第6話 廃屋の魔物狩り
王都ティルキアナは、元々高い城壁にぐるっと取り囲まれていて、その周りに敵を遠ざける堀が巡らされていた。しかし街の発展につれて、城壁の外にもある程度の聚落が広がるようになり、また城壁が増築されることが繰り返された。結果、街の中に城壁の一部が残ったり、いびつな形に張り出したり、道を歩いていると突然昔の城壁や堀に行く手を遮られたりという珍事が起こる。言わば地上の迷宮といったような趣の古都だ。そこをすいすいと抜けて、ローシュは道案内をしていく。帰りも案内して貰わなければ、とてもではないが王宮にたどり着けないな、と思いながら、セトは前で話をしながら歩いている二人に続いた。
「城壁の中だろう? なのに憲兵も手出ししないのか?」
「憲兵を呼びたくない地域なんだ。すねに傷持っているやつも多いし」
「そうか。相手は何匹だ?」
「今度は一匹らしいけど、ちょっと厄介みたいだな。腕自慢の傭兵が入っていったけど、出てきたときは無事じゃなかった。どこから入り込んだのか分からないけど、人狼よりは強いと思う」
「そうか。魔物が入り込むなんて、城壁のどこかに穴があるのかもしれんな。後で注意しよう」
セトはぎょっとして真っ赤なマントの後ろ姿を凝視した。今、魔物と言わなかっただろうか? だが、ローシュは別のところに疑問を持ったようで、隣の王女に尋ねている。
「誰に注意するんだい?」
「……城壁の警備に知り合いがいるんだ。そいつに任す」
彼女はさっきの失言をうまくごまかしていた。いや、それよりも重要なことがある。
セトは、二人の前に回って叫んだ。
「魔物だって?! リアン、魔物と戦う気か!?」
「ん? そうだけど?」
何でもないことのように、王女は言った。買い物にでも行くかような気軽な調子だ。
「心配すんなよ、にーちゃん。赤騎士様は強いんだ。魔物なんて一撃で叩きのめすよ」
ローシュがにやにやしながらこちらを見た。セトはそれでも二人の前に立ちはだかった。
「絶対だめだ、危険すぎる!」
「大丈夫、ほら、長剣も持ってきたし」
彼女がぴらっとマントを開くと、霊廟で身につけたのであろう剣が見えた。あろう事か剣の鞘まで赤い革張りだ。いろいろとおかしいが、本質はそこではない。
「いや、本当に一人で魔物に勝てると思っているのか?!」
「何を言うんだ! 赤騎士様が負けるものか!
この間だって、人狼の巣になっていた洞窟に入って、三十匹は倒してきたんだから!」
ローシュの言葉に、セトは口をあけて固まった。街の版画など信用するな、と言ったのは誰だったのか。人狼の退治の話は書いてあったが、いくら何でも三十匹はやりすぎだ。人狼は夜に群れで活動し、人を食らう。身体こそ人間より少し大きいくらいだが、街の外では人狼の被害が相次いでいたようで、夕方からの出発に注意という張り紙が街のあちこちに張られていた。魔物と人間の身体能力の差は歴然としている。並の剣士では人狼一匹との戦いも苦しい。それを三十匹、一人で倒した? それこそ眉唾物としか言いようがない。
「ま、見てな。私の本領発揮ってやつをな」
彼女はにまっと笑って言いきり、セトの肩を叩いてまた歩き出した。ローシュもちょこちょこと先へ行ってしまう。ぼかんとした表情のまま、彼は足を無意識に動かし、混乱した頭を何とか静めようとしながらふらふらとついていった。
通りは汚く、下水のような嫌な臭いが溢れている。表通りの綺麗な場所しか見ていなかったセトは、街がどんどん変わっていくのを見て忌避感を覚えた。遠くから見ると綺麗だと思った王都でも、こんな掃きだめのような場所があるものなのだ。人通りも少なくなり、通りに面した石壁は汚い言葉の落書きが施され、ときに窓が割れ壁がはがれ落ちている。そんな中に、一際高い柵と大きな煉瓦作りの建物の前で、ローシュは止まった。汚い通りに不釣り合いな、凝った装飾が施された煉瓦作りの建物だが、窓は全て割られ、朽ちた木の玄関がぽっかりと不気味に口を開けている。建物の半分に蔓草が絡みついた廃墟だ。
ローシュが苦々しげに口を開いた。
