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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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律法学者の家で

 やがて季節は春を迎え、プリムの祭りの日も近づいてきた。

 それはすなわち、春の到来をも意味していた。しかし実際は、まだ風は冷たい。人々はひと月後の過越すぎこしの大祭の準備で慌しくなり、それによってのみ春が近いことを実感できた。

 プリムの祭りとは「エステル記」の中の出来事に由来する。「プリム」とは「くじ」という意味で、この頃から五百年ほどさかのぼったペルシャのアハシュエロス王の時代にハマンという大臣がユダヤ人の皆殺しの命令を出したが、ユダヤ人の娘である王妃エステルの直訴でユダヤ人が救われたことを記念する祭りである。

 この日イェースズも使徒たちとともに、ベタニヤの会堂シナゴーグに向かった。この日に朗読されるのは「エステル記」全巻の巻物メギラーと決まっており、日没から始まって翌朝にもう一度朗読は行われる。

 イェースズたちが参列したのは、朝の朗読の方だった。群衆に混じり、狭い会堂の中でイェースズは朗読に聞き入った。


「彼の名は消えろ! 悪人の名は滅びよ!」


 と、人々は時々、声をそろえて叫ぶ。朗読箇所の中に「ハマン」という名が登場するたびに、皆でそう叫ぶのが慣わしなのだ。

 集会が終わって人々はぞろぞろと会堂シナゴーグから出てくるが、実はこの後が楽しみなのだ。もともとハマンがくじによってユダヤ人一斉虐殺の日と定めたその日がハマンの終焉の日になったわけで、「悩みが喜びに変わった日」として彼らは直会なおらいに移る。すなわち、どの家でもうたげとなる。また、この日は貧者への施しをする風習もあった。


先生ラビ、私たちも施しに行きますか?」


 会堂シナゴーグからゼベダイの家への帰りの岩場の道を歩きながら、トマスがそうイェースズに聞いてきた。


「そうだな。でも我われの場合、今日この日だからといって施しをするという偽善者と同じ想念ではいけない」


 イェースズはそう笑って答え、さらに歩きながらしゃべった。


「いくらその日の糧を施したとしても、彼らは時間がたてばまた空腹になる。だから、本当は食物を与えるだけでなく、その人が二度と空腹にならないように仕事につかせてあげるというのも恵みだ。さらにあなた方は物質だけではなくて、人々に光を与えることができるだろ。つまり聖霊()の洗礼を施してまわるという使命がある。今日だからということではなく、今日を機にということで、また近隣の村へ二人ずつ組んで行ってくるといい」


 使徒たちが明るく返事をしていると、イェースズの背後にまた何人かの人が近づいて来ていた。見ると、また律法学者だった。


「これはこれはラビ


 と、イェースズは立ち止まって、丁重に挨拶をした。


「このような所であなたを見るとは奇遇ですな。あなたも人々からラビと呼ばれているのなら、我われの仲間だ。どうですかな。あなたを今日の祭りの宴にご招待したいんだが」


「分かりました。参りましょう」


 イェースズの答えに、使徒たちは耳を疑っているようだった。家の所在地と時刻を告げてから学者たちが去った後、待ち受けていたかのようにペトロがイェースズに食ってかかった。


先生ラビ、本気なんですか? あんなの罠に決まっているでしょ。前にカペナウムでも学者の家に招待されたことがありましたけど、今はあの時とは状況が違うではないですか」


「そうですよ!」


 ヤコブもペトロと反対側から、やはりイェースズに詰め寄った。


「やつらは今は、何とか口実をつけて先生ラビを捕らえようとしているのですから。本当にこの村に住む学者なのか、あるいはエルサレムからつけてきたのか、それさえ分かりゃしない。あんなニコニコ顔、嘘っぱちですよ」


「まあまあ、そう言わずに」


 当然のことイェースズも学者の内に秘めたどす黒い想念は見通していたが、あえてそれは言わなかった。そこへ、熱心党ゼーロタイのシモンも首を出した。


「毒でも盛られたら、どうします!」


 イェースズはまた高らかに笑った。


「いくらなんでもモーセの教えを奉じている方たちだ。そこまではするわけがない」


「あ!」


 と、小ヤコブが声を上げた。


「今日の夕暮れから、安息日じゃないですか」


「大丈夫だよ」


 それでもイェースズは笑っていた。

 

