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10. 先生

 ご無事で戻って来られたのですから、お顔くらい見に行かれてはどうですか。


 零下三十度くらいに冷えた声と睨むセバスに追い立てられ、ジェフは妻の部屋の扉を叩く。

 が、返答は無い。

「………」

 少し迷ったが、聞いたとおりに寝ているのだろうと扉を静かに開けてみて、ゆっくりとベッドへ近づく。

 シャルロットは小さくなって眠っていた。


 ベッドの端に腰掛けて、電気が点いたまま明るい室内でまじまじと寝顔を見る。

 まろやかな茶色い髪に白い肌、閉じた睫毛は長く濃く、厚みのある唇は閉じられて、鼻から漏れる寝息が聞こえる。ベッドヘッドには写真立てと薄いボロボロの詩集、茶色い革ベルトの腕時計が置いてあった。迎えに行った面々から事細かに聞かされた『母の形見』だろう。写真には小さな子供を抱える笑顔の女性がいた。母娘はよく似ている。


 物置小屋に住んでいた娘は、テルミアを招くのを最初は嫌がったと言っていた。言いにくかったのだろうし、部屋を見られるのは恥ずかしかったのかもしれない。うっそりとした塀沿いに立つ小屋は隙間も多く、寒くて暑かっただろうと言っていた。水道も外で、生活するような部屋ではそもそも無かったようだった。

 ジェフは寝顔を見ながら、昨晩と今朝のシャルロットを思い出す。

 残念ながらそれしか知らない。別に元気いっぱいの小娘に見えていた。女は嘘を吐くのが上手い生き物だが、シャルロットのそれは上級編かもしれない。


 なんだ、よくわからんが別に元気な生き物でもないらしい。


 もやっと訪れた微かな感情は、苛立ちに似た何かの欠片だったが、ジェフはパタンと気持ちを閉じる。彼にとってシャルロットはどのみち手放す存在で、『妻』はおろか家人としても情など不要だ。唇の端、寝息と共に薄っすらと見えた白い涎の跡を感慨なく眺めた後で、また静かに部屋を出て行った。




 ****


 セバスから伝えられた通りの二日後の朝、クリクリパーマがかかった目の覚めるような赤毛の女性がパンツスーツでやって来た。

「初めまして、シャルロット様。ビビアン・アレン

 と申します。本日から奥様の教育係を拝命いたしました。どうぞよろしくお願いいたします」

「御足労頂きありがとうございます。シャルロットです。貴族になったばかりで付け焼刃の知識しかない未熟者です。学校の成績は優秀ではありませんでしたが、精一杯頑張ります!今日からよろしくお願いいたします」

「な~んて可愛らしい奥様かしら! 聞いた、今の!! 最高じゃない、セバスちゃん!」

「そうでしょう、そうでしょう。奥様はカーターに咲く一輪の薔薇でございます」

「くたびれた若旦那様には勿体ないわ」

 女官と言うので厳しそうな女性を想像していたシャルロットは拍子抜けする。

「シャルロット様、失礼ですがおいくつかしら?」

「二十二です。三月に二十三になります。」

「二十三! 私は二十五です。すっごく歳も近い。お友達としても末永くよろしくお願いいたしますね!」

「友達になる前に教師を頼みますよ」

 呆れた目を向ける老執事にニンマリと笑い、颯爽と着こなすスーツ姿でビビアンは敬礼をする。

「アイアイサー!じゃあ行きましょう、シャルロット様、まずは乗馬から」

「乗馬から!?」

「したかったんでしょう?セバスちゃんからお手紙で聞きましたよ。善は急げと言うでしょう。テルミアたん、奥様のお着替えをお願いします」

「かしこまりました」



 それから毎日ビビアンはやって来た。

 まずは乗馬から始まったレッスンは、そのほとんどがダンスや立ち居振る舞い、散歩や外出、時にはピクニックと身体を使った内容で構成されていて、不思議なことにまるで雑談のようにお喋りしながら貴族の常識や人間関係を教えて貰うとするすると頭に入った。

「ビビアンは凄いでしょう。テキストを一切使わないのが特徴で、彼女についてもらった女性達は楽しかったと大評判なんですよ」

 ディナーのパンをサーブをしながら、なぜかセバスが得意げに自慢する。

「本当にすごいです、びっくりします! どんな話でもするすると話題に入って行けますし、先生のお話は凄く面白くて。すぐ覚えちゃう。しんどい丸暗記の勉強とは大違いです」

 シャルロットは知らないが、ビビアンは予約の取れない人気講師でもあった。今回はバルカスが様々な手をつかってビビアンの予定を半年まるごと買い取ってある。

「奥様の飲み込みが早いとビビアン様も褒めていらっしゃいましたよ」

 テルミアが言うと、向かいで一緒に食事をするバルカスが頷く。

「大分予定より早く仕上がりそうだと言ってました。シャルロット様はスポンジのように吸収される素直で真面目な生徒だと」

「にひひ」

 恥ずかしそうにはにかむシャルロットの顔に、年上の三人はつい見入る。

「はぁ…素晴らしく可愛らしいですなぁ。坊ちゃまはなぜここにいらっしゃらない?」

「ジェフ様は教育大臣と学者先生とで世界一無駄な会食中」

「セバス、カメラはどこにありましたかしら? 奥様を毎日撮るのも良いですね」

「それはいい、坊ちゃまの部屋に飾ろうか」

 冗談に笑うシャルロットを眺めて、バルカスが溜息を吐く。

「シャルロット様、ジェフ様とは最近いつ会われましたか?」

「え?え~っと…いつだったでしょう。たぶん三日前の朝食だったと思います」

「お二人が会われると言っても大抵が朝食です。最近休みが無さ過ぎますよ。坊ちゃまのスケジュールはどうなっているのです?」

「あ~、近頃やけに籠って考え事をされるんだ。そろそろ次の予算委員会の時期にも差し掛かってくるから余計に」

「全く! 仕事ばかりですね! 屋敷にもいないし、お二人で出かけられもしていない」

「あの」

「どうされました? 奥様」

 食後のお茶が注がれたティーカップを置いて、シャルロットは首を傾げる。

「私は、期間限定の契約妻です。そのことはここにいらっしゃる皆さんご存知だと伺っていますが」

 三人はいやいやながらに頷いた。

「なので、二人で出かけたり、長く一緒にいる必要もありませんよ?」

 それはそうなんですが、とバルカスがサラサラヘアーを揺らす。

「身内びいきと言われればそれまでですが、ジェフ様はおすすめ物件ですよ。ほんのちょっと、うじうじされているだけなんです。本当はもっとできる方なんです。出かける必要は確かにありませんけれど…だけど、待てよ。そうだな、出かけて欲しいな…」

「ほぅ?」

 最後は消え入りそうな声で呟いたバルカスとセバスの瞳が光ったが、シャルロットは気が付いていなかった。


 ひと月近くのレッスンを経て、ある程度の実践的なマナーがシャルロットの身に馴染んできた。どういうわけか、ビビアンは『平民ならこうですけど』と的確に思考や習慣の違いを指摘してくれるので、細かい違いについての理解が入りやすい。世の中を広く深くわかっている女性なのだな、とシャルロットは年の近い先生を尊敬したし、大好きになっていった。


 そんなビビアンが実地で勉強してみましょうか、と言うので夜会に出ることになった。

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