第50話 砂漠の雨
暗い闇に、光の輪がぼうっと浮かび上がっている。水の音が反響して聞こえていた。服が濡れ纏わり付いて気持ちが悪い。どうやら、体当たりの後で水たまりに投げ出されたようだ。起き上がろうと腕に力を入れると、右肩が痺れたように痛んだので彼は呻き声をあげた。
「無事か?」
マリアンの声がして、光の輪が近づく。セトは片手で荒っぽく引き起こされてまた呻いた。全身の骨がバラバラになりそうな痛みを堪え、どうにか足を投げ出して座る。いい背もたれがあると思ったら、洞窟の壁際だった。目の前に、ランプを下げて不安そうにこちらを見ているマリアンがいた。地面には滝から落ちてきた水が薄く張っていて、ランプの明かりが水面にも反射している。丸穴から流れ落ちる滝に一時の勢いはなく、上からちょろちょろと落ちてくる程度になっている。
「何がどうなった? この水はセトの魔術なのか?」
マリアンにそう問われ、ぐらぐらしていた頭が、やっと機能し始めた。慌てて自分の左手を見ると、関節が白くなるまで黄金の杖を握りしめていた。
「……いや違う。どうして水が落ちてきたのかは俺にも分からないけれど、とりあえずまだ負けていない。先生は?」
「ああ、先生とやらはそっちに座ってる」
ぎょっとしてマリアンの指さした先を見ると、すぐ横の壁に、セトと同じように頭をもたせかけるように座っている白い魔術師の姿があった。その手に杖は握られていない。
先生が上から落ちる水を恨めしそうに見上げていた。
「やれやれ、この水はひどいな。文字通り勝負に水を差された。
だが、負けは負けだ。仕方あるまい」
口調は冷ややかだったが、その口元にはどこか暖かみのある笑みが浮かんでいた。
セトはほっとしてもう一度壁にもたれかかった。いつものリュシオン先生がやっと帰ってきた気がした。彼は研究で分からないことを質問するときのように、素直に尋ねた。
「この水は何ですか?」
「多分砂漠の雨のせいだ。あの丸穴は、直線で地面に空いているわけじゃない。砂が落ちるのを防ぐために、わざと曲げて作ってある。光は各所に置かれた鏡に反射してここまで届く仕組みだ。だから雨自体は入ってこなかった。だが、地上が洪水になって水が一気になだれ込んできたらしい」
年に一回降るか降らないかという砂漠の雨だ。なぜ今降るかねえ、と残念がる先生の言葉に、セトはうっかり吹き出した。本当に『神秘の塔』にある、本がうずたかく積み上げられた薄暗い研究室に戻ってきたような気持ちだ。リュシオン先生に一言質問すると、いつだって正しい答えが詳しい説明付きで返ってくる。それに、こんな砂漠の真ん中にいてさえ、砂嵐を避けて採光を取り入れる工夫を惜しまない先生の魔術師魂に感動すら覚える。考えるほどに笑いが止まらなくなった。
「おい、何笑っているんだ。あんまり笑うとリターンマッチを申し込むぞ?」
「絶対に受けつけません」
彼は笑いながらきっぱり言い切った。先生と決闘なんて二度とするものか。初代魔王の杖を持っていたところで、次に勝てるかどうかは時の運だ。
それにもはや先生からは、殺気も冷淡さも感じられない。元通り、師匠と弟子の関係にすんなりと収まっている。
『神秘の塔』が先生を派遣した裏の意味は衝撃だったが、逆に魔王さえ倒せばリュシオン先生もその任務から解放される。この砂漠から一緒に出られるだけで、セトがここに来たかいがあったというものだ。
「セト、立てるか? 早く魔王を倒して、魔物達を足止めしているラインツ達を助けに行こう」
マリアンにそう促され、セトははっと気付いた。そうだ、ゆっくりしている暇はなかった。今から一番の難所を越えなければならない。しかし、心は妙に軽かった。ここで勝ったことで多少自信がついたのもある。身体全体に広がる痛みも幾分ましになったので、セトはゆっくりと立ち上がって先生に言った。
