第53話 この世界は美しい
「もはやこれまで」と魔王が言った。いや、脳に直接話しかけてきたというべきか。
「我は死ぬ。この女も、お前も死ぬ。それがこの世の理よ」
ぜいぜいと荒い息をつきながら、セトはマリアンのほうへ無事な右手を差し延べた。彼女はうつぶせに倒れたまま動かない。じわじわと地面に血が染み出していく。
嫌だ。殺させない。絶対に死なせない。何か方法があるはずだ。とりあえずあの血を早く止めなくては。
働かない頭を無理矢理動かし、セトはずるずると這いずった。魔王からはバキバキと絶えずガラスの壊れる音がする。
——そうだ。回復魔法を使えばいい。呪文だって知っている。
しかし、あの魔法は莫大な魔力で小さな怪我を治すものだ。一流の魔術師でも小指のささくれを治すのがやっと。初代魔王の失敗作とまで呼ばれた、世界一使えない魔術。
とてもではないが今の魔力であの大怪我を治せそうもない。
……今の魔力では。
そこまで考えたとき、セトはぴたりと動きを止めて、魔王の方へ向き直った。
待て。あそこにあるものは何だ? 魔王? 救済者? 人類の敵?
——違う。あれは魔力の塊だ。
無尽蔵の魔力が、セトの眼前で消えようとしていた。
出来るか出来ないかという選択肢など消えてしまった。セトは祈るようにして、杖を呼び出す呪文を唱えた。
「アル・エルタ・セリア!」
同時に、ありったけの魔力を残った右手に注ぎ込む。果たして、手には再び黄金の杖がおさまった。ひどく長い杖だった。杖の先には黄金の鳥が翼を広げ、杖の下には——。
「『魔力を断ち切る魔力の剣』が戻ってやがる!」
杖の先の鳥が驚いたように言ったが、セトには予想がついていた。元々、セトの魔力が少ないから杖は分断されたのだ。この砂漠の旅路で増えた魔力を全て使えば、一時的に杖が元に戻る可能性はあった。彼は杖にすがり、ゆっくりと立ち上がった。膝が震えているが、杖に体重を預けて無理矢理進む。
魔王は半分崩れ落ちていたが、セトがなぜこちらに近づくのか分かったらしかった。大気の中に魔王の高笑が響いた。
「はははは、我の力を取り込もうというのか! 人間には到底制御できまい!」
セトの目はうつろで、耳もほとんど聞こえていなかった。しかし魔王の声は高らかに胸の奥に響いた。彼はじわじわと魔王に寄った。ほとんど鱗がはげ落ち、体内がガラスに浸食されている魔王の胸に、美しい深紅のガラスで出来た球体が脈打っていた。
長年魔力に侵されて、もはや魔石と化した心臓だ。
無表情のまま、セトはよろよろと杖を振り上げた。下部についた魔力の剣が目映い輝きを放つ。彼は自身の体重を乗せて、勢いよく剣を突き立てた。ガラスの心臓は、ずぶりと突き刺さった後、粉々に砕けた。
その途端、狂気の笑い声がいっそう高まった。
突風と共に魔王の声がセトの頭に反響する。
「お前に我と同じ呪いがかかる。悠久の時の中で、お前は今に孤独になる。次第に、お前は人ではなくなり、人を憎むようになる。そして、絶望したそのとき。お前は次の魔王となるのだ……」
魔王の声が、低くなりついに途絶えた。突風のような魔力の渦がセトを弄ぶようにぐるぐると周り、そして一気になだれ込む。彼はよろめきながら、マリアンの方へと進んだ。
苦しい。息が出来ない。
制御など出来そうもない大量の魔力が、セトを押しつぶしにかかってくるようだった。
頭の中では、大量の走馬燈がぐるぐると巡っていた。魔王が千年の間に見聞きしたこと全てが、高速で回転しながら迫ってくる。荒れ地、砂漠、緑の大地、幾万もの魔物達が見たことが脳裏に蘇る。しかし早すぎて追っていられない。
一瞬、戦火に燃える街が頭の中を通り過ぎた。目の前に、黄金の杖を持った黒髪の少年が立っていた。どことなくセトと似通った少年だったが、彼の青い瞳には身の毛もよだつようななにかがあった。
