5. 宰相の妻
リンド建国史上最年少の宰相であるジェフ・カーターの側近バルカスとカーター侯爵家筆頭執事セバスが目を見張る。
「行って来たって、シャルロット様の所にですか!?」
「そうだ」
その恰好で!?
主人はヨレヨレのタキシード、後頭部はバルカスが適当に放り込んだベッドでついた寝ぐせだらけだった。
初夜の用意をさせようと気付け薬を持ってきた二人は忽然と姿を消していた主を探し回っていた所である。私室に帰って来たくたびれ男を見て、嫌な予感に身を震わせる。
「そんな…そんな恰好で、しかも身体は今朝拭いたくらい、しかもしかも全然歯を磨いていませんよ」
「あ」
ジェフが口元を覆う。
「忘れていた…だが二日食べてないんだから、別に汚くはないだろ」
「四十手前の寝起きの男の口が無臭だと? ファンタジーですか?」
「初手から最悪ですね」
残念そうな顔で見てくる側近と執事を無視して、酒を持ってこいとジェフは大声で叫ぶ。
「悪ぶるのはおやめなさい、坊ちゃま」
「坊ちゃま言うな。濃いやつを作れ、バルカス! お前、よくも俺を二日も寝込ませやがって」
「でもほら、おかげで積年のクマが取れて色男ぶりが戻ってますよ。ねえ、セバス」
「おやまぁ、本当ですね。良かったですよ、たくさん休憩出来て」
老執事のセバスは、心底嬉しそうに愛しい坊ちゃまの顔を覗き込む。
「誰がクマを取りたいと言った!? 破談にしろと言ったんだ、破談に! お前たち聞いていたくせになんでステファンの手先になってる、主人は俺だろう」
「しかし、当家の大旦那様はジェフ様ではありません。まだ侯爵様はステファン様です。坊ちゃまいけませんよ、呼び捨てなど。御父上と」
「いつも俺を頼る癖に都合の良い時だけステファンを出してくるなよ」
「まぁまぁ」
バルカスがサラサラの栗色ヘアーを揺らし、主人の前にロックのウィスキーを置く。
「バルカス」
「はい」
「お前、飲め」
顎でクイ、とグラスを示すと、しばらく主従は見つめ合ってから、長髪が舌打ちして酒を下げる。
「いいか、俺に、薬を、盛るな」
「多少の媚薬くらい初夜の盛り上げアイテムの範疇でしょうに。あんな若くて可愛い女性を相手に緊張して役に立たなかったら恥ずかしい思いをするでしょう? それはあまりに不憫です」
「黙れ。新品のボトルとグラスだけここに置け。あと水と氷とつまみ」
「………」
セバスが頷き、バルカスがセットされたトレイごと主人の目の前に置く。奥のコレクション棚からボトルだけ差し替えた。溜息を吐いてジェフが酒を注ぎ、呷る。
「うまい!」
セバスが手を叩くと、メイドが用意していたいくつかの皿を置いて去っていく。
「空の胃に酒だけはお身体に障りますから。一緒に食べてください」
「おん」
生ハムの載ったクラッカーやチーズをパリパリと口に入れ、しばらく忘れていた空腹を思い出して瞬く間にツマミだけを平らげてしまう。
「お食事をお持ちしましょうか」
「んー」
「初夜で腹が鳴ってたら雰囲気がぶち壊しですよ」
「シャルロットだが」
「ええ」
「テラスから飛び降りようとしていた」
「えっ」
心底ビックリしている二人に、ジェフはやれやれと首を振った。
「はぁ……。お前達が俺にかまうのは勝手だが、彼女のことは別に考えてやれ。二十二の若い女性が今朝突然三十八の知らぬバツイチ男と結婚しろなんて言われて嬉しいと思うか? しかも引き取られたばかりの公爵からの命令だ。子爵の家でもそれなりの生活だっただろうが、目玉が飛び出るような贅沢をさせてもらった後で断れるか? そんな局面、死にたいだろう普通」
「……ですが、坊ちゃまがお相手なら、死ぬ程嬉しいご令嬢の方が遥かに多いのでは」
「三か月前まで一般市民だった女性が、貴族社会のステータスや国の権力構造を理解している訳がない。それとセバス、何度も言うが、俺がモテたのは昔の話だ。今、俺は、四十手前…お…おじさんだ。加えて離婚歴。現状で寄ってくる女は『カーター侯爵家の奥様』あるいは『宰相の妻』という肩書に目が眩んだ人間のみ。何にも知らない若い女性が俺とバルカスを見比べて取るのはソイツなんだよわかったか」