「先生。俺は行かなきゃ。ここで待っていて下さい」
「もう止めんよ。どっちみち腰を打って立てないんだ。誰かが追突したおかげでな」
リュシオン先生が苦笑いを浮かべた。そして、ふと思い出したように続けた。
「ああ、行く前にその杖をよく見せてくれ。お前が初代魔王の杖を手に入れたことは幹部からの連絡で聞いていたんだが、未だに信じられない。杖が意志を持つという伝承は本当だったのか?」
セトは頷いた。
「うるさいから、なるべく喋らないようにしつけているんです」
「失礼だな! 大道芸以外で俺に興味を持ってくれる人がやっと現れたのに、なんてネガキャンしてくれるんだ!」
途端に杖の先に付いた鳥がギャーギャーわめきだし、先生が目を丸くした。
「本当に、『意思を持つ杖』は存在したんだな。しかし『魔力を断ち切る魔力の剣』の部分は見当たらないようだ。我々が研究していた文献にはそれも初代魔王の杖の特徴として出てきていたが」
「それは、ちょっとした手違いで……」
「そうなんだよ、センセー。こいつらよってたかって俺の完全無欠なプロポーションを台無しに……!」
いきなり会話に入ってくる鳥がうるさかったので、迷わず杖を消す呪文を唱えた。杖は不満げにぱくぱくと口を動かしたあと、薄くなって消えていった。
「つまり、俺と……このリアンとが半分ずつに分けて持つことで、杖にかかった呪いを切り抜けたんです」
杖が二つに分かれるという不思議な現象を一生懸命説明すると、リュシオン先生はますます興味深そうな顔をした。
「そんなことができるものなのか? 初耳だ。剣の部分も見てみたい。そこの赤毛の騎士が持っているんだな? ぜひ見せてくれ」
「私は構わないけれど……セト、剣を出してもいいか?」
「もちろん。ちょっとだけなら大丈夫だ」
彼は軽く答えた。マリアンが手を大げさに振って呪文を唱えた。
金色の光が走り、その手に黄金の握りのついた剣がおさまる。息を飲んだリュシオン先生が、剣を凝視しつつ手を伸ばした。
「美しい剣だな。もっと近くで見たい」
「あまり長い時間出してられないんだ。なるべく早く頼む」
マリアンは身を屈めてその手に剣を渡した。リュシオン先生が、今まで見たこともない柔和な笑顔を見せた。
「ああ、長くはかからない」
そう言って受け取るなり、先生は自身の胸に黄金の剣を突き立てた。鮮血が宙を舞う。
何が起こったのか分からず、セトは目を見開いたまま、先生の胸に黄金の剣が沈む光景を見ていた。マリアンも、ぎょっとした表情で固まっている。
一瞬のち、理解したマリアンが悲鳴を上げて剣を消した。セトはあたふたとリュシオン先生に駈け寄り、その傷口を押さえた。しかし、血は止まらずにどんどん流れ、周囲の水を赤く染めていく。
セトはリュシオン先生の肩を掴み、必死に叫んだ。
「どうしてこんなことを!」
「……私には戻る場所がない。『神秘の塔』は私という異分子を排除したかった。だからこんな仕事を……」
「そんなことはありません! 魔術師の権利のために魔王を守るなんて馬鹿げた考えだと、帰って伝えて下さい! きっと皆分かってくれるはずです!」
話す度に顔をしかめる先生を励まそうと、うろたえながらセトは言った。だが、頭の中では目まぐるしく今までの『神秘の塔』の幹部達の様子が思い浮かんだ。先生の捜索嘆願書を出したとき幹部達が見せた曖昧な笑み。貴重な資料や文献がいつの間にか持ち出され、日々閑散としてくる研究室。リュシオン先生が出発してからたった三ヶ月で、セトが無理矢理他の魔術師の手伝い人にされたこと。
あの連中は本当のことを知っていた。そして先生が帰ってこないことを願っていた。
「……せめて最後は、私の思うままにさせてくれ……」
「黙って、血が止まらない!」
遮ったが、先生は構わず話し続ける。
「……今のお前では、魔王に勝てない……私の魔力も……持っていけ」
