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人間・キリスト  作者: John B.Rabitan
第1章 幼年・少年時代
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日ましに賢く

 こうしてエリザベツとヨハネが帰っていってから、イェースズの猛勉強が始まった。まずは子供たちがみな学ぶようなことはもちろんとして、ヘブライ語、ギリシャ語などの語学も一人で身につけ、ヘブライ語で書かれた聖書トーラーを一人で何時間も読みふけることもあった。

 そして、約ひと月でモーセ五書といわれる部分を読破した。しかも、それらは冊子ではなく巻物になっていて読み返すのが困難であるにもかかわらず、ただ読んだというのではなしにほとんど暗唱に近いまでに熟読したのである。さらにはダビデ王の詩篇、ソロモン王の箴言しんげん(格言=知恵の書)も、彼は好んだ。


 時には弟のヨシェが入ってきたりして、一緒に詩篇を読んだ。同じ個所を二人で朗読することもあったし、別の部分を二人で同時に黙読することもあった。

 このようなときに、巻物は便利だ。特に兄弟二人とも詩篇の第二十二篇が好きで、ヨシェもすぐに覚えて二人で暗唱したりもした。

 そしてヨシェが内容についてイェースズに質問を発するたびに、イェースズは弟が納得のいくような回答をすぐに与えられるようになっていった。


 朝は、ヨセフがイェースズに大工仕事を教えた。まずは農具の作製から始まり、すぐに簡単家具も作れるようにイェースズはなった。

 建築の方はまだイェースズには早いとヨセフは思っていたが、イェースズがあまりねだるので外の建築現場にもイェースズを連れていくようになり、湖がよく見えるその建築中の家の屋根の上にイェースズは座って詩篇を暗唱したりしていた。

 昼下がりは、サロメから教えを受ける時間だった。サロメはパリサイ人やサドカイ人がその存在さえも知らないであろう『ゼンダ・アベスタ』をイェースズに講義した。この書物をサロメは少年イェースズに一読させた後、内容を細かく解説してくれた。


 イェースズは、ゼンダ・アベスタが好きだった。そこにははっきりと「神は光り輝く神」と記されている。イェースズが聖書トーラーで「神は『光あれ』と仰せになった」というほんの読みすごしてしまいそうな一行にぐっと重みを感じることができるようになったのも、こういったゼンダ・アベスタを読んでからであった。

 しかも驚いたことに、聖書トーラーに出てくるバベルの塔、ノアの洪水の話などが、そっくりそのままゼンダ・アベスタにも載っているのである。


 初めてこの書物を読んだ時、イェースズはサロメに、


聖書トーラーと同じだね」


 と、問いかけたものだった。


「それは、たとえ民族が違っても人類をお造りになった神様は御ひと方ですから、真実は一つなのですよ」


「じゃあ、聖書トーラーも本当はモーセが書いたんじゃなくって、誰かがヘブライ語に訳しただけなの?」


 サロメはそれには微笑んだだけで答えず、


「どんな民族でも、御ひと方の天地創造の神様のみ手によって創られたのですよ」


 と、だけ言った。イェースズは顔を曇らせた。


「じゃあ、どうして同じユダヤ人でも、宗派に分かれてけんかしたりしているの?」


「あなたが大きくなったら、あなたの手でそれを何とかして下さいな」


 イェースズは小首をかしげた。



 ローマの暦で年が明けて、イェースズは七歳になった。

 太陽をもとに作られているローマ暦と月の満ち欠けで一月を決めるユダヤ暦とでは日付は半月ばかりずれるが、一年の始まりは大きく違っていた。

 ユダヤ暦は春の過ぎ越しの祭りを基準に一年が始まり、モーセによる出エジプトを記念するその祭りはユダヤ暦第一の月(ニザン)の満月、すなわち十五日になる。それに対してローマ暦は冬至を基準としているので、過ぎ越しの祭りはローマ暦では三月マルティウスのこととなる。


