突き付けられた現実
もう、気づかずにはいられなかった。
しょっちゅうボールを見逃がす僕は二年生になってもレギュラーにはなれず、何故かヒトやモノによくぶつかるようになって怪我も増えた。少し暗くなればまるで闇夜を歩くような感じがしたし、強い陽射しには目を開けているのがつらくなった。
視力は、いい。
ちゃんと、裸眼でハッキリと物を見ることができていた。
それなのに、何かが変わりつつあった。僕は確かにそのことに気付いていたけれど、直面したくなくて、気付かない振りをして逃げ続けていた。なんでもないさ、見えているんだから大丈夫、と自分をごまかしながら。
けれども、『そいつ』に捕まってしまうのは、もう時間の問題だったんだ。
そして訪れた、決定打。
僕はその日、朝練の最中に僕目がけて飛んできたボールに、気付かなかった。
突然頭に受けた、痛みと衝撃。
ガツンと脳ミソが揺さぶられたかと思った瞬間、何も判らなくなって、次に目が覚めたとき、僕は見慣れない白一色の部屋にいた。
左右に首を振れば、枕元には、心配そうな彼女の顔。
視線が合うと、僕が目を開けたことにホッとしたように、彼女の頬が緩んだ。
「大丈夫? おばさんたちも、すぐ来るよ」
「ここは……?」
仰向けに寝転んだまま、見覚えのない天井を見渡した。
「病院。覚えてない? 頭に球がぶつかったんだよ。見えなかったの?」
そう言われて、今もズキズキと痛みを訴えている場所に触れてみる。そこは、右のこめかみのちょっと上辺りだった。
そこにぶつかったのなら、向かってくるボールは見えたはずだった。
なのに、何故……
僕が感じたことは、彼女も同じように疑問に思ったことだったのだろう。
「ねえ、ちゃんと調べてもらおうよ。せっかく病院に来たんだからさ?」
言い募る彼女に、僕はすぐに「うん」とは言えなかった。
「母さんたちが来たら……決めるから……」
言葉を濁しつつ、知りたくない、と思った。はっきりさせるのが、とても、怖かった。
もうそれ以上突っ込まれたくなくて、授業があるのだからと、彼女には学校に戻るように促した。
彼女は気がかりそうに何か言いかけたけれども、それを遮って、病室から追い出した。
結局、両親が病院に到着すると僕は医者から根掘り葉掘りいろいろなことを訊かれ、微かに眉をひそめた彼に、いくつもの検査を指示された。
血液検査、やたらめったうるさいMRI検査、お決まりの視力検査、ゲームみたいに光が見えたらスウィッチを押していく視野検査、目の奥を覗かれる眼底検査……
――ひと通りが終わったら、へとへとになった。
眼底検査の時に注された瞳孔を拡げる目薬とやらのせいで、クラクラする。それが不快で目蓋を下ろしたけれど、真っ暗になった世界にゾッとした。
――もしかしたら、一生、こうなるのか?
思わず、パッと目を開ける。
いや、きっと、なんでもない。なんでもないんだ。だって、ほら、今だってこうやって普通に見えているんだから。
握り締めた両手のひらに爪が食い込む。血が滲みそうなほどに。
けれども、そんな痛み、どうということもなかった。この、底知れない不安に比べれば。
たくさんの検査の結果はなかなか出ないようで、眼科外来の待合室で、僕と両親は言葉を交わすことなくジッと座って待っていた。
僕の名前が呼ばれたのは、それから三十分以上経ってからだ。
僕と両親が診察室に入ると、医者は検査結果らしいものから目を上げて椅子に座るように促した。
「さて、こんにちは。今日はいろいろ検査されて疲れただろう?」
柔らかな物腰でそう訊かれ、僕は愛想笑いを浮かべる。医者に良い態度をとっても、結果は変わらない。それは解かっていたけれど、そうせずにはいられなかった。
「さて、結果なんだけどね。……もう一度、いくつか訊かせて欲しいんだけど、いいかな」
「なんですか?」
「最初に、夜の暗さが気になったのは、中学生の頃なんだね? それ以前は?」
「特に気になったことはありません」
「人や物にぶつかり易くなったのは?」
「半年くらい前から」
「今日のボールは、全然気付かなかった?」
「はい」
医者は僕の答えを聞くと、黙ってうなずいた。そして、パソコンのカルテに何か打ち込んでいく。それが終わると、もう一度僕に向き直った。
彼の目が、僕に真っ直ぐ注がれる。
「君は、もう高校生だよね。だったら、君自身に、ちゃんと話をした方がいいと思うんだ」
真剣な、眼差し。
いいや、いい、聞きたくない。何も言わないでくれ。
心の中でそう叫んだけれど、声にはならなかった。それどころか、指一本、動かすことができなかったんだ。
僕の無言を了承と取ったのか、医者は一つうなずいてまた話し出す。
「君の目はね、網膜というところに問題があるんだ」
「なんですか、それ」
上ずった声で問い返したのは、それまで一言も口をきいていなかった母さんだった。医者は母さんの方に顔を向けて、紙にさらさらと絵を描きながら答える。慣れた手付きで、もう何度も同じことを繰り返してきているのだということが、伝わってきた。
「網膜というのは、目の内側、ものの像を移す場所です。そこの、光を感じる細胞がおかしくなるので、夜盲――鳥目になったり、視野欠損といって、『見えない場所』ができたりします」
そう言って、また、僕に向き直る。
「君の視野は、普通の人の四分の一くらいしかないんだ。視力は良いんだよ。だから、視野が無事な正面はよく見えるんだけど、そうだな……ドーナツの穴から覗いているみたいに、グッと視界が狭まっているんだよ。それで、人や物とぶつかり易くなったり、今日みたく、飛んできたものに気付けなかったりしていたんだ」
僕の今の状態は、解かった。説明を聞けば、なるほど、と思う。
でも、僕が訊きたいのは、もっと別のことだった。
もっともっと、重要なこと。
「それって、治るんですよね? また、元に戻るんですよね?」
身を乗り出してそう畳み掛けた僕に、医者は一瞬唇を引き結んだ。
――ああ、やめてくれ。
医者の口がまた動き出すのを、僕は絶望的な思いで見つめていた。