「ここさ。元はこの界隈を仕切っていた元締めの娼館だったんだ。だけど、奴は破産しちまって逃げたらしい。このあたりもすっかり寂れて客の入りも悪くなってたしな。廃墟になったこの館にも、金目のもの目当てや寝る場所の確保で札付きの奴らが入り込んだ。けど、一週間前ぐらいだったかな。食い殺された奴らの首が玄関に並んでたらしい。近所の住人の話じゃ、昼間は屋敷から誰も出てこねえ。夜になると、この家から悲鳴のような金属みたいな声が聞こえる。そして朝には首が置かれている、って話だ。こんなの、魔物の仕業としか思えねえよ」
「そうだな。ローシュ、カンテラをよこせ」
「あいよ」
それが日常のように、ローシュがぼろぼろの鞄からカンテラを取り出し、火打ち石をカツンと鳴らして中の蝋燭に火をつけてから、王女に渡した。随分慣れている様子だ。
さっと長剣を引き抜き、カンテラを左手に持つと、彼女は何の躊躇もなく廃墟へ向かって歩き出した。
「じゃ、ちょっと中見てくるから。ローシュとセトはここで待ってろ」
「……なっ!」
流石に、セトはまた走り出して王女の前に立ちふさがった。彼女は眉を寄せて、邪魔者を見る目でこちらを見てきた。
「一人で行くなんて、無謀すぎる!」
「だから、大丈夫だって。私は強いから。お前、私に剣術の稽古で一回でも勝ったことがあったか?」
「……」
確かに、負け続けだ。それは認める。だが、彼女を一人で魔物の住むところへ行かせるわけにはいかない。いくら強くても、一人で魔物と戦うというのは危険が大きすぎる。
……ここでセトが引いたら、この王女様は帰ってこないかもしれない。リュシオン先生がそうだったように。
セトは自分のベルトから黒曜石のナイフを引き抜き、言った。
「どうしてもというのなら、俺も付いていきます!」
「わかった、じゃあセト、お前はカンテラ係な」
唐突にカンテラを渡され、彼は拍子抜けしてしまった。もっとごねるかと思っていたのに、王女はあっさりとセトを引きつれて廃墟に向かい始めた。
「どうして……」
言う前に、ばちっと音がして、セトの後頭部が衝撃で揺れた。
「痛っ!」
「敬語禁止だ。それに、どうしてか教えてやろうか」
王女はセトの頭を平手で叩いた後、自信満々に言い切った。
「私なら、お前を守りながら魔物を倒すことなど朝飯前だからだ」
本当かどうかはともかく、すごい自信だ。セトをまるっきり戦力として見ていないことは少々しゃくに障るが。
二人は、ツタが絡むおぞましい廃墟に足を踏み入れた。崩れ落ちた扉の先は、割れた窓のせいで意外と光が差し込んでいた。汚いシャンデリアが絨毯の上に落ちている。豪華な絨毯だったのだろうが、今はすり切れ、得体の知れないシミがそこかしこにできている。それに、生臭い臭いが鼻をついた。
「日のあるうちは出てこない、か。低級の魔物は基本的に日差しが苦手だからな。地下に潜んでいる可能性が高い。地下室への入り口を探せ」
彼女が汚いシャンデリアを眺めながら、セトに指示を出してきた。王女にしては的確な判断だ。そもそも、魔術師ではない一般の人々なら、魔物に階級が付けられていることも知らない。おそらく、実戦で覚えたのだろう。
魔物の階級は魔力の高さで決められている。低級の魔物なら、太陽の光を浴びるだけで魔力がそがれてしまう。中級になってはじめて、昼間でも活動するようになる。もっと上級になれば……そう、本当に最高位まで到達すれば、存在するだけで世界規模の災害を起こすこともある。
しばらく埃っぽい大広間を調べ尽くした後、ようやく彼は円を描いて上昇する二股の大階段の後ろに、下へ続く小さな階段があることに気付いた。例によって、扉は壊されている。差し押さえられた時にやられたのか、それともどさくさに紛れた泥棒が壊したのかは分からない。大階段の下というだけで薄暗いのに、地下へと続く階段はそれ以上に暗い。
あったか、とセトの後ろから王女がひょい、とのぞき込み、てくてく階段のほうへ歩いて行く。セトは恐る恐る尋ねた。
「……本当に、入る気か?」
「ああ、当たり前だろ。後ろから照らしてくれ」
かび臭いにおいがもっと強くなる。いや、この臭いは本当にカビの臭いだけなのか?
