14. 事業申請書
ははーん。
今朝方上がってきた一枚の事業計画書を手に、宰相は顎を撫でる。
「医薬品の製造工場。これはまたデカい」
「ええ。相当な規模ですね」
「資料はこれだけ?」
側近は手元の小冊子をもう二冊渡し、うち一冊の付箋が貼られたページを広げて見せる。
「一冊は建設予定地の概要と建築関連情報、工期。あとはまだ草案段階ですが、製造ワクチンの候補やら研究所の所員のリストやら。どちらかというと学会資料の抜粋ですね。通常でいけば草案で出してくるのはあり得ません。舐めてるのかと突き返される」
「そりゃあ公爵だからな。誰も文句は言うまい。ふむ…輸出入の薬品規制緩和はこれが目的だったか。私がなかなか通さないから、焦れてこちらを出してきたと言った所か」
目を閉じて目録を思い出しながら、規制緩和案の申請者に眉間を寄せる。確か外務と産業大臣だった。小さな引っ掛かりだった不仲の組み合わせについての謎が解ける。
「医療ビジネスにやけに熱心だな、マルーン公爵は」
「そうですか? やけにと言うほどでも。大体いくら仲が悪かろうが、マルーンが間に立つなど造作もありません。公爵がやれと言えばどちらの大臣も二つ返事でやるでしょう」
「国会議員の威厳がゼロだな。せっかくの大臣ポストが張りぼてだ」
「今更! 誰が三公家に歯向かいますか。貴族あるあるですよ」
「イヤだなぁ、公爵。面倒だな。早く廃止したい」
「あははは。義理パパですよね」
「張りぼてパパか」
そう言えば義理の親子として会ったこともなかったと思い出す。意図せず気絶していたので。
「凄まじい政略婚だ。嘘か本当か掘り出し物の娘を拉致して政敵に送り込む。ははは」
「笑いごとじゃありませんけど」
「全く何を考えているのかわからんなぁ」
「医薬品ビジネスをより強固なものにしたいだけではないですか。いつの時代でも医療は廃れません。公爵家がいずれ取り潰されてもビジネスで残れる」
「そこだよ、逆だ。こんなことをしなくてもマルーンは悠に百年は食いつなぐだろう。取り潰すと言っても保有する企業数からして財閥になるし土地の相続だけでも五世代を跨げる。徐々に削られるその最初の規模がデカすぎるんだ。六世代先のことまで考えるか? 今の製薬会社や病院の経営だけでも十分に資金源は確保出来ているのに。六十近い公爵がなぜ労を押してまで大規模な案件を打ってくる…待てよ、長男がいたな…長男に残す為か?」
「バティーク・マルーンですね。留学中の」
「留学?」
「短期でダフネにいると紳士クラブで耳にしました。医療ビジネスについての短期留学です、表向きはね」
「表向きって他に何がある」
「留学だか何だかもさせられてはいるのでしょうけど。本当の理由は、後で気が付きました」
「なんだよ、勿体ぶって」
ジェフが一瞥するとバルカスが薄っすら笑う。
「バティークは父親のブランドンと違って良識人、悪く言えば小者です。多分知られたくなかったのでしょう。シャルロット様のことを」
「ほぉ~。なるほど、留学から帰った時には妹が出来ていて嫁いだ後か」
「ええ。知っていれば大反対するでしょうからね」
「と言うことは、シャルロットは兄と面識もないんだな」
「存在くらいはご存知でしょうけど」
バルカスが肩を竦めながら言う。
「しかしいくら一人息子と言えど、公爵が骨を折ってまであの息子に壮大な事業を遺したい執着がある気はしませんね。頭は悪くありませんが、バティークは気概に欠ける。どちらかと言うと息子を好き勝手に使っている印象しか」
「老いて考えが変わる場合もあるが。んー…考えにくいか。誰かにけしかけられている可能性もある。いずれにせよ不明だ。事業計画書は今日中に陛下へ渡しておくよ」
バルカスから書類の一式を受け取って下がらせる。
ジェフは机に脚を投げ出し、両手指を絡めて目を瞑ると椅子に寛いだ。次の会議まで今しばらくの時がある。慢性的に睡眠時間が少ない為、眠れる時になるべく目を瞑るのが癖になっている。
公爵から上がってきた事業の許可申請書。その目的は港を持つ南部地方の山に広大な土地を買い上げて医薬品の製造工場を作り、海外から買い付けた製薬レシピを元に自社にて安く薬を製造、販売するというものであった。どうやら既に土地は確保済で、工期まで決まっている。