 そのローマ暦の新年五日、すなわちイェースズの誕生日にマリアの両親、つまりイェースズの祖父母であるヨナキムとアンナがヨセフ一家を夕食に招いた。

 同じカペナウムに住んでいながら久しぶりに会う祖父母にイェースズもその弟たちも大はしゃぎで出かけたのは、もう日も西に傾いてからのことであった。一年でいちばん日が短い季節だが、これからは日一日と昼が長くなっていくはずである。


 木枯らしが吹き荒れ、寒い夜だった。だが、弟たちはなぜかイェースズの手は温かいと、こぞってその手を握りたがった。

 カペナウムはおおかた漁師と大工など職人の町だが、交易の中継地としても栄え、商人も多く住んでいた。だが、少し郊外に出ると、ずっと麦畑が続く。

 ヨセフの家からヨナキムの家まで、いつも通る道順がある。一度湖畔に出て湖沿いに進み、再び市街地に入るコースだ。ところがこの日に限ってイェースズが、


「湖のそばは寒いよ。近道していこうよ」


 と、言い出した。確かにいつものコースは、かなり遠回りになる。


「でも、なあ」


 ヨセフはためらっていたが、そんな父をイェースズはまっすぐに見た。


「お父さんはパリサイ人のような偽善者じゃあないでしょう?」


「ま、まあな」


 ヨセフがためらったのは、その近道は「地の民」の町を通ることになるからだ。イェースズに言わせれば偽善者であるパリサイ人などは、決して近づこうともしない町である。その町の方へ向かうヨセフ一行をすれ違う人々は皆、奇異な目で見た。


 「地の民」とは病気か極度の貧困のために律法を守れない人々で、その町とはいわゆる貧民窟なのである。それゆえパリサイ人やサドカイ人は彼らを「罪びと」と称して蔑視し、自分たちを律法に忠実な「義人」としていた。

 それが本当の意味での神への「義なる人」ではないことは、イェースズはゼンダ・アベスタによって知っていた。だからイェースズは、パリサイ人を偽善者といったのである。


 ヨセフたちは、いよいよ地の民の町の入り口に至った。普通の家ならそろそろ灯りがともり始める時間であったが、あばら家と崩れかけたぼろ小屋、あるいは石の積み重ねの状態の家が並ぶ町には、灯りがともる気配すらなかった。

 ハンセン病患者特有の臭気が、ぷんと鼻を突く。その町にイェースズが先頭を切って入っていき、両親や弟がそれに従う形となった。

 どの家も、奥までまる見えだ。毛布にくるまって横になっているものが多く、狭い家に人ばかりがやたら多くうずくまっている。

 だが彼らは眠っているのではないようで、ヨセフたちが通り過ぎると誰もが顔を上げ、自分たちとは住む世界の違う一般市民が何しに来たのかというようなとろけた目を向けるのだった。だが、そんな貧民の中でも、子供たちだけはイェースズの姿を見て元気に飛び出して、イェースズに笑いながらあいさつをしてくるのだった。


 どうにか町を通り過ぎてから、ヨセフはそのことをイェースズに聞いてみると、


「みんな、僕の友達だよ」


 と、家はけろっとして言った。

 やがてヨナキムの家に着くと、孫たちを見て老夫婦は大喜びだった。


「しばらく見ないうちに、またみんな大きくなったな」


「本当に、子供が大きくなるのは早いわねえ」


 アンナはそう言って喜んでいたが、やはり主役は生まれたばかりの末のユダであった。

 やがて食事が始まった。幼いヤコブは、まだ祖父という存在がよく分かっていないようだが、それも無理はない。ヤコブの母方の祖父のヨナキムとヤコブの父のヨセフは、年はそういくらも離れていないのだ。

