62. アリスとバティーク⑥
いよいよ夜会の日を迎え、昼を過ぎてマルーンの屋敷ではてんてこ舞いの準備が繰り広げられる。アリスは侍女とマルーンのメイドたち、シャルロットはテルミアとイルダにエルサにリーリエ、ビビアンも子爵邸のメイドたちが集まって腕によりをかけて奥様たちを仕上げていく。
「シャルロット様、ジェフ様はどうなさるのですか?」
リーリエが尋ねる。
「夕方にバルカスさんと迎えにこちらに来るそうです。衣裳は執政棟に持って行くようなことを言ってたような……そうですよね? テルミアさん」
「ええ、そうです。ジェフ様の用意はセバスがしておりましたよ。あなたたち、ご主人様のお世話の行方くらい把握しておきなさいな」
は~い、と三人は気のない返事をするが、誰もおじさんには興味がないので改善される気配はない。生まれてから今日まで、ほぼセバスが坊ちゃまのお世話をしているようなものである。
「シャルロット様が早くお屋敷に帰って来てくださらないから、急につまらないったら」
「ジェフ様だけだと張り合いないよね。でもやっと今晩から!」
「帰ります! 久しぶりに怪談話したいなぁ」
「あ~! 良いですね。そうだ、エルサほら、あのパークスさん家のおじさん呼ぼうよ。いっぱい怖い話知ってるんだって」
シャルロットは目を大きくする。
「パークスさん家……?」
「全員静かに手を動かしなさい!!」
途端に専属侍女の厳しい声が響き渡り、四人がビクリとして無口になる。シャルロットが小さく『それ絶対しようね』とリーリエにお願いした。ビビアンも呼ばなくては……。
さぁ、奥様出来ましたよ。
「ありがとうございます!!」
最後にペタンコでクッションが分厚く入った靴を置かれ、カーター家の若奥様は立ち上がる。
「シャルロット様、かわい~!」
「めちゃくちゃ綺麗~!!」
「やっぱりピンクとグレイが良くお似合いですね!」
わ~! とみんなが拍手をして仕上げに褒めてくれる。シャルロットも拍手して『可愛い~!』と鏡を見た。
結局、クリスマスコンサートの夜におでかけした揃いの色と同配色のドレスを選んだ。半袖のパフスリープと大きく丸くカットされたピンク色のトップは胸下にゴールドのビーズが入った太いリボンが巻かれ、足元まで生地を多めに使ったドレープのある濃いグレーのシルクスカート。
「思っていたより足元が気にならなくて良かったです。私、そこまで背が高くないからバランスが悪く見えないか心配で」
「そうですね。本当ならヒールをお勧めしますけど。絶対だめです」
つれなく言ったテルミアが、何度も何度も繰り返した言葉をまた言う。
「良いですか? 奥様」
「覚えました!! お酒は飲まないし、飛ばないし跳ねないし、転ばないし、ぶつからないし、それから、えーっと」
「ダンスは?」
「あ、ダンスはスローテンポの曲だけ!」
「そうです。サプライズも良いですが、何より早くジェフ様に仰ってくださいね。言う前に酔っぱらわれたら大変ですから」
「せっかくなので、ちょっといい思い出になる時にジェフにおしえたくって」
「それは、そうですね」
気恥ずかしそうな奥様に、専属侍女が優しい顔で同意してくれる。
「ですが、階段などは本当に気を付けてください」
「かしこまりました!!」
ビビアンが終わったかと部屋を訪ねてくる。二人は手を繋いで『早く見に行こう!!』とアリスの部屋へと向かった。
****
わらわらとやって来た未来の義妹とその親友に、アリスはにっこりと笑む。
「きゃ~~~~~~~ん」
「素敵が過ぎる~~~~!!! 素晴らしくお似合いです、姉さま!!」
「ありがとう、ロティ。私も本当に素敵過ぎて、人生で一番テンションが上がっています」
「デコルテが眩しいわ」
「さっすがビビアン様! そうです、今回の主役は殿下の隠れた素肌。最大限その美しさを引き立てるデザインとお色味を選びましたの」
「んま~! 着眼点が素晴らしいですわ!」
ビビアンがジャンヌの口調を真似て返すのでシャルロットとアリスはクスクス笑う。
「兄さまにはお見せになりましたか?」
「ええ、今日はまだですが、仕上げ前に一度お互いを確認しました」
「どこかお揃いなのですか?」
「襟とか…タイとか……実物を見ると年甲斐もなくて……今更に恥ずかしいわ」
ぼそぼそと告げる様子にシャルロットはにんまりした。
「ふふふふふふふふふふふふ、か~わいいぃぃ」
「まぁ、やめて、ロティ」
ビビアンが仲睦まじい姉妹にくっついた。
「すっかりバティーク様と仲良しになって、ロティも嬉しいわね?」
「んー!」
「アリス様、ご心配もなくなったみたいで何よりですわ」
ビビアンの小さな声にアリスも苦笑して頷く。