 イェースズは日が暮れる前の指定された時間に、単身でベタニヤ郊外の示された家に行った。同行をせがむ使徒の何人かも、説得しておいてきた。そして学者の家に着くと、ちょうど日が暮れた。イェースズが中に入ると、もう準備はできていた。日が暮れて安息日になってしまったら準備はできなくなるので、早くから支度をしていたようだ。

 誰もが入ってきたイェースズを注視した。イェースズは部屋を見回し、冷たい空気から目をそらして庭に目をやると、そこには明らかに疱瘡を患っていると分かる少年が座っていた。

 イェースズはすぐに、わざわざ学者が連れてきた少年であると感知した。そして学者の思惑も、すべて読み取ってしまった。だから、先手を取って微笑みながらイェースズは言った。


「安息日に病の癒しは、していいでしょうか、いけないでしょうか」


 学者をはじめ、居合せた人々は皆黙っていた。イェースズはすぐに庭に出て、少年に向かい会って座った。それから慈愛の笑みを少年に向け、まずは背中の下の方に左右から手を当てた。霊流がほとばしり、少年の霊体を貫いた。そして体の毒素をすべて排出させ、少年は癒された。

 イェースズは部屋に戻った。中にいてすでに足を投げ出して横座りに座っていた人々が起き上がって何か言いかけたのを、イェースズは手で制した。


「まあまあ、そんなに血相を変えなくてもいいじゃないですか。皆さんはご自分の子供が井戸に落ちても、その日が安息日だったら『今日は安息日だから』と言って助けもしないでいるのですか?」


 もはや誰も何も言おうとせず、苦虫を噛み潰したような顔で再び足を投げ出して横になった。イェースズは入り口に近いところに席を取り、腕で上半身を支えて横になってしばらく黙っていた。終始沈黙は部屋を支配し、冷たい空気はますます冷たくなった。

 後からも何人か来たが皆律法学者のようで、彼らはイェースズにあいさつもせずにその背後を通ってどんどん上座の席を埋めていった。イェースズは黙って、その様子をじっと見ていた。そしてしばらくしてから少し体を起こして、沈黙を破った。


「あなた方はね、もし婚礼に招かれたら、先に上座に座らない方がいいですよ。もっと身分が高い方が、あとから来るかもしれませんからね。そうしたら、ばつが悪いでしょう? もし自分が最初に来たら、まずは末席にいた方がいいですね。もし本当に上座に座るべき人が自分だったら、嫌でも主人が上座へと勧めてくれるはずですから」


 そこへ、イェースズを招いた本人の学者が現れた。


「さあ、どうぞ召し上がれ」


 そしてそこしか空いていなかったので、彼はイェースズの隣りの末席にイェースズに背を向けて横になった。

 皆、無言で食事を始めた。今日は祭りのあとの日とあって、どこの家でも宴でどんちゃん騒ぎをやっているはずだが、この年はその宴の日が安息日になってしまったので、騒ぎは少ないだろうとも予想された。

 それにしても、気味の悪い宴会だった。それでもイェースズは笑顔をつくって、首だけ振り向く形で、自分を招いた学者に言った。


「本日はお招き頂き、有り難うございます」


 振り向いた学者に、イェースズはさらに笑顔を見せた。


「人を招く時は、見返りは期待しないことですね。神様の食卓がそうですから。それと同じように、神様の御用をさせて頂くという時は、一切報いは求めないという想念が大切ですよ。神様は無償の愛で私たちをお創り下さって、生かせて下さっているわけですから報いは求めないで一心におすがりし、お仕えすれば、やがては求めずとも与えられる人に切り替わっていく」


 イェースズのそばにいた別の学者は、杯を置いた。今度はイェースズがぶどう酒の入った杯を挙げた。


「神の国の食卓に招かれたものは幸い」


 そして、同席の人々を見渡して言った。


「神様もお金持ちの婚礼のように、多くの人を招いているんですよ。でも招かれた方が仕事が忙しいなどと口実を言って、それを断っている。そこで招いた主人は町へ行って誰でもいいからつれてこいと言って、結局その婚礼に預かられたのは、あなた方パリサイ人が決して招かない貧者や罪びとだったんですね」


 再び刺すような空気が、室内にピンとはりつめた。


「招かれているのに、神の国の食卓につけない人は多いんですね」


 イェースズはそれだけ言うと、飲み食いを続けた。同じ雰囲気のまま、不気味な宴は続いていった。

 

 それから数日後のある夜、イェースズはゼベダイの家の窓から暗い外を見て、ひとつため息をついた。もう過越の祭りまで、もうひと月を切ってしまった。このみ祭りの頃に自分の身に何かが起こるということを、イェースズには嫌というほど分かってしまう。

