第51話 地を這う音
地上では、ラインツ達が魔物の圧倒的な数を前にじりじりと出口の坂へ追い詰められていた。三人で離れないように戦っていたが、大粒の雨が音を立てて降り出してから、戦況はいっそう困難を極めた。
キィキィとうるさい、どこか猿に似た魔物がラインツの剣で脳天を貫かれて倒れた。だが代わりの魔物がその死体を踏みつけ、剣を引き抜く暇も与えまいと迫ってくる。
「これじゃきりがない!」
ロビが不満げに言いながらも隣で剣を振るい、ラインツが剣を引き抜いている間その魔物を相手に一太刀浴びせた。ラインツは感謝するつもりでその愚痴にのった。
「ああ。魔物がだんだん強くなってる。ひどいもんだ」
「こんなときに限って雨なんて、本当についてないわね!」
少し離れた場所ではライラも髪を振り乱し、ククリナイフを魔物に突き刺しながら叫んでいる。
ラインツは頭を巡らせた。こちらが数で劣っていることはまだ諦めがついた。それに、数が多いせいかこの魔物達は今まで戦ったものよりは弱かった。だが、なんの因果かいきなり空が曇って激しい雨が降り始め、日が陰ったことで魔物達が強くなっていくのは釈然としなかった。
また一匹、黒い黒煙を身体に纏った四つ足の猛獣が魔物達の列から飛び出し、大きな歯でラインツの頭をかみちぎろうとしてくる。ガチッと音を立てて巨大な歯が噛み合わさるのを危ういところでかわして喉元を剣でなぎ払った。派手な血しぶきはとんだものの、大型犬を不細工にしたような魔物は吠え立てて魔物の列へと帰っていった。
剣の切れ味が落ちてきた。時間が経ちすぎているからだ。
まずいな、とラインツは歯がみした。
この人数を相手に三人で数時間でも持ったのが奇跡だ、とは分かっていたが、やはり魔物は減る気配もない。このままでは足留めはおろか、命も危うくなるだろう。
適当に戦って退いても誰も責めないはずだ。しかし赤騎士と魔術師はどうなる?
最悪の場合、魔王とこの大軍との挟み撃ちだ。いくら赤騎士が強く、魔術師の能力が高いとしても無理がある。
「……ちくしょう!」
いくら考えても名案は浮かばない。襲ってくる敵を機械的に倒し続けながら彼は思わず悪態をついた。
そのとき目の前がぐらっと揺れたような錯覚に陥り、世界がぼうっと灰色に染まった。霞む目を空いた手でこするが治らない。ぼんやりした灰色の霧は胸がむかつくような異臭を乗せている。その正体が分かると同時に、全身がさっと総毛立った。
「なんて魔力だ、視界が霞む!」
魔王は隠れるのを止めたようだ。谷全体に濃い霧のような魔気の渦がかかっていた。
我々はこんなものに挑んだのか。彼は霧の中から這い出てこちらに飛びかかってきた一匹の魔物を力任せに切り裂いた。しかし心は鉛のように重かった。
未だかつて、こんなに邪悪な魔気を見たことがない。
小物を何匹斬ったって同じことだ。
魔王はこの黒い壁のような魔物の大軍を用意するために大部分の魔力を使い切ったに違いない、と彼は今の今まで確信していた。
しかし力量差をまじまじと見せ付けられて、ラインツの考えは覆された。
この壁を全滅させても、魔王にはまだ余力がある。
はたして勝てるのだろうか?
この旅で初めてその言葉が胸をよぎった。今まで、どんな魔物でもさほど苦労せずに倒してきた。剣の国際試合でも負けたことがない。何より、戦うときはいつでも高揚感と万能感が一緒くたになったような気持ちになるものだった。だがこの戦いにはそれがない。ただ重苦しく、息切れしながら一撃一撃を防ぐだけだ。魔物の壁は分厚く、突破できそうもない。やっと倒しきったところで、魔王のこの魔力では……。
「おい、なんの音だ?」
ラインツの思考を遮るように、ロビが叫んだ。辺りは魔物の鳴き声で騒がしく、どの音のことを言っているのか最初は分からなかった。だが、足下が揺れるような感覚でロビのいった音の意味がわかった。地鳴りのような低いうなり声が聞こえてくる。
「魔王の声か?」
彼がそう言ったとき、ライラが恐怖の表情を浮かべ、金切り声を上げて叫んだ。
「退却しましょう!」
「おい、勝手に退くな……」
言いかけたが、ライラは彼の言葉も聞かず、魔物の軍に顔を向けたままじりじりと後退した。ロビも困ったような顔をしつつ、ライラの後を追って峡谷の出口へと下がっていく。ラインツも渋々追いかけた。彼が動いたことを確認した瞬間、ライラが背を向けて猛然と坂をかけ上がりだす。魔物は相手が逃げていくのが分かったのだろう、ギャアギャアというわめき声を上げて勝ち誇ったように襲いかかってきた。ロビが待ってくれ、と叫んで魔物を牽制しつつ、ライラに続く。
ラインツも慌てて剣を振り回しつつ、出口の坂へと走った。いくら剣聖とはいえ、ここに留まっていてはいずれ疲れて殺される。悔しいがもはや敗走するしか手はなかった。
ライラの悲鳴のような声が聞こえる。
「相手をしては駄目! 急いで坂を登って!」
ラインツ達が今まで立っていた場所に魔物がびっしりと群がった。坂を登っていく三人にも容赦なく襲いかかろうとするが、道が狭いのでうまくいかない。彼らには連携というものがないらしく、我先に坂を駆け上ろうとして他人を蹴落としている。坂のぬかるみで転んだ数匹を踏みつけて襲ってくる魔物は、ラインツの刃で倒された。
