26. 兄妹
南部の港町に潜ませている部下からの報告書を回し読みし、ジェフとバルカスは今後の方針と輸出入薬品の規制緩和目録についての一部却下の事由集めに頭を悩ませる。
「マルーンを潰さず医薬品工場だけを残す方法など思いつきませんがね。普通こんなことが明るみになれば即刻家ごと取り潰しですよ」
「まぁな。だが資金力が…国内供給を百パーセント賄えるワクチン工場は国に陛下とっても長年の悲願だ。だからこそ付け込まれたとも言えるが。叩いて潰しては誰も引き継げない。明るみにならない内に都合の悪い部分だけを却下してしまうのが一番国にとっては美味しい」
「仰っていることはわかりますが。だが化学兵器なんて!!」
「大きな声を出すな」
二人が対面で座るジェフの執務机には、シャルロットが持ち帰った図面と工場地で山がえぐり取られていく写真、いくつもの二つの工場に関連する報告書が散らばる。一方は既出の図面。他方はその予定地からもっと奥、山際近くに建設される建造物に関する図面。数枚の写真には予定地より奥で掘り始められた穴がはっきりと写っている。その穴はバルカスにはこれからリンドの路を分かつ標に見えた。
「取り潰さないでどうします!? マルーンはそれでなくても癖があり過ぎた。現公爵じゃなくとも先代、先々代と。王族の暗殺にも一体何人関わったんだか」
「だから、声、声」
珍しく声を上げるバルカスにジェフが眉を上げ両手を広げる。
「癖なんて三公爵どこもある。暗殺に関わっていようがいまいが何でもやってきた。間引きに近親相姦に洗脳に傀儡…王族なんて生餌でしかない。だが全てリンドの為だ。軍拡など真正面から過ぎて逆に情熱すら感じるくらいになぁ」
「そりゃ今の世界情勢を考えたら理解できなくもないですが…だけど俺はリンドを戦地にはしたくありません」
「でも攻められたらどうする?」
「同盟に頼ります」
「しかないな、そうだ。中東からの勢いもきな臭い。現状、もしトルシュの戦車部隊が全部来たら、うちの軍隊ではひと月でも自衛がもつかも怪しい」
「そんなもの燃費も道路も悪すぎてこちらまで来られません。戦車部隊が完成するのだって先の話です。ジェフ様、一体どっちの味方なんです? いつから軍拡派に? 第一、同盟頼みの国など欧州にはいくらでもあります。本当の意味で大国なんてないんだ。みな繊細な均衡で成り立っている。兵器工場なんか作ったら一番に潰されます」
「潰されるかどうかは外交次第だ。例えば化学兵器を売ると言えばどうだ? 実際マルーンは売るために作るんだろうさ。リンドももちろん買うだろうが、どこにでも売れる。規制法がないからな。そんなこと想定していなかった。皆こぞって裏口から買いに来るさ。金だってガバガバ入る」
「………」
「とにかく利点が多いのは事実だ。ワクチンも兵器も、結局ブランドンは実に素晴らしい点を押さえている。いいか、甘い理想論に振り回されるな。なぜ今、軍拡をしないのか。逆にその理由をはっきりさせろ」
「ではいずれ戦争をすることが規定路線だとでも?」
「そうは言っていない。とにかく却下しか考えてない。お前、俺が戦争屋か何かだとでも思ってるのか。俺を攻撃する前に案を考えろ」
不機嫌な自分を諭すように言い含めた上司をしばらく放置した後で、バルカスは迷ったものの口を開いた。
「例えば公爵の気が変わることに繋がるような…変化球になりえる弾の候補はあります。三パーセントくらいの確率でしかないですが。やってみる価値はあるかと」
「なんだそれは」
「バティークです」
「バティーク・マルーン?」
「こちらに引きずり込みましょう」
バルカスの案をジェフは鼻であしらう。
「冗談を言うな、息子だぞ。さすがに無理筋だろう」
「お持ちじゃないですか。ジェフ様には今とっておきのカードがある」
「………」
「バティークと私は歳もそう変わりありません。自然なルートで近づける。繊細で実直、父親と違ってパンチはない、お優しい男です。そんな彼の知らぬ間に可愛い可愛い腹違いの妹が現われて、父親に拉致同然に拾われて以降、駒のように扱われている。しかし嫁いだ先の男は非常に話のわかる男で、妹を女として見ず指一本触れていない。聞けば客人として大切にしているらしい。白い白い真っ白な結婚だ。何なら契約関係だと明かしても。どうです? このシナリオ。お義兄さん、父から可愛い妹を守ってくれてありがとうってなりません?」