階段をゆっくり降りながら、彼は階段の壁を照らし、総毛立った。シミに次ぐシミ。叩きつけられた血まみれの手の痕。ここで惨劇が起きたのは明かだ。ぼつり、とセトの手に、何か冷たいものがかかった。セトは反射的に上を見上げ、叫んで王女の背中を蹴り倒した。
「危ない!」
二人の間を裂くように、天井からびちゃっと音をたてて何かが落ちてきたのは、その直後だった。黒光りした長い長い身体。固く黒い甲殻を持ち、身体は粘液にまみれている。生理的に嫌悪が湧き上がる、何十本もの脚。これが小さな虫ならまだ許せる。踏み潰せば事足りるからだ。だが、セトの身長の二倍の長さがあり、胴も一抱えはあるそいつが襲ってきた時点で顔が引きつった。セトは慌ててカンテラを振って魔物を遠ざけようとした。
「セト! 待ってろ、今行く!」
階段の途中から蹴り倒されてさえ、くるっと身体を丸めて着地した王女が叫んだ。
セトは黒曜石のナイフを逆手に持ってじりじりと下がり、こちらへ魔物の注意を向けさせようとした。
魔物はギィーという声を出し、威嚇するようにセトの前にずるずると胴体を立ち上がらせていった。その姿は、獲物に噛みつく寸前のコブラによく似ている。果たして、小さな赤い目に不釣り合いな大きな口を開け、そこから鋭い二本の牙が見えている。
ずん、という音が聞こえた。その胴体の真ん中から剣がつきだしている。魔物はまたギィーッと泣きわめき、胴体から赤い血が流れた。ぶん、と尻尾を振られ、それを避けて王女がまた階段の下へとジャンプする。魔物の血は流れたが、致命傷ではない。魔物は王女を追って、驚くほどの素早さで何十本もの脚を動かし、下へと降りていく。
「待て!」
セトは慌てて後を追った。暗闇の中での戦いは不利だ。カンテラがなければ、攻撃され放題になってしまう。既に、下の階では死闘が始まっていた。距離を詰め、ぶった切ろうと長剣を閃かせる王女と、多足の素早さを生かして壁を縦横無尽に駆け回り、そうさせまいとする魔物の姿だ。セトは、ちぎれた布を見つけ、それに何とかカンテラを近づけて、もっと火を増やそうとした。そのときだった。背筋の凍るような金属音が聞こえた。
『私の家だ! ここは私の家だ! 誰にも渡すものか!』
それ自体は、彼にはある程度予想はついていた。しかし、本当に恐ろしかったのはそれからだった。暗闇の中から、同じような声が次々に聞こえてきたのだ。
『ここしか行くところがないの! ここは私の家よ!』
『もう外に立つなんて嫌! 私はここで綺麗に着飾って暮らしたい!』
リアンの方を見ると、魔物は剣が届かない天井まで上がって隙を伺っているようだった。王女自体は少し息が上がっている程度で怪我はないようだ。しかし、油断は禁物だ。
布は湿っているのか、なかなか火が付かない。セトは、焦って叫んだ。
「気を抜くな! 魔物はもう二人いる!」
そう言った途端、暗闇から同じような二匹の長虫が飛び出してきた。まっすぐに王女を狙ってくる。そのとき、やっと布に火が付いた。彼はそれを木に巻き付けて、王女ごしに二匹の魔物へ放り投げた。ギィィィーッと、二匹の魔物が同時に鳴く。それを合図にしたかのように、天井へ逃げていたもう一匹が王女へ向かって落ちてきた。
それから起こった出来事は、セトの目に生涯焼き付いた。廊下に転がり、周りの絨毯を燃やしている松明に赤々と浮かび上がる騎士の姿。金の飾りがついた長剣が生き物のように閃くと、上から落ちてきた一匹の首が綺麗に横に飛んでいき、階段の壁にぶつかった。その動きを利用して、彼女は身軽に松明の横に飛び降りた。松明に怯んでいる二匹の魔物に向かって円を描くように綺麗な曲線で剣を振るう。二匹の首は胴から離れ、それでも胴はびたんびたんと死にものぐるいで動いていた。しかし、炎の勢いが強まると、それも次第に弱くなっていった。
