7. カティネの兄弟①
シャルロットと契約書にサインした後、ジェフはいつも通り迎えに来たバルカスと共に出勤した。
バルカスは子爵家の息子で、同じタウンハウスエリア、徒歩五分の場所に屋敷があった。しょっちゅうカーターの屋敷にも泊まるが、基本的には通いである。二人はカーター家の執務室、王城横に建つ執政棟の宰相室、国内外の視察と毎日一緒に飛び回る。
「バルカスさんは優秀なんですよ。情報網を張るのが得意でね。彼のツテがあれば大体の無理筋も通ります。奥様もお願いごとがあれば何でもおっしゃって下さい」
「お若いのにおじさまも宰相様、バルカスさんも側近なんて、すごいですね」
「ジェフ様は実力主義ですからね……ところでその、おじさま……とは」
「もちろんおじさまです。いくら妻と言っても契約ですし、お名前で呼ぶなんてできません。セバスさんも、どうぞ私を奥様なんて呼ばないで下さい。何だか申し訳ないですから」
老執事と専属侍女は揃って眉間にしわを寄せるが、諦めたように肩を落とした。
「おじさまはさて置き、奥様は奥様ですので。あ~、でも外でおじさまはいけませんよ」
「はい、じゃあ外では呼びません。奥様はなんか、むずむずしちゃって」
かゆそうにする様子は可愛らしいが、セバスのため息は深い。
セバスはテルミアと共に広い屋敷をくまなく案内してくれた。屋敷には大小様々な家族の私室と居間、大きな風呂、各居室のシャワールーム、ダイニングホールにダンスホール、夜会を開く迎賓用の別館、温室、庭園、ガゼボ…シャルロットは殆ど初めて触れる貴族文化に口を半開きにして付き合った。
なんて無駄な施設だろう。
その為に人を沢山雇わねばならない程に掃除が大変だ。
庶民の感想しか出て来ない。自分は残念な奥様だろうな、と思う。車のなかった時代の名残で厩舎も有り、数頭の馬もいた。
「馬! すごい! 可愛い!」
「興味がお有りでしたら、乗馬もお教えしますよ。馬番がいますから」
「えっ、良いのですか?」
「もちろんです。何でもやりたいことが有れば仰ってください。では試しに乗馬の時間も作っておきましょうね」
シャルロットはちょっとわくわくする。貴族になって以来、初めて自分の意見が意味を持った気がした。
「さぁ、では屋敷のご案内は以上です。あとはディナーのお時間までお好きにお過ごし下さい」
屋敷の玄関に戻り、一旦セバスと別れた。シャルロットはずっと気になっていたことをお願いしてみる。
「テルミアさん、私、どうしても行きたい場所があるのです。行ってきても良いでしょうか?」
既に契約済である。ジェフからシャルロットは納得して契約し、屋敷に留まることなったと聞き及んでいるので、テルミアも余計な心配をせずに車の手配をすると言ってくれた。
「ご用事のお邪魔はいたしませんので、同行をお許しいただけますか?」
「もちろんです! 車で連れて行って下さるのであれば、随分と助かります。本当はその後、自宅にも取りに行きたいものがあって」
「子爵家ですね? お車でなければどうやって移動されるおつもりでしたか?」
「路面電車です。行き先はちょうど電車を降りた先なので」
「かしこまりました。奥様、今後は外出時には必ずお車で、と覚えておいて下さい。お一人でお出かけもいけません」
「なぜですか?」
「私共は奥様の安全にも気を配る必要があります。貴族の誘拐など珍しくもございません。お車ももちろん防弾仕様です。どうぞ外出先ではお一人にならないようお願いいたします」
「防弾……かしこまりました」
撃たれるのか?
