48. ブランドン
バティークの母親……クロエが息を引き取る際、私に残した手紙があった。
一昨年の話だ。
クロエとは家同士の決めた結婚で、お互いに思いやりは持っていたが、焦がれていたかというとそうでもなかった。バティークを産んでくれて、息子と言うこの世の幸運全てを集めてくれたクロエには本当に感謝している。だが、彼女はそれ以上の子どもを望まなかった私の考えにはどうしても理解を示してくれなかった。
私はアダム・マルーンの長男に生まれた。他には二人の弟がいた。子宝に恵まれた両親は嬉しかっただろうが、成長するにつれて、弟たちは自分よりも不出来な兄が家を継ぐことに不快感を示し始めた。私は三人の中で最も成績が悪かったし、運動も取り立てて得意ではなかった。ただ、時流を読んだり仮説を立てたりすることは得意だったので、大きく自己肯定感が低いということもない。実業家としては及第点だと思う。
弟たちはどれだけ努力しても格下の私が家を継ぐルートから外れないことに絶望した。成人した頃から、弟たちは私の足を引っ張るようになった。金の無心くらいなら可愛いが、とんでもない女との間に子どもを作ってきたり、インサイダーなどしょっちゅうだ。どれだけ火消しに追われたかわからないくらいに手を焼かされた。会えばいつも罵倒され、殴られ蹴られる。私は身体も一番小さく弱かったから、対抗手段がなかった。身体の痛みは一時だったが、気が付けば何年も何年も兄弟とまともに話さえしたことがない。それが一番辛かった。今のザレスがまさにそうだろう。
だから、自分に息子が持てたら一人だけにしようと思った。医療も昔のようには頼りないものではなかったし、そうそう子が死ぬ環境でもなくなったから、妻も理解してくれるだろうと思った。
だけど、クロエはバティークに兄弟を与えてやりたかった。もっと子が欲しかった。
結婚が遅かったとは言え、当時の私はまだ若く頑固で下手に出て機嫌を取ることが出来ず、彼女は度々実家に帰るようになった。
数年が経って、ほとんどクロエと会わなくなった頃、ソフィアが屋敷のメイドに入った。そう、お前の母親だ。
ソフィアは朗らかで、のんきで、お前にそっくりだった。
いつも歌をうたいながら掃除をしていた。
私がサボって執務室奥のソファで居眠りしていることも知らず、箒のギターをかき鳴らして流行りの歌を歌うんだ。始めは驚いた。次にうるさかった。だけど彼女の掃除の後はいつも綺麗に整えられていて、花を活けてくれていたり、小さなクッキーを置いてくれたり。手作りの栞を挟んでくれていたこともあったな。いつの間にか歌を聴くのが楽しみになった。そのうち顔が見たくなったが、起きていると掃除に来ない。仕方ないから隠れて待って見るようになった。初めて見たときは想像よりもずっと美しくて驚いた。お前のように。
私はソフィアに恋をした。
クロエのこともあったから、ソフィアはとんでもないと嫌がったけれど、毎日口説いて、口説いて、口説いて、とにかく口説きまくった。それで、なんとか恋人になった。熱に浮かされていたみたいに、私はソフィアに夢中だった。あんなに誰かを愛おしく思うなんて、自分でも驚いたくらいに。
バティークは嫌だな、こんな話は……え? 嫌じゃない?
「道ならぬ恋があると既に知っていますから」
困った兄だ。
正直に話せば、ソフィアには子どもについての話をしていたし、避妊についても協力してもらっていた。けれどまぁ……今から考えれば、本当にこれは願望でしかないけれど、ソフィアが私の子を望んでくれたのかもしれない。やや積極的な時期があって……それからしばらくして、突然いなくなってしまった。メイドも辞めて、住んでいたアパートからも。
クロエが他のメイドから状況を全て聞いていて、ソフィアを追い出した。最初にクロエから彼女に注意した後で、ソフィアは子どもを作って去ろうとしてくれた……と思いたい……そういうタイミングまでどうも粘って出て行った。少なくとも私はそう信じている。クロエは本当にソフィアが子どもを産んだのかまでをずっと監視していた。女児であるシャルロットが生まれてから、わずかな金と引き換えに決して父親のことを口外しないと念書に書かせた。その念書も今は私の手元にある。あの時、その写真と一緒にしていた書類にあったが、それは読まなかったんだな。
「全然気が付きませんでした。というか、あの時はその……」
そうだ、図面だ! お前は可哀想にスパイみたいなことを強要させられて。
「その件に関しては本当に申し訳ないと……」
もういい。
写真は私とソフィアが出かけた時に、欲しくなって写真館で撮らせたものだ。別に何の記念日でもない。写真なんて大嫌いだったんだが……愛情は人を変える。シャルロットが読んだソフィアの男性遍歴の報告書は、私が調べさせた。お前のことを自分の子だなんていいがかりを後で付けてくるような男がいたらややこしいからな。全員に金を渡してソフィアとのことは口外しないよう誓約書を書かせた。私とのことが書かれてないのは当たり前だろう。私が私以外の男のことを調べさせたんだから。
当時の私はクロエから、消えたソフィアから私と別れたいと相談を受けていた……という嘘を信じ込まされて、別の男と逃げたのだと思っていた。彼女は本当にモテたから、不思議な話ではなかった。
だけど相思相愛だと思っていたから、大変なショックだった。人の本心は分からぬものだとやや人間不信にもなったな。おかげでこうしてひねくれた。はは。
そういう事情の上で知ったお前と言う存在に、私がどれだけ歓喜したかわかるかな。
わからないだろうな。
頭の血管が切れて倒れたくらいに喜んだ。
