放蕩息子
イェースズ師弟はそのままベタニヤに帰った。もう日が長くなりはじめていて、春ももうすぐという感じだ。
ゼベダイの長女のマルタがイェースズや使徒たちの食事を準備している間、その妹のマリアはずっとイェースズの話に耳を傾けていた。
「マリア!」
マルタが厨房からいくら呼んでも、マリアはイェースズの話に熱中していて返事もしなかった。もう一度マリアを呼ぶ声が厨房から響いたが、マリアは気のぬけた返事をしただけですぐに視線をイェースズに戻した。たまりかねてマルタは、イェースズとマリアのいる部屋に来た。
「ちょっと、マリア。いい加減にしなさい。姉さんは一所懸命夕食の支度してるのに、あなたは」
そしてマルタは、イェースズに目を向けた。
「ちょっと先生、言ってやって下さいよ。この子ったらこんな所にちゃっかり座りこんで、手伝いもしないで」
イェースズは笑って、顔を上げた。
「マルタ。気を使ってくれて嬉しいんだけどね、あんまりマリアを責めないでやってくれ。それに私はこの家では客ではなく、家族の一員として迎えてくださっていると思っている。だから私をもてなそうと気を使ってくれるのはありがたいけれど、もっと大切なことがあるんだよ。人間が人間に仕えるんじゃなくて、人が神様に直接奉仕する天の時がやがて来るからね。マリアは今、その話を聞くということを選んでいる。だから、どうか彼女を責めないでほしい」
「でも」
マルタは、少し首をかしげた。
「やはり先生は先生です。弟のヤコブやエレアザルの先生でもありますし、お父様からも大切におもてなしするよう言いつかってますしね。ねえ、先生。やはり先生は先生らしく、もっと偉そうに威張って下さいよ。そうでないと、なんか感じがつかめない」
イェースズは大声を上げて笑った。
「私が偉そうにする? そんなことは金輪際できないよ。私は人々の下に入って救う役だからね。私が一番罪穢が深いから、そういうお役目を頂いている。そのことを考えたら、とても威張るなんてことはできない」
と、あくまで下座を行じる姿を、イェースズはマルタやマリアに見せた。
「私は人々に仕えられるためではなく、人々に仕えるために来たんだ」
「でも、もっと威厳をもって人々に話したら、もっとたくさんの人が集まるんじゃないですか」
イェースズはますます笑った。
「そうかもしれないけど、そんなふうにして集まった人は、またすぐに去っていくんじゃないだろうかね。あくまで神様は、因縁の魂を導けとおっしゃっているんだよ。そんな小細工をしなくても、因縁のある人は光を求めてやって来るものなんだよ」
イェースズはベタニヤから日帰りで週に二、三回はエルサレムに赴いていたし、エルサレムでは神殿の庭で人々に説法をするのが常となっていた。イェースズがマルタにそのように言っていたように、果してイェースズが行くと自然と人は集まってくる。そして、話し始めるとたちまち黒山の人だからになるから不思議だった。イェースズには磁石のように人々をひきつけるものがあるからだろう。
もちろん、信奉者は毎日イェースズが来るのを待ち構えている。また、待ち構えているのは信奉者ばかりでなく、どうも苦手なパリサイ派の律法学者も多かった。
この日は使徒十二人すべてではなくアンドレとナタナエルだけつれて、イェースズは神殿で説法をした。だいぶ遅くまで神殿にいたので、春の到来間近とはいってもまだ冷たい風が頬に当たった。
二重門を出て、神殿から退出して来た巡礼の参拝者の群れの中にイェースズと二人の使徒も混じって歩いた。
「おお、先生」
人ごみの中から、イェースズを呼ぶ声があった。さきほどまでイェースズの話を聞いていた人々の中にあった顔だ。
「お話、素晴らしかったです。本当に、ありがとうございます」
イェースズよりずっと年上の太った中年男なのに、その目には涙さえ浮かべていた。
「我われは罪びとと虐げられて、もはや神様からは見放されていると金銀財宝だけを心の頼りに贅沢な暮らしをしてきました。自暴自棄になって、神様から遠ざかっていたんです。でも、今日はじめて先生のお話をうかがって我われにも救いがあることを知り、人生の転機にもなりましたよ。本当に、ありがとうございます。何とお礼を言ったらいいか」
イェースズは、ニッコリと笑った。
「そうですか。それはよかったですね。あとは、今日聞いたことを生活の中で実践してくださいね。神理のミチを知らないのならまだしも、聞かされてしまった以上は実践しないと本当の救われにはなりませんよ」
「はい。本当に先生のお蔭で、神様と出会うことができました。先生がいらっしゃらなかったら、いつまでも暗闇の中を歩いていたことでしょう」
彼は自分で罪びとと言っていたが、その服装から収税人であることは明らかだった。
「先生、今日は私の家でご馳走させて頂けませんか」
