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64. ソフィア

 フフンフンフン、フフンフンフン……

 ジャカジャカジャカ……


「ジャーーーーーーン!!!」


 今日も大好きなジャンゴのジャズギターを頭の中で鳴らしまくって、ご主人の執務室を磨き上げる。大して汚れもしないからひとりで割り当てられた執務室。ご主人不在の昼食時間、好きなだけ歌いながら仕事をするのが私の重要任務。

 好きな音楽はいっぱいある。ジャズもポップスもクラシックもフォークも。歌っていると元気が出るし、何でも楽しくなってくる。


 どこで売ってるのかもわかんない豪華な羽根のパタパタで窓の桟と書棚、机の埃を払って、硬く絞った雑巾で拭く。教えられた通りよりも、ちょっと丁寧に。そしたらお給料が増えるかもしれないから。

 端が不揃いな紙の角を揃えて、仕掛りらしき書類だけわざとずらして置いておく。これは触った後でも嫌な気になったり怒られない気がするから。そしたら結局お給料も増えるかもしれない。

 ぜんぶ、ちゃんと、なんとなく!

 あ~と~は~…上から美しいガラスのペーパーウェイトを乗せたら。


 お終い!


 羽根と雑巾を手にくるりと振り返ったら、心臓が止まりそうになった。

 ドアの前には、ここにはまだ帰ってこない筈の見目麗しい男が立ってるじゃあないか!

「っ! 申し訳ございません」

「なにが?」

「終わるのが遅くなりました」

「いや、僕が戻って来るのが早かったんだ」

「さようでございますか。あの、清掃は済みました! 失礼いたします」

 ぺこりとお辞儀をしてドアに向かおうとするけど、ご主人様が動こうとしない。困った。

「あの、何か御用でしょうか」

 渋々と切り出す。私は正直、このマルーン公爵が苦手だった。だってちょっとそこいらの男には遥か遠く及ばない品があって、何といっても賢そう。だからいつも怒られそうな気しかしない。

「君、名前は?」

「……ソフィア・アップルトンです」

 やっぱり何か怒られるのかも。声が小さくなる。

「歌が好きなのか」

「え?」

「よく歌ってるだろう、掃除の時間に」

「すいません!!」


 謝ったけど、あれ、なんで知ってるんだろ??って気が付いてしまった。まさか私の美声が屋敷中に響き渡ってしまっているんじゃ……

「響き渡ってはいないが、実はよく聞いている」

「ど、どこで!?」

「この部屋で……睡眠時間が少ない時にソファでよく寝てるから」

「ももももも申し訳ございませんでした!!」

 執務室は本棚で机と応接セットの執務エリアと公爵のプライベートエリアに分かれている。プライベートって言っても、ソファとワインボックスとか酒類、お菓子や雑誌なんかがあるだけらしいけど。カリムト様からそっちは入ったらダメって言われている。更にその奥はご夫婦の寝室があるから。見たことのないマボロシの奥様とのね。

「ジャンゴが好きなのか」

「はい大好きです!!」

 食い気味に即答してしまってから、あ、間違って元気よく返答しちゃったと気付いて慌てて黙ると、ご主人様は珍しい生き物を見るみたいな目で私を見ている。

「申し訳ございません」

「なにが?」

 それから後ろに手をやって、手品みたいに二枚のチケットを出して来た。

「偶然、たまたま手に入ったんだけど、君、行きたいんじゃないかと」

 それはジャンゴがフランスから遠征するライブのチケット。プレミアでプラチナなソロ公演チケット!! 譲ってくれるとか!?