乗馬の日の翌々日の夜、アリスは仕事を済ませたばかりのバティークの執務室を一人で訪れた。
「遅い時間にごめんなさい」
「構わないよ、どうぞ」
バティークは乗馬以来、とても近しい距離に入った。殿下と呼ばず、アリスと呼んでくれる。側にいると手を繋いだり身体を寄せて、よく屈んで話してくれるようになった。アリスにはその距離が慣れずに狼狽えてしまうのだが、親しくしようとしてくれる姿勢は嬉しくてくすぐったくて、だから逃げ出したくなるのを我慢した。
見合いの相手が優しい人で本当に良かったと思った。
だからその夜、書き上げた小説を手に部屋を訪れたのだ。
「私、本当にバティーク様に感謝しています」
ソファで隣合わせに座った二人の距離は近い。
「感謝?」
「はい。自分を良く見せようとしたまま嫁ぐところでした」
バティークが柔和な瞳でアリスを見る。
「アリスのそれは自己中心的な理由からじゃないんだ。そんな風に自分を言う必要はないよ」
「……そうかしら」
「そうだよ」
二人の間に穏やかな時間が流れる。アリスが大事そうに持って来た、クリップで止められたやや分厚い紙束を差し出した。
「そういう、私をありのままで受け入れて下さったバティーク様のことも、私は私で心から受け入れようと思っています」
「うん?」
垂れ目はふわりと髪を揺らし、紙束を手に取る。
「これは何? 『愛しいスパイ』?」
「はい。バティーク様を主人公にして、小説を書きました」
「僕を!?」
「ええ……何と言うかその、バティーク様のやり場のないお気持ちを少しでも昇華させてあげられたらな、って思うようになりまして」
「え」
ぺろん、と捲ったバティークが読み始める。
「………」
「もし期待外れだったらごめんなさい。気に入らなかったら、お捨てになって?」
「………」
「あの、じゃあ、おやすみなさいま」
読み始めて反応のなくなったバティークに挨拶をして、アリスは自室へ下がろうとした。が、パシッとバティークに手首を掴まれて引き寄せられる。
「えっ、ちょ」
「ここにいて」
それから何枚も捲り、捲り、捲り……
だが途中でバティークはぎゅっと目を瞑った。観念したようにクタリと首をソファに預け、だらんと身体の力を抜く。というか、抜けた。
「はぁ……もう無理だ」
「あ、ごめんなさい。お話が良くなかったかしら」
「いや、話自体は面白いんだけど」
アリスはちょっと泣きそうになる。見上げた男は自分の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻いて嫌そうな顔をしていた。
「何と言うか。現実を目の当たりにした気分というか」
「はぁ」
「気持ちが悪い奴だな」
僕が。
小説の主人公バティークは、大人になったある日、美しい女性シャルロットと出会う。
謎の多い女性シャルロットは国家の諜報機関にその才能を見出され、実は女スパイとして活躍していた。そんな彼女のターゲットがマルーン公爵のバティークで、マルーン家に隠された王家に関する文書を狙って彼に近づいていくのだが、二人は近づいていく内に互いに恋をしてしまう。だけど、実は二人は生き別れの兄妹かもしれないとわかり……
「なかなか…はは、えぐられる。キスシーンを読んでわかったよ……僕はロティにそういう欲がちゃんと無かったみたいだ。反応も何もしない。むしろちょっと……」
バティークが言い淀んで口を開けたまま自分の顎を撫でる。
まざまざと他者によって文字に起こされた妹とのラブシーンが、こんなに生理的に受け付けないとは。これまで想像してこなかった訳ではないのだが。思っていた以上に自分でもぼかして想像していたらしい。
実のところ本人に手を出してみれば一瞬でわかったことだったが(もちろん投げ飛ばされるが)、その穏やかな心根ゆえに気づきを得るのに今日までかかってしまったわけである。
思わぬ方向から潔く叩き折られた思慕はキラキラと泡のように散っていく。
あーあ、本当に僕はパッとしない奴だ。
バティークは父がよく評する己を深く実感する。
だけどもっと君が頼れる人間になりたいんだ。
「アリス」
「はい」
アリスは申し訳なさそうな顔をして答える。
「ここから、全部ロティをアリスにして、読んでよ」
「えっ」
「その方が、キそうだ」
「キ……や、でも」
ぺろん、ぺろんとページを捲るバティークが口角を上げ、指で紙面をつついた。
「はい、読んで。ここから」
「無理です」
「なぜ」
「だって……」
さすがに詳しい描写はなかったが、キスの後でベッドシーンが始まるのだ。
だけどバティークは促すように目を瞑ってじっと待つ。
アリスは悲惨な顔をしながら紙を持ち、自分の文章を朗読し始める。それだけでも羞恥プレイなのに、よりによって自分が登場するなど。
