからヨセフがドアを開けると、すでにあの異邦人たちが彼ら父子の帰りを待っているのが見えた。

 狭い部屋に四、五人がかたまって座り、ヨシェが彼らの相手をしているようだった。


「ねえ、お父さん」


 困ったような顔をして、さらに次の子を妊娠していることがはっきりと目立つマリアが、入口の方に小走りに出てきた。


「ああ、あの人たちなら、わしらのところへも来たよ」


 ヨセフは仕事道具を肩からはずし、それらを作業場の隅におろした。


「なんか、イェースズに会いたいんだとか」


 脇目もふらないヨセフの横でマリアがおどおどしているうち、もうイェースズはその客人たちのいる部屋の方へ歩いていった。


「やあ、イェースズ」


 と、おそらく自分の国の言葉でそういったのであろう異国人たちはさっと立ち上がり、イェースズの肩に笑顔でふれた。そのあと何か言いながら、貴人はイェースズの弟のヨシェを示した。


「こちらは弟さんだそうだね」


 通詞がその言葉を、ギリシャ語でイェースズに伝えた。


「いやあ、びっくりしました。最初はあなただと思って話しはじめたのですが、違うと言うし、双子かというとまたそうでもないと。たとえ兄弟とはいえ双子でもないのにこんなにそっくりだなんて珍しい」


 表情豊かに貴人は立ったまま話すが、それを伝える通詞が無表情なのがちぐはぐといえばちぐはぐだった。イェースズはすぐ貴人に座るように促し、自分もその向かいに腰をおろした。

 はぐらかされたからか若干その表情に変化があったが言われた通りに座った貴人は、年のころは二十を一つか二つすぎたくらいの若さに見えた。


「ご来意をお伺いしましょう」


 イェースズはそう言ったが、幼いヤコブやユダは恐れをなしているのか、気配はあっても奥から出てきそうもなかった。


「私はカリンガのクシャトリヤで、ラバンナといいます」


「クシャトリヤ?」


 イェースズの反問に、通詞が、


「王様の家族です」


 と、答えた。


「この方たちは?」


 イェースズの目はラバンナと名乗った貴人の脇の、僧たちに向けられていた。お世辞にも貴人と釣り合っているとはいえない、みすぼらしい風体だった。しかし、ラバンナは決して彼らを下においてはいないように扱っている。


「この方たちは、私の国のバラモンの家、つまり僧侶たちです」


「ずいぶん恭しくされているようですね」


「わたくしの国では王族クシャトリヤより僧侶バラモンの方が、身分が上ですから」


 それは、イェースズの国の常識では考えられないことだった。しかし、だからといってイェースズは驚いた様子を見せたわけでもなかった。


「ところで……」


「そう、私は王族の身ではありますが、どうしても真理の道を究めたく諸国を旅しているものです」


「真理を求めるのに、なぜ旅をする必要があるのですか?」


「私の国ではだめです。王族クシャトリヤは一生王族、僧侶バラモンは一生僧侶で、王族が道を求めたりするとそのことが僭越だとして、僧侶たちの顰蹙ひんしゅくをかいます。でも、私はたとえ身分不相応でも、道を求めたいのです。そこで、エジプトにも造られている私の国の僧院を訪ねました。そこで、エルサレムでお祭りがあると聞いて出かけたわけです」


 エルサレムの祭りとは、過越すぎこしの祭りのことだろうと、イェースズはすぐに思った。もしそれが一年前の過越の祭りのことだとすると、だいたいこの貴人の話は先が見えてくる。


「そこで、君に会ったんです。偉い大人の律法学者とわたりあっていた君と……」


 やはりという表情をイェースズの背後にいたヨセフは見せ、額を両手で覆った。


「私はどうしても君と話がしたいと思った。そこで、君のことをいろいろ聞いて回りました。言葉の訛りからどうもガリラヤの人らしいというので、このガリラヤまで来ていろいろ探し回って、そして不思議な力を使う少年がこのカペナウムにかつていたと聞いてやってきたんです。その時に、もうこれは私が探している人に違いないと思って聞き回っているうちに、君が湖のそばで家を建てていると聞いてやっと見つけたのが今日ということです」


