59. アリスとバティーク③
軽く口づけている間に眠気も飛び、ジェフはいつのまにか可愛い妻の顔や首を貪って、ふと視線で我に返る。
「サイショー! マットカエシナ!!」
「……あぁ。マーフキージエ」
腕の中に抱き込んだシャルロットは潤んだ瞳で力も抜けているので、抱えてマットから転がり出るとヴァリャがプリプリしながら回収していった。
「相変わらずおっかないな」
身体の上に乗せたシャルロットが嬉しそうに笑う。
「先生は無敵でしょ。怖いけど、いつの間にか褒められたくって一生懸命頑張っちゃう」
「なるほど、そりゃ上手い」
「ジェフもやってみたら良いのに。前もお酒を飲んで見てるだけでしたね。もしかしたら、ヨガができるかもしれませんよ?」
「できないんじゃない。やらないだけだ」
「くふふ。うそばっかり」
「あまりやりたいとは思えんなぁ」
「こんなに気持ちいいのに! 朝からすると一日すっきりですよ」
「………」
ジェフがシャルロットを引き寄せて耳元で囁くと、小さな顔が赤くなる。
手を繋いで部屋に戻り、結局ジェフが仕事に出るまで朝食も食べずにベッドで過ごす。
裸のまましどけなく眠るミルクティー色の髪を撫で、また夜に、とスーツを着た夫は部屋を出る。
「行ってらっしゃいませ」
「ああ」
マルーン邸筆頭執事カリムトに見送られ、迎えの車に乗り込もうとすると、名を呼ばれて動きを止める。バティークが走ってやってくるのが見えた。
「すいません、ジェフ、ちょっとだけ」
「どうした?」
息を整えながら、あの、と瞳をキョロキョロさせてカリムトを下がらせる。
「ジェフは、殿下の……その…前の」
「ああ。サンマーレの元夫か?」
優しく尋ねてやると、バティークは少し嫌そうな顔をして両掌を広げる。
「僕の義弟には超能力がある?」
「はは。欲しいな。今のは超能力じゃない、願望だ」
「願望?」
「気になるというのは第一歩だ。調べさせよう。また夜に」
「ええ」
****
大きな欠伸をしてから目をぱっちり開けたシャルロットは支度をして部屋を出る。内廊下から見える中庭は明るい。日も高く、気温もちょうど良さそうな春の昼下がりである。
朝食を食べ損ねたのでお腹がペコペコ。
契約婚の間は淡泊なイメージしかもたらさなかったおじさんは、意外に旺盛だった。朝っぱらから誘われて乗ってしまう自分も自分だが、ジェフの側にいるだけでモゾモゾするのでどうしようもない。気づけば日を空けずに身体を重ねて、だけど不思議ともっと欲しくなる。
あれ、私も、坊ちゃま病?