 食事をしながら、そんなヨナキムは慈愛の目をイェースズに向けた。


「わしらは君に何か贈り物をしたいのだが、何がいいかな? 何でも言ってごらん」


 イェースズはしばらく答えずに、テーブルの上の料理に目を落としていた。ヨセフもマリアもイェースズが何を欲しがるか興味があったので、黙って我が子を見守っていった。


「僕、何もいらない」


「え? 何もいらない?」


「でも一つだけお願いがあるんだ。このご馳走を、僕の友達にも分けてあげたいんだ」


「ちょ、ちょ、ちょっと待て。イェースズ。まさかさっきの、『地の民』の子供たちじゃあないだろうね」


 慌てて制するヨセフに、


「そうだよ」


 と、イェースズはけろりとしていた。それでもヨナキムは、ヨセフに目配せをしてからイェースズに言った。


「いいだろう。この近くにいるのかね?」


「うん、呼んできてもいい?」


「いいとも。呼んでおいで」


 イェースズスズは一目散に外へ駆け出した。ほかの弟たちは、ご馳走を目の前にお預けの形となった。程なくイェースズは、五、六人の子供を連れて帰ってきた。やはりそれは、地の民の子供たちだった。


「さあ、いつもおなかがすいているだろう。お食べよ」


 イェースズの言葉に、地の民の子供たちは一斉にご馳走に飛び付いた。

 食事も終わり、子供たちも帰った後、食事の片付けをしていた脇にイェースズが立った。


「お母さん。僕も手伝いうよ」


「ありがとう。でもお母さん、びっくりしたわ」


 貧しい人に施しをしたからとて、それが慈善行為なるような時代ではない。むしろ律法を守らない罪びとである地の民と同じ屋根の下で食事をともにするなど、それ自体がまた罪とされた時代である。


「あなたがあんなこと言いだすなんて」


「だってみんな食べ物がなくて、おなかをすかしているんだ。あの子たちを呼んだからって、怒るような偽善者じゃないもんね、お母さんたちは」


「もちろんよ。よその子のお母さんだったら、怒るかもしれないけどね。でもどうしてそんな気になったの?」


 食事の片付けをしながらマリアは、イェースズを見ることもなく尋ねてみた。


「だってヨハネがこの間、自分の罪を許してもらうには人を救うしかないって言うんだもの」


「ヨハネがそんなこと言ったの?」


「うん。本当はヨハネの先生がそう言ってたんだって。それで僕、いろいろ考えたんだ。自分に何ができるのかなって。でも今までずっと分からなかった。そこでいろんな本を読んだけど、それでも分からなかった。そして今日、おじいちゃんに言われて、これだって思ったんだ」


「それで思いついたのね。いくら本を読んでいい話を聞いても、自分で本当にやってみなければ何にもならないんですものね」


「そうだよね。僕もいちばん弱い人や苦しい人のために何かしてあげるのが、神様のためになると思うんだ。神様がどうすれば喜ぶかなって考えて、その通りするのが本当の義ってものじゃないかなあ」


「そうね。律法とか戒律を細かく守るのが義だっていうのは、お母さんもちょっと違うと思うな」


「みんな同じ神様の子供だものね」


 マリアは思わずイェースズの顔を見た。わずか一、二年前にはとても考えられなかった我が子の変わり様に、思わず抱き上げて頬擦りをしたいような衝動に駆られた。


 翌日一行は帰宅し、その夜ヨセフはイェースズを呼んだ。そして弟たちが入ってこないように部屋の扉を閉め、ヨセフはイェースズに五つの巻物を手渡した。胸一杯に抱きかかえられた巻物を見下ろすイェースズに、ヨセフは言った。


「もうそろそろおまえにそれを渡してもいいんじゃないかって、お父さんを思ったんだ」


「これは?」


「『エッセネの書』だ。律法タルムートとも聖書トーラーとも、またゼンダ・アベスタのような異国の書とも違って、われわれナザレびとのいわばいちばん大切な本だよ」


「これを僕が読んでもいいの?」


「もちろん。そして分からない所があれば、お父さんやサロメに何でも聞くんだ」


 その書物のそれぞれの巻には、『エッセネ兄弟団の戒律』『詩篇』『戦いの書』『ハバクの書』『創世の書』というようなタイトルがついていた。


 それからイェースズは、毎晩それを読みふけった。これまでの聖書トーラーやゼンダ・アベスタで得た知識をさらに深くしてくれるこれらの書物に、イェースズの興味は尽きなかった。

