25. 母の命日②
探偵社を出た後で、生前の母が好きだったお菓子を二つ、それと紫色の花を買い、役所の前からもう一度路面電車で移動するとミルクティー色の頭は大きな門からローレンスの丘に建つ墓地の敷地に入って行く。
「こんにちは」
「こんにちは」
受付で墓地の社員に挨拶をし、建物を抜けて始まる広大な墓地をテクテクと歩き始めた。
今日は、母、ソフィアの命日。
母は娘の為に進学費用を貯めていてくれたので、シャルロットは彼女の死後、そのお金で素敵な墓地の一区画を買った。清潔で街中に近く、種々多様な花々に囲まれて淋しくなさそうに見えたからこの墓地にした。十五の自分が選んだ母の居場所は、正解だったと毎回思う。
「来たよ、ママ」
しゃがみ込んだシャルロットは四角く白い墓石に語りかけた。
墓石を撫でている間に心の奥底にある箱を開けてやると、普段は押し込めている母への思慕がどっと溢れる。
しばらくジッとして黙って泣いた。いつだって最初は泣いてしまうので仕方がなかった。自分の涙が止まるまで他人事のように放っておくしかない。
「はぁ…」
ポシェットからハンカチを出して顔を拭き、ちり紙で鼻をかむ。買ってきた菓子と花を墓前に置いて、本格的に座り込む。
「しばらく来られなくてごめんね。いろいろあったの。私、アップルトンからマルーンになって、カーターになっちゃった。でもまたアップルトンに戻るけどね」
それからソフィアに向かい、公爵や眼鏡ザル、バルカスにセバス、テルミア…短い間に起った出来事を報告する。
「何年かかるかわからなかったあの小屋から出られたのは本当にラッキーだったでしょう? おまけにカーターのお屋敷はみんな良い人で。マルーンが嫁いだ先じゃなくて本当に良かった。ジェフが良い人だから、皆が優しいの。私、ママがいなくなってから初めて何の心配もなく眠れる日があったよ」
すごいでしょ? でも最近はちょっとね。菓子を取り出してひとつ摘まんで食べる。
「ジェフは白目を剥いていた新郎ね。とにかくお酒が好きで、気が付いたら鼾をかいてる。忙しいから…宰相なんだって。忙しいのに飲むから余計に眠いのかな。公爵がどういうつもりで私と結婚させたのか、企みがわかって落ち着いたら離婚するの。そうしたら私はまたアップルトンに戻してもらう…ママと一緒が良い」
お菓子は塩味の効いたスナックで、母がごくたまに一杯だけ飲むウィスキーと一緒に食べていた摘まみだった。幼かったからウィスキーは香りしか覚えていない。銘柄がわからず、結局成人しても買ってあげられない。
「ママは結構恋人がいたんだね? 知らなかった。この間うっかり知っちゃったよ、ごめんね。どの人が一番好きだった? …でも好きじゃなくなったから別れたのか」
真面目に働き詰める母が稀に見せた酒を飲む姿と口ずさんでいた恋の歌。娘である自分はもちろん出産前のソフィアという人を知らなかった。知らなかったけれど、母は思う程に真面目な人ではなく、恋もする生身の人間だったということだ。
「私にも恋する時が来るのかな。恋をして、結ばれて、結婚して、子どもを」
だけど母のように、一人で子を育てるかもしれない。父親は産まないから、誰かなんて本当はわからないのだ。自分のように。
「そんなのないか。そもそも男の人は苦手だし、こわ……」
語りかけていた声が途切れる。シャルロットはずっと向こうから歩いてくる男に瞬いた。
「ジェフ」
誰もいない墓石の並んだ平原の向こうから、早足の見知ったスーツ姿。シャルロットは慌てて立ち上がる。
「ダメだろう、シャルロット、一人で何も言わず。家じゅう君を探して大変な騒ぎだ」
「………」
「セバスが慌ててバルカスを呼びに来た。テルミアが警察を呼ぶと言うからバルカスが子飼いを使って先に方々探させている」
「そんな! 皆さんお忙しいのに。やめてもらってください」
「うん、さっき電話をかけにいかせた」
「すいません、大変なご迷惑を」
それは良いんだが、いや良くはないが、とか言いながらジェフは頭を掻いた。