速い。その言葉しか思いつかず、セトはぼうっとして炎の中から戻ってくる彼女を眺めていた。剣の鍛錬のときには、かなり手を抜いてもらっていることも想像はついていた。だが、素早い魔物相手にこれほどまでに立ち向かえる騎士がいるとは思ってもみなかった。彼が見たことがあったのは、魔術で魔物を倒すところだけだった。詠唱に時間がかかる魔術とは、基本的なスピードが違いすぎる。だが、一般的に考えて、魔物の固い甲殻をいとも簡単にぶった切れる剣が、そして人間が存在するのだろうか。
セトが立ち止まっている隙に、王女は靴で火を踏んで松明を消していた。そして、消えたことを確かめると、カンテラを持って階段を上がってきた。仮面を被っていてもわかるくらい、顔中に満面の笑みを浮かべている。
「さて出よう。用はすんだ! 正義執行だ!」
玄関から外に出ると、夕暮れの空にカモメの群れが飛んでいた。ローシュが手を振ってこちらに駆け寄ってくる。
「どうだった? 倒せた?」
「もちろん。これで、近所の人たちも安心して眠れるはずだ!」
彼女は親指を立てて言った。
「よかった! なあ、セトも俺たち赤騎士団の仲間になったんだろ?」
ローシュはにやにやしながら聞いてきた。そんなものの仲間になったつもりはなかったのだが、便宜上、彼は肯いておいた。きらきらした眼差しで、ローシュは言う。
「じゃあ、歓迎会しようぜ、赤騎士様! 俺に後輩ができたってことで!」
「よーし、今日はおごるぜ!」
浮浪児の後輩か、とセトは遠い目をして意気投合している二人を見た。
それにしても、王女が城に帰る気は毛頭なさそうだ。
「ワイン空いたぞ! ワイン! ワイン!」
何度目かのコールが響き、セトはうんざりして前の人間——赤騎士を見ていた。
ローシュは一人ロース肉を食べ終えると、酔っ払いの面倒をよろしく、と笑ってどこかへ去ってしまった。つくづく要領のいい子供だ。
港にほど近い『カモメ亭』という赤騎士行きつけの店にたどり着いた瞬間から、この王女は何杯も飲み続けている。
飲むのはティルキアンワインの赤、と決まっているらしく、赤騎士が来た時点で既に店員が数本テーブルに用意してくれるほどの常連のようだ。
ワインの瓶がやってくると、彼女は手酌でぐいっと飲んだ。
「ああ、やっぱこの一杯のために魔物退治やってる気がするな!」
「そんなことない」
「何だよ、お前も飲めば分かるさ」
「嫌だよ」
彼はぷいとそっぽをむいて差し出された酒から顔を遠ざけた。魔術師は酒を飲んではいけない。禁止、というわけではないが、酒を飲むと魔力出力というものが減る。つまり、魔術が数時間は使えなくなってしまうのだ。もちろん、本当の魔術師ではない彼が気にすることではない。でも、その習慣だけは守りたかった。
「いや、でもお前の助言もよかったぞ! 複数いるって、私には分からなかったからな!
どうして魔物が一匹じゃないって分かったんだ?」
「……暗闇で、目が光ってたから」
「そうか、そうか! 心強いな!」と彼女はばんばんと机を叩いて笑い、つまみのチーズを引き裂いてワインで流し込んだ。
本当のことは、言うつもりがなかった。
魔物の声が聞こえるなんてうっかり口に出そうものなら、タクト神教からも魔術師協会からも目の敵にされ、最悪魔物として処刑されるだろう。
リュシオン先生もそう言っていた。彼の秘密を知る者は、彼とリュシオン先生だけだ。
それに、彼女が今笑っていられるのは、真実を知らないからだ。魔術師協会はそれを知ってはいるが、絶対に幹部以外の人間に漏らすことのないよう気を配っている。
魔物は、人間から生まれるということを。