51. 番外編・ジェフ
「オズワルド、離婚を進めろ」
義理の父親であるブランドンのその言葉を聞いた時、ジェフは政治家になって以来最も腹に力が入らない『え』を発した。
ちょっと待ってくれ。
私の話も聞いてくれ。
いやそもそも、俺の結婚なんだが。
とか色々言ってみたが、喜色満面のバティークが『今日の所はお帰り下さい』を連発し、眼鏡と二人がかりで引きずり出されて『外面悪くジタバタされるおつもりなら、こちらとしても弁護士をたてて泥沼離婚にして差し上げますが』と脅された。
「遅きに失した、の見本ですね」
とニヤニヤする部下と、
「枯れきっていた自分を反省するのねぇ」
と当てつけのようにイチャイチャと引っ付いて自分を見るビビアンの白けた視線に晒され、大きな嘆息と共に病院から執政棟へと戻る。
机の上は慌ただしく大使館へ出かけたまま。
もはや想像するだけで家人たちの反応が面倒くさすぎて、屋敷に帰るのも嫌になる。セバスは落ち込み、テルミアは激怒するだろう。そして言い返す言葉もなかった。
「ん゛~……」
ドカンと椅子に腰かけて目を瞑りじっとする。
だが悲しいかな、自分はそれだけにかかりきりになれる立場ではない。
ぱちんぱちんと手指を鳴らした後、仕事の頭に切り替えてペンを取った。
****
「接近禁止令!?」
バカでかい公爵邸の鉄製の正門前で素っ頓狂な声を上げ、ホクホク顔のバティークから渡された書面を受け取る。
「離婚が成立するまで、こちらが解除しない限りはロティに接近することを禁じます。これは正式な裁判所からの書面です。離婚に異議申立てをされているとか? そのような姿勢で万が一ロティをキズモノにされたり、手を出して子どもなど作られたら困りますから」
「そんなことはしない!」
「可能性としての話ですよ」
「バティーク……シャルロットと話をさせてくれ。彼女は本当に離婚に同意しているのか? 大使館に連れ去られる前日の朝食ですれ違って以来、まともに話をしていない」
「知りませんよ、そんなの。ロティがどんな気持ちかなんて、あなたは夫だったんですよ? 契約婚の間に何か月もあったのですから、いくらでも大事な話は出来たでしょうに」
ぐうの音も出ない。
あっさりとバティークが戻った後、忙しい合間を縫って来た宰相は黒いコートのポケットに手を入れてじっと遠くの屋敷を見つめる。正門からのアプローチが長すぎて、屋敷の中の様子など何一つわからない。
結局シャルロットに渡すつもりで持って来た花と菓子は車から降ろすこともなく、屋敷に戻った。
「花のひとつも渡せないままお帰りですか」
半目の執事が冷風を吹かせて主人を迎える。
「テルミアは寝込んでおります」
「知らん。お前が慰めてやれ」
ネクタイを引き抜き、具体的な接近距離の記された馬鹿馬鹿しい接近禁止命令書をポイと見せてやる。
「なっ! 十メートルも!? 遠すぎるじゃないですか!! 話しかけてもダメなんて!」
「おん」
「あっ、坊ちゃま、お食事は?」
気がついて慌てる老執事だが、ワイシャツのボタンを外していく主人は振り向きもしない。
「……いらん」
肩を落として寝室に向かい、酒を持ってこい! と大声で言いながらシャワーを浴びに向かう。
セバスは見たことのない様子の主人に苦笑して、夫婦の寝室になるはずだった部屋のローテーブルに簡単な食事を用意させる。
「さぁさぁ、お酒ばかりを召し上がられては元気も出ません。しっかり食べて腹に力を入れて、そのように情けない負け犬面はお止めになって坊ちゃまらしく計画をお立てください?」
「お前、傷口に塩を塗り込んでくるじゃないか」
「こんなに優しいセバスはおりませんよ。全く始めから私たちの言葉に耳を貸しておけばよかったものを」
「んー。お前も飲めよ」
ジェフがボトルをつつく。セバスはグラスを取り、向かいに腰かけて主人手ずからのウィスキーを飲んだ。
「お気持ちは決まっているのでしょう?」
「おん」
「……つかぬことをお伺いしますが、坊ちゃま、それはいつから奥さ……シャルロット様のことを?」
「知らん」
「知らんなんてことありますか。天才なんだから覚えてるでしょう! 余計なことばっかりいちいち覚えている癖に」
「知らんと言うか、わからん。でもクリスマスに、もう契約を破棄したいとは思った」
「イブコンですね?」
頷いてジェフは琥珀色の酒を飲む。
「シャルロットもキスしたが嫌がらなかったし……その顔をやめろ」
「キッス……!」
「だがまぁ、まだ急がなくても良いかと。アップルトンに戻して欲しいと聞いた手前、ずっとカーターでいろと言うのも……もっと早い段階で聞いたなら母親を恋しがってる気持ちも尊重してやりたいと思っただろうが。いくら金や家を持たせても一市民として街中に戻すのは想像するとぞっとした。どのみちそんなことになればまた拉致してでもブランドンが手元に置いただろうが」
「そうでしょうね。バティーク様でも強硬なさるでしょう」