 使徒たちはまだ心もとない。自分の教えをまだ理解しきっていないようだし、また彼らには奥深い神理の世界のカケラしか語っていない。今の自分には、それしか許されていないのだ。

 もしここで自分がいなくなったりしたら、使徒たちは、そして人類はどうなってしまうのだろうかとついつい思ってしまう。そう考えると、自分に与えられた聖使命に対する自分の至らなさ、神への申し訳なさに自然と涙があふれてくるのだった。

 自分には枕するところがない。人々は笛吹けど踊らずだ。遅いぞ、間に合わんぞという神のお叱りが心の中に響いてくるのを、イェースズはただただ感じていた。

 そして、もはや猶予はできないと彼は思った。何かが起こるであろう過越の大祭が近づきつつある今、神の御経綸と天意転換の秘めごとの一部を、使徒たちに公開せざるを得ないだろうと決意したし、それが神様のみ意であることをひしひしと感じていた。

 

 翌日イェースズは、使徒十二人全員を連れてエルサレムに上った。いつものように、まずは神殿の見える例の広場で人々に教えた。するとある若者が、群衆の中から出てきてイェースズの話をさえぎった。


先生ラビ、どうしてもお聞きしたいことがあるんです」


「何でしょう」


 イェースズは不快な顔はせず、ニコニコして若者の目を見た。


「実は昨夜一晩中、律法学者のラビに説得されていたんです。私が小さい時からお世話になっていたラビでとてもいい人なんですが、そのラビが目に涙を浮かべて心配してくれたんです。私が先生ラビの話を聞きにいっていることをです」


 歯に衣着せずに言う若者だけに、かえって痛快であった。イェースズは微笑んだまま、尋ねた。


「私のこと、何て言っていました?」


「はい、言いにくいんですが、そのラビのお言葉では、『ガリラヤのイェースズというのはもともとヨハネ教団の幹部だった男で、だからこの集団はエッセネ系の危険な集団だ。エッセネ教団から分裂したのがヨハネ教団で、さらにそこから枝分かれしたのがイェースズの教団だ』って言うんです。そして、そういった事実をすべて隠蔽して人々を騙している。とにかく最近の新興宗教は奇跡とか病気治しで人々を集める特徴があって、そこに物が豊かになっただけに精神的に枯渇している若者が、より精神性を求めて流れ込むんだということでした。『ガリラヤのイェースズがやっている奇跡のわざは昔からある魔術で、それをさらに神秘的に位置づけることで自分たちの優位性を証明しようとしている。何かをされると思い込むことによってそれがその通りになるという効果を含めて、ある程度の効果はすでにある。だから、奇跡は信者獲得のための手段としてはとても都合がいいといえる。そこに霊による障害だのをからめて若者の勧誘に用いているのは、悪質としか言いようがない。非常に奇跡にこだわって現世利益を説いておきながら、それは本来の教義とは正反対のものであるという矛盾だらけだ』、そんなふうに言って、アーメン教には気をつけろということでした」


 そこまで一気に若者はしゃべって一息ついた。アーメン教とは、イェースズが説法する時いつも、「真に(アーメン)真に(アーメン)あなたがたに言っておく」で話しを始める口癖から、陰でひそかにイェースズの信奉者たちが呼ばれている呼称でのようだ。若者は、さらに彼の師の学者の話を続けた。


「よくできた詐欺は、詐欺と気付かせない。だから知識情報なしにのこのこついてけば、必ず騙される。だいたい心配性の人や取り越し苦労をする人、こうでなければならないと思い込んでいるまじめな人、孤独な人や話の合う人がいない人、霊魂、生まれ変わり、超能力などが好きな人、自分に不満を持って変わりたいと思っている人、こういう人たちがすぐに騙されるってラビは言うんです。考えてみれば、私もその中に入るんですよね。それをどうやって騙すかというと、『不安感を与え、“やたらあなたのお気持ちはよく分かります”と言って簡単な解決法を勧める』ものだそうです。つまり、ガリラヤのイェースズのアーメン教の実態は、信心すればご利益があるというご利益信仰であり、現在は過去世の因縁によって決定しているということと説き、この人は絶対だという生き神信仰で、神秘体験、超能力、霊能力などのいわゆる超常主義的な集団だと言うんですね。ともかく人の不安や恐怖につけこむ集団がまっとうなはずはないって」