 特に『詩篇』は聖書トーラーの詩篇のように神を賛美するばかりのものではなく、身も凍るような将来の世界の終末をうたった内容もあり、また『戦いの書』も壮烈なる光の子と闇の子の戦いが予言されていた。また『創世の書』は聖書トーラーの創世記ともう少し違ったふうに書かれており、何よりも目を引いたのはヘブライ語ではなく自分たちが普段使っているアラム語で書かれていることだった。


 毎晩毎晩それらの書物に読みふけるイェースズのもとに、ある晩ヨセフがやってきた。


「おまえがまだ小さい頃、みんなでエジプトに行っていたことはお母さんから聞いているだろう」


「うん」


「そのとき父さんと母さんはサロメたちも一緒に、向こうでこの『エッセネの書』についていろいろ勉強したんだ。そしてガリラヤに帰る時、あちらでの先生が父さんたちに、ただガリラヤに帰るんじゃなくて、ガリラヤに遣わすんだって言われたんだよ」


「遣わすって?」


「エジプトで始まったエッセネの教えを、ユダヤに伝えなさいってね。今ではユダヤでもナザレ人はずいぶん増えてきたけど、まだ少ないからな。昔はエッセネの教えはユダヤでは禁止されていたんだけど、百年くらい前にマーヘナムという人が出て、その人のお蔭でやっとユダヤの王様はエッセネを認めてくれたんだ。パリサイ人とかサドカイ人とかに分かれてお互い争っているユダヤ教を改革して、すべての人に共通のお一方である神様に向かって、目を開かせるのがエッセネの教えなんだ」


「お父さんが、それをやるように言われたの?」


「でもなあ、父さんはこの年だし、いつまで生きられるか分からないだろう。だからイェースズ。おまえがそれをやるんだ。これからは、おまえたちの時代だ。父さんたちは去り行くだけなんだから、あとのことはおまえたちにしっかりと頼んだぞ。これからの時代を担うのは、おまえたちなんだ」


 そのようなこと言われ、思わず照れてうつむくイェースズだった。


「エッセネの書」も、イェースズはふた月で読破した。しかも、ほとんど暗唱してでだ。読み進むうちに、かなりの点でこれまで両親やサロメが自分に教えてくれたこと、そしてヨハネが語ってくれたことと内容が重なることにイェースズは気がついた。

 そして、気になることがあるたびに、彼はかつて読んだ『ゼンダ・アベスタ』を引っ張り出してきては再読してみたりもした。彼の中で、『エッセネの書』と『ゼンダ・アベスタ』と聖書が三つどもえに重なりかけていたある日、昼下がりに外で父の叫び声を聞いた。

 ちょうど、サロメと『エッセネの書』のうちの戒律について問答していた時だ。それは、


「ヤコブ!」


 と、いうものすごい父の叫びだった。イェースズは、思わず外へ飛び出した。

 外へ出てみると、家の壁のところで幼い弟のヤコブが倒れ、ヨセフがそれを抱き起こしていた。周りには通行人が集まりだし、一人の男はヨセフに背を向けて地面を木の棒でたたいている。そして、たたかれた地面の上を一匹の蛇が逃げていくのをイェースズは見た。

 弟が蛇にかまれたのだという状況を、イェースズはすぐに察した。


「お父さん、ヤコブがかまれたの?」


 人ごみをかき分け、イェースズは弟のそばに近づいた。


「まむしだよ!」


 ほとんど絶叫に近い声で、ヨセフは言った。まむしといえば毒蛇だ。かまれたら、十に一も助かる見込みはない。


「農具の材料の木を束ねて家の中に持っていくよう言いつけたら、その木を束ねているうちにヤコブはまむしにかまれたんだ」


「医者だ、医者だ!」


 と、叫んで、通行人の一人が駆けて行こうとした。


「ちょっと待って!」


 と、その人を慌ててイェースズは呼び止めた。


「お医者さん、呼ばなくてもいいよ」


 そして、父に抱かれ、腕を抑えて苦しんでいる弟をイェースズは見た。

 今までいろいろな本を読み、知識だけではだめだと、「地の民」の子供たちと交わってきたイェースズだった。しかし、こんなことが本当に人救いなのだろうかと、常々疑問に思っていた矢先である。

