喋らない男とお喋り男
ゴブレットに、氷を数個放り込み其処に角張った瓶から適量の酒注ぎグレープフルーツジュースで満たしバースプーンで掻き混ぜ、スプーンの背を伝わせて青色を沈めた。八ツ切りにしたグレープフルーツの皮を丸めてからゴブレットの縁に引っ掛けると、滲んだ帯が僅かに揺れた。
棚に置いてあるモルトグラスに手を掛けたところで舌足らずな声が制止した。
「ジョー。そっちじゃなくてコッチ」
矢口が指差したのは、ジョーが手に掛けたグラスの斜め下にあるフタ付きのモルトグラスだった。鈴蘭を少し引き伸ばした様な形で可愛らしいな、と思った。
「高ぇから割んなよ」
ジョーは笑って返事をした後グラスを手に取り、きっちりと量ったウイスキーを注いでフタをした。
カウンターに、座っている女にアベラワーを隣の男にチャイナブルーを提供し彼らの会話を妨げない程度、彼らの挙動が分かる程度の位置へ移動しそこから厨房を見ると奥でパイプ椅子に腰掛けて本を読んでいる苫前の姿が見えた。
ジョーは一度だって、この男の声を聞いたことが無い。四ヶ月働いて一度も、だ。
「すいませぇん」とボックス席から間延びした女の声が呼んだので視線をそちらに移動させ、愛想良く応対するとペペロンチーノが食べたいと云うので厨房にオーダーを通したが苫前は応答せず、のそりと立ち上がり調理に取り掛かるだけだった。
閉店少し前に、苫前がゴミ袋を持って裏口から出ていくのが見えたのでジョーは嫌味たらしく大声で「オツカレ様っしたぁ」と云うと苫前は振り返り、少しだけ頭を下げ出ていった。
「不気味っすよねぇ」
「何が」
「苫前さんスよ、一言も喋んねーの」
冷蔵庫にギネスを補充しながら矢口は「前はよく喋る人だったんだけどねぇ」と云った。生ビールの水通し洗浄を終えたジョーは、外灯の電気を消してから煙草に火を点け、矢口が差し出したアサヒを受け取り栓を開け、棚からロックグラスを取出し氷とオールドクロウを注いだ。
「何で喋んなくなったんスか」
矢口は受け取ったグラスに口を付け「何でだろうなァ」と云った。
翌日のフィニスティルは矢口がライブに出演する為に午後十時からの営業だった。
ジョーは九時半頃に店に出て冷蔵庫にフルーツを入れ込み、ミントを水に浸した後お気に入りのアイリッシュパンクを店内に流した。フィドルの絶叫は何度聞いても素晴らしい。
「オハヨーございまぁす」
テーブルのランプに火を点けていると苫前が出勤したので例によって大きな声で挨拶するが昨夜と同じく軽い会釈だけで、その後は終始無言だった。
十時を過ぎても矢口は出勤してこなかった。ジョーは、どっかで酔っ払ってんな。という確信があった。ライブに出る矢口は何時もステージ裏で呑み、ステージ上でも呑んでいるからだ。
「遅ぇすね」
厨房でパプリカを火で炙っている苫前に喋りかけると、壁にかかった時計を見てからジョーにニコと笑い、また仕込みを始めた。ジョーは溜息をついた。
それから更に一時間程経った頃にベロベロに酔っ払った矢口と同じくベロベロの細長い男がやってきた。矢口はカウンター内に立ち、男はカウンターのスツールに座った。
初めて見る客だった。爬虫類のような顔を真っ赤に染めてヘラヘラ笑うのが何だか可笑しい。
「いやー、今日も最高だったね」
「そーぉ?全部一日で作った曲ばっかやぜ」
馬鹿笑いしている二人の注文はクロウ。丸氷を取り出す為にしゃがむ頭の上で「ケンちゃーん、久し振りぃ」と云う声が聞こえた後、爬虫類顔は厨房に向かった。
あらかさまに、迷惑そうな顔をしている苫前の下の名前がケンだと云うのをジョーは初めて知った。
そして爬虫類顔は「ちょっとケンちゃん借りるよ」と云って苫前の肩を抱き裏口から出ていった。
「知り合いすか」
「苫前くんの、ね。でも俺のライブに良く来てくれるの」
「へぇ。苫前さん友達居たんだ」
軽くステアしたクロウを矢口に差し出し果たして苫前は、あの男とどんな会話をするのだろうかと思った。
程なくして帰ってきた苫前の表情に色はなかった。爬虫類顔はニヤニヤしていた。
ジョーは、何だか爬虫類顔とは仲良くなれそうだと思った。店内に流れる音楽にあわせて机を指で叩いていたから。
その男の前に、先ほど仕込んでいたパプリカで作ったマリネを差し出す苫前は、やはり無言だった。味なんて染みて居ないだろう。