ひとり赤面したり眉を寄せたりと忙しい。
ビビアンの部屋を覗くと、エステ室にいると聞いたので次にアリスの部屋を叩いた。
「はい」
「シャルロットです」
「はい、どうぞ」
扉を開けると、机に向かっていた王女が立ち上がった所だった。
「お忙しかったですか」
「いいえ。少し書き物をしていただけです。でも全然」
「そうですか? あの、ランチはもうお済ですか?」
「あ、嬉しい! まだなのです。ちょっと朝にヨガをしたから身体に良い食べ方をしようってしつこいくらいに噛んだら、す~ぐお腹いっぱいになってしまって。でもまたすぐお腹が空いてきたんですよ。困りますよね」
「ふふふふふ」
部屋を出て、ダイニングルームに向かう。
「兄さまはお仕事ですか?」
「ええ。少し時間をとらないといけないことがあるからと仰っていました」
「そうですか」
あの眼鏡あんまり役に立ってないんだな、とシャルロットは失礼なことを考えながらメイドたちに促されてアリスと食事の席につく。直ぐにシェフがやってきた。
「殿下もシャルロット様も、朝食が少なかったり無かったご様子ですし、昼は少し多めのコースにしておきましょうか」
二人ともが『は~い!』と元気に返事をすると、シェフが上機嫌に厨房へと戻って行く。間を置かずに冷製サラダと春野菜のテリーヌが運ばれてきた。
「美味しい。マルーン公爵家のお食事は本当に素晴らしくて、羨ましいです」
「ええ、最高ですよね! 私もお食事が里帰りの楽しみのひとつです。お父様は昔から食事に癒しを求めてこられたので、マルーンのシェフたちは何度も星の付くリストランテに武者修行に出されたらしいです。外国にまで行かされたシェフもたっくさん」
「まぁ、外国に?」
「ええ。中華の勉強をさせにシセンという場所へ一年とか、辛い料理を勉強させにアジアの遠くの国まで行かされた人もいるんですよ」
だけどその道に目覚めて、専門料理店を開く者が少なからずいたそうだ。
「すごいわ。それじゃあ、このお屋敷にいれば世界旅行ができますね?」
「あっ、本当だ!」
アリスの言葉に目を丸くしてシャルロットが喜ぶ。
「……アリス様、お見合いはいかがですか? マルーンで世界旅行を?」
「ふふ。どうでしょう? バティーク様はとても素敵な方なので、世界旅行もご一緒できれば楽しそうですね」
シャルロットは上級すぎる返しに宙を見つめた。
今の、どういうことだろう。
ご一緒……したい? 兄さまが有りの確率は七十パーセントくらいある?
だけど『楽しそう』って響きは他人事にも聞こえるしニュアンス的に願望っぽくもなかったような。有りよりの無しの確率も六十パーセントまで跳ね上が……
「シャルロット様?」
「はっ。すいません!」
口を開けて呆けていたファーストレディにアリスが肩を震わせる。
「なんというか、シャルロット様はどこにいてもシャルロット様なのでしょうね」
「モウシワケゴザイマセン……気を抜くとすぐ無作法に」
「違うのですよ、無作法なんてありません。ええ、もう、本当に皆さんがおっしゃる通り可愛いなぁ、と」
「ん~……多分それは私がつい最近まで一般人で、のっぴきならない事情で物置小屋に住んでいたような人間だからだと思います。ビビも兄さまも住んでいた世界が違い過ぎて珍妙な動物を愛でたい気持ちに近いのでしょう」
「物置小屋に!?」
「はい。母が死んでから引き取られた子爵家の物置小屋に住んでいたところ、お父様が私を」
拉致った。
「そんな酷い扱いをシャルロット様に!? ありえないですね! ようやく見つかった娘がそのような目に遭っていたなんて……ブランドン様もお怒りだったでしょう」
「今はもう子爵は没落されてしまって、屋敷も手放したと聞いています。お父様も『クソ』だと仰っていたので、怒って下さっていたみたいです。役所から払われていた私の学費を着服していたことで前科もついて、信用がなくなってしまったのでしょうね」
「自業自得ですね」
実際は父と夫から自業自得以上の報復的圧力がかかってぺしゃんこになったわけだが、シャルロットもアリスも知るところではない。
