28. 兄
ゆるいウェーブがかかった肩までのミディアムヘアは金色で、少し垂れた目は優し気。気質を裏切らない外見だとよく言われる。
約一年半ぶりに訪れた紳士クラブは変わりない。マホガニーのカウンターで馴染のバーテンと渡航の間にあった楽しい話をしていると、後ろから肩を叩かれた。
「よぉ、バティークじゃないか」
「久しぶりだね、アーク」
「ひさしぶり! いつ帰ってきた?」
「今週だよ」
「どこに行っていたんだっけ」
「主にダフネだよ。民間の病院経営とかいろいろね、短期で修行」
「あー、そうだった、そうだった。楽しかった? ダフネだと船旅か。ゴーランドの列車は遅いしな。ダフネは飯がイマイチなんだ」
「そうなんだよ。何度か腹も壊した。水が合わないな」
「どうしようもないよな、水は。で? 早速故郷の水を飲みに来たわけか」
「はは。そうそう。アルコール入りの水をね」
カレッジでの古い友人アークは男爵家の長男で、父親は大きな貿易商を営む金持ちの息子だった。大人数での同じグループに所属していたので気心も知れている。隣の席に座ったアークから酒を奢られ、強い酒をショットで煽った。
「無事の帰国、おめでとう!」
「ありがとう…うん、美味いな、これも」
アークはじろじろとバティークの横顔を眺める。
「少し感じが変わった? ダフネに良い女でもいたか」
「お前は相変わらずだね。食事と水が合わないせいで体重が落ちた。あとは髪が短いからだろ。あちらで女なんて見てもない」
「バティークはまだ女嫌いか」
「寄ってくるのは皆金目当てだ。うんざりするよ。ダフネに行ってもどこからか家名を調べて来るやつがいる。どこにいても変わらない」
「そうか、大変だな、次期公爵様も。バティークが腰を落ち着けるのもまだまだ先か。そりゃ妹君が先を越すわけだ」
「……? 妹?」
「ああ、ご成婚、おめでとうございます…ました、かな。もう結構前の話だ」
「アーク、君、誰かと何か覚え間違えていないか」
アークはきょとんとしてバティークを見てくる。ちょっと気の毒そうな顔した。
「拗ねたくもなるか? 自分が留学している間にデビュタントもしていない可愛い妹が世間に公表されて、あっという間に結婚だものな。議会でも話が持ちきりだったらしいぞ。そりゃいまを時めく最年少宰相だ。離れて暮らしていたんだろ? 俺達にも妹のことなんて一言も言わなかったよなぁ。だけどお前、大昔じゃあるまいし政略にしてもちょっと可哀想じゃないか?大分年上だろう。まぁ、夜が不能な相手だったから良いものの。もし実は色狂いなんてヤツだったら」
「待て、待て、待ってくれ。一体何の話なんだ?」
「だから、お前の妹の話だよ」
「は?」
****
「オズワルド!」
「バティーク様」
屋敷の玄関から一直線に父の側近の部屋へ向かうと、眼鏡は青い縦縞のパジャマを着て同柄のナイトキャップを被った所だった。オズワルドは伯爵家の三男で、朝も夜も呼び出される父に仕えだした頃からほぼマルーンの屋敷に棲みついている。その私生活は謎のようで大して謎も生まれ無さそうな男であった。
「なんだ君、案外可愛い恰好で寝るんだな……」
「ありがとうございます」
褒めている訳ではなかったが、そこはどうでもいいとバティークはハッとする。
「とにかくまだ寝ないでくれ」
「もう夜中の一時ですが」
「僕に妹がいたって!?」
「………」
オズワルドは外していた眼鏡を再びかけて、面倒くさそうに小さな応接セットへ次期公爵を誘った。
「シャルロット様のことですね。しかし、終わったことです」
「お……終わるわけないだろう!!」
「終わりですよ。仕込みは済んで、出荷も完了。バティーク様にすることは残っていません」
「出荷だと!?」
バティークは怒りで震えが立ち上るのを感じる。
この眼鏡野郎はいつもこうだ! 父の気に入りだかなんだか知らないが、僕のことを真っすぐにコケにして悪びれもしない。まるで父以外を認めようとしないのだ。都合のいいことばかりを口にして悪事の一切を伝えず、真実はこの眼鏡のレンズによって全てが遮断されてしまう。
毎月レンズが砕け散るが良い!!