「家族の内部事情などわからん。父子が深い信頼関係にもとづいているかもしれん」
「しかしシャルロット様の始まりから終わりまで蚊帳の外です。深い関係があるとは思えません。元よりバティークは悪巧みできるような器に感じませんが」
「悪手になる可能性も」
「どのみち帰国すればシャルロット様と会うことにはなります。そのコントロールを最初にするだけです。悪手とまではいかないようにさじ加減は必ず調整します。上手くいけばこちらとの距離は縮まり、逆に父親との距離を作り出せる可能性がある」
ジェフは片手で顔の上部を覆う。バルカスからはその表情は見えなかった。
「……帰国はいつだ」
「先週から帰航者名簿に名前が入りました。出国は二週間後、十六日後には帰国です」
「わかった」
「紳士クラブに通う友人がいます。その線からシャルロット様の話を仕掛けましょう」
ジェフは頷いて立ち上がった。
****
久しぶりに早い時間に帰宅した主人の世話に皆が生き生きとし出したカーターの屋敷では、セバスがジェフから脱いだジャケットを預かり、風呂か食事かを尋ねる。
「皆食べたのか?」
「皆、とは誰を指していらっしゃいますか」
「みんな、とは皆だ」
「私共、一斉に食事はいたしません故。坊ちゃまもご存知でしょう? どなたの食事が終わっていないかを尋ねられているのでしょうか?」
「………シャワーを浴びる」
「坊ちゃま!!」
「坊ちゃま言うな」
ぽいぽいと脱ぎ散らかしてバスルームへと向かう主人の白い尻に溜息をついて服を拾い、セバスはため息を吐いた。そのままランドリーへ向かってメイドの一人を呼び止める。
「リーリア、テルミアに奥様のお食事がお済かどうか聞いてきてくれるか。ジェフ様の食事にお相伴が可能か。お済なら何かおやつでも」
「お済ですよ」
「どうして知ってるんだい」
「最近の奥様は一番早いテーブルに一緒につかれますから」
「えっ、そうだったかな」
「ええ、無断でお出かけされた後でテルミアさんにこってり怒られましたから。良い子にしますって規則正しい生活を。夜も早くに床に就かれますし。もうお部屋に戻られて寝支度なさっているかもしれませんね」
「まだ七時なのに!?」
驚くセバスに別のメイドが苦笑する。
「余程外出の件が堪えているのでしょう。あれだけテルミアさんを泣かせましたから。皆にも心配させたって。暫く元気がないご様子ですし」
確かにシャルロットはここの所顔を見る機会が少なかった。言われてセバスはそう思い返す。
「テルミアは今?」
「テルミアさんなら、さっき厨房に向かう所を見かけましたよ」
礼を言ってセバスはテルミアを探しに向かう。ちょうど小さな銀のトレイにホットミルクを持ってこちらに歩いてくるところだった。
「テルミア」
「セバス。旦那様がお戻りに?」
「ええ。今からお食事です。奥様がまだならと思いましたが」
あ~、とテルミアが声を上げる。
「今日もお食事が早かったのですよ。今はもう湯の後です。近ごろ眠りが浅いご様子なのでホットミルクを運ぶところで」
「急に規則正しい生活を? 具合が悪い訳では」
シャルロットは屋敷の中をビビアンとあちこち行ったり来たりして、夜でも色んなグループと食事をしたりお喋りしながら遊ぶのが大好きだったはずだが。
「それはありません。ちょっとぼんやりはしていらっしゃいますけど、寝つきが悪いせいかと思いますよ。私とは会話も普通です」
「うーん、そうか…旦那様のお食事には付き合われないだろうか」
「聞いてみます」
「頼みますよ」
しかし、待てど暮らせど食事の席にシャルロットが現われることはなかった。
バルカスも不在。ジェフは一人、黙々と食事をする。
「ちらちらともの言いたげに目線を寄越すな。落ち着いて食べられない」
「いえね、お寂しいのではないかと」
「なんで」
老執事は悪巧みをするかの如く、声を絞って囁く。
「今度からは早めに帰宅されるなら電話の一本でもどうぞかけてみてくださいませんか」
商用でもなければ電話番号など割り当てられない時世において、カーター家には緊急用として一本電話が引かれていた。ちなみにまだまだ一回の電話代は高い。
「はぁ?」
「奥様、キープしておきますから」
「ボトルじゃないんだぞ。別に食事なんて一人でもいい、何年もそうしてきた」
にんまりと笑う好々爺を一度睨んでパクパクと平らげていく。
「坊ちゃま、もっとゆっくり召し上がられませ。早死にします」
「構わん」
