第37話 新たなる旅立ち
ランプはもういらない。魔術で明かりを出せる今、必要ないだろう。そう思い、彼はテーブルに置いておくことにした。セトは旅行用の鞄の整理を始めていた。
もう深夜すぎだ。続いていたざわめきは止んでいる。酒宴は終わったようだ。あれから、彼は広間へも戻らず、ナイフを拾って一直線に自分の部屋へ帰った。そのままばかげた服を脱ぎ、数時間ベッドで毛布に包まって寝た。真夜中に起き出し、いつもの服と灰色のマントを羽織ったころには、心臓の動機も収まっていた。
どうして、気付かなかったのだろう。ラインツの言うとおり、あのひとに婚約者がいるのは、ある意味当然だ。
彼女は表向き、ティルキア王国の第一王位継承者、ネフェリア・グレイフォン・ティルキアなのだから。
王家の存続は何よりも大事だ。そして、それには相応しい相手が必要だ。
多分、あの街では銅版画で大々的に報道されただろう。『王女様、ご婚約!』と。
ただセトが社交界に疎かったことと、婚約があまりに昔過ぎたこと。そして、元々彼女がネフェリアではなかったことで、感覚が麻痺していたに過ぎない。
元々、分かっていた事実を突きつけられただけだ。それでも、心臓がナイフで刺されたように痛かった。
痛みを打ち消すようにセトは無理矢理さっと立ち上がると、こっそり台所へと向かった。誰もいなくなった広間を通って、調理場へと入る。すでにここも、誰もいない。多少の後ろめたさを覚えながら、日持ちしそうな食料をあさった。小麦粉のパンと鳥の干し肉、岩塩一瓶、水の入った袋。目的の物を探し出すと、一旦部屋へ戻った。
くすねてきた食物、そして最後に、コンパスと四分儀、リュシオン先生と一緒に古地図から復元した砂漠地帯の地図。ティルキア王宮の地図と同様、使い物にならなくなっている可能性は高いが、ないよりはましだ。
全ての荷物を緑の鞄に押し込み、肩に担いだとき、トントン、とノックの音が聞こえた。
「誰?」
「私だ」
マリアンの声だった。彼は少し迷った後、鍵を開けた。服が赤鎧に戻っているマリアンが、所在なさげに立っていた。どうして寝る用意をしていないのか不思議だったが、いつもの自信満々の顔はどこへやらで、しょぼくれた顔をしているのでそっちのほうが気になった。彼女が後ろ手で扉を閉めざまに、ぽつりと言った。
「ごめん」
「貴女が謝る必要なんてない」
セトは血を吐くような気持ちで言った。身分違いで宗教違い、と今自分を納得させたばかりだ。何を勘違いしてナイフを取り出したのか、自分でも分からなかった。
「姉様に婚約者がいたことは、私も社交界デビューの日に聞いた。私が自ら破棄しないよう、わざとぎりぎりまで黙っていたらしい。
素焼き祭りでお前に出会ってから、ずっと言おうと思っていた。でも、言えなかった」
「婚約相手はは誰だ?」
「ヴェルナース王国の第二王位継承者」
「そう」
ヴェルナースと言えば、ティルキアの隣国だ。隣国の王子と、この大酒飲みの赤騎士が婚約者らしい。ここまで聞いてもまだ実感が湧かなかった。何か、悪い夢をみているような気さえする。
「正直、あったこともない相手だ。
ティルキアは、海軍は強いが陸軍はてんでだめだ。一方ヴェルナースは冬、港が凍って海軍は使い物にならないが、傭兵産業で喰っているぐらい陸軍は強固だ。この結婚で両国はいいとこ取りをしたいのさ」
他人のことのように話す彼女を前に、セトも少しぼうっとした感覚で聞いていた。しかし、もう一回、冷水を浴びせられたような発言が少女の口から発された。
「もう一つ、言わなきゃならないことがある。この旅が終われば、私は結婚してティルキア王に即位することになっている」
結婚。即位。どちらも、今の彼女を見ているとほど遠く思える出来事だ。
しかし、婚約者がいるということは結婚するわけで、第一王位継承者ということは、彼女が女王に即位するということだ。
分かっていたことなのに、本当に言われると現実味がどんどんなくなっていく気がする。
「そう、おめでとう」
彼は一般的な祝いの言葉を絞り出した。
「……ありがとう」
マリアンが静かに言った。そして、セトが旅支度をしている格好を見た。
「やはり、もう一度砂漠へ行くんだな」
「『多産の魔王』は、まだ死んでいない。逆に、俺が近づいてきたことに気付いて遠隔で警告してきたくらいだ」
「そうだと思った。お前の部屋へ行ったとき、慌て方が尋常じゃなかったからな。
