17. 新婚旅行③
荷解きを終え、巨大なテーブルでウェルカムドリンクを楽しむ皆の輪に混じり、古城のメイド達が離れた後でジェフがネクタイを解く。
「スケジュールを立てているらしいな? 見せろ、今、すぐに!」
求められたセバスがちらりとバルカスを見た。
「こらこらアイコンタクトをするな、そこ」
バルカスが首を振り、セバスが頷く。
「紙に書いて持ち運ぶのは三流執事の仕事です。わたくしが、全て坊ちゃまの良いようにお膳立てして差し上げますから、なんのご心配もなく。奥様、もう少しいかがです?どちらのクッキーをお取りしましょう?」
ジェフの横に座るシャルロットは、セバスが押したワゴン上の皿に美しく並べられたクッキーに唇を結ぶ。
「ん~と」
「心配しかない! 残り全部食べるか?」
「全部も食べたらお腹が。えーと…チョコとプレーンのミックスと、ピンクのアイシングにします」
ジェフが横からシャルロットの皿を取って伸ばすと、セバスが取り分けて、また戻してやる。
「ありがとうございます、ジェフ」
「ん」
「ファーストネームがこんなに素晴らしい響きに溢れるとは…セバスは感無量です」
「よかったですね、おじさま卒業できて」
バルカスがデリケートな上司の男心を慮ったが、ジェフは完全無視する。
「スケジュールはどうなってるのか知らんが、俺はこのバカンスで行きたい所がある」
「行きたい所ですって? どちらですか?」
「ワイナリーとウィスキー工場だ。良い所がある。試飲しまくる」
クッキーを咀嚼するシャルロット以外の全員が、残念な主人を白い目で見遣る。
「しまく…坊ちゃま、それじゃあ二日も酒に浸かると聞こえますが」
「それ、どっちも私、行こうかしら。これもおいし~!」
ぐびぐびとワインをあけるビビアンがうっとりしながら言う。
「ビビアン、あなたも列車の中から飲みすぎですよ。坊ちゃま、試飲しまくれば後は爆睡されるだけかと思いますが」
「バカンスだからなぁ。日頃自由がないんだ、これくらい許せ」
ぐ、とセバスが言葉に詰まる。確かに一度も終日の休みもない月がある程に忙殺されているジェフである。休みがあっても紳士クラブの遊びや健診、ゴルフなどの溜まった付き合い等で潰れるなどざらだ。好きな店に行く暇などもちろんない。
「それは…それはわかってはいますが…」
「おじさま、私、ワイナリーって行ったことがありません。ビビアン先生も行くならご一緒しても良いですか?」
「ジェフ」
「あ~~~、ジェフ! ジェフジェフジェフ…一緒に行っても?」
「構わないよ。ではワイナリーは決定だな」
セバスとテルミアが蟀谷を押さえて大きく嘆息し、密やかに相談を始める。
ディナーまで中途半端に時間があり、シャルロットは古城の敷地内を歩くと断って外に出てみた。古城は王族の使う施設であると共に観光スポットということもあり、その周囲には多くの衛兵が常駐していた。正門前の写真スポットから城の裏手は全く見えない。加えて鉄槍の付いた塀も高く、敷地内の安全はアンセルムからも保証されているので、テルミアも独り歩きに頷いてくれた。
(ほんの少し前までは、一人で暮らして働いて、どこへでも路面電車に乗って行っていたのに。こんな庭まで気を付けるなんて妙な感じ)
契約妻なので身の安全がどうのと言われてもピンと来なかった。もちろん公爵家の娘という実感もない。それどころか、未だに夢ではなかったかと目覚めに疑う。
踏みしめる草は一律に青々とし、眼前に広がる小さな池やその向こうに聳える山と古城のコントラストは一部の隙もない。絵画を見ている気にさせる。
まるで自分のようだ。丁寧に作られた芝と景色のために掘られた池、盛られた土、植えられた針葉樹。庶民の自分に突然与えられた『公爵家の隠し子』に『次期侯爵の妻』に『宰相の妻』。輝かしいラベルが自分に貼り付けられはしたが、中身は全く変わりなし。木は所詮木だったし、草も草でしかない。だけど皆、ラベルを見ているような。
偽物の自分が、偽物の景色に溶け込んで自然に映る。
水面まで足を向け、しゃがんで覗き込んだ。