 そして今、忘れたかけていたあることを、イェースズは苦しむ弟を見て思い出した。

 かつて突然自分に与えられたあの力である。以前は人々を懲らしめるため、自分の思い通りにするためにその力を使ってきた。そして自分の誕生時の話を母親から聞かされ、それ以来は自制して全く使うことがなかったのだ。

 しかし、今もまだあの力があるのなら、苦しむ弟をそれで救えないだろうかとイェースズは考えたのだ。だからこそ、医者を呼びに行くのをとめたのである。


「なんで医者を呼びに行っちゃあ、いけないんだよ!」


「ちょっと待って。神様にお任せしてみようよ」


「なに馬鹿なことを言っているんだ。まむしにかまれたら、ほっておけば死ぬに決まっているじゃないか!」


 走り去っていこうとする男をイェースズはもはや呼びとめもせず、小さな手を合わせ、声を出して祈った。


「神様。どうか弟を救うために、僕をお使いください。僕に癒しの力をお与えください。その力を通して弟を救って下さい」


 イェースズはいつものように強く念じた。そして、自分の掌をヤコブがまむしにかまれた傷口に置いた。

 その瞬間、ものすごいパワーがどっと彼の身体からだに衝突した。全身が熱とエネルギーで満たされ、パワーがどんどんと体内に入ってくる。神様とは宇宙の根本のエネルギーで、そのエネルギーが今は自分に注がれているという実感が彼にはあった。

 彼は心を無にし、自分の想念を大いなる宇宙エネルギーである神の波《《調》》と合わせようとした。そうすればそうするほど、自分の掌を通してエネルギーはどんどんヤコブの身体へと注がれる。

 最初の五分くらいは、ヤコブは足をばたつかせ、イェースズが当てている手の上から自分の手を重ねて苦痛に顔をゆがめ、何度もうめき声を上げていた。


「ヤコブ、ヤコブ、しっかりしろよ。今、お医者さんが来るからな」


 ヨセフさえ何かしているイェースズをよそに、医者だけに気を取られている。

 そのうち、ヤコブはフーッとため息をついた。そしてしっかりと眼を開いいて周りを見回してから、ゆっくりと立ちあがった。


「もう、大丈夫だよ」


 イェースズが、優しくヤコブに言った。


「おい、ヤコブ、どうしたんだ。もう痛くないのか?」


 慌てて尋ねるヨセフに、けろっとした顔をヤコブは向けた。


「うん。治った。ちっとも痛くないよ。お兄ちゃんがお手々を当ててくれたらすごく熱くなったけど、スーッと痛くなくなった」


 そこへ、医者が息を切らしてかけてきた。


「まむしにかまれた子は、どこかね」


 肩で息をしながら小太りの医者は、あたりを見回した。


「はあ、この子なんですが、それが……」


 ヨセフがなんら変わったこともなく普通に立っているヤコブを示したのを見て、医者は目を丸くした。


「え? この子? だって、なんともないじゃないか」


「えー、それがですね……」


 ヨセフは事のいきさつを手短かに説明した。


「そんな馬鹿な。ちょっと見せてごらん」


 医者はヤコブの腕をとり、まむしにかまれたという辺りを見た。


「ちっともなんともない。かまれた跡すらないじゃないか。いいかね、忙しいのに人をからかうのもいい加減にしてほしい」


 怒って医者はその場に背を向けた。人々もどよめきを残しながら三々五々に散っていった。ただ一人その場に残ったのは、服装から教師ラビと分かる若い男一人だった。

 今までの一部始終を目撃していた彼は、イェースズに、


「ちょっと、会堂シナゴーグまで来てくれないか」


 と、言った。親のヨセフが何も言わない前に、イェースズは教師ラビについて歩いて行ってしまった。

 会堂の薄暗い部屋でろうそくもともさず、教師はイェースズを椅子に座らせた。


「君はいつから、あんな力を持ったんだ?」


「二年ぐらい前からです」


「どうして、医者を呼ぶのをとめた?」


「だって、どうして人が苦しんでいるときに、お医者さんだけを頼るんですか? 僕は、ただ神様だけを頼ればいいと思ったんです。だって、いつも神様にお祈りしているくせに、どうして大変な時だけ人間である医者に頼るんですか?」