クロエの影響もあって、バティークは可愛かったが私とは一歩距離を置いた存在になっていた。そんな私の慰めは美食しかなかった。高脂肪、高コレステロール、血栓……気が付けば私の血はドロドロになっていた。お前の存在を知ったのと同じくして、血管が切れて助かったものの老い先が短いことを知った。
手紙の後、すぐに君たち親子を探し出そうと試みたが、まずソフィアがあの流行り病で亡くなっていたことを知った。凄まじいショックを受けた。私の弟たち二人のうち一人もあの時同様に亡くなっていたんだが、ソフィア迄亡くしていたとは思いもしない。
流行り病のようなものを根絶するためにワクチン工場を作ろうとその時決心した。
娘の名前や居場所を役所で尋ねたが、既に里子に出されていて規則で教えられないと断られた。本当の父親なんだと訴えても、何一つ証明などできない。
それからお前を探し出すのに二年近くを要した。カティネ子爵は里子として引き取った一時はお前にも戸籍上は『カティネ』の名を与えたが、結局一年もせずにアップルトンへ戻させていたから、捜索は余計に時間がかかってしまったんだ。しかもお前を見つけた時にはあんな生活をしているなど思いもしなかった。くそカティネはもう圧力を散々かけてじり貧生活にしてあるが、今でも思い出すとまだ血圧が上がる……いや、大丈夫。
花屋で働いているお前を最初に見た時は、今死んでもいいと思った。
とにかく子どもは良い。無条件に可愛い。娘など、最高だ。
だけどまだ絶対死ねないとも思った。
捜索していた二年の間に、色んな事を考えた。
お前を引き取っても、私は長生きできないらしい。バティークもパッとしない。強さがないというか……いないよりはマシだとは思ったがな。だから急いで信頼できる男に嫁がせようと思った。選んで選んで選び抜いて、ジェフを選んだ。
選んでしまえば、ジェフ・カーター以外に合格する者はいない。
まず世界的な世情不安が大き過ぎた。次の大戦は近い。巻き込まれるのは必至だ。
そんな時に金があっても呑気な奴なら初動に遅れてシャルロットを死なせてしまう。ジェフならまず間違いのない政治家だ。高位貴族で一人息子なのも申し分ない。私の邪魔ばかりする気の合わない政敵でもあったが、私の邪魔が出来るというのは逆にこれ以上なく娘を預けるに信頼足る男だということだ。他に誰かいるなら教えてくれって? 言ったな。いないだろう?
だが、周知のとおり宰相の再婚は難しい。本人に全くその気がなかった。強硬手段しか。
離婚? すると思わなかったかって? そんなもの許すわけがない。まさか離婚できると思っていたのか?
まぁでも、カーター家は意外にもあちらの事情もあって乗り気だったからな。シャルロットを気に入ったようで、実際上手くいった。こんなに可愛いから気に入らない訳はないんだが。
シャルロットが家にいた三か月は幸せだった。
我慢したが、時々隠れて盗み見た。
仲良くなれば手放せなくなるから……食事も一緒にしなかった。
いつもシャルロットが食事をしたテーブルの後はそのままにさせて、眺めながら食べた。皿は綺麗にどれもぺろりと完食していた。バティークのように偏食がなくて偉い。
式もひと際綺麗で良かった。あの時の写真は宝物だ。え? 涙が出ていなかったって? ああ、昔から本当に悲しいのかとよく聞かれる。どうも涙腺が詰まってるようでね。なかなか涙がうまく出てこないんだ。その代わり鼻水は良く出る。
二年の間に考えた末、私の可愛い娘が私の死後も脅かされることのないよう、B工場を作っておくことにした。
最も世情不安があった近隣諸国はダフネとトルシュだ。トルシュの向くべき敵はこちらになかったが、ダフネはまず間違いなくゴーランドを取る。誰でも行くな。そうしたらもう次はリンドだ。ゴーランドからリンドを蹂躙しようと思ったらどうする? 十中八九、陸路は国境を越えて南部の街に来るだろう。海から来たとしても最短であの街に上陸する。だから、あの街で終わらせなくてはならないと思った。山から南側に下ってすり鉢状に街が出来ているだろう? ちょうど海からも山に向かって風が吹く。山から重たい毒ガスを降ろせばガスは街に閉じ込められる。そうしたら、誰も山を登って来れない。
何かを生産して商品になどするつもりはなかった。ただそうして有事に利用する為だけに作った。作ったこと自体は罪深いとは分かっている。だから刑務所行になるだろうと。だがどうせ死ぬんだ。シャルロットを長らく一人にさせた罪滅ぼしには数年の刑期など軽すぎるくらいだ。工場を残して塀の中へ入るならば本望だった。ジェフと陛下は施設を無駄にはしないだろう。話は戻るがその為に結婚を焦らせたというのもある。いずれは刑務所行が確定している父親と交流を深めても地獄だろうという諦めもあって距離を置いた。死ぬまで別に言うつもりもなかった。こんな顛末になるとは思いもしなかったからね。
どうだ、なかなか愛に溢れた頼もしい施設だろう?
「………」
ははは、全員引いてるぞ、オズワルド。
まぁいい。
だから、全員が勘違いしているが、全部順番が逆だ。
どうしたシャルロット、泣くな……こっちへおいで。
「つまり、シャルロットがいたから私との結婚があり、A工場とB工場が生まれたと……」
そうだ。
だけどなんだって? 見せかけの夫婦だと言うじゃないか。契約婚?
冗談じゃないぞ。そんな男とは思っていなかった。こんなにも可愛いシャルロットの魅力がわからないヤツなんぞ願い下げだ! オズワルド、離婚を進めろ。
「かしこまりました」
「え」
「えっ」
「良かったじゃないか、ロティ!」
「あ~あ」
「セバス達が怒るな……」