珍しいものではない。加えて主力はワクチン製造という。目下リンドでは保健事業が乗り遅れて他国から殆どのワクチンを輸入しているのだが、有事の際には保証されない不安定な供給源だった。マルーンの新事業は願ったり叶ったりの部分ではある。
「あるがなァ」
ぼやいて唇をむにむにと動かした。
****
数日後、ジェフはウィリアムから南部地方への視察に行ってこいと命を受ける。
「直ぐに是と言えない。正直、マルーン一強になる可能性もある事業だ。首元を押さえられるのはごめんだぞ。これ以上甘い汁を吸われるのも如何なものかと……だがワクチンはなぁ……この規模でやれる体力と技術のある製薬会社はリンドに少ない。しかし現状の輸入頼みが続くと大戦を控える昨今不安も多い。どこか他に手を挙げてくれるなら財政援助をしても良いくらいだ」
「製薬関係は利益の回収まで年数がかかります。レシピも太い伝手と資金力がなければ買えない。民主化と戦争も相まって政情不安が高いと皆手を出すのは嫌がります」
「その通り。加えて海外から既に特許レシピを買っているんだろう? こんなの許可しない方がおかしい…だが悲しいかな、全然うれしくない」
「わかります」
もや~んと丸目で良心的にしか見えないマルーン公爵の顔を二人が思い描く。
「あっ、悪い。お前の義理の父親だった」
「ご冗談を」
「はは。冗談じゃないが。娘は元気か」
「少し前まで臥せっていましたが、元気ですよ」
「お、ちゃんと交流しているんだな」
ジェフは目を瞑って首を小さく傾げる。
「彼女と父親は関係ありませんからね。それに聞くところによると一緒に食事もしたことがないとか」
「一度も?」
「一度も」
ひえ~、とウィリアムが目を剥く。
「ちょっと待てよ、そりゃあからさまが過ぎないか?どうしてそんな適当に扱った娘を捻じ込んできた」
「それはもう、私がほぼ完璧に再婚の防衛線を張っていましたから。ある意味、彼女しか嫁げる者がいなかった」
「そうか、お前妙なお触れを出していたものな。それに構わず縁談を持ってこれるのは三公爵家とウチしかないか。ベルジックは借金まみれ、ザレスは今それ所じゃないしな。あはは。お前も権力に屈せざるを得なかったという訳だ」
「面白がらないでください。私は良いですが、彼女は初婚ですよ」
「お前が大事にすればいい話じゃないか? 仲が悪いのか」
「い」
いいえ、と答えそうになってジェフは口を噤む。
むしろ近頃、すっかり普通に喋るようになってきたばかりか、あちらがあっけらかんと懐いてくるようになった。口を開けばおじさまおじさまおじさまと…
『おじさま、おかえりなさい!』
『おじさま、この本面白くなかったです』
『おじさま、ジジ抜きしましょうよ』
『おじさま、今日も歌ってあげましょうか?』
なぜババ抜きじゃない。
いつの間にか、早い時間に帰宅する晩酌にデザートで付き合うシャルロットがいる。それはほんの三十分くらいだったが、ジェフもたまにスイーツを買って帰るようになった。
シャルロットはどうやら自分のことをすっかり安心できる保護者と見做したらしい。そりゃそうだろう。寝床を与え、食事を与え、教育を与え、離婚後の不安もない。素晴らしい契約妻生活。『シャルロット様はお母様を亡くされて以来、初めて何も心配しない生活をされているそうですよ』とビビアンがこっそりと老執事に言っていたそうだ。
仮面舞踏会の夜に『残念な人』だった自分は、図らずも彼女に多大な安心感を与えた。だがあどけなく可愛い笑顔で突然距離を詰められて、中年男は息を止めている時がある。一回り以上年上の男には、あの若さが少し心臓に悪い。
「なんだ、にやけてるのか」
「まさか」
「そうだ、視察にシャルロット嬢も連れて行ってあげなさい。新婚旅行だよ、名案だな。ウチの南部の別荘を使えばいい」
「ああ、確かにそれは良い手ですね。それなら公爵にも怪しまれないな。丁度いい名目ですね。新婚旅行、連れていきましょう」
「お前……そういう所だぞ」
「何がです?」
憐れみに溢れた視線を寄越す国王だったが、残念な宰相には理解できなかった。