セトは感覚で分かった。この人物こそ、ヴィエタ帝国皇帝陛下にして初代魔王とうたわれた、シド・ヴィエタに違いない。しかし、その姿も一瞬でぼやけ、消えた。
目まぐるしく展開する走馬燈に押され焦点の定まらない瞳で、彼はうつぶせに倒れたマリアンをようやく見つけた。背中からむごたらしい傷口が覗いている。彼は震える腕で黄金の杖をかざし、一気に唱えた。
「アクアリテ・ナラクセル・ルイエ・エンタウラ!」
今まで聞いたこともない、高らかな精霊の唱和があちこちから聞こえてきた。魔力の突風は未だ続いていたが、輝く粒子がセトとマリアンを包み込んだ。
マリアンの背中の傷口に粒子が触れる。と、その周辺の皮膚が時間を逆行するようにみるみる閉じていった。ふと、セトは自分の腕がもはや痛くないことに気がついた。光の粒が手の形をとって、左腕にくっついていた。じんわりと温かい粒子は傷を癒やし、新しい腕を再生しようとしているのだ。
初代魔王の失敗作、と呼ばれた回復魔法は、失敗などではなかった。ただ、現代の人々の魔力が少なすぎて使えなかっただけなのだ。
黄金の粒子が、やがてマリアンの背中から離れていった。傷は全くなくなって、痕すら見えない。セトの右腕からも粒子が滑り落ちた。新しい手が腕から生えていた。セトは五本の指を動かして、本当に繋がっているかを確かめた。指は滑らかに動き、痛みもない。回復魔法は充分に効いた。
安心すると、急に眠気が襲ってきた。セトはマリアンの隣に倒れ込むように横たわった。魔王の走馬燈と魔力の吸収はまだ続いていたが、そのまま眠りに引きずり込まれた。洞窟の暗闇の中で、彼は気を失って眠り続けた。
次に目を覚ましたとき、セトは自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。暗闇に自分の息づかいだけが聞こえる。身を起こすと、身体の下で固まりかけた血だまりがぬちゃっと音をたてた。
明かりの魔術を使うため、彼は魔力を溜めて杖の呪文を唱えた。が、身体が熱くなるほどの魔気を感じ、途中で詠唱を止めた。
「よっしゃ生きてたな! 俺も生きてるぜ! いやっほぅ!」
黄金の鳥が、言いつけも忘れてはしゃいでいる。
本来、十分に魔力を高めなくては具現もしない魔術師の杖がすでに彼の手におさまっていた。彼は苦労して、魔力を押さえ込んだ。
取り込んだ魔力が今にもあふれだしそうにぐらぐらと煮え立っている。
十分注意して彼は明かりの呪文を唱えた。リンゴくらいの大きさにするつもりが、その光は頭ぐらいの大きさでぎらぎらと輝き、杖の先にに浮かんだ。
マリアンが前と同じようにうつぶせに寝ている。小さく寝息を立てている姿を見て、彼はほっとため息をついた。そっと揺り起こすと、彼女はやがて長いまつげを持ち上げた。緑色の瞳が彷徨い、セトの顔を見つけて微笑んだ。
「……どうやら二人とも死に損なったらしいな。セト、お前の手は無事か?」
「数えてみる?」
セトは、大げさに両手をひらひらしてみせた。生えたばかりの左手だったが、全く違和感がない。マリアンは声を立てて笑い、身を起こして尋ねた。
「魔王はどうなった?」
「……多産の魔王は死んだ。俺達がやるべきことはほぼ終わったんだ」
セトは静かにそう告げ、洞窟の端を指さした。きらきらと輝くガラスの破片が大量に溜まっていた。
「……そうか。とにかく、ここから出よう」
立ち上がって埃を払い、元気よくマリアンが言った。頷いて出口の方へ魔気を伸ばしたとき、ふと天井に亀裂が走っているのを感じた。
「待って、上から出られるかもしれない」
セトはそう言うと、杖を振り上げ、水を撃ち出す呪文を唱えた。砂漠に雨が降ったためか、それとも魔力が多いためか、巨大な球体の水の塊が出現した。
「行け!」
命令した途端、水の塊はすごい勢いで打ち上がった。鈍い音がして洞窟の上にぽっかりと穴が空き、そこから燦々と光が差し込んだ。雨は既に上がったらしい。