「いいかね。神は医者というものを通して、その力を表す場合もある。医者のすることも、神の定め給うたことだよ。いたずらに医者を遠ざけなくても、神に背を向けたことにはならないと思うがね」


「そりゃ、お医者さんって悪い人じゃあないでしょう。でももっと早く確実に助けられるのに」


「あの、君の力でかね? それほど自信があったのかね」


「僕の力じゃあない。神様の力なんです」


「なぜ、そう言えるのだ?」


「だって、弟は治ったじゃないですか。まむしにかまれたが、たとえお医者さんが来ても助からないのに、それが治ったじゃないですか」


 教師はしばらく考え込んでいたが、ゆっくりと口を開いた。


「君は先からは、神、神って言っているけど、神が定め給うた十の戒律、知っているかな?」


「モーセの十戒でしょう。もちろん知っていますよ」


「ほう。その年では珍しい。では、その十戒のうち何がいちばん大切かな?」


「いちばん大切なものなんてありません。ただ、十戒全部をまとめてひと言でいう言葉を、僕は知っています」


「それは?」


「愛です」


「ほう、何という先生が君にそんなことを教えたんだ?」


「知りません。真理は一つですから」


 こうして夕方近くになるまで、二人は会堂の中で話し合っていた。


 その夜、イェースズは母マリアに語った。


「今日、先生ラビ会堂シナゴーグでお話ししたよ」


 そのことはヨセフから聞いていたし、そのいきさつが気にかかっていたマリアだけに身を乗り出してイェースズを見た。


「どんなお話をしたの? お母さん、ぜひ聞きたいの」


「いろんな話。でもね、先生ラビの話は、僕、嫌だ」


「どうして?」


「だって、ゼンダ・アベスタもエッセネの書も知らないんだもの」


「パリサイびとだから、それはそうよ。あなたはこの家に生まれたから、それを読めるのよ」


「ほんとォ? 最高だね。あの人たちそれも知らないから、話が律法タルムート聖書トーラーのことばかりだよ。それはそれでいいんだけどさ。まるで神様はすごく不公平でユダヤ人ばかりえこひいきしているように言うし、それでいいんだなんて言うから、僕、頭に来ちゃった」


「そこで、怒っちゃだめよ。よくお話を聞いてあげた?」


「うん、聞いてあげたよ。ユダヤ人はどんな人よりも、神様のお恵みがあるんだって。でも、そんなのおかしいよ。神様ってそんな不公平な方じゃあないでしょう? だって、そうじゃない。ギリシャ人もローマ人もサマリア人も、みんな神様の子供でしょう。ユダヤ人って、自分さえよければいいんだね」


「昔はあなたも、そう思っていたくせに」


 マリアが笑うと、イェースズも苦笑を漏らした。


「それ、言わないでよォ。とにかく、ユダヤ人って、ほかの人たちも神様から見ればみんな大切なんだってこと知らないね。僕、そんなの嫌だから、よそに行きたい」


「よそへ?」


「うん。ユダヤ以外の国へ行って、いろんなユダヤ人じゃない人と会いたい。特に、ゼンダ・アベスタの国に行って、もっといろんなことを勉強したいんだ」


「うん、大きくなったらね。今のあなたじゃ、まだ無理よ。もう少し大きくなったら、お行きなさい」


「大きくなったら?」


「そう。それまで、もっとしっかり勉強して」


 マリアはろうそくの火の前に頬杖をついた。

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