「構いますから!! お願いですからもっとお身体をご自愛くださいませ。これ以上、死期を縮めてはいけません」
「これ以上ってなんだよ。まるで早く死ぬみたいに言うな」
「もう少しパンを?」
「おん」
パンのサーブをした後、ジェフが顎で向かいを指すので、セバスは肩を竦めてメイドにウィスキーを二つ頼み、腰かける。
「シャルロットの様子はどうだ」
「ほら! やっぱり気になっていらっしゃる」
「お前が思っているようなヤツじゃない。お前達どうしてそうやって何でもかんでも」
セバスが真面目な顔でその先を待っているので、ジェフは続けるのをやめる。
「あー……元気なのか?」
「いえ。総合的にみると、そうでもないと言いますか」
「元気がないか。不健康?」
「お身体は元気です。でも眠れないとか。日中はどこか上の空だそうです」
「………」
「坊ちゃま、命日の日に何か為さったんじゃないでしょうね」
「まさか。何するって言うんだ」
「いや、ナニかは為さっても良い。寧ろ推奨です。ですがこの場合は、何と言うか…無体なことをしていないかの確認ですね」
「なぜ俺がシャルロットに無体を働く。馬鹿を言うな」
母親の死に目の話をして俺に懺悔しながら号泣していたんだ。
口から出そうになった説明は、急激にかかったブレーキでまた喉の奥へと引っ込んでいった。
ジェフは最後のワインを飲み干す。
「セバス」
「はい?」
「なぜ、母の命日には領地へ戻って、ああして昼食を食べる」
「え? なぜ? なぜって?」
「わざわざ予定を立ててぞろぞろと。別に墓の側で食事をしたってしなくたって食べる面子は変わらんだろう」
「本気で仰ってます? じゃあ坊ちゃまは母上様にお会いしたくないのですか!?」
「大丈夫か、セバス。会えるわけがないだろう。そりゃ感謝の気持ちはあるけど、死体に会いたいなんて思わない。俺があそこに行くのは年に一度の領地視察がメインだ」
セバスが聞きながら蟀谷に青筋を立てている。
「坊ちゃまが情緒欠落者なのは今更ですが」
別に主人のこういう部分は前から知っているので珍しい発言ではなかった。だが行儀悪く頬杖をついて眉間に皺を寄せる主人はいつもと少し様子が違って見える。
「思うに、俺がこうなのは、お前達にも責任の一端があるんじゃないか?」
「は?」
「話の通じない母親や父親をこだわりなく切り分けられた。ジェニーは俺とのやり取りに疲れて領地で暮らすようになった形だが、特段それに不遇を感じたこともない」
「そうですね。神童の坊ちゃまは『答えられないから母様は逃げた』と笑っていましたから。不遇も何も、奥様は可愛がっていらっしゃいましたけど」
「着せ替え人形にされるのも読み聞かせもごめんだ。まぁ、結局それで長らく離れて暮らしたわけだが、特段に不便を感じたことがなかった。いや、違うな…不便とはまた別の…」
セバスはおや、と主人を見る。
「淋しいとか、そう言った種類のものだ。いつでも後ろでお前を筆頭にうるさかったから」
「ええ、皆、坊ちゃまが自慢ですし、大好きですから」
「だから結局、本当の意味では独りになったことがない」
セバスは静かな気持ちで自分より随分と年下の主人を見遣る。
「十四、五からずぅっと、お独りでいらした。そりゃあ坊ちゃまのように墓前で淋しさも覚えないような、そんな恵まれた道ではなかった、シャルロット様はね」
ジェフはこの所一人になると、泣いていたシャルロットにかける言葉が見つからなかった場面が何度もフラッシュバックする。
「俺は無駄に恵まれ過ぎた」
「やっとお気づきですか」
顔を顰めて渋い中年男は頷く。
「別に俺が享受したって無駄なものだったのに……不公平だな」
「不公平だと思うなら、坊ちゃまが奥様に分けて差し上げればいいんですよ」
ジェフは反論もせず、聞いているのかいないのかわからないような顔でグラスを見ている。
セバスは長い子育てのほんの一部が今、報われたような気持ちがした。
「カーターに生まれた時点でゲームの勝者だ。どんな風に恵まれているかなど、考えてみたこともない」
「気づけただけでも及第点です」
「今さら『死体に会いたい』とは思えんがなぁ」
「死体というのはお止めください!」
はははと食べ終わった後にナフキンで口を拭いて、くしゃくしゃにしてテーブルに置く。
「部屋にはいるのか」
「もちろん」
老執事はスタスタと出ていく主人の後姿を見送る。プライマリースクールをやっと卒業する子どもを見守る母親のように。