寿司屋のトマト
遠くから見ても、完璧に酔っ払っていると思われた。コンビニ前に設置してあるベンチでうな垂れて口に含んだ牛乳を地面に垂らしているのは、どうやら地面に潰れた虫に掛けているらしかった。絶対に声を掛けられたくない、とジョーは思い何も見なかった様に来た道を引き替えそうと振り返り数メートル歩いた先で肩を叩かれ振り向く。冷たい指が頬骨に刺さる。紙パックから生えたストローを噛んだ爬虫類顔が少し上の目線に有った。無花果の実が割れた様な唇が横に広がる。
「引っ掛かった」
押し付けてくる指の爪が痛く、ジョーは身を捩った。男が目線を合わせる様に少し猫背になるとシャツの腹部にプリントされたパンダの顔が歪んだ。
「ジョー君、暇?」
酒に焼けたのか、擦れた低い声だった。ジョーは返答に躊躇した。ストローを牛乳が登り、落ちる。男はまた柔らかく笑う。毒気は無い。
「飯食いに行くから、付き合ってよ」
ジョーは首を振った。男の後ろから吹く風は安い酒の臭いがした。ずくずくとした痛みが胃の下の方から沸き上がってくる。その痛みが恐怖による物なのか、興奮による物なのかは判断しかねた。
男は何処に行くとも告げず、夜の店が犇めき合う通りを歩いた。ジョーはその後ろを付いて歩く。静まり返った街は不気味だった。寿司屋の前で爺が水を撒いていた。こちらを見遣るとホースを下げた。コンクリに打った水から立ち上がる匂いを嗅いだ。
「暑いねぇ」
「毎日堪らんぜ、酒も旨かろ」
喉の奥で潰した笑い声が聞こえた。店の奥から野球中継が流れ出ている。男は振り返り「呑んでこ」と云い、まだ店の中にある暖簾を潜った。爺は水の流れるホースを持ったまま、ジョーが入るのを待っていた。男は、冷蔵庫からキリンを取り出していた。
「鱧、入ったんや」
「うん、うん」笑みを作ったまま、ジョーにグラスを渡しビールを注ぐ。泡が零れそうになり慌てて口を近付ける。男はビール瓶に口を付けた。寿司屋はカウンターでごそごそと何かをスーパーの袋に詰めている。ジョーは、またビールを一口含んだ。カウンターの向こうから差し出された袋を男は受け取った。トマトが沢山入っていた。
「ユウジさんの野菜美味しいから理絵が良う食うよ」
「ほうか。近いうち一緒に来なあれ。今の時期の鱧は旨い、来週からは夜市もある」
男は、瓶に残ったビールを飲み干し礼を云って店を出た。ジョーは蒸した路地を歩きながら果たして、この男が飯を炊くのだろうかと不思議な面持ちでその背中を見た。冷たい指で野菜を洗い、鍋に放り込むのだろうかと思った。台所に立つ姿が余りに不釣り合いな男だった。
つと男が立ち止まり路地の終わり、そびえ立つビルディングを見上げた。人の入らないビルディングは無機質であるとジョーは感じた、以前は複合型の商業施設だったが建物自体の耐震性の問題で年の初めに閉店したのだった。極楽町の一等地であるからその内、何処かが買い取って新しく店を始めるだろうとジョーは思っている。
「来週の火曜日、空けといて」
白日の下、男の顔は青黒かった。本当に、料理なんかするのかと聞きたかった。まるで陽炎の様だ。
「飯、何が良い?」
目的地は決まってないらしい。