第5話 従者の仕事は崖下りも含む
難攻不落のティルキア城とはよく言ったもので、城壁のすぐ裏手は断崖絶壁になっている。崖の下にはシータ海の荒々しい波が打ち付け、船をつけることさえできない。城から下った北側の城下町には、風光明媚なティルキア湾があり、軍港をはじめたくさんの帆船が停泊している港があるのだが、この城の下に関してはその片鱗すら見いだせない。
そんな断崖絶壁に、セトは必死でへばりついていた。道と言うには狭すぎる、ほとんど足の横幅ほどしかない道に足をのせている。おまけに、その道は体重をかけるとぼろぼろと崩れていく岩もある。道は崖をぐるりと回り込み、港の方へと向かっている。彼は急いで、しかし慎重に岩場の狭い道を進んだ。まわりこんだその先に、人影が見えた。やはり、崖にへばりついている。茶色い服を着ているので、目をこらさなければ見落としそうだ。その人影は、セトより数段身軽で、この崖になれているらしく、ひょいひょいとリズムよく横歩きで絶壁を降りていく。
二週間前、確かに、彼は従者になることを承諾した。数日すると捻挫も治まり、晴れて働くことができるようになった。とはいえ、身だしなみや服の着替えなど、大抵のことは侍女の仕事だ。彼は、王女が退屈しないためのお相手役のようなものだった。勉強の相手役はまだよかった。王女の学力が家庭教師も逃げ出すほどの低レベルなことを棚にあげれば。実地はもっと過酷だった。ダンスの練習台ではまだ少しは痛む足を散々踏まれ、剣術の相手では、打ち据えられるばかりでとてもじゃないが一本も取れたためしがない。それだけでも生傷が絶えないのに、加えて、この王女はよく脱走する。従者の仕事が崖下りも含むなんて聞いていない。
「しょうがないな、あの人は」
彼は小さく不満を口にした後で、崖にへばりついているもう一人に聞こえるよう、声を張り上げて叫んだ。
「姫様!」
と、前を行く人影が、岩をつかんだまま首だけをこちらに向けた。
「よぉ、よくわかったな私の使う出口が」
「窓から飛び降りたのが丸見えだ!」
「そうか、これから気をつけよう」
くったくなく笑う王女に、彼はひきつった笑いを返した。この王女は、今の状況を分かっているのだろうか。この崩れやすい道に体を預けるほどの信頼がどこから湧いてくるのだろう。
「はやく戻って! この道は危ない!」
「ああ、大丈夫。ここの海はこう見えて深いんだ。一、二度落ちたことがあるが、なんてことなかったぞ」
信じがたいが、今までに何度か落ちたらしい。セトは思わず下を見てしまい、身震いした。海の水が渦を巻き、白い波しぶきが岸壁を洗っているのが、本当に小さく見える。この高さから落ちるなど、想像したくもなかった。
「馬鹿なこと言ってないで、戻っ」
彼は、最後まで言えなかった。突然、足下の道ががらっと音を立てて崩れたのだ。びっくりして目を丸くした瞬間、手が岩から離れた。そして、驚いたときの顔のままで、叫び声すら出せず、彼は落下していった。
ひときわ大きな水しぶきが上がり、王女は崖の中腹からそれを見守っていた。
「おーい、大丈夫か?」
王女は半分笑いながら、波間にセトの姿を探した。
「おーい」
彼の姿はない。相変わらず波が崖に押し寄せているだけである。王女は、唇に笑いを浮かべるのをやめた。
「しょうがないな、あいつは」
そして、王女は崖から手を離した。振り向きざま宙で一回転し、見事なフォームで逆巻く海へ飛び込んだ。
「……死ぬかと思った」
「いやー、びっくりした。この水の都のティルキアナで泳げない奴がいるなんてな。お前、水泳ぐらい練習したほうがいいぞ」
「俺は山育ちなんだ」
彼はげっそりとして言った。息が続かなくなり、意識が薄れていったところで助け出されたらしい。崖沿いからすこし外れた街の運河の岸に引き上げられ、気付けと称する恐ろしく痛い平手を食らって目覚めたところでは、気分も落ち込むというものだ。しかも、助けてもらったとはいえ、すべての元凶はこの王女のせいなのだ。
セトはもう戻ろうとすがったが、王女は意に介さなかった。
「海に落ちたくらいで帰ってどうする。それに、今日は目的があるしな」