「え!? え!? いっ」

「い?」


 あ、でもダメだ。


「い……良いですね」

 チケットは五千もする。今月は仕送りが多くてただでさえカツカツだから、ちょっと所か無理無理無理。

「興味がなかった? 何が好きなんだ」

「いえ、まさか! でもあの、手持ちがありませんし」

「あぁ、違うよ。お金は要らない。たまたま手に入っただけだから君に一枚あげようと思って」

「下さるんですか!?」

 思わず私は叫んでしまう。プラチナチケットを無料で譲るなんて、何という……いや、そうだわ、この人は桁外れのセレブだった。

「はい」

 チケットが、一枚すい、と私に渡される。

「え……あの、本当に良いのですか」

「どうぞ」

「ありがとうございます!!」

 その日、私はスキップしてアパートまで帰った。


 後日、会場で隣の席に座ってきたブラッドを見て仰天したのは笑い話。



 ****


「ねぇ、ママ! ちっちゃい赤ちゃんだね! かわいい!!」

「本当に……とっても可愛いわ。あなたにそっくりね、ソフィア」

「はい」

「バティーク、キャロルとあっちで赤ちゃんを見ていてね。生まれたばかりだから、抱っこはだめよ。ママたち、大事なお話があるから」

「わかった~!」


 奥様は静かだった。

 音もたてずに私の前に紙とペンを置いた。

 私は忘れないように誓約書をちゃんと読む。

「ここに赤ちゃんの名前と、あなたのサインを」

 美しく手入れされた指先で、奥様が空欄を指して言った。


 だけど四日前に産んだ子の名前は、まだない。

「今、名前を決められないかしら。候補はあるのでしょう?」


 オリヴィアか、エイヴァで悩んでいた。ブラッドが響きが良いと以前名前の話をした時に言っていたから。だけどこの先、名前を呼ぶたびに彼を思い出しそうで躊躇があった。


 自分のサインだけを先にして、ペンを置く。

 子どもの名前を考えて、小さな部屋に沈黙が流れた。



「……ごめんなさいとは、言わないわ」

 奥様の言葉に、私は俯く。私だって、言わない。言えない。言う資格もない。

 人のものを欲しがったらいけない。

 欲しがった挙句、愛した人まで騙した。子どもはもう持てないって、言っていたのに。

 聞いていた。知っていた。理解していた。


 だけど、どうしても欲しかった。


 別れることになるなら、どのみち彼に内緒にできる。

 彼がいなくなっても、生きていける。


 奥様は分厚い封筒を机に置いた。

 それは生涯あの子の父親が誰なのかを黙っておく口止め料。

 私の口を封じる為の金額だとしたら高すぎるけれど、あの子から父親を取り上げる金額だとしたら安すぎた。


 どんどん!!

 赤ちゃんの泣き声と共に扉が鳴って、ハッとする。

「ママ~!! 赤ちゃんうんちしたみたい!」

「申し訳ございません、替えのおむつを頂ければと思います」

 向こうから声がして、慌てて私は立ち上がる。

「すいません、おむつを替えてきます」

「ええ」


 湿らせた布で拭いたりしている様子を、垂れ目の男の子がじっと見つめている。

 私の赤ちゃんは泣き止んで、つぶらな瞳でどこかを見ている。

「なきやんだね」

「ええ、そうですね」

「気持ちいいのかな? きれいになったから」

「だと思います」

 バティーク様は『だっこしてもいい?』と小さな声で私にねだった。かつての同僚であるキャロルを見ると、肩を竦めてどうでも良さそうだった。

「首が据わっていないので、くるんだままなら」

 おくるみで包んだ赤ちゃんを小さな腕の中に置いて、下から一緒に支えた。

「わぁ……」


 小さなおにいちゃんは瞳をキラキラさせて赤ちゃんを見る。

「いいなぁ……僕も赤ちゃんがほしいなぁ。おとーとか、いもうと!」

「そうですか」

「赤ちゃんは、なんて名前?」

「まだ決められなくて」

「え~、そうなんだ。じゃあ、シャルロットにしようよ!」

「シャルロット……ですか?」

「うん! 大好きな絵本にでてくる王女さまの名前だよ」

「王女様の」



 それから机に戻り、誓約書に名前を書いた。

「ありがとう。誓約書はこの通り、確かに貰いました」

 奥様は色んな感情を沈めた静かな瞳で私に言った。

「今日以降、あなたがた親子のことを追いません。二度と近づかないわ。あなたもマルーンを忘れて……どうぞシャルロットと元気で」

 私も奥様も泣いていた。何の涙なのかはわからない。

「今日まで、ご迷惑をおかけしました」


 深く深く、詫びた。



 ****


 吸っても吸っても空気が吸い込めずに、溺れていく意識の中、愛しい娘の泣き声が聞こえる。

 ごめんなさい、まさかこんな急に別れが来るなんて。


 たった十四のあなたを置いていくわけにはいかないのに。


 色々言いたいのに、一文字の音すら紡げない。

 痺れたように固まる私の手をシャルロットが叫びながら掴んでくれる。


 ああ、可愛い手。


 私のすべて。



 あなたを産めたことに感謝してるの。

 私は世界一幸せになれた。愛するブラッドの子を育てる時間は、幸せ以外になかったわ。

 だけど神様、普段祈ることのない私がこんなことを言うのはお門違いかもしれないけど、ちょっと早過ぎるんじゃない。私にこの子以外いないように、この子にも私以外いないのに。


 シャルロット。

 ごめんなさい、自分じゃもう、どうにもならない。なりそうにない。

 でもどうか泣かないで。


 ずっとあなたを見ているから。



 どうかこの先、あなたが私と同じくらい幸せに満ちた顔をしていますように。


 どうか、あなたも世界一幸せになりますように。













最後の最後までお付き合いいただきありがとうございました。

これにて本当に最終話、終わりです。


またお会いできる機会があれば、どうぞよろしくお願いします~!

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