 さすがにペトロが前に出てその若者を止めようとしたが、イェースズはそれを手で制した。


「いいから、続けて下さい」


「はい。そのラビが言いますには、ガリラヤのイェースズは不幸現象を霊魂や神のせい、あるいは自分の過去世のよくない行為のせいにしているけど、そんなの本当かどうか確かめようがないし、そんなこと言われてもどうしようもない。教義も聖書トーラーとか引用しているけど、すべて自分に都合のいいように上手にこじつけて故意に湾曲して伝えていおり、その解釈はでたらめだ。そもそもガリラヤのイェースズはそのでたらめな理論を自信満々に説くが、それは一度騙された人は非常識ででたらめな論理を自信満々に言われると、世間の常識と言っていることのでたらめさとの差が大きければ大きいほど逆につい信じてしまう心の癖がつくからだ。そもそも本来の信仰では奇跡はおまけにすぎないのに、そのおまけの部分にこだわって本質である教義はそっちのけ、その本質に矛盾があっても信者たちは目をつぶってひたすら祈る、それが信仰であるかのように勘違いしている。そんなのを信奉するのは、依存心が旺盛だからだ。自分をしっかり持たないと一生を棒に振るぞと、そういうふうに長々と一晩かけて説得されていたんです」


「そうですか。その学者先生は本気であなたのことを心配している。まずは、そのことに感謝しないといけないね」


 それからイェースズは顔を挙げて、再び群衆を見た。


「今のお話、皆さんはどうお考えになりますか?」


 呼びかけられた群衆は互いに顔を見合わせてどよめいているだけで、発言するものはなかった。そこでイェースズは、話し続けた。


「私の教えは彼らパリサイ人が言うアーメン教というような一宗一派の新興宗教ではなく、宇宙の根本原理を説いているということは、長く私の話を聞いてそれを生活の中で実践されている方ならお分かり頂けるものと思います」


 人々はまた静まり返り、イェースズの声に耳を傾けた。


「ましてや病気治しが目的のご利益信仰ではないことは、再三お話してきた通りです。いいですか? 肉体的な病も癒せない教えで、どうして高次元の霊的救いができましょうか。現に学者さん方や祭司さん方は病気をしたら医者に行き、クスリを飲んでいるではありませんか。そんなのは対処療法で、原因療法ではないんですね。火事場の目隠しと同じでしてね、目の前で自分の家が盛んに燃えている。そこへきて後ろから目隠しをして、『ほうらもう火事は見えなくなったから火事なんてないんですよ』と言っているのに等しい。病気も不幸もあらゆる現象も、すべて霊的原因があることを知らないといけない。霊界とこの世は表裏一体の陸続きなんです。だから、霊的に目覚めることが大切なんです。そのためには物質主体の想念を百八十度転換して霊主の想念に切り換え、古い自分を捨てて霊的に新しく生まれ変わることが大切なんです」


 イェースズは一息入れ、また群衆に笑顔を見せた。


「今のお話に出てきたパリサイ人の学者さんは、とてもまじめな方ですね。律法学者と言っても、決して悪い人たちじゃあない。でも、霊的に無知であるということは、困ったものです。今どき、人々の病気を癒して救って歩いているっていう学者さんや祭司さんはいますか? いないでしょう? 霊的に無知になっては、人は救えませんね。表面上は救えるかもしれませんけど、それは限りのある物質的な救いか、せいぜい心の救いでしょう。そうなると人々はますます憑霊される。世の中は不幸現象の充満界になる。こんな世の中になってしまったのは、誰のせいでしょうか? 今の宗教者は宗教屋ですよ。神様を生活の出汁だしにしている。これでは神様が上か人間が上か、分かったものじゃない」


 イェースズは顔を上げた。その視線の向こうに、神殿の丘の上の至聖所が曇り空に高くそびえているのが見える。


「あの神殿も荘厳にそびえていますけど、あれをどれだけ救世の場にしていますか? 村や町の会堂シナゴーグも同じです。こうなると私には、宗教なんてこの世の魔とさえ思えてくる。あの神殿で奉仕する人たちは、皆まじめです。でも、真剣であればあるだけかえって神様のお邪魔になっているということに、早く気付いてほしいものです」


 イェースズは視線を、再び群衆に戻した。


「エルサレムは、血に塗られた町ですね。そして今も、多くの人が私の話に耳を貸さない」


 イェースズの話が、ため息まじりになってきた。


「このままでは神殿もまた見捨てられ、破壊される時が来るでしょう」


 人々はまたざわめいた。イェースズは慌てて人々の前から消え、建物の後ろに隠れた。こみ上げてくる涙を、人々に見せたくなかったのだ。

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