そう言って、運河の岸から身軽に腰を上げた。
「さて、霊廟へ行こう。私の前戦基地だ。服もたっぷり置いてある」
セトはまだ足が覚束なかったが、手を引っ張られるようにして連れて行かれた。何度か手を振り払おうとしたが、がっちり捕まえられていて解けもしない。無理矢理両手でこじ開けようとすると、ふふんと鼻で笑われた。
「駄目だ、これ以上やるとお前の腕があざになるぞ。大人しくついて来い」
ちょうど果物籠を抱えたおばさんが通り過ぎ、二人を見て「あらあら」と微笑んでいる。完全にいちゃついていると思われた。セトは赤くなって言った。
「分かった、ついていくから手を離せ」
王宮の外や、二人だけのときには、敬語の類いは王女から固く禁止されている。せめて遊んでいるときくらいは身分を忘れたいという彼女なりの主張らしい。固く、というのはうっかり使うと頭に張り手が飛んでくることを意味する。彼女は加減しているつもりらしいが、実際かなり痛い。
しばらくすると、人気の無いしだれ柳が続く道筋に、黒い柵と幾つもの墓石が立つ静かな墓地についた。風化して苔むし文字が読めなくなったものから、まだ新しい花が供えられているものまで、同じ間隔で整然と並んでいる。中央から少し外れたところに、身分の高い人々が眠る霊廟が二、三個、ひっそりと佇んでいた。
墓地につくなり王女は、その一つ、大きな大理石の霊廟の鍵を開け、ずかずかと入った。セトは流石に入り口で躊躇した。本来魔術教の信者は、タクト神教の教会でさえ入ることは禁止されている。霊廟もしかりだ。
が、彼はもう魔術教でも何でもなかったことを、唐突に思い出した。
彼はもはや神にも、一の根源にさえも見放された存在だ。
そっと入り口の敷居をまたいだ。奥からかび臭い匂いが漂う。
「ここは誰の霊廟なんだ?」
私のだ、と王女は告げて、その後声を上げて笑った。いつもの豪快な笑いとは違い、淋しげな響きを持った笑い声だった。
「いや、王家の霊廟の一つだ」
セトは、中を見渡した。王家の霊廟にしては、小さくて飾りも派手ではない。葡萄の巻き付いた碇が目印の、王家の紋章も見当たらない。彼の気持ちを代弁するかように、王女は続けた。
「正確には、日陰で一生を過ごすしかなかった、庶子の墓だ。
二年前、城で大火があって私の両親も死んだ。皇太子と皇太子妃だ。二人とも盛大な国葬だった。でも、あの火事でもう二人死んだ人間がいることなんて、誰も知らない。私の親友だった彼女も、今はこの地下で安らかに眠っている。何、彼女なら笑って使わせてくれるはずだ。二人で散々馬鹿なことをして怒られていたからな」
セトは、先ほどの寂しげな響きを思い出した。庶子のものであれば、霊廟に王家の紋章すらなかったことも納得がいく。この国では、王家の庶子はいないものとして扱われる。王位継承権もなく、王宮からいずれは修道院に出され、ひっそりと暮らし、そして死んでいく存在だ。
カチッと火打石の音がして、入口のカンテラがぼっと灯った。彼女はそれを持ち、まるで自宅にでも入るかのように霊廟の奥へ進む。
「そこにいつまでもいると、墓地の管理人に墓荒らしと間違われるぞ」
そう言われ、セトは慌ててもっと奥に入り、黒檀の扉を閉めた。中にはまだ階段が続いている。おそらく、その先に誰か——彼女の義理の兄弟が葬られているのだろう。
が、王女はすぐ脇でごそごそと大理石の壁に埋め込まれている棚をあさっていた。
「ほら、あった」とぽんぽん服を投げ渡される。そしてカンテラを置き、王女は自分もおもむろに服を脱ぎはじめた。今だに彼女が何を考えているのか分からないが、従者を家具か何かと同じ感覚で扱っているのは確かだ。暗くて助かるが、墓場で着替えるなど、いくら魔術教でも不謹慎だと止められる。後ろめたい気持ちを抱えながらも、セトもできるだけ隅のほうで濡れた服を着替えた。
墓地から出て歩きながら、セトは王女がなるべく街中へ足を向けないように祈った。これは一緒に歩きたくないレベルだ。