「大丈夫ですよ、ジェフ様。お口の匂いは歯を磨いてミントを噛めば」
「東洋の漢方を取り寄せましょうか」
「論点がズレた。公爵が気になる。だから彼女はここに置く」
主人の最後の言葉に、二人の顔が輝いた。
「だが、区切りが付いたら帰してやる」
「かえすですって!? 公爵家にですか? 断られますよ」
「自由にさせてやるんだ。そもそも結婚式を当日知らせてくるような狸ジジイの屋敷には帰りたくないだろう。慰謝料と家を用意して離婚する。契約的な関係だ。特にこの結婚はさっさと決まり過ぎて知っている者も少ない。都合がいいからこのまま公にせず彼女を匿う形にする。だから寝室も一緒にしないし初夜も無い。わかったな?」
「………」
セバスとバルカスの間に沈黙が降りる。丸っこく白い手がドアの近くまで側近を促し、ひそひそと二人は密談を始めた。
やれやれとその光景を眺めながら、ジェフはこぽこぽと酒を注ぐ。
初めての結婚は大失敗だった。女と言う生き物に心底辟易したし、そもそも自分には結婚という制度が向いていなかった。大事にするつもりはあったが、結局『愛情』というものは生まれなかったし、理解も出来ずに終わった。身に余る権力を持った元妻は散財と色に溺れ、知らぬ間に爵位のある間男と人身売買に手を染めていた。売られていたのはメイドの娘だ。怒り狂った家人達からの凄絶なストライキは生涯の汚点である。
自分には国政があり、屋敷の中の出来事までかかずらっている暇はない。ジェフは高い自己学習能力を自負している。同じことを繰り返すつもりはない。
欧州に位置するリンド国において公爵家は三、次ぐ侯爵家は七。カーター侯爵家は歴史が古いだけでなく、時折高い頭脳を持った者を輩出した。当世の宰相を担うジェフもその一人だ。建国以来初の三十代での宰相就任は世を沸かせたものである。由緒ある歴史と頭脳による功績で、カーターは筆頭侯爵家として盤石の地位を確立している。
近代、リンドを含め欧州は相次いで法治国家を目指し始めた。人は等しく権利を持ち、自由が尊重されるようになった。自然と富の解体も進む。今、ジェフと国王ウィリアムも領地制度の解体に向けて法案を作成している所である。
そんな仕事をしているので、ジェフには昔ながらの貴族が持つ『使用人』という意識が低い。雇い主であるのは確かだが、人として偉い訳では無いと早々に悟った。たまに偽悪的に悪徳主人を演じるが、お遊びである。それ故、カーター家の使用人達はのんびり屋のステファンに続いて自分達を個々人として尊重するこのジェフと言う主人を、深く深く敬愛している。
幼い頃から一身に彼らの気持ちを引き受けるジェフは、時折使用人達が暴走しても受け入れる。例え港で突然羽交い絞めにされても、薬を盛られて意識を失っても、その間に結婚式が終わっていても……。哀しいかな、ジェフは一人息子なのである。
密談を終えた二人が戻る。セバスが口を開いた。
「今日の所は良いでしょう」
「何が?」
「シャルロット様ですが、明日からどう過ごして頂きますか?とりあえず、予定通りに宰相の奥方としての振る舞いが出来るよう教育させて頂ければと思いますが」
「教育なんぞ不要だろう。別にどこにも連れて出るつもりはない。期間限定なんだから。気晴らしや楽しみがありそうなら出来るように手配を。また飛び降りたいなんて衝動に駆られないようにな」
「ですが、公爵家でもたった三か月程度しか教養を身につけられておりません。離縁されても公爵家の娘という立場は残るのです。その時の奥様に僅かでも身になるよう計っておく方がよろしいのではないでしょうか」
「まぁそれはそうだな。再婚の助けにもなるか。わかった、彼女のことは二人に任せよう」
礼を言うなり、二人は風の様に出て行った。