水は透明で、アメンボが小さな輪を作るのが見える。魚が泳いでいた。
(偽物の池でも生きていけるんだ)
でもこの池はどこにも繋がっていなかった。きっと定期的に水を入れ替えたりするのだろう。水を入れ替えたら魚は死ぬのかしら。
「あまり身を乗り出すと、落ちますよ」
「バルカスさん」
振り返ると見慣れた優男が立っている。
「お一人ですか。テルミアは」
「別の寝室を準備して下さっています。私は散歩です。敷地内なら良いと」
「ああ~、そうか。そうですね」
当たり前に古城側で用意されていたのは夫婦の寝室である。だけどまたシャルロットが熱を出すとテルミアが角を出し、別の居室をそうと分からぬ様に用意してくれている。
「ジェフ様にも困ったものだ」
「寝るのはソファで良いと言ったのですが」
「ジェフ様が? そりゃあいい」
「まさか! 私が、ですよ」
クスクス笑うシャルロットを連れて、バルカスが先の木立へ誘う。少し歩くと厩舎や鶏小屋があるらしい。
「バルカスさんも散歩ですか」
「いいえ、俺は念のための警備の確認です。あまり人に任せられないタイプなので。さすがにここは万全でしたね」
「側近のお仕事って色々なんですね?」
「はは。皆はこんなことしません。というか、休暇をとっての旅行ならついても来ないでしょうね。俺はどこでも行きますが。普通の側近は警備もしませんし、宰相仕事の時間内にしか付き合わない」
シャルロットはジェフより背の高い、だけどどう見ても猛者には見えないスマートなバルカスを見上げる。
「あの時も、カティネの兄弟をのしてくださったと聞きました。バルカスさんて強いのですか?」
「いや、あれは俺ではありませんが……。腕っぷしで言うと、まぁまぁです。ボクシングと体術を人に教えられるレベルまで習得しています。でも一番は射撃ですね」
「銃!」
「はい。絶対外しません」
「絶対?」
「はい、絶対。射撃大会での優勝タイトル保持五年。歴代二位です」
「へぇ~! すごい!」
「でもそうだ! シャルロット様、あのカティネ家の弟を投げ飛ばしたって聞きましたが? テルミアが見たと」
「あ、そうです。私も体術を少し。学校の先生で柔術師範資格を持っていらっしゃる方が居て、ちかんに遭いやすいからと稽古をして頂いていたのです」
あまり時間がなかったのでサークル活動の朝稽古に混じらせてもらったのを思い出す。
「得意技は背負い投げです。相手より小さいと、逆に懐に入りやすいから」
「はははははっ! まさかあなたが投げるだなんて誰も予想しないでしょう。そりゃあ有効だ」
「弟の…アーロの方はあまり賢いとは言えなかったので、よく無防備に近づいては投げられてくれました。良い練習台でしたね」
「一生の必殺技ですね。体が忘れそうになったらいつでも呼んでください。投げられましょう」
「良いのですか!?」
「テルミアあたりが怒りそうなので、内緒でね」
「ふふふ」
「でもジェフ様は投げてはいけませんよ。多分、受け身も取れません」
「まさか! おじさまを投げる理由がありません」
「そうですか?」
「危なくないもの」
バルカスが耳たぶを揉んで明後日を向いている。
「ジェフ様にも困ったものだ」
「あ、また『おじさま』って呼んじゃった」
厩舎で馬に触り、馬番に言って遠乗りの馬に少し乗せてもらう。それから小屋で時折羽ばたく鶏を眺めた後、城に帰ると良い時間だった。汚れたので夫婦の寝室に着替えに戻ると、大きなソファで足を上げ、寝ているジェフがいる。
(また、寝てる)
ローテーブルにはアイスコーヒーが残ったグラスと開いたままの本が置いてあった。
普段から部屋は別なので、いったい一国の宰相がいつ眠って起きているのかシャルロットが知る機会はない。だけど日に焼けることもあまりない色白の男の目の下には大体クマがあって、まるで隙間を埋めるように目を瞑る様子をよく見かけた。そりゃあ疲れているのだろう。ぼんやり見ていると口が開く。
「散歩を?」
「あ。すいません、起こしましたか」
「いや、元々寝てない」