セトはぞっとして先生の顔をまともに見た。この剣で倒した者の魔力は、杖の持ち主の魔力となる。それが分かっていて、先生は剣を突き立てたのだ。苦しそうな息の間から、絞り出されるような声が聞こえる。
「いいか、魔王に……絶望に……飲み込まれるな」
そう言い終わると、リュシオン先生は静かに目を閉じた。
嘘だ。何かの冗談に違いない。あれほど強い魔術師だった先生が、こんなことで死ぬわけがない。
しかし、いくら否定しても魔力の塊が頭痛と共にセトへ流れ込んでくる。
目の前を、幾つもの風景が過ぎていった。
貴族のお屋敷、広大な畑地、不思議なことにタクト神教の教会と、そこに住んでいるのであろう年若い修道女の和やかな笑顔。凪いだ海を走る帆船が、一秒のちに荒れ狂う大波になり、すぐにセトの見慣れた埃臭い研究室へと変わった。
「止めてくれ、頼むから!」
この走馬燈が終わったとき、先生はこの世から消える。セトは目を閉じて絶叫したが、魔力の塊は容赦なくその歴史を見せつけていく。
ついに、暗い洞窟が現れた。大きな先生の手には、小さな手が握られている。ここではない洞窟で、まだ幼いセトがリュシオン先生に手を引かれて走っていく。
セトの頭にねじ込むようにして、先生の過去の思考が入り込んでくる。
『……洞窟から連れ帰った子供には、名前すら無かった。やむを得ず最古の魔術本に出てくる神の名を付けた。最初は妙な子供だと思っていた。無口で無愛想でいつも本ばかり読んでいてちっとも子供らしくない。神秘の塔の魔術師養成所に入ると頭角を表したものの、著しく協調性に欠けると教師陣から苦情が入った。
面白くなかったので研究室に引き取り手伝いをさせてみると、なかなか使える。杖を使わなければ普通は感覚が掴めない応用の魔術式や、学術書レベルの翻訳までこなす。
杖を持つ日が楽しみだ。きっと、私を越える魔術師になるだろう……』
最後まで聞きたくなかった。見たくなかった。しかし走馬燈は延々と続いていく。海辺の街、広々とした野原、荘厳なホールで開かれた学会……そして暗い洞窟で淡々と魔物数を計測している様子。こちらの言うことを少しは理解できる魔物を見つけては指示を出したり、あるいは魔物の尻尾に警告文を巻き付けたりしている。
そして、最後に演じた死闘も、セトはもう一度先生の立場で追体験した。
『……水さえ出なければ勝てたかもしれない。だがほっとしている。私が最後まであの子を殺せなかったことを、一の根源に誓って感謝したい……』
その思考が散ると共に走馬燈は終わりを迎え、魔力は全て吸収された。今までで一番心をえぐる走馬燈だった。
鉛のように重い頭がやっと動くようになった頃、温かい手がセトの肩に回されていることに気付いた。
マリアンが耳元で囁いた。
「……ごめん、剣なんか渡さなければよかった……」
「……マリアンのせいじゃない。先生は元々そのつもりで……」
そこまで言った途端、嫌な気配が辺りに漂った。
地鳴りのような低い鳴き声が洞窟に響き、思わずたじろぐほどの強烈な魔気が瞬く間に周囲に広がっていく。
魔王はすぐ側にいる。結界に隠されていたせいで今まで感じられなかった魔気が洞窟内に立ちこめているらしい。
マリアンもここまで魔気を出されると流石に感づいたらしく、セトに向かって厳しい表情で言った。
「あの鳴き声は、魔王のものか?」
「そうだ。先生が張っていた、対索敵魔法結界が解けたんだ」
魔王がこちらの接近に気付き、威嚇している。
恐怖するべきだったが、不思議とそんな感情はわかなかった。
ただ、鮮烈な怒りだけがセトの頭を支配していた。
「……行かなきゃ」
セトはぽつりとそう言って立ち上がった。
この魔気の持ち主のせいで先生はおろか、どれだけの人々の運命が狂わされたか。
『多産の魔王』は、この手で殺してやる。