「今日が母君の命日だったのか」
焦げ茶の頭が低くなり、足元の白い墓石を読む。
「公爵の話から命日の話が出た時にもっと気を回しておくべきだったな。バルカスが行ってから公爵との会話を思い出した」
「気を回してもらうなんて…お騒がせしたのはすいません、関係のない人をここに連れてくるのはご迷惑かと」
言えば誰かが同行したとは思ったが、何より個人的な用事だ。多少探されるかもしれないが、昼間のうちに終わるので帰宅後に謝るつもりだった。まさか騒ぎにまでなっているとは思いもしない。
ジェフが辺りを一瞥する。
墓前に置かれた紫色の花と箱入りのスナック菓子。少し離れた場所の同じ菓子は封が開いている。
関係のない人をここに連れてくるのはご迷惑。それはもちろんジェフも含まれる。
数年前に亡くなった侯爵夫人である母の命日には、セバスが指揮を執り領地へと出向く。カントリーハウスの人間も含め大勢でカーター家代々の祖先が埋葬されている墓地へ集まるのだ。墓地自体が屋敷のすぐ側にある為、まず一人で訪れる機会もない。セバスもテルミアも、あちらの執事たちも皆で用意してくれて、墓前でなぜか賑やかしく昼食を食べるのが恒例だった。
ジェフは大して口を開かなかったが、父をはじめ皆が母を思い出して色んな話をするのを聞く。母の命日とはそのような日だった。
「一人で墓参りを?」
ジェフの問いにシャルロットは頷く。
「ええ。あ、お菓子の一つは母のです。いつも母の好きだった物を一緒に食べて、いろんな報告をして帰ります。今日はジェフのことも報告しましたよ」
「私を?」
「はい。白目の新郎で、良い人で、大体お酒を飲んで寝ている人だって」
「………」
その通りである。
「ふふふ。安心してください、悪口じゃないですよ。カーターのお家に嫁げて良かった、ってちゃんと報告しましたから。皆すっごく良い人!」
契約妻はいたずらっぽく、だけど最後は満面の笑みを浮かべる。
「久しぶりに会いに来たので、もう少し母と話をしたら帰ります。電車がアレならタクシーを拾いますね。お忙しいのに、すいませんでした」
シャルロットの言葉に、ズボンのポケットに両手を入れたジェフが黙った。
草原に浮かぶ無数の白や灰色、黒の墓石の上を乾いた風が撫でていく。太陽の光は穏やかで、蝶の羽ばたきが聞こえそうな程に静かだ。街から少し外れただけの場所だというのに、現実世界から切り離されているようなのどかさだった。それはまるで、この世ではないような。
淡い陽射しの中でぼんやりとミルクティー色の髪が揺れる。ジェフは瞬きを繰り返す。
思い返せば、目の前の娘はいつでも身軽だった。ベランダの手すりから地面を見下ろしたり、こうして一人で突然遠くまで来たり。今この瞬間にもこの場に溶け消えるような、どこか希薄さがまとわりつく。
「帰りは車で送る」
「えっ。いえ、お忙しいでしょう? あー…じゃあどこかでタクシーを呼んで頂けますか? ここまで」
「ちょうどあまり寝てなかったんだ。君の隣で寝ておくから。ゆっくり話してくれていい」
「ジェフ」
言った側からジャケットを脱いで、封を開けた菓子の隣で横になった。シャルロットは寝ころんだ男を困ったように見下ろしてから、渋々とまた座り込む。
「はぁ。ママ、この人がさっき言っていたジェフよ」
「あ」
「え?」
急に起き上がって、ジェフが真面目な顔で墓石に向かう。
「ジェフ・カーターです。娘さんをお預かりしています、どうぞよろしく」
「………」
さすがに墓場で寝っ転がるのはマナーが悪いと思った男は、断りを入れるような軽い気持ちで自己紹介をした。
「いや、何か挨拶なしに寝っ転がっているのは失礼かと。私は一応、君の夫だしな」
「ふふ」
ちょっと困った人だと見下げた矢先のジェフの挨拶に面食らっていたシャルロットだったが、ジェフの見ている間に顔がふにゃ、と緩んでいく。
「ありがとう、ございます」
初めて自分以外の人間から、目の前で墓石に話かけられた。まるでママがいるみたいに。シャルロットは急に泣きたいくらいに嬉しくなった。というか、ポロリと実際涙が出た。
