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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第3章 福音宣教時代
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良きサマリア人

 サドカイ人の祭司をイェースズが論破したといううわさは目撃者によってたちまち言いふらされ、それが律法学者の耳にも入った。そのためか、ある日イェースズが使徒たちと神殿の近くに来ると、律法学者が十数人の固まりになってイェースズを待ち受けていた。その数は、イェースズのそばにいる使徒たちよりも多かった。

 今日の学者たちは、外面は恭しく柔和さを取り繕っている。


主の平和(シャローム)(こんにちは)」


 と白々しく学者はイェースズにあいさつをするので、イェースズもそれに返した。


主の平和(シャローム)(こんにちは)」


「前に祭司様方とお話をしてされていましたね」


 イェースズに語りかけてきたのは、若い学者だった。腰は低いが、いつものようにどす黒い想念はイェースズにはお見通しだ。決して律法学者が腹黒い人の代名詞ではない。彼らなりに自らの権威を守ろうと必死なのだ。

 目の前の若い学者も、彼らから見れば祭司でも律法学者でもない素人のイェースズをなんとか試そうとしている想念が見え見えだ。


「どうか、教えて下さい。律法の中でいちばん大切な戒めは何ですか?」


 イェースズに教えを乞うている形でも、実は違う。これまで律法学者の中で、純粋にイェースズに教えを乞うてきたのは唯一ペトロの親類のニコデモだけで、それ以外には一人もいなかった。

 イェースズはそれでもさわやかに微笑んだ。


「あなた方の方が専門家ではないですか。どうして私に聞くんです?」


 そう言いながらも、イェースズは声高らかに、


聞け(シェマー)、イスラエル!」


 と、言った。イスラエルの民なら誰でも毎朝唱える聖書トーラーの、申命記ドゥバリームの一節だ。


「我らの神はただひとかた。だから心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」


 それは、イスラエルの民としては、ごく常識的な回答だった。誰でも物心つく頃から、魂の奥底に叩きこまれる言葉だ。イェースズの答えがこのように常識的だったので、学者はいささか拍子抜けしたようだった。だが、イェースズはさらに言葉を続けた。それは「レビ記」の一節だった。


「『あなたと同じ神の子である隣人を愛しなさい』、この二つが一つになった時、それは最高の戒めとなるでしょう」


「確かにその通りだ」


 と、別の学者が言った。


「隣人への愛は、すべての犠牲に勝る」


 それを聞いて、イェースズはさらに笑顔を増した。


「問題はですね。頭で分かってはいても、それをどう生活の中で実践するかですよ。そのへんはいかがですか?」


「では聞くが、ここで愛せよと言っている『隣人』とは誰のことかね」


 学者たちは、皆ニヤッとした。その答えは言わずとも知れたことで、『レビ記』にも「あなたと同じ神の子である隣人」とある。彼らにとって隣人とはイスラエルの同胞で、正統なユダヤ教徒にほかならない。彼らの関心は、イェースズがそう答えるかどうかに向いている。

 イェースズは一度目を伏せて、黙って大きく息を吸ってから目を上げた。


「エリコへ通じる道は、すごい砂漠ですね」


 イェースズが突然話題を変えたので、学者たちは一瞬唖然とした。イェースズはさらに続けた。


「私もここに来る時に通ってきましたけど、なんでも盗賊の巣窟らしくて昼しか歩けませんでしたよ」


「それがどうした。さっきの質問の答えはどうなった!?」


 学者の一人が、しびれを切らして叫んだ。イェースズは微笑んだままだ。


「まあ、お聞きなさい。その砂漠でこの間もある旅人が強盗にこてんぱんにやられて、瀕死の状態になっていたそうですよ。そうしたらそこに祭司様が通りかかりましてね、なにしろそれは偉い祭司様で血のついた体に触れると律法にも反しますから、律法を忠実に守って道の反対側を通って行ってしまったんですよ。次に来たのは神殿に奉仕するレビ人だったんですけど。彼もまた律法に背いて血の汚れに触れたら、神殿に仕える身として神様に御無礼になるし、それでは神様に申し訳ないと思ったのでしょう、見ぬふりをして行ってしまったんですね。とにかく神殿で神様に奉仕する身で忙しかったということもあって、ここで怪我人の介抱などをする時間もなかったのかもしれませんけどね。まあ、そうして忙しいレビ人も通り過ぎて行きましてね。こういうのを、皆さんはどう思われますか?」


