第7話 おとりと古代竜
巨大な月が黒々とした木々の間から照らしている。夜の森で、セトは戦慄しながらカンテラを掲げた。ざわざわと魔気が押し寄せてきた。魔気は大きな魔物や魔術から自然に出る瘴気のようなものだ。敵は近い。
と、ばきばきと音が鳴り響いた。木をなぎ倒し、こちらに向けて何かが走ってくる。月の光に照らされたそれは、おぞましいとしか言いようのない生き物だった。
狐のような顔の半分がぐにゃっと曲がっていて、その頭からは耳の代わりに人間の頭が二つ飛び出している。身体こそ狐だが大きさは四つん這いで人間ほどもある。それが樫の林を抜け、小さな枝をめりめりと割いてこちらへ疾走してくる様は悪夢としか思えなかった。カンテラをめがけて、魔物は駆けてくる。セトは明かりを持ち、頼りないナイフだけでその魔物を待ち受けた。
逃げたい、夜中に黒い森なんてくるんじゃなかった。彼は後悔していた。いくら王女に誘われたところで、ついて行かなければいいのだ。だが、そうすると王女はふらふら一人で出ていってしまう。万一のことが起きたらと思うと、彼は一緒に行動せざるを得ない。どうしようもないジレンマだ。
かあっと魔物の口が開き、醜い化け物が一気に飛び掛かってくる。丸呑みにでもする気だ。そのとき、木の枝から人影が飛び降りた。王女だ。彼女は狙いあやまたず、魔物の真上に上段に構えていた刀を振り下ろした。ひゅっと空気を斬る音が聞こえ、次の瞬間には、魔物の首はセトより少し斜め後ろへと飛んでいき、辺りには金属音のような耳障りな悲鳴が響き渡った。セトの目の前で胴体がふらつき、倒れる。きっと、朝の光を浴びれば灰となり消えるのだろう。ふう、と息を切らせつつ、やりきった表情で王女が近づいてきた。
「やれやれ、これで黒い森も少しは平和になるだろう。じゃ、そろそろ帰ろうか。
夜明けには城に帰り着いていないと、厄介なことになるからな」
今日はローシュは来ていない。ここは城下街の外だし、今回の魔物はあまりに危ないので帰らせたのだ。セトは王女の前に立ち、ローシュに教えて貰った城壁の抜け穴へと向かった。ローシュはこういう抜け道のことを恐ろしいほどよく知っているのだ。
王女は歩きながらのんびりと言った。
「しかし、退治しても増える一方だな、魔物は。城下街見回りの兵だってちゃんと魔物を狩ってはいるらしいが。私のような英雄がいなければ、もっと被害が増えているはずだぞ」
自分で英雄呼ばわりをする王女に、セトは言わずにはいられなくなって呟いた。
「これからも、魔物は増え続ける。こんなところで下っ端を斬っていたところで、何の影響もないし、英雄でもなんでもない」
怪訝な顔で、王女はセトの顔をのぞき込んた。仮面越しに、緑色の瞳がじっとセトを見つめる。
「どうした? 今夜はやけに噛み付くな?」
深夜に起こされて魔物討伐のおとりにされ、機嫌がいいほうがおかしい。それだけではない。この国は、この王女は本当のことを何一つ知らないということが、セトを苛つかせる要因だった。
「本当の英雄は、物事の根源を見る。魔物がなぜここ数年で爆発的に増えているのか、どうして街中でも発生するのか。残念ながら、その根本を誰も見ようとはしない」
「私、考えるのは苦手なんだよな」と王女は他人事のように言った。
「目の前の敵を倒すのは得意なんだが。お前はどう思う?」
セトは言葉に窮した。その答えを、彼は知っているつもりだ。だが、ここで言っていいものか。国際魔術師連盟は、未だその真偽を認めていない。セトだって確証はもっていない。だが、それが事実だとするならば、もう時間はない。
彼は重い口を開いた。
「……魔王が目覚めた。それしか考えられない」
「魔王が? 魔王って、あの初代魔王か?」
「いや、『魔王』は、人間に危害を加える最高位の魔物に付けられた名称のようなものだ。元々人間だった初代魔王には不本意な使われ方だろうが」