「では以前にお伺いした宰相様との最初のご結婚は物置小屋からマルーン家に引き取られてすぐだった、ということですか。物凄い急上昇と急降下ですね! シャルロット様のそのお話だけで小説を書けそうです、私」
「そう、三か月経ってカーターに嫁ぎました。でも最初はお父様が悪巧みをしているんじゃないかって、私もジェフもそればっかり考えていて。それが分かったら婚姻関係を解消しようとジェフから提案してくれました。私は生活の補償があれば何でも良くて。それから一年間にも満たなかったですが、ジェフとは契約書を交わして夫婦関係を続けたんです」
「その後に離婚して、また?」
はい、と出されたパンを千切りながらシャルロットは答える。こうやって答えていると私の人生って結構ラジオドラマみたい? と思いながら。
「シャルロット様と宰相様は、ずいぶんと仲が良さそうに見えましたし、同じ方と再婚したというのはやっぱり」
「はい! ジェフが大好きです」
即答する向かいの小娘は全くファーストレディには見えないが、何やら自信満々に答えている。
「そうですか。離婚されるまでの間に、お互いに恋をされていたのですね」
シャルロットが音もなくはにかむ。
「……ましい」
「え?」
「いえ、なにも! 宰相様のどこがお好きですか? ハンサムな方ですもの、きっとおモテになるんでしょうね」
「え~っと……色々あります。お酒をよく飲んでぐうたらしている所とか、今日みたいに朝眠たそうな所とか、セバス……お屋敷の執事と大人げなく言い合いしている所とか?」
アリスのカトラリを持つ手が止まる。
「そこが? 好きなんですか?」
「ん~、ぜーんぶ好きです。可愛いでしょう? ジェフって」
皆目わからなかったが、王女は持ち前の懐の深さで首は傾きつつも頷いておく。
「本人はモテないって言ってました。いつも隣にバルカスさんがいるから。ジェフ、可哀想」
「……くくくくく……あははははは」
可愛くなったり可哀想になったり忙しい。あまりののんきさにアリスは大口を開けて笑い声が出る。
だけどシャルロットはどうやっても夫に夢中なのだ。それはもう爽快なほどに。
アリスは笑いながらも、切なくなる。
せめてバティーク様だけでも、もう少し幸せにしてあげなければ。
食事は進み、メインに差し掛かったところでビビアンがエステを終えてやってくる。
「はぁ~、ゴッドハンド最高~!」
「ビビ、顔がちっちゃくなった!?」
「やっぱりそう思う? 半分くらいになったわよね? 本当ゴッドハンド」
シャルロットが全く半分になっていないビビアンの両頬をつつく。先に食べていた二人と同じランチコースを頼み、赤毛も席に着いた。
「アリス様、今朝のヨガはいかがでしたか?」
「ええ! 初めてでとっても良い体験でした。是非またしたいって思わず言ってしまったくらい」
「そうですか。私もヨガ講師になるための指導を受けようかと思っているくらい嵌ってるんです。お臍の奥が鍛えられるって言うから、歳をとってもピンとしていられて素敵じゃないかなって」
「私、ビビの生徒一号になる~!」
「まぁ素敵! そうなったら私も生徒二号にして頂きたいわ」
赤毛が眉を上げる。
「生徒二号になるならリンドにいて下さらないと……アリス様、お見合いは結局どうされるのですか? 今回はご破算ありと伺っていますけど」
「うふふ。そうねぇ、バティーク様次第ですわね」
「兄さま次第ですか?」
きょとんとするシャルロットにアリスは苦笑する。これではバティークも苦労する訳だ。
「アリス様、バティーク様は病気みたいなものです。不治の病かもしれませんけど。そこにはあまりフォーカスしない方が良いです。うやむやが一番!」
「上手いこと仰るのね。……ですがさすがにお相手の人生をうやむやで賭ける訳には」
夫とするのなら好ましく思うのだ。脳裏に浮かんだ垂れ目の男。
「とりあえず、私に出来ることをしてみようとは思っています」
ビビアンはそう言った王女の顔をじーっと見ていた。
****
その夜、再びマルーン邸に戻ったジェフがバルカスを伴って公爵の執務室を訪ねる。