続けて飛行呪文を唱え、黒い翼を身に纏う。
何も言わずともマリアンが首に抱きついてきた。二人飛行ももう慣れたものだ。
セトはゆっくりと羽根を広げ、洞窟のすえた空気の層を蹴った。魔力が増えたせいで思ったより加速が大きく、二人は急激に上昇した。
穴がみるみる大きくなり、闇の中から光の中に放り出される。一瞬にして抜けるような青い空のただ中に入り、セトは澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。
雨上がりのいい匂いがする。
「これは壮観だな!」
マリアンが地面を見つめて叫んだので、セトも何気なく下を見た。
まるでカーペットを広げたような、緑と赤に彩られた大地が一面に広がっていた。
花だ。砂漠に花が咲いている。雨が降るとき、砂漠の花が一斉に咲くというライラの言葉が脳裏に蘇った。
敷き詰められた花々は、峡谷の暗い割れ目以外全てを覆い尽くし、地平線の彼方まで続いている。息を呑むような美しい光景だった。言葉にならない気持ちを抱えて、セトは峡谷をゆっくりと飛び越ると、できたばかりの花園へ降り立った。
マリアンは膝をつき、もの珍しそうに花を眺めたり引っ張ったりしながら尋ねた。
「……なあセト、これで魔物になった人々も元通りになるよな?」
「残念ながら、魔物になった人はそのままだ。だが魔物が急激に増加することはもうないだろうな」
セトは杖を消し、マリアンのたっぷり伸びた赤毛を見ながら考え考え言った。全て終わったはずなのに、魔王の最後の台詞が耳元にこびりついて離れない。
「……ただ一つ問題が残っている」
「問題ってなんだ?」
彼女が背を向けて花をいじったまま無邪気に問う。セトは深呼吸して、気を落ち着けてから静かに言った。
「……俺は次の魔王になるかもしれない」
マリアンがゆっくりとこちらを振り向いた。そのまま立ち上がり、セトを正面から見据える。
「どういうことだ?」
「俺は『多産の魔王』の魔力を全て奪ったんだ。そのときに言われた。人間に制御できる力ではないと。この世に絶望したとき、俺はきっと魔王になってしまう」
「お前が魔王になんてなるわけがない」
「でも……」
温かい手が頬に触れ、セトはそのまま黙った。
「わかった」
目の前でマリアンが微笑んでいる。その笑みはかつてないほどに優しかった。
「安心しろ。お前が魔王になったら、私が倒してやる。たとえ世界のどこにいても、私がお前を止めてやる。大丈夫、赤騎士に……」
「「不可能はない」」
二人の声が合わさった。そして、二人で思うさま笑った。
セトは久しぶりに晴れやかな気持ちになった気がした。青い空と真っ赤な花の絨毯に囲まれて、彼らは笑い続けた。息が切れるまで笑い、笑い疲れて赤い絨毯の上に座った。
静かだった。鳥の声も、風の音も聞こえない。
砂漠ではなく、どこか異界に来てしまった感すらある。
「……いいところだな、ここは」
マリアンのつぶやきを聞いて、セトは微笑ましく思った。ここは不毛の大地なのだ。いいところ、とは言い難い。
「いいのは今だけだ。すぐに枯れて元の不毛な砂漠にもどる」
「そうだろうな」
不思議と満足そうに、彼女は頷いて続けた。真っ赤な髪がさらっと流れた。
「……だからこそ、この世界は美しい」
そのとき、遠くから叫ぶような声が聞こえてきた。
マリアンがさっと立ち上がり、目を輝かせた。
「ラインツ達だ! ちゃんと三人揃ってる!」
言うなり、手を大きく振って駆けだした。その背中を目で追って、セトはゆっくり立ち上がった。彼女が言ったとおり、丘の陰から三人の人影が手を振っているのが見えた。興奮しながら口々に叫んでいて、何を言っているのか分からない。
走るマリアンは、すでに小さくなっている。セトはその光景を目を細めて眺めると、後を追って走り出した。