ジェフが気まずそうに口元に手をやる。どうやら泣かせてしまったようだ。
「すまない」
「いえ、すいません。なんか、良いですね。自分以外の人がママに話しかけているのを見るのって」
言いながら、続けてぽろぽろと出てくる涙をハンカチで慌てて拭う。ジェフは赤く潤む瞳に少し近づいて背中を撫でたり、ポンポンと叩いたりして宥めた。口から生まれてきたように議会や選挙で喋り尽くす言葉を持っていても、今シャルロットの涙を止める言葉は持ち合わせがなかった。
案外と俺は無能だな。
「すいません…ここの所、テルミアさんを見ていたら母の最期を何度も思い出してしまって。ちょっと気が弱くなってます」
「テルミア?」
「はい。風邪を引いて、熱と咳が。今日やっと熱も引いてくれて」
「そうだったのか。だけどまぁ…風邪ならみんな引く」
「母も、最初は風邪だと。ですが、あの年流行ったのは風邪じゃなかった。三日目から、あっという間でした」
「ああ……そうだね。あの年は沢山の人が亡くなった」
「高熱も酷い咳も、食欲がなくなるのも、おなじで。だから」
言葉が続かなくなって、シャルロットは膝に顔を隠してしまう。
「あ〜…」
ジェフは何か言いたかったが、うまい言葉が出てこない。どうしようもなくて、しばらく動けなかった。だけどすぐ横の小さな肩は震え、知っているはずのあっけらかんとしたシャルロットではない生き物に見える。それはもっと頼りなくて、剥きだしの。
考えた末に足の間に引き寄せ、抱きしめて覆った。
ごめんなさいと繰り返しながらシャルロットはジェフの中で泣いた。
医者にも診せたし、夜中も灯りをつけてずっとずっと母から目を離さなかった。だけどどんどん呼吸が辛そうになって、熱で真っ赤になって、冷やしても冷やしても。自分には母しかいなかったように母にも自分しかいなかったのに、何か良い方法が有ったかもしれないのに、何にも出来なかった。
「夜中でも、背負ってでもお医者さんの所に連れて行けば」
「そんな難しい状況での判断は大人でも出来ない」
「苦しそうで、辛そうだったのに、碌なことできなくて」
「あの時は皆そうだった。君は何も悪くない。母上が亡くなったのは病気のせいだ」
左右に振られるミルクティー色の頭を撫でてみても、ジェフは罪なき懺悔に為す術がなかった。
四十間近の男は今初めて、皆が自分によく言う『そういう所がだめなんだ』を実感する。
彼の母は最期、沢山の人に看取られて静かに息を引き取ったが、その時一人息子は不祥事を起こした大臣相手に査問委員会の真っ只中にあった。だが死に目にあっても尚、後悔を残す娘の心の中には埋まらぬ深い穴がある。
自分はどうだろう? ジェフは自身の凹凸のない心の淵を覗きかける。
シャルロットは母の死後、誰にも打ち明けなかった懺悔を口に出して、箍が外れたように泣いた。哀しそうな泣き声に、震える肩に、ジェフは途方に暮れる。
案外どころではない。俺は今、完全なる無能だ。
雲が流れ、陽が少しずつ傾いていく。
ぼーっとして子どものようにしゃくり上げている状況に我に返って、シャルロットは慌ててジェフから離れた。
「ごめんなさい!」
「そのごめんなさいは、私にか?」
「はい、もう本当…もう帰ります、帰りましょう、今日は」
「大丈夫か?」
時折出るしゃっくりに顔を赤くしているシャルロットの目尻を親指で拭って、ジェフが優しい顔で尋ねた。尋ねられた方は気まずくて俯くしかない。
「はい、ええ、それはもう。申し訳ありませんでした」
「んんー」
「…?」
少し不機嫌そうな声で返事をされて、シャルロットが顔を上げる。
「なんだろうな。謝られたくない」
「はい? え、私にですか?」
ジェフは難しそうな顔を見せて、頷いた。
「帰るなら、送る」
シャルロットごと立ち上がって、手早く全ての荷物を持ったジェフが出入り口の方へと進んでいく。大きな手に手を繋がれて、シャルロットは夫の背中を見つめ続けた。