カリプソ
「カリプソ?聞いたことない」
昨日の店の事を矢口に話すとそう返ってきた。あの男に出会った事は言わなかった。呑み町の入り口、あんな真っ赤な看板すぐに目に付くはずだと思う。しかし矢口は首を傾げながら、「んな上品な店がこの界隈に有ると思うか?」と云う。在るとしたらヤバい店だよ。
「ヤバいって」
矢口は右手親指で頬を傷つける真似をする。ジョーは途端に恐ろしくなった。昨夜の酒が、何か秘密めいた契約のように思えた。
「冗談だよ、ビビんな。今度連れてけよ」
ジョーは笑いながらスコッチの瓶を磨くがやはりあの店は何かしら在りそうだと妙な確信があった。その確信はあの男の奇妙な表情が頭に浮かんだからだ。
「そういや苫前さんは」
「用事あっから遅れるって電話で」
「え。喋るんすか、あの人」
「馬鹿、おめー何だと思ってんのよ」
店に入ってきたのは、若い女の子三人だった。ジョーには彼女等が十代に見えたので、年を聞いたらやはり十代だった。酒は呑まないから、ご飯だけ食べさせてくれと云う。どこかで働いているのかと聞くと、カリプソ近くのラウンジで働いているらしい。その中の一人がカウンターから身を乗り出して声を潜めジョーに尋ねる。
「赤いライター持ってない?」
「何それ」
「持ってんでしょ」
十代にしては成熟した女の顔をしているとドキリとした。しかし昨日からあのライターの事ばかりだな、と妙に思う。
「持ってたら何か在るの」
「カリプソ」
「知ってるの」
彼女はニコリと笑って、身を退き携帯を取り出し番号を交換しようと云う。隣の二人が笑っている。矢口が三人前のオムライスを持って厨房から出てきて「モテるって良いよな」と云う。スプーンとフォークを彼女等に渡した。
苫前が出勤したのは、それから暫く経ってからだ。その異様な姿を見てジョーも矢口も、驚いた。
右目は青く痛々しく腫れ上がり、(普段も喋らないが)喋りにくそうなほど唇が腫れており、裂けたらしい口端には絆創膏など貼られていたり、頬には擦り傷なんかもこしらえていたりして何というか「男前っすね」そう言って矢口に頭を叩かれた。
「大丈夫?」
矢口の問いに苫前は笑いもせず、頷いて腫れていない左でジョーを見て厨房に行き、裏口から出ていった。苫前の目にどんな感情が籠もっているのか、ジョーには分からなかった。ライターを返そう、と思いその後ろを追い掛ける。
腫れた唇にタバコをくわえる苫前に赤いライターで火を差し出す。煙を吸い込み吐き出す。無言だった。
「あの、これ」
「持っとき、な。板東さん、き君の事気に入ったって」
初めて聞いた苫前の声はくぐもっていた。そして吃りがちで聞き取りにくかった。
「あの人は」
「き聞いちゃ駄目だよ」
そう言って、川に煙草を投げ捨て店内に戻る苫前の背中は妙に広く感じられた。