  ラバンナはそこまで一気にしゃべって、ふと息をついた。


「どうですか? 間違いなく君でしょう? あのエルサレムの少年は……」


 少し間を置いてから、イェースズはゆっくりとうなずいた。ラバンナの顔にぱっと明るさがさし、そして彼は勢いよく立ちあがった。


「ああ、やはりそうですか」


 次に、ラバンナはイェースズに深々と頭を下げた。


「どうか私に、真理の道を教えてください」


「あ、頭をあげて下さい」


 さすがにイェースズも戸惑ったようだった。


「僕があなたに何かを教えるなんて、そんなことはできません。そんなの、困ります」


 こんな時ばかり、イェースズは少年らしさを残していた。


「いえ、少しでもいい。私が常日ごろ疑問に思っていることを聞いてくれるだけでもいいんです」


「でも僕は、あなた方の教えについてもまだよく知りませんし」


「とにかく、二、三日はこの家においてくださいませんか? 寝るのは作業場でも土間でもかまいませんから」


 ラバンナは、ヨセフとマリアへも目を移した。いきなりの申し出に、イェースズの両親はうろたえるだけだった。


「お願いします」


 ラバンナは、何度も頭を下げた。


「まあ、二、三日なら」


 ぶつぶつとヨセフが答えると、ラバンナは飛び上がらんばかりにして喜んだ。


「ああ、ありがとうございます。明日は私が国から持ってきた財産で、あなた方を夕食の宴に招待しますから」


 翌日の夕方、その言葉通りカペナウム随一の宴会場で、ヨセフ、マリア、イェースズを招待しての晩餐が行われた。

 そしてその後イェースズの家に戻り、ラバンナはイェースズと通詞を加えた三人だけで、灯火揺れる狭い部屋で座っていた。

 ラバンナは、ほろ酔いのいい気分のようだった。イェースズも少々ぶどう酒を飲んでいたが、ほとんど普通の態度でラバンナを見ていた。ラバンナの目は部屋の隅に積んである幾多の巻物に注がれていった。


「これ、みんな読んだのですか?」


「ええ」


 臆することもなく、イェースズはうなずいた。


「ところで」


 と、今度はイェースズの方から聞いた。


「あなた方の教えは、どういう書物をもとにしているのですか?」


 こうしてイェースズが今ここでラバンナと向かい合っているのも、ラバンナが奉ずる教えへの関心がイェースズにもあったからだろう。


「これです」


 ラバンナが取り出した巻物は、開いてみてもイェースズにはわけが分からない文字で何かが書かれているだけのものだった。


「これは、ヴェーダという教えです」


 ラバンナは最初の一節を朗読し、それを通詞が分かりやすくギリシャ語に訳してくれた。イェースズは無表情でそれを聞き、その後しばらくの沈黙が部屋の中に流れた。

 ラバンナはヴェーダの教えを奉じているといっても専門職ではなく、王族だ。彼の国では僧侶が一つの階級をなし、選ばれた種族として神に仕えているという。その点、民族全体が神に選ばれたとするイェースズたちの教えとは、若干の相違はあるようだった。

 イェースズは、ヴェーダの教えについて若干ラバンナに質問してみた。ラバンナの話によると、その教えは主にラバンナの国であるカリンガやそれを含む部分の帝国に広まっているという。今回ラバンナとともに来ている僧たちは、そのエジプトの僧院の者たちだということだ。

 ただ、古い教えゆえにさまざまな分派を生じ、その一派であるミトラ神の信仰は遠くローマにも及んでいるという。そして何よりもイェースズにとってピンときたのは、ヴェーダの内容がゾロアスターのゼンダ・アベスタと酷似しているかのように思えたことだった。

 そこでイェースズは、ゼンダ・アベスタのことを二、三話題にしてみた。そしてイェースズがアフラ神やダエーワ、およびいくつかの神々の名を口にするたびに、通詞を通してそれを聞いたラバンナの顔色は変わっていった。


「君はどこで、誰に、そのことを学んだのですか?」


「この書物ですよ」


 イェースズはゼンダ・アベスタを示したが、ヘブライ文字に翻訳されているそれはラバンナには分かりようもなかった。ただラバンナはその書物を手にし、感心したよう見入っていた。


「それはパルチアという国のザラスシュトラという人が編纂したもので、そのザラスシュトラの教えでもあるんです」


 と、イェースズは解説をつけた。


「ザラスシュトラといえば、ゾロアスターのことですな。つまりは、ヴェーダの教えの亜流だ」


「真実の教えに、本流も亜流もないでしょう」


 イェースズは少し笑ってから、後ろ手を伸ばして別の巻物をつかんだ。


「そして、これが」


 それはイェースズらの民族の聖書トーラーであった。


「ここには、天地は神が七日で創られたと書かれています。それは不滅の聖性のアムシャ・スプンタという七位の大天使と、うまく符合するのです。確かに我われユダヤ人は七という数を尊びますけれど、このゼンダ・アベスタのアムシャ・スプンタはそのことだけでは説明がつかないんです。でも、我われユダヤ人の中でも私の家族が属しているエッセネの教えでは、一位の神は三位一体でさらに七位の御神霊となって出現されたと教えられていまして、その七位の御神霊がすなわち神様エロヒムなんですね」