彼女の恰好は全身赤い軽装鎧に赤いマント、赤いブーツ。おまけに派手な羽根が刺さった広いつばの男物の帽子を被り、髪を押し込んで完全に男に見せかけている。もちろん帽子も真っ赤だ。一番目立つのは、カーニバルでもないのに黒い目だけを隠すマスクを付けていることだ。まるで悪夢にでも出て来そうな出で立ちだ。嫌な予感が当たりませんように、と彼は一歩下がって後ろを歩いていた。じろじろ見られることを気にもせず、彼女は颯爽と通りを歩いていく。
突然きゃあきゃあと黄色い声が上がった。民家の二階の出窓から少女が二人、こちらを見て手を振って叫んでいる。
「赤騎士様ー! リアン様ー!」
王女が手を振り返すと、黄色い声はもっと大きくなった。嫌な予感が違ってほしいというセトの願望は脆くも崩れた。信じられないが、この王女が話に聞く赤騎士らしい。
「そうそう、この恰好で出歩くときは、私をリアンと呼べ。英雄赤騎士、リアン・フェニックスの正式名でも構わん」
女王改めリアンはそう言った。恥ずかしいとかそういう概念はなさそうだ、とセトは思いながらも、大人しく一定の距離をおいて後に続いた。
と、彼女が突然走り出し、狭い角を右に曲がった。まさか、ここにきてセトをまく気だろうか。急いで通りを曲がった途端、鼻先に磯の臭いがきつい紅白の物体が突き付けられた。よくみると、持ち手に棒が出ている。ソーセージの串焼きによく似ているが、こんな臭いはしない。角を曲がったすぐ先で、赤いテントの屋台が出ていて、同じようなものをおじさんが何本も網の上で並べ、焼いていた。
「これこれ、これが食べたかったんだ。お前の分も買っといたぞ」
脳天気に彼女が言い、鼻先に突き付けられた串焼きが揺れた。突然の行動に礼を言うのも忘れ、セトは串をもらい、一口かじった。
塩と何か魚のような味がする。しかし、魚ではない。
「旨いな、これは!」と言いながら、赤騎士はそのよくわからない恰好でぱくぱくと食べている。セトはもう一口食べてみた。旨いとも言えないしまずいとも言えない。水分は十分あるのに食感がぼそぼそしている。とにかくこんなものを食べたのは生まれて初めてだ。と、そのとき。屋台の裏で、木箱に入った何かがごそごそと音を立てているのが見えた。セトはそれを二度見した。
赤い甲羅をもった、恐ろしく大きな八本足の何かが蠢いている。蜘蛛に似てはいるが、大きさが全く違う。そして大きな木箱の中でたくさんの大きな虫がうぞうぞと動いているさまは、お世辞にも気持ちいいとは言えなかった。
セトは青くなって王女に尋ねた。
「あれ何?」
「クモガニだよ。今食べてるのはあいつの足だ。旨いだろ?」
「ほぼ蜘蛛じゃないか!」
「いやカニだよ。お前、山育ちだろ? 沢ガニとか食べたことないのか」
「沢ガニなんて食べないから!」
原材料を見てしまった以上、もう絶対に食べたくない。旨いのにもったいない、と王女が残りを食べてくれたからよかったが、セトは二口食べただけで吐き気までしてきた。もともと蜘蛛というより、四本より足が多いものは嫌いなのだ。しかし、本当にこれだけが目的でわざわざ城下町まで出てきたのだろうか。
セトが理解に苦しんでいると、狭い通りの隙間から、高い指笛が聞こえた。
王女がぱっと振り向き、笑顔でこちらもピィッーと指笛を鳴らす。ほどなくして現れたのは、ぼろぼろの服を身に纏ったもじゃもじゃの赤毛の子供だった。
「ローシュ!」
セトは思わず息を呑んだ。またこんなところで再会できるとは思わなかったからだ。
「にーちゃん、生きてたのか!」
ローシュは満面の笑みで叫んだ。リアンが不思議そうに聞く。
「何だ、二人とも知り合いか?」
「まあ、そんなもんだ。さすが、赤騎士リアン様! どうやってか分からないけど、にーちゃんの命も助けてくれたんだな!」
……膝蹴りでな、という言葉がでかかったが、セトはあえて押さえて肯いた。少し込み入った話になるからだ。
「で、ローシュ。奴らの根城の見当はついたか?」
「ああ、もちろん! 準備ができ次第、案内するぜ」
王女の質問に、ローシュは胸を張って答えた。彼が赤騎士の使いだという話は、どうやら本当のようだ。
「よし! じゃあその前にローシュも食ってみろ。これは街の新名物になるぞ」
彼女は後ろを振り向いて、屋台のおじさんに、指を三本突きつけた。
「カニの串焼き、三本追加だ!」