「もう少しシャルロットが心変わりする様子を待つつもりだった。どうせ契約に期限を設けてなかったしな」
せめてバティークの元に帰すなら、とも思いもしたが、それでもやっぱり手元から離したくなかったのは自分の中に欲が生まれ始めていたからに違いはない。
「一国の宰相ともあろう方が。とんでもないグズですな」
ぴしゃりと老執事が言い放つ。
「そうまでお思いなら手籠めにでもなさればよろしい!」
「お前なぁ」
嫌そうな顔で坊ちゃまは親代わりの執事を見遣った。とんでもないことを言い出す親代わりである。
「どう見たって、シャルロット様はジェフ様の側で安心されていましたよ。女性が好きでもない十六も年上の男に気軽にスキンシップなんてされませんし、ましてや奥様は大の男嫌い! そのうえキッスまで」
「キッス言うな」
良いですか、とセバスは恐ろしい顔でジェフを見る。
「なんだよ」
「絶対に、逃がしてはなりませんよ」
「わかってるさ。お前に言われるまでもない」
「ではしっかり食べて、しっかりお眠りください!」
「おん」
****
「また来たんですか。もう離婚だって成立したのにグダグダと」
正門前でバティークが嫌そうな顔をする。ジェフが花と菓子を手に腕を広げた。
「言っただろう、毎日来るって」
「今、何時だと? 朝の五時ですよ」
「仕方ないだろう。スケジュール的に今来なかったら夜中の十二時を超えるんだから。さすがに寝ているだろうから会わせろとは言わないが、会わせて欲しい」
「結局言ってるじゃないですか。何度来たって同じですよ。お帰り下さい!」
◇
「ジェフ、守衛を買収しましたね」
「菓子くらい良いだろう。花にも罪はない」
「守衛の家族に食べてくれって、押し付けたところでロティ宛だってわかっている菓子を食べられるわけないでしょう!! あんな豪華な花だって守衛の奥方がひっくり返りますよ」
「ということは、シャルロットの手に?」
片眉を上げる宰相をバティークは睨みつける。
◇
「毎日毎日毎日……」
「昨日は来れなかった」
「夜中の三時に来てたんでしょう」
「ほー。さすがマルーンだ。警備が良いな。どうやってもあいつら買収されないし」
「言って聞かせてますからね! ……クマが酷いですね」
「いつものことだ」
「いつもお一人ですが、運転手は」
「好きな女に会いに来るのに、運転手付きで来ない」
バティークは思わず惚れそうになって舌打ちする。
「……花とスィーツは預かってあげましょう」
「ありがとう、兄上」
「兄じゃないですが!?」
ジェフが笑いながらプレゼントを預ける。
◇
雪の降る日曜の夕方、眉間に皺を寄せたバティークが、いつも通り正門前で口を開く。
「アーク議員の件、ありがとうございました」
「構わないよ。力になれて良かった。アークはいずれマルーン財閥の重役になる男だ」
議員の息子と新進気鋭女優のスキャンダル。もみ消しに手を貸してやったジェフは嬉しそうに目を細める。普段そういった雑事には手を出さないのだが、バルカスを使って記者へと先回りし、自分しか手を貸してやれない状況を作っておいた。
「だが、奉仕活動はしない主義でね」
「わかっています。父とも相談しました」
「会わせてくれるか」
氷点下の気温の中、寒さで黒いコートのポケットに入れていた手が思わず出る。
「ただし十メートル以上の距離です。話しかけるのも許可しません」
「そうか!」
いよいよ正門を通され、ずっと遠目に小さかった屋敷が近づいてくる。ジェフは何度も手のひらを握って解いてを繰り返し、逸る気持ちを抑える。
「はい、ここでストップ」
先導していたバティークが止まり、スッと屋敷のエントランス横にある応接の窓を指した。
「……シャルロット……」
ブランドンと何やら話しているミルクティー色の頭が、こちらに気が付いた父親に促されて後ろを振り返る。何も聞かされていないのか、不思議そうに窓の外を見て黒いコートの男に気が付いた。
驚いた顔をして立ち止まり、ゆっくり窓へと近づいてくる。
雪が落ちる音さえも聞こえそうな、静かな再会だった。
ジェフもただじっとして、ポケットの中で拳を握りしめる。
二人は互いの姿かたちを目で辿り、視線を絡ませ合った。シャルロットが口を開いて『ジェフ』と呼んだのがわかった。ジェフが懐かしい、だけど今までで一番優しい顔で微笑む。
シャルロットも微笑もうとして、失敗して俯いた。
窓の向こうで、両手が目元にあてられる。
「あ~あ。泣かせないでくださいよ、大事な妹を」
「……すまない」
目線と緩む頬はそのままに、バティークに謝る。
泣かせることができるなら。
ブランドンが娘の肩を抱き、ジェフから隠すように抱きしめると顎を振ってバティークへ終わりを告げる。
「はい、おしまいですよ!」
ジェフは頷いて、礼を言って立ち去る。
アプローチの距離は長いが、冷たい雪は気にならなかった。
胸の中にはシャルロットが点けた火がともっていたので。