魔王。その名前は広くは知られているが、昔語りの魔王とは意味が違う。実態は魔術師連盟以外はほとんど知らない言っていい。実際、二、三十年に一度は魔王と呼ばれる最高位の魔物が誕生している。そして魔王が生まれる度、魔術師の中から討伐隊が組織され、倒してきた。しかし、今回の魔王は規模が違う。
「今度の魔王は『多産の魔王』。私たちはそう名付けた。
今、世界規模で魔物が激増している原因は、その魔王が存在するため——ただ存在するだけで、世界に影響がでているんだ」
「そうか! じゃ、話は簡単だな!」
王女は快活に言った。
「そいつを倒せば、魔物が増えなくなるんだろ? じゃあ、やることは一つだな」
彼女は長剣をちゃきっと音を立てて抜き、掲げた。
「魔王を倒す! それだけのことじゃないか!」
セトは眉を寄せた。まるでわかっていない。そんなことができるのなら、とっくの昔にこの問題は終わっている。
「魔王に太刀打ちできる人間なんていない。今までの魔王だって、一個大隊の魔術師が総力を挙げて倒してきた。だが、今回の魔王は桁が違う。国境や海を越えて、影響が出るほどの魔力なんだ」
「大丈夫、私は強いから」
この王女の自信過剰には、ときどき頭が痛くなる。
「どんなに強かろうと人は人だ。魔王に普通の剣なんかで太刀打ち出来ない」
「何だ、そんなことか」
リアンは彼の話を鼻で笑った。
「魔王のところへ行く前に、どうせ魔物を沢山倒すことになるんだろう? 魔物を倒して経験を積んでいけば、私の隠された真の力が覚醒するかもしれないじゃないか!」
馬鹿だ。
そう表現するしかないほどのすがすがしい楽天的な考えに、セトは呆れるのを通り越して目を見張った。
それに気付かないのか、彼女は笑い声を立ててこう言った。
「ああ、ちょっと遅いがカモメ亭に寄っていこうかな? 飲みたい気分だ!」
その瞬間、彼は頭を殴られたようなショックを受けた。
世界中の魔術師を集めてもなお、倒せないほどの実力を秘めた魔王が潜んでいる。それが他の魔物を産みだす源となっている。
そこまで説明してもまだ、彼女は魔王を倒せばいいと軽口を叩き、舌の根も渇かぬ間に飲み屋に行きたいと言い出したのだ。セトにとっては真剣な話だったが、王女にとってはどうでもいいことなのだろう。
……もういい。この王女を頼るのはやめよう。
彼はそう思った。
利用できるところだけ利用してやればいい。彼女の剣の腕前は一流だ。しかし、深刻な話をするには楽観的すぎる。もともと、一人で始めようとしていたことだったじゃないか。
「帰る」と彼は不機嫌に言い、カンテラを手渡した。兵士の誰が何時にどこを警備に回るかは、二人とも完全に把握している。セト一人で先に帰ったところでどうということもない。
「おい、酒場に寄るくらいでそんなに怒るな」
慌ててそう言う王女に、彼は機械的に先に帰りますと答え、早足で歩き出した。王宮外で敬語を使ったが、平手はとんで来なかった。セトは怒りともなんともつかないもやもやした気持ちを抱えながら、その場から遠ざかった。王女は追いかけてきもしなかった。また酒場で一杯だけと言いつつ、酔いつぶれるまでのんだくれるのだろう。
彼は初めて入った排水溝から城へ侵入すると、うまく警備をくぐり抜け、使用人部屋へと戻った。この部屋は質素だが一人部屋で、使用人としては破格の待遇らしい。いつでも後宮に出入りできるよう鍵まで貰っている。他の使用人が不思議がるのも当然だが、それには魔物退治のお供という厄介な任務があるからだ。
しかし、こんなところでいつまでも油を売っている訳にもいかない。早く初代魔王の杖を見つけて、行かなければ。リュシオン先生のように、『多産の魔王』を倒すために。