「ほう……」


 すでにラバンナは、言葉を失くしかけていた。イェースズはさらに、一気にしゃべった。


「ですから、何々派とか何々(びと)とかで教えを区分することは意味のないことだと、僕は思ってるんです。ましてや人種、社会的身分などで教えが変わったりすることがあるでしょうか。だって、真理というものは一つしかないはずでしょう」


「おおっ」


 ラバンナは思わず立ち上がり、イェースズの手を取った。


「そう、まさしく言われてみればその通りだ」


「そうでしょう。太陽はどんな民族のどんな階級の人々も、分け隔てなく光を注いでくれますからね。ユダヤ人がヤハエ(アドナイ)の神様に創られ、パルチア人はアフラ・マツダという別の神様に創られ、あなた方はブラフマンというまた別の神様に創られたなんて、そんな馬鹿な話がありますか?」


 とても十三歳の少年から聞く話とは思えない内容に、ラバンナは目を丸くしていた。だからその後も延々と話が続いた後、翌日になってヨセフやマリアが目をむきだすようなことをラバンナが言い出すのも無理はなかった。


 そして翌朝の食事の席上でである。


「あなた方の息子を、ぜひ私の国へ連れて帰って僧として修行させたいのですが……」


 突然ラバンナにそう切り出され、ヨセフたちはしばらく何も答えることができなかった。


「あ、あなた方の国とは、遠いのですか?」


 やっと口を開いたかと思うと、ヨセフが発した言葉はそんな陳腐な内容だった。しかし、それだけ言うにしてもヨセフにとっては必死の思いだったようだ。


「し、しかし私の家はそんな裕福ではない」


「経済的負担はおかけしません」


 当のイェースズは、昨晩からそんな話が出ていたのかあるいは初めて聞いたのかは全く分からぬくらい、平然とパンをほおばっていた。


「そ、即答は、とてもできかねますな。じ、時間を下さい」


 それきりその食事が終わるまで、だれも口をきくものはいなかった。

 ヨセフはその日、仕事を休んだ。奥の部屋にマリアと二人きりでこもり、長らく黙ったまま座っていた。

 マリアは脅えきっていった。異様な風体の異邦人の突然の来訪からして、心理的圧迫は十分に強い。肌の色が違い、言葉が違い、そして何よりも彼らの特異な体臭が妊娠中の彼女のナーバスな神経を余計に刺激していたのだ。


「イェースズを連れて行くなんて、あの人たちは何を考えているの? いったいどこの国の、どんな人たちなの?」


「さあ、そんなことをわしに聞いても、わしにもよく分からん。ただ、東の国の王の一族のものだといってはいるが」


「東の国って、パルチアよりも東?」


「だろうな」


「そんなところにも国があるなんて……。そんなところにイェースズを連れていって、どうするつもりなのかしら」


「あの人たちの言い分では、勉強をさせればすごい人物になるの要素をあの子は持っているから、ここにおいておくのはもったいない、自分の国で勉強させたいということだ」


「そんなの、本当なの? 奴隷として働かせるつもりではないの?」


「でも、それなら何もイェースズでなくても、その辺の子供を手当たり次第に連れていくだろう。それにイェースズたった一人を奴隷として連れていったって、彼らとて何の足しにもならんだろう」