「そうですか。裏を歩いてバルカスさんと会ってから厩舎と鶏を見せてもらいました」
「君の乗る馬に?」
「はい、少し乗りました。もうそろそろ夕食の時間ですから着替えに戻ってきて。ジェフはお疲れですか?」
「いや…」
目を瞑ったままの男の胸が膨らんで、鼻息が聞こえる。
「久しぶりにまとまった休みだが、視察も兼ねているから微妙に気分がオフにならない。余分に寝たいがなかなか眠れないな」
「頭を押してあげましょうか?」
「押す?」
「昔、母が押して欲しいと言うので、よくしてあげました。している間に寝てしまったりして」
「ふぅん。じゃあ頼もうかな」
シャルロットはジェフの頭を抱えて膝に乗せ、ぐぐぐ、と親指で押してやる。
「お」
「痛いですか?」
「いや、なんだこれ。気持ちいいな」
「そうなんですね。母は好きだったみたいですが」
シャルロットは施術するばかりでやってもらったことはない。どんな風に気持ちがいいのかもわからなかった。
ジェフの頭髪は休暇中なので普段のようにかっちりと撫でつけられておらず、触ると案外柔らかい。反対側から見下ろした顔は左右に対称で、伏せた瞼の睫毛の一本一本が見える。
「母君が君にねだったのもわかるな。気持ちがいい。…よく働かれていたと」
「ええ。昼間はホテルで清掃をして、帰宅してからは内職を。たまに夜も頼まれて働くこともありました。本当は夜の方が手当ても付くので助かったのでしょうけれど、私が小さかったので」
「そうか。公爵も酷なことをしたものだ。いくら美しいといって」
「そうですよね。私には世界一素敵な母ですけど、それほど美しい訳でも。何せ私が母似ですから。公爵がなぜ母と、と思います。本当は娘なんて嘘ではないかと思います」
「ん? どういうことだ。美しい母君に似ているのはシャルロットだろう」
「母に似ているのはそうですが。でも私、美しくないですし…好みというのは人それぞれとは思いますが」
ライアンもアーロも口を開けばブス、デブ、ダサい、クソだと罵詈雑言を浴びせてきた。毎日毎日聞いていれば、それはもう飽きるくらいに自覚する。
「シャルロットは美しいと思うが」
目を瞑ったままのジェフが言う。頭を押す手が一瞬止まる。
「美しい? ふふ」
「好みというのは確かに人それぞれだ。だけど社会的に見て一定数の偏りは認めることができる。要は顔のパーツのバランスだな。基本的に対称で何の変哲もない方が美しい。そして時代ごとに美醜はパーツ別の比率で変わる。額が広い方が美しい時代もあれば狭い方が、唇が分厚い方がいい時代もあれば薄い方がいい時も。そこに多少の歪みが加わって絶妙な魅力になったりして目を惹く。人間とはそういうものだ」
「まぁ、おじさまにかかれば美人も論理的ですね?」
「シャルロット」
言われて『おじさま』の呼称に気づきハッとする。
「あ! でも待って、ほら、今二人きりだから。セーフです」
「そんな頑なにおじさまよばわりされる程の歳じゃないんだが」
ジェフの眉間に皺が寄るので、こすこすとシャルロットが撫でて平らにする。
「ジェフ…ジェフ、ジェフ、ジェフ」
「んぁぁ~…何度も呼ばなくていい! とにかく二人きりだろうが一貫しておきなさい。呼び方なんて習慣の最たるものだ。どこかでぼろが出る」
「…すいません、気を付けます」
「………怒ってるわけじゃない」
腕が持ち上げられて、ぐしゃぐしゃとミルクティー色の頭が撫でられる。
「ごめんなさい、ジェフ」
「あー、もう、よろしい。うん、気持ちよかった、ありがとう」
身体を起こしたジェフが礼を言い、シャルロットがにっこりする。それから自分の手指をじっと見た。
「そろそろ夕食かな…………………………おい? だめだ、シャルロットそれは!」
「…ちょっとだけ、あっ」
シャルロットが両手指をすぼめて自分の鼻にあてに行くのをジェフが見てぎょっとし、高速で両手首を捕まえる。
「やめなさい!」
「え~ちょっとだけです。ジェフはどんな匂いがするのか」
「ダメに決まってる!!」
「だって母の匂いを嗅いで、いつも最後は二人で笑っていたんです」
「やめろぉぉぉぉ」