「少し遅くなった。良いか?」
「もちろんです! バルカスもよく来てくれた」
「ビビアンがこの所世話になりっぱなしで、済まない」
「いやいや、こちらも殿下をお独りにしてしまう時間もあるし、ビビアンは如才ないから凄く助かってるよ。さすがに元王女、物怖じゼロだ」
「それなら良いが。酔って差し出口を挟んでなければ」
「はは。それに、ビビアンは家から嫁に出したようなものだしね。父も輪をかけて毎日ご機嫌だよ」
三人は執事カリムトが酒の用意を広げた応接セットに腰かける。
「これが、アリス王女の元夫です」
バルカスが数枚の報告書をバティークの前に置く。緩いウェーブの髪を揺らしてサッと取り、垂れ目は隅から隅まで読んだ。
砂漠の王国サンマーレの若き王フェリペ。黒髪に浅黒い肌、雄々しい身体を持ち、険しい金の瞳が特徴的な写真が付いていた。白と金の衣裳がこんなに似合う男は他にいないかもしれない。吸い込まれるように写真に見入る。
「ずいぶんと強そうだ……」
「荒事もですが、性格も相当。フェリペが即位する時、二人の兄弟王子が死にました。王家の即位時に執り行われる伝統決闘で」
「この現代に、まだ決闘を? 死ぬまでやるのか!?」
驚いて聞き返す。時代遅れも甚だしい。
「サンマーレには土着の信仰があって、雄神を称えます。王は雄神の化身なのです。強くなければ民から認められない。そして女はすべからく雄神……つまり神の化身である王を産むための腹であり、母であり、神への貢物です。アリス殿下がお生まれになる前、サンマーレ油田の掘削事業へ参画を果たしたハラルシュ国王が、金の他に信頼を示す貢物として娘を献上した格好ですね。油田の一部権利と引き換えの政略婚です」
「ありがちだな」
ジェフの言葉に二人も頷く。
「後宮の話は口外しない暗黙のルールがあるようで、外に話は出回りません。ですが、このフェリペは相当なやり手のようで」
「どんな?」
酒を舐め、ぺろりと唇を舐めるバティークが促す。
「王女殿下が嫁がれた際には、既に妃の総数が十九人だったそうです」
「あれ? 確か十二番目だったって」
「ええ、二人が逃げて、五人死んでいますね」
ジェフが声をあげて笑っている。
「凄い数だ」
「ええ、方々の国から石油の利権欲しさに仕込まれた娘が投げ込まれている状況です。ですが不思議なことに娘たちは皆このフェリペに魅了される。寵愛を勝ち取るために後宮は無法地帯だとか。離婚された後でもどんどん入れ替わって、現在フェリペは四十二歳ですが、嫁いだ妃は四十七人に上ります」
「歳の数より多い!」
バティークは目を見張る。
「王子は八人、王女は七人です」
「ん? 意外に少ないな?」
「赤ん坊の方が殺しやすい」
バルカスの言葉に、理解はしているものの、さすがのジェフも閉口する。
「ちなみに今の妃の数は十五人です」
「………」
三人でゾーっとする。
「ハラルシュの国王はとんでもない場所に嫁がせたわけか。さすがに国益の大義名分があっても後味の悪い話だな」
「ええ。殿下は一度もお渡り無く離縁されたということですが、結果論としては良かったと思いますよ」
頷きながら、バティークはふんわりと微笑む年上の女を思い出す。
「石油はこの先、ますます奪い合いになる」
「父も言っていました。ザレスとウチといくつかの財閥候補と共同で、中東から石油パイプを引く話で動き始めています」
「ああ、アレ。欧州側の港まで引くラインだったな。ベルジックはまだ蚊帳の外か」
「無理でしょう。名前だけでもと請うてきましたが。財布がカラカラだ」
「ですがリンドやマルーンとしてその話を進めるなら、やはり欲しいですね。ハラルシュとの太い縁が」
「………」
ハラルシュは中東と欧州の境にある国である。パイプを引くからには通らざるを得ない。
なぜアリスが選ばれたのか。
始めからバティークも気が付いていた。恐らく王女自身、分かっているのだろう。
「石油にまみれた姫か」
ぼそりと呟いたジェフの言葉が、垂れ目の胸に石を投げ込んだ。