「昨日の夜、イェースズはあの人たちと、いったい何の話をしていたのかしら?」


「また、聖典の話だろうな」


「ああ、本当にもう、私にはあの子が分からない。去年のエルサレムのことといい……」


 マリアは、とうとう両目を押さえてうつむいた。ヨセフはしばらくマリアにそうさせて、マリアが頭を挙げるの待っていた。


「そもそも去年のエルサレムのことが、今回の引き金でもあるわけだ」


「エルサレムなんて、行かなければよかった」


「とにかく……」


 意を決したように言い放ち、ヨセフは立ち上がった。


「本人の意思を聞いてみよう」


「でもあの子が行くって言ったら、あなたは行かせるつもり?」


 背を向けたヨセフにすがりつくように、マリアがほとんど叫びに近い声をあげた時、ヨセフはもう我が子を呼んでいた。


「イェースズ!」


「はい」


「さっきの話だがな」


 入ってくるなりイェースズは手で両親の言葉をさえぎり、その前にひざまずいた。


「行かせてください」


 マリアは目を向いた。


「イェースズ! どこへ行くか分かっているの? あの人たちの国がどんな所か、見当もつかないのよ」


「ここで勉強するよりも、もっと何か新しいことがあの人たちの国では待っているような気がするんです。じっとしているより、遠い世界を見てきたいんです」


「分かった。おまえの気持は分かった」


 ヨセフはそれだけ言って、イェースズを去らせた。次にヨセフが呼んだのは、イェースズの養育係としてエッセネ教団から派遣されていたサロメであった。

 ヨセフの打診に彼女は即答はせず、一切をカペナウムの教団本部に伺いを立てるべく、すぐにヨセフの家を後にしていった。

 ガリラヤはおろかエルサレムに至るまで、また必要とあらば本拠地であるエジプトまで、エッセネ教団の連絡網は網の目のように張り巡らされている。


 数日たって、サロメは戻ってきた。そして、次のような教団としての意向がヨセフたちに告げられた。


「イェースズは、救世主メシアの母候補として教団から選ばれたマリアの長子である。従って、その養育には教団としては最大の関心を払わねばならない。しかしながら、異国の地で見識を広めるのはイェースズにとっても有意義なことと判断する。カリンガのシシュパルガルフにはジャガンナスのエッセネ僧院も存在するので、向こうでも引き続き教団としての保護はできるであろう。従って、この度のイェースズの旅立ちを認める」


 これにはマリアも従わざるを得なかった。

 伏目がちに目をあげて、マリアは言った。


「わかりました。すべてを受け入れます」


 一次は感情的になったが、冷静になるとあのイェースズ誕生時の異次元体験でのお告げが強く心に甦ってきたようだった。

 ヨセフとマリアはさっそくラバンナたちを呼び、イェースズを彼らに同行させることを承諾する旨を伝えた。


「おお、本当ですか? おお」


 ラバンナの喜びようは、ひと通りではなかった。その脇でイェースズは、はにかんだような表情で立っていった。


 出発の前夜、イェースズはすぐ下の弟であるヨシェを呼んで、湖畔に連れ出した。

 夜の闇は湖水を覆い、漁船の灯火が沖の方に点在しているのだけが見えた。空一面またたく星の下で、湖に向かって二人は腰をおろした。

 たしかに成長するにつれ、二人の兄弟はほかの弟たちの群を抜いてそっくりなってきている。まだあどけない表情の残るヨシェだが、あと一年もすれば兄のように青年の面影がきざしはじめるであろう。


「お父さんとお母さんのこと、よろしく頼んだぞ」


 湖水に石を投げながら、イェースズは弟の顔も見ずにつぶやいた。


「うん、でも、本当に行っちゃうの?」


「小さな弟たちのことをもだぞ。僕に代わってな」


「うん。僕は昔から兄さんの身代わりだったからね。兄さんがいじめられていた時も」


「こいつゥ」


 笑いながら弟の頭を軽く小突く真似をすると、やはり笑いながらヨシェもそれをかわした。


「それより、兄さん。ちゃんと帰ってきてくれるんだろうね」


「もちろんさ。お父さんもあの年齢としだしな。あとは、おまえさえしっかりしていてくれたら、僕は安心して出かけられる」


「それで、兄さんが帰ってきた時には、弟か妹かわからないけれどもう一人兄弟が増えてるはずだし」


「一人くらいは、妹がほしいな」


「僕は弟で申し訳ありませんでした」


 ヨシェがおどけて言うと、二人は声を上げて笑った。


 翌朝早く、日の出の礼拝を終えるとすぐに、イェースズは旅立った。はじめは朝日を背に湖に沿って進む。今は朝日を背にしているが、それは湖の西岸に出るまでで、とりあえずの目的地であるエジプトへ向かってからは、あの朝日の出る方角へとイェースズは進むことになる。

 出発に当たって、ヨセフはイェースズにひと塊の黄金を渡してくれた。かつてイェースズが生まれてすぐのエルサレム参拝の時、東から訪ねて来てくれた博士の一人がこの家族にくれた黄金だ。


「何かあったら、これを使いなさい」


「お父さん、ありがとう」


 ヨセフはイェースズの手をしっかりと握った。その年老いた目は潤んでいた。弟たちも群がって送ってくれた。

 一番幼いユダはまだ何も分からないらしく、一人ではしゃぎ回っていた。

 マリアは身重なのにかかわらず、ラバンナたちやイェースズの騎るらくだに向かっていつまでも手を振っていたが、やがてそれも見えなくなると顔を覆って家の中に入ってしまった。 

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