イェースズはナタナエルやアンドレを少し見てから、
「そうですか。では、そのお気持ちをありがたく頂戴することに致しましょう」
と、言った。
その時、いつの間にか律法学者が二人、イェースズのそばに来ていた。ナタナエルなどは、またかと言う顔で眉をしかめていた。案の定、学者はイェースズと収税人の話に割って入ってきた。
「あんたの話を、聞かせてもらっていたよ。そうしたら今は、あんたは神の教えを説きながら罪びとと同席しようとしている。それはいったいどういうことなんだ」
大勢の巡礼者の波が立ち止まっているイェースズたちにぶつかっていくのでイェースズは道の脇に移動し、学者もしつこくついてきた。
「言っていることとやっていることが違うのではないかね?」
イェースズは学者にもにこにこ笑っていた。
「どう違いますか? 私は何のやましいこともしていませんよ」
「おお、ぬけぬけと。なぜこのような罪びとと食事の席を同じくするのか、そのわけを聞こう」
学者たちの目が輝いた。なんとかイェースズを捕らえる口実を見つけようと、彼らは組織だって執拗にイェースズを追い掛け回しているのである。
イェースズはゆっくりと話しはじめた。
「百匹の羊を持っている人がいて、そのうちの一匹がいなくなったら九十九匹を野原に放しておいても、いなくなった一匹を探しに行くでしょう? そして見つけたら大喜びで、近所の人を集めて祝宴をするんです。神様からご覧になっても、九十九匹の羊が熱心さゆえに一匹の羊を追い落としても、その一匹を探し出そうとされます。そして、再び自分のもとへと招かれるんです。神様の愛は、そのたった一匹の羊でさえ見放したりはなさいません。いなくなっていた羊が再び帰ってきた喜び、お分かりですか?」
「しかし羊は、九十九匹がまだいるんだろう? その九十九匹の羊はどうでもいいのかね?」
「いいえ、どうでもいいというわけではありませんけど、その九十九匹の羊は、律法という柵からは決して出ない従順な羊たちですからね」
「ふん。我われは羊飼いなどではないから、そんな話をされても分からん」
「では、人間でお話しましょう。例えばある兄と弟の兄弟がいましてね、兄はそれは父親に忠実でした。でも弟の方はこれがまたひどい遊び人で、財産を分けてもらうとさっさと異国へ行って遊んで暮らしていたんです。ところがすぐに財産を使い果たして、それで豚飼いにまで身を落としましてね」
「豚飼い?」
ユダヤ人の感覚では、これほど最下層の人はいない。ユダヤ人は豚を汚れたものとして考え、決して飼ったり食べたりはしないのだ。
「異国へ行ったから、そこでは豚を飼っていたんです。そしてその息子は、豚のえさで自分の腹を満たそうとさえしたのですよ」
「豚のえさだって?」
学者たちは、露骨に顔をしかめた。もうそうなると、人間ではないというに等しい。
「さすがにその息子もこれには耐えられませんでしてね、それで家に帰る決心をしたんです。すべての罪を詫びて、もう息子と呼ばれる価値もないからせめて雇い人としてでも家に置いてくれと頼もうと思っていたんですよ。ところが家に帰ると父親も母親も大喜びで、上等の服を着せて指輪もはめて、肥えた仔牛を一頭つぶしてご馳走を作り、祝宴まで開いたんです。ところが怒ったのはその息子の兄ですよ。自分は一度も父親の言いつけに背いたこともなく何年も仕えてきたのに、自分には子山羊一匹くれたことはなかったってね。それなのに身を持ち崩したあの弟のためには仔牛をつぶしてご馳走するなんて、いったいどういうことなんだって」
「そりゃそうだろう。その兄の気持ち、わかる」
「いや、ちょっと待ってください。そこで、父親はこういったんです。『おまえはいつも父のそばにいたではないか。十分に私の恩恵を受けている。だがあの子はもう死んだと思っていたのに、実は生きていて戻ってきたんだから、こうして喜ぶのは当たり前だろう』ってね」
「何を言っているんだ。その兄が怒る方が当たり前じゃないか。だけど、それがどうだと言うのだ。いったい、何が言いたいんだ」
学者は怒ったように言った。
「その怒り方は、放蕩息子の兄の怒り方そのものですね。いつも父のそばにいる、言いつけにも背かずに仕えているという心の油断が、やがては我と慢心になるんですよ。そんなことではたいへんなことになりますから、気をつけないといけませんね。先ほどの話の中の兄が鼻にかけているのは、つまりは伝統と権威ということでしょう? でも神様は伝統と権威にあぐらをかいている人よりも、放蕩息子の回心の方をお喜びになる。私もあなた方が追い落とした一匹の羊を探し、放蕩の末に悔い改めた弟の方へと歩み寄るんですよ」
イェースズは笑顔でそう言い残してナタナエルとアンドレをつれ、収税人とともに城壁をくぐって下の町へと入って行った。