あの妙な蛇の化け物は強かったが、斬ったときの感触があの馬よりも弱かった。
どう考えても、『魔王』というには魔力が足りなさすぎた」
この部屋へ入って初めて、彼女が少し笑った。
「多分、お前の性格からして、今晩誰にも知られないうちに一人で出発する気がしてな。今日の祝賀会で、参加者を募っておいた」
「はい?」
セトは目を丸くした。一人で行くつもりだったことまで見透かされている。彼はマリアンが何を考えているのか全くわからないのに、なぜか彼女はこちらのことをお見通しなのだ。
「皆、城門前に待機している。お前で最後だ。行くぞ」
「何を勝手にしてくれているんだ! また魔術が使えなかったら……」
「参加者を見りゃわかるさ。心配するな」
マリアンは扉を開け、元気よく言った。
「さあ、冒険の旅に出かけよう」
深夜過ぎで、人のいない大通りを通り抜け、彼は半ば引っ張られるように城門へと連れて行かれた。
城門前には、数人のレムナード兵がいたが、敬礼と共に赤騎士を通した。
「今から化け物討伐、お疲れさまです!」
「奴らには、夜の化け物討伐だと言ってある。明日には帰るとな」
兵士に軽く会釈をして、マリアンが小さな声で囁いた。
と、月の白い光が反射する砂漠に、数人の黒い影が月の光に照らされていた。
「やっと来たか」静かな声が聞こえ、セトは眉をひそめた。
嫌な予感がしたが、やはりその中の一人はラインツだった。
「よく背にナイフを突きつけた人間と旅しようと思ったな」
「彼女に頼まれたからな。剣聖の力を貸して欲しいと。それに、争う理由ももう既にないだろう」
気取った調子でラインツが答えた。
悲しいかな、争う理由がなくなったことだけは事実だ。
「おい、戦力なら俺もいるぜ?」
ビョルンが大きな斧を肩に担ぎ、豪快に笑った。
「お前、このビョルン様を差し置いて一人で魔王を倒しに行こうなんて舐めすぎてるんじゃないか? あの蛇野郎にだって、打撃は俺が一番与えていたんだ」
この二人はいいとして、その脇に海賊の双子がしれっといるのが気になった。
「なぜここに海賊共がいる?」
「俺たちゃ道案内に雇われたんだ。たんまり金ももらえたし」
「お前達の道案内なんて役に立たなかったじゃないか!」
「いないよりましだろ」
ジュリオが言うと、無口なロビがうんうんと肯く。セトはため息と共に受け入れた。少なくとも、彼らは自分の命を救うとなれば、勇敢に戦う男達だ。
結局、マリアンはこの短い時間の間に、外国人部隊の全てを仲間に引き入れたのだ。皆砂漠の戦闘から戻ったばかりで、説得も難しかったに違いない。セトが頼んでも、間違いなく断られていただろう。彼女の交渉の手腕には脱帽するしかなかった。
後は……荷物を載せたラクダが六頭。そして、その手綱を持っているのは、よく知った人物だった。
「ザグ! どうして? お前はレムナード兵の補給係だったはずだろう?」
「昨日で契約は終わりです。私にも本当の魔王退治に声をかけて下さったことに対して、感謝しております」
料理人のザグが低くお辞儀をした。
「私はゴルダ教ですが、貴方様の術に関しては、一切他言いたしません。私達は、魔術師とは恐ろしい化け物だと言い聞かされて育ってきました。しかし、隊長や他の兵達を助けた貴方なら信用できます。それに、五人分の荷物を持つには、ラクダの扱いにたけた私のようなものが必要でしょう」
それに、うまい料理を出せる人も必要でしょうしな、と彼は歯を見せて笑った。
「ま、人数は減ったが、その分セトの魔術の力が存分に発揮出来る。少数精鋭とはこのことだ。協力して『多産の魔王』という奴を倒そうじゃないか!」
マリアンが呪文を唱え、金色の長剣を出した。今まで見ている余裕がなかったのであろう、ラインツ達が感嘆のため息をついた。
「貴女も、魔術が使えるのか」
「ちょっとだけだがな。さあ、早くしてくれ。消えちまう」
その言葉に、セトは杖を出し、長剣に重ね合わせた。円陣を組み、魔術装甲破壊をかけるときのように次々と武器を重ね合わせていく。料理人のザグは、わざわざ柄の長い柄杓を取り出し、自分も重ねた。
マリアンが、シャリン、と音を立てて皆の剣を突き上げ、自信満々に言った。
「我らは、新・魔王討伐隊! 絶対に、『多産の魔王』を倒してみせる!」
確かに、これほど少数で、頼もしい仲間はいないだろう。セトは少しだけ微笑んで魔術装甲破壊の呪文を唱えた。柄杓でも、魔物を殴る機会があるかもしれないと考えながら。