だけど公爵家に連れて行かれた夜も大変にあらぶっていたことを思い出す。貴族の世界は危険がいっぱいである。
何も言えずに辞めてしまった花屋には、どうしても謝罪とお別れに行きたかった。アルバイトも含めると五年勤めた自分が唐突に来なくなって、きっと奥さんも心配しただろう。少しだけでも事情を説明できればいい。
「行き先はロジアンですね。かしこまりました」
「あれ? 私、テルミアさんに屋号をお伝えしましたっけ」
「先程、伺ったかと…え~、運転手のサムも居りますし、伴は私一人で。手土産を用意しますね。手ぶらではいけません! では奥様、外出のご準備を。メイドのイルダを呼びます」
「ありがとうございま…あ」
「ふふ」
口許をおさえたシャルロットに、テルミアが微笑む。朝から何度も御礼を言ってしまうのだ。
(テルミアさんは素晴らしく気がきいて、心底良くしてくれようとする)
シャルロットは尻のすわりが悪くて、もじもじするしかない。本当は全部に礼を言いたい。言いたいが『これくらいで御礼を言ってはいけませんよ』と毎回小声で教えられる。ご令嬢とは難しい生き物である。
丸いボンネットの黒い高級車で市街地まで出ると、小さな花屋のある通りから少し脇に逸れた辺りで降ろしてもらった。見慣れた路面電車の駅前。なるべく地味な服を選んだが、以前とは違う自分自身を奥さん達はどう思うだろう。目立たぬ場所で立ち止まったテルミアから次第に離れ、頼りない気持ちでロジアンと書かれた赤いオーニングテントを目指す。
ひょっこりと顔を出すと、奥さんとご主人がちょうど一緒にいた。
「ロティ!!!」
奥さんが驚いた声を出し、すっ飛んで来てシャルロットをぎゅーっと抱きしめた。
「ちょっと、急にいなくなるからびっくりしたじゃない!!」
「奥さん、突然ですいませんでした。私、すごい迷惑を」
「迷惑なんて良いよ、無事だったんなら! ちゃんと食べているの? 元気なのよね?」
「はぁ~……良かったよ。急に知らん奴が来て、もうロティは来ないって言うし、本当に心配してたんだ」
「本当にすいません、色々あって」
二人はまじまじと下がってシャルロットを見た。
「まぁ……本当なのね? やんごとないお嬢さんだったって? なんだか随分と身ぎれいになっちゃって」
「あの、知らん奴がって、眼鏡をかけた人とかですか?」
「そうそれ、眼鏡。『シャルロットお嬢様は金輪際退職します。ご迷惑をかけますので、どうぞお納めください』ってね。なんか慇懃で偉そうに、まるで手切れ金みたいにさ、金を置いてったわ。感じ悪いったら! 大体、あんなの怖くて受け取れないよ。持って帰ってくれる? ロティ、あんなのと一緒にいて大丈夫なの? あ、そうだ! 渡せなかった分の給料も気になってたの」
「ひえ。 あの、あの、それはもう結構です。お金は私のものではありませんし、実はもう先に引き取られた家には居ないので、渡しようがありません。眼鏡のお金は私も知らなかったので、このままで」
「え~っ…んー、じゃあ給料は渡すわ。未払いだと役所から何か言われたら困るのよ」
「わかりました、ありがとうございます」
ご主人から茶封筒を渡されて、代わりの様に手土産を受け取ってもらう。
「わぁ、このお菓子有名なやつだ! 嬉しい~! ねぇ、誰かにいじめられたりしていない?お貴族様なんて、ロティじゃ想像つかなくて。それにほら、ロティの住んでたとこ」
「いじめられたりはありませんが、貴族の社会は意味不明なことが多くてちんぷんかんぷんです」
「そうだろうね」
奥さんとご主人の想像の斜め上を行き過ぎる意味不明ぶりだったのだが、説明するのも憚られた。
「もうあの家には、もう戻らなくて済むので、それだけでも本当に助かってて」
「そっかぁ、そりゃそうだよね。あいつらは知ってるの?」
「いえ、とにかく最後にこのお店を出た夜から一度も帰ってないんです。会ってもいません」
「えっ、そうなの!? 心配…はしないか。じゃあもう、戻らなくて良いのね」
「はい! これから一度だけ戻って、それでもうお終いです」
二人はシャルロットと過ごした日々を思い出して涙ぐむ。シャルロットもそれを見て、ぽろぽろと涙をこぼした。
「良かったよ。私、ロティには結局大したことしてやれてなくて……しばらく後悔してたんだ。でもとにかく元気で、良い家に引き取ってもらえたんだね」
「そんな。奥さんには私、感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。でも多分また戻ってくると思うので、その時はまたよろしくお願いします」
「当たり前だよ、そんなの!ロティがいなくなってから、何人もお客さんからロティのことを聞かれたよ。こんなに常連客を作ってくれていたなんて、本当にありがたかったの。いつでも帰っておいで、ロティ」
別れを告げて店を離れ、控えていたテルミアと車に向かう。
「素敵なご夫婦でいらっしゃるんですね」
「はい! 一度も働いたことのない私に、とっても丁寧に仕事を教えてくれました。奥さんは遠くに嫁いだ娘さんと同じように私を可愛がってくださって。よく泊まらせてもらったり、お金がない時にご飯を食べさせてもらいました」
「さようでございますか。お食事にご自宅にまで……かしこまりました、心に留めておきます」
「素敵な手土産、喜んで頂いていました! ありがとうございました」
再び車に乗り込んでから、シャルロットは意を決して運転手のサムに次の行き先を伝えた。
「カーター侯爵家がある貴族のエリアではない、西街のタウンハウス区画です。そこにあるカティネ子爵のお屋敷までお願いします」
「かしこまりました」
にっこりと笑って、サムがアクセルをゆっくりと踏む。