次の日、なんということもなく王女は朝の勉強の時間に現れた。ごきげんよう、と王宮用の気取った挨拶をして、今日の午前中の科目、歴史の勉強の本を広げる。昨日のことは全く忘れたようだ。セトも何事もなかったかのようにお辞儀をし、王女の豪華な机の脇にある丸椅子に腰掛けた。白髭を蓄えた歴史の家庭教師が、眠くなりそうな声でこの国の成立を説明し始めた。どんなに眠くても、飽きるほど聞いた説明でも、授業中従者は発言してはならない。愚直に石版にメモをとり、王女と共に勉強するふりをしていなければいけないのだ。
「つまり、八百年前、カサン王国の分家筋からザールザント家がグロリア王女をめとり、この国の初代国王のフィオン・ザールザント・ティルキアとして即位しました二代目のフィオン二世から……」
「ちょっとまった」
珍しく王女が質問した。
「で、その前は?」
「その前といいますと、ティルキア王国ができる前ということですかな?」
言いたくなさそうに白髭の学者は答えた。
「残念なことに、世界は魔王に征服されました。この国もヴィエタ帝国の一部と化したのです」
「じゃあ、その前は? 」
王女が碧の瞳を煌めかせている。まずいことを話してしまったか、とセトはひやひやした。この城が魔王の誕生した城だという説を認める歴史学者が、ここで家庭教師などできる訳がない。はたして学者はこう言った。
「それ以前、この地はただの荒れ地でした。初代国王が開墾したのです」
「だが、それじゃつじつまが合わなくないか?」
王女が切り返す。
「ではなぜ、この城が初代魔王の攻撃にも耐えた難攻不落の城という伝説があるんだ?」
「確かに、城はあったのでしょう。ただし、出城のようなものだったと思われます。まとまった集落という程度で、国王など存在しませんでした」
だんだん苦虫をかみつぶしたような顔になってきた学者を前に、セトは思わず王女の足をテーブルの下で軽く蹴った。これ以上は止めろ、という合図のつもりだった。だが、のってきた王女は止まらなかった。
「そもそも、ヴィエタ帝国はどこを拠点にしていたんだ?」
「今のカサン王国西部、カサニエルです。ここからは大海を越えて離れた東大陸のことです。今はティルキア史の勉強中ですぞ。忌まわしい歴史のことは忘れて……」
「東大陸というが、ティルキアは最後までヴィエタ帝国の支配から逃れていたんだろう?」
「そうでございますな」
「カサニエルから西大陸を狙うなら、ティルキアが一番近いんじゃないのか?」
学者が不機嫌な顔で黙った。そして、こう言った。
「確かに距離は近いでしょう。ですが、その頃、この地域は支配などする価値もない集落だった、と考えられてはいかがでしょうか。それに、そのような魔王の考えなど常人にはわかりかねます。しかし、そんな話に今まで興味を示されたことはなかったはず。一体、誰に教えられたのでしょうな」
そう言いながら、学者はセトの方をじろりと睨み付けた。やはりこうなったか、とセトは観念して下を向いた。この城が魔王の生まれた城で、もっと言うと魔王はティルキアの王家の血を引いている存在だとする説など、王家の歴史学者にはもっとも疎まれる説に決まっている。つくづく馬鹿な王女だ。
異変は、そのときに起こった。
窓の外から、騒がしい鐘の音が聞こえてきた。兵士達に非常時の体制を知らせる合図だ。
「何だ? 賊か?」
王女がさっと窓にかけより、下をのぞき込んだ。セトも思わず立ち上がり、そして窓から上を見て、目を見張った。
巨大な竜の群れが、街の空を横切っていた。数は三十匹以上。銀色の鱗が輝く、二枚羽根を持った竜が空を縦横無尽に飛び交っている。竜がこんなに低く飛ぶのは珍しい。大抵の竜は人間を嫌い、もっと高い場所を飛ぶ。ましてや、あれは西の荒れ地に住み、幻の竜と呼ばれている——。
「古代竜だ! 城の兵士と魔術師は、直ちに迎撃の準備を!」
城のあちこちから慌てた指令が飛んでいる。兵が、続々と中庭に集結していく。古代竜一匹でさえ、到底人間のかなう相手ではない。この群れでブレスでも吐かれたら、街は半壊する。慌てるのも当然だろう。
ようやく王女も竜の群れにに気付いたらしく、口をぽかんとあけて大量の竜が街の上空を旋回するのを眺めていた。