バティークは幾度もかけてきた久しぶりの呪いをかけると息を整える。
怒るのは得意でない。気質上、続かないのだ。
「そのシャ、シャルロットとはどういう子なんだ」
妹は名前からして可愛かった。
「大して特徴のない一般的な女性かと」
「わかった、質問を変えよう。お前に期待した僕がバカだった。妹に関する調査書はあるか? いや絶対あるだろう、見せてくれ」
「………」
「オズワルド。今見せなくても、どうせ僕は入手する。絶対だ! 早く!!」
「バティーク様、留学から戻られて少し変わられましたね」
「痩せて髪が短くなっただけだっ」
オズワルドは重たそうにのーっそりと立ち上がり、二人はそろってブランドンの書斎へ向かう。灯りを付けて主人の執務机、一番浅い引き出しから薄いピンク色のファイルを取り出し、バティークへと手渡した。
「こちらが調査書です。このファイルは決して汚したり、中を抜いたりしないようにお気を付けください。私が怒られますから」
「ああ」
バティークはファイルをひったくると急いで目を通し、すぐにオズワルドを見る。
「つまり、父上が浮気を?」
「ええ。存じ上げませんがね」
オズワルドとてその頃はまだ幼い。全く知らぬ他人である。
書類には母親の名前と、住んでいた場所、学校などの経歴が載っていた。
「なるほど、メイドだったのか。母上が追い出したと。うん…うん…そうか、子爵家に…」
ひとり頷いて報告書に目を通した後、バティークは難しい顔をした。
「オズワルド、正直に。この調査日の日付は、僕が留学するよりも前だね」
「………」
眼鏡の男は黙ってつるを押し上げる。
「お察ししますが、そういうことは私にではなく」
「はっ…お前だから聞いているんだろう」
オズワルドが目を丸くする。この優しさしか持ち合わせがないはずの大人しい男から『お前』などと呼ばわれたのが初めてだったのである。
「つまり僕に妹のことを隠し通そうとしていたんだな? 初めから!? 父上は娘が存在しているといつからご存知だったんだ…まさか、ずっと知っていて放置していた?」
「さぁ、その辺りの経緯は存じ上げません。調査書が上がってきた頃にシャルロット様の存在を教えられたくらいです。詳しいことは公爵に直接」
小ばかにしたような物言いに再び苛立ったが、何とか抑えて深呼吸をする。
「父上の明日の予定は?」
「朝から終日ゴルフと会食で、お戻りは夜です」
「朝は何時だ。僕も車で同行する」
「かしこまりました。もう戻っても?」
「ああ」
スタスタと眼鏡が部屋を出て行く。バティークはピンク色のファイルを抱えて部屋に戻った。
翌朝、ファイルを掲げるように手に持って車へ突然乗り込んできた息子を一瞥すると、ブランドンは無視をするように目を閉じる。
「わざとらしく寝ないでください」
「昨夜は眠りが切れ切れで…夜中に騒ぐ奴がいた」
「起きていらっしゃったなら、あの場へ出てきてくだされば良かったのに」
「お前、留学して」
「髪と体重しか減っていません」
「………」
嫌そうに口を尖らせて窓の外を見る父親にグイグイと近寄ってバティークは顔を覗き込む。
「やめろ、近いぞ、バティーク」
「なぜ、放っておいた子を拾うような真似を? 何を企んでいるんです? なぜ、私に全てを黙って?」
「…そういうのが面倒くさいからだよ。放っておいたのではない。知らなかったんだ」
「私が最も嫌いな非人道的なことをしているという自覚があるのですね?」
「非人道的?」
滑るように走り出した四角い黒塗りの車は公爵領を北側へ走る。ハイクラスだけを対象にしたゴルフ場がいくつもあるエリアを目指すのだ。すぐ後ろにはバティークが乗って帰る車がついてきていた。
「この妹なる女性には、きちんと事情などを話して合意のもとマルーンに迎え入れ、カーターへと嫁に出したのですか? 一般人だった女性をたった三か月で? 報告書にはぶつ切りのように三か月のレッスンが入っていますが退職等それまでの経緯も一切ない、おかしいでしょう」
「本人は手放しで喜んでいたぞ。カティネを訴えた件もそのファイルにあっただろう? 劣悪な環境から救い出したんだ。シャルロットの為にはなった」
「そこは良しとしましょう。この家はありえません…しかし、宰相はもう四十ではなかったですか? シャルロットは資料からすれば二十歳かそこら」
「二十二だ。カーターは三十八、たった十六の歳の差だ」
「十六! たった!? 十六も年上の男と結婚なんて!」
「別に珍しくない。これ以上ない縁談だろう? あのジェフ・カーターだぞ。離婚歴はあるが狙っている家は多かった。宰相になってから縁談固辞の公言があって誰も彼に手を出せなかったが、ウチならいくらでも無視できる。何と言っても家格が違う。公爵家の娘を嫁に貰えて感無量だろうよ、あの男も」
笑みを浮かべる父親を見て、バティークは心底がっかりする。
そうだ、父とはこういう人間だった。
社会的地位を最大限に生かすドライブ型の人間。柔和に見えるその顔からは想像もつかない。
「ではつまり、私がいれば全力で反対するから……まさか、だからダフネに行かせた…?」
車内には沈黙が流れる。
「ははははははははははは」
「やめないか、バティーク」
壊れた玩具のように笑い出した息子にブランドンは嫌な顔をした。
「お前は昔から」
「そうです、私には昔から欲しいものが一つだけあった。どれだけ足掻いても手に入れられなかった…弟妹です」
「一番言いたくなかったのはそれが理由だ。妹などと言えば」
「一生僕が面倒を見てもいい!」
「だが既に嫁がせた。あれは非常に仲が良い夫婦だ」
「それはどうでしょう? 皆、あなたが思う程愚鈍ではない。利用されていることに気づかぬわけがない。ジェフ・カーターですよ」
「愛してしまえば利用されてもしても、結末は同じだ」
「そんな曖昧なことを…珍しいですね。母上のことだって愛してはいないのに」
「愛のカタチは人それぞれだ。私はお前のことも愛しているよ、バティーク」
「冗談でもやめてください」
ぞくぞくと襲う悪寒に震え、車を止めさせるとバティークは退散する。
「あなたが全てを駒のように見ているのは今に始まったことではありませんが…いずれ痛い目を見ますよ」
「お前が私に与えるなら本望だ。その瞬間を切望しているよ」
外へと降りた息子に向かって穏やかに笑って返すと、ブランドンは再びの出発を合図する。バティークはピンクのファイルを手に後ろの車へと足早に戻った。