 一人の学者が、代表する形で口を開いた。


「それは、神様にお仕えすることが何よりも大事だ。怪我人はかわいそうだけど、神様を中心に考えなくちゃいけない。そうなると、やはりここは血の汚れには触れられないというのが正しい選択だろう。他人の血のついた手で神様に祈るわけにはいかない」


「確かにそれが律法の規定通りということになりますね。まあ、それは実際は、自分が他人ひと様の血を流しておいてそのままの心で神様に祈るなってことなんですけど、それはいいにしまして、とろこがその次に来たのはサマリア人だったんですよ」


 学者たちは、一斉に顔をしかめた。サマリア人と言えば、獣畜にも劣る存在と思っているからだ。だがイェースズの心には、やはりエルサレムに来る途中で通ったサマリアの町の、純朴で親切なサマリアの人々の記憶があった。


「そのサマリア人は怪我人を気の毒に思ってぶどう酒で手当てをして、自分のろばに乗せて宿屋までつれて行って、支払いまでしてくれたんです。それだけじゃなくて、介抱に費用がもっとかかったら帰り道にまた必ず寄って自分が払うと、宿の主人に約束までしたんです」


 イェースズはそこで、言葉を止めた。学者は、自分にとっての隣人とは誰かということを聞いていた。だがイェースズはそれには答えず、


「この怪我人を隣人として受け入れ、愛したのは誰ですか?」


 と、逆に学者たちに尋ねた。最初は誰も口を開かなかったが、やがていちばんはじめにイェースズに話しかけた若い学者が、


「最後の人です」


 とぼそりと言った。


「そうでしょう。最初の祭司や次に来たレビ人のように、伝統と権威にあぐらをかいていては、隣人を愛せないんです。お分かりになりましたら、あなた方も最後の人と同じように実践すればいいんです。でも、それが人知人力だけでできるとお思いですか?」


 学者たちは何も言わず、黙ってイェースズを見ていた。


「隣人を愛するって簡単なようで、実は難しいんですよ。やはり、神様のお力添えがなかったら、とても実践には移せないんじゃないでしょうか。そのためには、まず祈ることです。そして、自分を怪我人の立場に置いてみることですよ。その自分を隣人として愛してくれる、その愛を受け入れることです。たとえそれが獣畜のように忌み嫌っている人であったとしてもね。さげすまれているサマリア人だけが律法の細則から自由であって、それだけに神様の愛と同じくらいの隣人愛を、自分を嫌っている人の上にまで注げたんですよ。いいですか。私たちは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神様を愛さなきゃいけないんです。そして、同じく神の子であるすべての人類も愛さなきゃいけないんです。神様は愛していますけど、でもその子どもである人類の方は一部にでも愛せない人がいますというのでは、神様を愛していることにはなりませんね。祭司が憎らしければその祭服まで憎らしくなりますけど、その反対もあるでしょう? 愛する人がいれば、その人の服の帯紐までいとしいものです。神様を愛しているなら、すべての神の子の人類が愛しいはずです。もしそうでなかったら、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神様を愛していることにはなりません。だからこの「申命記ドゥバリーム」の掟と「レビ記」の掟はセットなんですね。そして我われが神様を愛すると同時に、神様も無償の大愛で我われを愛して下さっています。あなたも、そしてあなたも」


 イェースズは、学者一人一人を指さしていった。


「あなたもあなたも、みんな神様から愛されているんですよ。神様から愛されていることを思えば、隣人を愛し尽くしてなぜ惜しいことがありましょう」


「もういいです。わ、分かりました」


 学者たちはまたまた苦虫を噛み潰したような顔で、すごすごと雑踏の中へ消えていった。

 その後ろ姿に、ペトロがぽつんと、


「本当にやつらはけしからん人たちですね」


 と、つぶやいた。


「そういうことを言うものじゃない」


 また、いつになく厳しい口調でイェースズがそのペトロの言葉を止めた。


「あの人たちは実にまじめな人たちだよ。律法を守ろうと一途に、真剣に取り組んでいる。でも、その真剣さゆえに私を憎んでしまっているんだね」


 たしかに祭司や律法学者の聖職者としての誇りの前にはイェースズの教えは素人のたわごとにすぎなかったのだろうし、正統ユダヤ教の伝統と権威の前にはイェースズの信奉者は危険な新興宗教、いわばカルト教団にしか見えなかったのだろう。


「でも、彼らとて神様が愛してやまない神の子、だからいくら向こうが我われに憎悪の念を向けても、我われは決して敵対心を持ってはいけない。我われが持つべき武器、それは『愛』だ」


 そしてまた、柔和な笑顔にイェースズは戻った。

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