その間にも、さっきから聞こえる重低音はどんどん大きさを増していく。何とか半分くらいまで登ったときには、誰にも聞こえるような地響きになった。ラインツは音に負けないよう大声で叫んだ。
「ライラ! この音を知っているのか?」
「ええ! ここがどうして峡谷になったのか分かって? いいから、もっと登るのよ!」
その言葉の意味を考えようと思った矢先、勝利を確信して騒いでいた魔物の声がぴたりと止んだ。邪教の神が怒っているような地響きの音だけが聞こえる。
ラインツは気になって下を眺めた。峡谷を埋め尽くす魔物達は、もう襲ってくる気配がない。
と、眼下に広がる魔物達の足下に水が流れていることに、彼はふと気付いた。
雨が降っているから、地面に水が流れるのは当然だ。しかし、この量は多すぎる。
そのとき、耳も割れるような轟音が峡谷に木霊した。ラインツは思わず耳を塞いだ。地面が震動で揺れている。ついで、魔物達の黒い壁にも劣らない茶色い壁が峡谷の彼方から迫ってくるのが見えた。
「大波だ!」
ロビが隣で驚いたように叫んだ。
目を疑うような大波は谷間を稲妻のような速さで駆け下り、瞬く間に魔物達のそばに到達した。茶色い水の壁に、魔物達は次々に足をすくわれギイギイと抗議の声を上げながら押し流されていく。その魔物達に被さるように、土と岩を根こそぎとってきたような土石流が峡谷の間をあますことなく舐め尽くしていった。
「……なるほど、この峡谷はそうやって出来たわけか」
ラインツは自然の脅威を眺めてため息をついた。これでは魔物も太刀打ちできまい。
峡谷に魔物の影は見えない。ただ轟音と共に荒れ狂う濁流が流れていた。
上がって、下がって、また上がって。複雑な洞窟の中を、セトとマリアンは無言のまま進んでいた。ランプの微かな明かりが、道を照らし出す。途中枝分かれした道もあったが、迷わなかった。濃い魔力がどこから来ているのかを探ればすぐに分かったからだ。
魔王の声は一度聞こえたきりで、洞窟の中は恐ろしい沈黙に覆われていた。幅はどんどん広くなり、ランプの光では天井はおろか向こうの壁すら見えない。延々と続く闇の中に放り出されたような感覚だった。
ただ、セトの目には見えなくても、壁の位置や枝道の在処など、不思議とはっきり感じとることが出来た。思えばこの洞窟の中に入ったときからそうだ。少し考えて、セトはぞっとした。知らず知らずのうちに、自分自身が出す魔気の反射からものの位置を判断していることに今気付いたからだ。
魔物ならともかく、普通の魔術師で無意識に魔気を出す者などいない。魔物の力を吸収すればするほど、魔力が多くなっていくのは自分でも分かっていた。だが無意識に魔気が出るのはそれとは別の問題だ。
セトは無理矢理魔気を押さえ込んだ。視界が少し暗くなり、今まではっきりと分かっていた壁や天井の形が、とたんにぼやけた。
試す価値はある。セトはそう思い、今度は魔気を少しずつ解放していった。天井の形、壁面の凸凹一つ一つが浮かび上がる。範囲はだんだん広がる。先へ先へと触手を伸ばすように、魔気を広がらせていく。ぼこぼことした天井はますます高くなり、身長の10倍はゆうに超えた。ティルキア城の大ホールよりも高いぐらいだ。そして、次の曲がり角の先に魔気を伸ばしたときだった。生温かい湿った息に触れ、セトは思わず足を止めて、魔気を引っ込めた。
「随分歩いたな。ランプの油が心許なくなってきた」
木の枝なんかが落ちてりゃな、と呑気にマリアンが呟いた。
「もうすぐだ。次の角を曲がれば、奴がいる」
セトは小声でそう言って呪文を唱え、黄金の杖をその手に握った。マリアンはセトの表情を見たらしい。
そうか、と真面目な口調で言って、ランプを左手に持ち替えた。いつでも右手に魔力の剣を握れるようにするつもりだろう。
一歩一歩、角に近づいてく。魔王には分かっているはずだった。セトも証明したとおり、空気中の魔気でものの形を理解できる。二人が近づいてくるのもお見通しのはずだ。いつ角から魔王が襲ってきてもいいように、セトは物理防御の呪文を唱えながらじりじりと歩いた。しかし、何も起こらないまま、突き当たりに差し掛かった。
心臓が早鐘のように打ち、喉はカラカラに干からびている。一歩進む度に足が重くなった。ついに、二人は角の所までたどり着いた。セトは口元に指を当て、マリアンに静かにするよう合図してから、壁を背に少しづつ顔を出していった。
そのとき、割れ鐘のような低い笑い声が洞窟中に響いた。身の毛もよだつような、金属音がいくつも混じった魔王の声だった。引きつったセトの顔を、赤い巨大な瞳が煌々と映し出していた。ぬめぬめとした鱗は、闇にとけてほとんど見えない。だがいつか見た古代竜よりも大きいことは確かだった。
セトと目が合ったことに気付いたのだろう。『多産の魔王』が笑うのを止め、赤い瞳が細くなった。ついで地を這うような声が聞こえた。
「魔王に楯突く愚か者ども。ようこそ、我が家へ」