「バ……バティークは……シャ…」
「シャじゃない、ア」
「ア……リスの手を握り、二人は瞳を閉じ、て……とじ、く、く、くち、くち、く……く、く……」
目を瞑っているバティークの肩が小刻みに震えだす。
「……した」
「ちゃんと読んでくれないと、キスできない」
「ア~~~…リスは……首に腕を回し、指で後ろ髪を掻き、ふ……深っく、口づ……を……かわ……む、無理!!」
叫んだアリスにバティークが笑い出す。
「自分で書いたのに」
「恥ずかしくて読めません!!」
「は~、面白かった」
「面白いお話じゃありませんわ……」
「うん。でもやっぱり僕は、相手はアリスが良いみたいだ」
「バティーク様」
「今はまだ、お互いライクとラブの間だろうけど……なんでかな、大人みたいに見えるアリスも、子どもみたいに可愛いアリスも大事にできる自信しかない。僕は絶対君を今以上に好きになる。友達夫婦は無理だ。それでも良いかな?」
ふやけていく原稿を胸に抱きしめて俯くアリスを覗き込むようにバティークが言い、鼻と鼻が触れ合う。アリスは泣きながら何度も何度も頷いた。
「今度こそしても良い?」
「……ぃ」
言いながら、二人は瞳を閉じてキスをした。
****
公爵家のリムジンに乗り込んで、六人は一路、ザレスが保有する湖に建つ城へと向かう。ちなみにブランドンはザレス公爵と共に先に出ていない。
「なぜリムジンの中にシャンパンがない」
車内のワインボックスを覗いたジェフが不機嫌そうな声を出した。
「ロティが置くなと」
バティークの言葉に、信じられないものを見る目で妻を見る。
「だめだめ! ちゃんとフラフラじゃない足元でダンスしないといけないんだから。会場に着く前から良い気分が始まっちゃったら後半まで持ちません」
「ぉ~……わかってるじゃないか」
「分かられているジェフ様が問題なのよ。今日はプライベートだけどそうでもないわ。なるべくお酒は控えて、ちゃんとロティのエスコートをしてあげてよ? すごく楽しみにしていたんだから」
自分の脇に座る可愛い生き物を見て、条件反射で撫でようと手を伸ばすが『髪の毛が崩れるからだめ』とつれなく逃げられる。
「酒もダメで触るのもダメならやることがない」
宰相は目を瞑って口を閉じた。
「結局寝るのね」
シャルロットが頬をつつくが、無視である。
「いつものことですね。ですがまぁ、体力的にもお疲れでしょう、今日まで毎晩カーターに帰ってダ」
「バルカス!」
寝ながら叫んだジェフにビビアンが声を殺して笑う。
『奥様にはそれとなくスローテンポの曲をお勧めしておきますから、坊ちゃまはそれだけ練習なさいませ。バルカスさんに頼んで曲もコレの演奏を頼んでおきますから。お誘いしやすいでしょう?』
世話焼きの老執事がそういうので、忙しい中時間を割き毎日テルミア相手にダンスを繰り返した。テルミアはシャルロットの真似をするので足を踏んでくるが、バルカスの野次に負けじと何とか上手くリードする練習を繰り返し、ジェフは今日その一曲に賭けている。もし手筈通りに曲が流れぬ様なら詰むしかない。
モテた頃はそこそこ機会もあったが、いかんせん最後に踊ったのは一度目の結婚式後にあったパーティである。その後は夜会も仕事としてしか出ない。『お嬢さん一曲願います』など誘う暇すらなかった。
眠ったふりをしながら眉間に皺を寄せ、再び頭の中でイメージトレーニングに励む。
「ねぇ、ジェフ」
「ん?」
腕を引いてくるシャルロットが囁き声で『それ』と言いながら銀色のタイピンを指した。
「付けてくれたんですね?」
「……ああ」
「安物なのに」
言葉とは裏腹に、クリスマスプレゼントを見つめる顔は幸せそうだった。
「知らないのか? この世で一番高いタイピンだ」
「うそがすごいわ」
「売りに出たら俺が一億で買うからなぁ」
シャルロットがおかしそうに笑う。ジェフが甘い瞳でそんな妻を愛でる。
「……一生使わないで飾っておく予定だったけど」
「けど?」
「我慢できなかった」
「ふふふ」
兄も側近もいるのだが、憚ろうという気配も一切なしにイチャイチャと唇を啄み始めて、さすがにバティークが大きな咳ばらいをする。
「うるさいぞ、兄上」
「アリスがいるのですから、もう少し節度をお願いします」
「まぁ! 私は大丈夫ですわ、バティーク様」
アリスは鈴のなるような声音で答える。妹夫婦の観察はすっかり『羨ましい』から『面白い』に移ろっているので、物書き王女の頭の中はイケナイ妄想でいっぱいである。
「僕がアリスに見せたくないんだ」
「でも兄さま、姉さまは色んなこと沢山ご存知ですよ」
バティークとジェフがシャルロットの言葉に口を噤む。義兄弟は暫く見つめ合った。




