第21話 ティルキア城からの脱出
どのくらい経ったのだろう。マリアンは無事に回復したのだろうか。セトが今できることは、ごろごろと転がりながら、不安に苛まれることだけだ。気がついたら腕を縛られ、口に魔術師用の猿ぐつわを嵌められて、彼は粗末な寝台に転がっていた。明かりは鉄格子入りの窓から入るほんの少しの光だけだ。銀色の月の光が弱々しく粗末な石造りの部屋と、その前の鉄格子をぼんやりと浮かび上がらせていた。とにかく、一日は経っている。
目を覚ましたとき、彼は既にこの状態だった。兵士達の噂によれば、二人は夜明けに干上がった池の底で眠っているところを警備兵に発見されたらしい。魔王の紋章の前で、二人が手を取り合ってぐっすり眠っていたというこの状況を、国王はさすがにまずいと思ったようだ。マリアンは後宮に閉じ込められ、そしてセトは地下牢にぶち込まれている。
これは想定外だった。杖を手に入れた瞬間に、城から脱出すべきだったのだ。だが、杖が持つ圧倒的な魔力に押されてしまい、その場で魔力増減症に陥ってしまったのがまずかった。たった一つの脱出の機会を失ったのだ。そして、王女と深夜手を取り合って倒れているのを見られたという段階で、確実に処刑ものだ。どうしてこう運が悪いのだろう、と彼は嘆いた。
と、夜のしじまの中に、当直の兵であろう、二人の男の会話が漏れ聞こえてきた。
「——明日の朝には処刑だってよ」
「そうだな。魔術師には食事を取らせる暇を与えるな、と言うからな。
いつ呪文で呪われるか分かったもんじゃないから、早いほうがいいんだろう。
しかし、王女様には誰が説明するんだ?」
「それが問題なんだよ。長官は絶対に嫌だと言うし。
ま、どう説明するにしろ、首が胴体と離れていたら、納得していただくしかないわけだ」
確実にセトのことを話している。ため息をつこうとしたが、猿ぐつわに阻まれた。これがあるかぎり、呪文も唱えられず、せっかく手に入れた杖も出すことができないのだ。明日の朝までに何とかしないと、と彼は口にまわされた布を噛みきろうとしたが、ぞっとしてやめた。しみ出した液の匂いでわかった。布にはたっぷりと酒が含まれていた。魔術師は酒が体内に入れば、魔力出力が落ちる。呪文を唱えても魔術を使えなくなってしまうのだ。まずい。酒が抜けるまで、後数時間はかかる。宮廷魔術師が警備兵に入れ知恵したのだろう。つまり、初代魔王の杖を手に入れたことを知られてしまったのだ。手もがっちりと後ろ手に括られていて、ゆるめることなどできそうもなかった。
「じゃ、俺はまだ巡回するところがあるから」
「おう、お疲れ」
その会話の後、牢屋はしんと静まった。当直の兵の一人が、行ってしまったに違いない。 だが、すぐに別の客がやって来た。カツカツというと靴の音と一緒に、杖をつく音が聞こえる。
「これは、カレル魔導師。お勤めお疲れ様です」
さっきの兵士が緊張した声で話しているのが聞こえてくる。宮廷魔導師の地位は、兵士長と互角だ。宮廷内でもさぞいばりくさっているのだろう。
「言ったとおりにしているだろうな?」カレル魔導師の威圧的な声も聞こえてきた。
一応、酒を含ませてさるぐつわを嵌めてあります、と兵士が答える。
「そうか、鍵を開けてくれ。奴が死ぬ前に確かめねばならぬことがある」
すぐに、カレル魔導師とカンテラを掲げた兵士が鉄格子の前に現れた。牢屋の扉の鍵を開けると、兵士は戻っていった。暗がりの中に、カレルが扉からぬっと入ってくる姿が見えた。さるぐつわを乱暴に取られ、セトは思わず咳込んだ。いつも酒屋に漂っている匂いが充満している。呪文を唱えても無駄だろう。腕に巻かれている縄をぐっと掴まれて、彼は真正面からカレルを見上げた。
「それで、扉の中にあったのだな? 初代魔王の杖が」
カレル魔導師が、血走った目で聞いてきた。
「あんたは信じてないんだろ? 初代魔王の杖の存在を」
不意に痛みが襲ってきて、セトは身体を二つ折にして咳込んだ。カレルがセトの腹を殴ったのだ。
「あのヴィエタ帝国の紋章、見間違うはずもない。私が確認したときには、扉を開けても、壁があるだけだったが。お前は見たはずだ、伝説にある架空領域を! そして魔王の杖を手に入れたんだな! 答えろ!」
セトの縛られた縄を持ち、カレル魔導師は鬼気迫る表情で言った。酒が抜ければ電撃でも使って見せてやる、とセトは思いながらも、さあどうだか、と馬鹿にするように言った。カレルに本当のことをいうつもりはさらさらなかった。魔術史史上最大かもしれない発見を、むざむざこの魔導師に譲ってやることはない。
そして、ここでセトが黙っていたら、処刑は延期されるかもしれないという計算もあった。初代魔王の杖の持ち主だ、と認めれば、魔術師協会から杖の剥奪の魔術を受けることになるだろう。だがあの魔術は、杖を持たない人間に間違ってかけると、全ての魔力が尽きて杖が出せなくなるという呪いがふりかかる。セトがここで口を割らなければ、明日の処刑は取消されるかもしれない。かわりに、拷問の時間が始まるのは避けられないが。拳が振り上げられ、もう一度腹を殴られた。
「魔術師協会にとって初代魔王の杖がどれだけ重要なものか、お前は分かっているのか!
それさえあれば、世界を征することもできると言わしめた伝説の杖だぞ!
どうやって見つけた! 答えろ!」
また拳が振り上げられ、セトが身を屈めたそのとき。軽快に走る足音が聞こえ、ぎゃっという男の悲鳴の後、どすっという鈍い音がした。その後で、聞き覚えのあるはつらつとした声が言った。
「すまんな! 峰打ちだ」
彼は、希望の眼差しを向けて、鉄格子を見上げた。軽やかな靴の音の後、人影がセトの牢屋の真ん前に立った。赤い髪をなびかせ、同じ色のドレスを身に纏った少女が、怪訝そうにカレル魔導師とセトを見ていた。
「何をしている?」
セトの身体の縄をもち、拳を振り上げているカレルを見て、マリアンは首を傾げて聞いた。カレルはセトを離し、慌てて居住まいを正した。
「これはこれは、姫様。惑わされますな! この者は——」
マリアンは最後まで聞かず、さっと身を屈めて牢へ入ってきた。そして、無表情で握りこぶしを後ろに引くと、綺麗にまっすぐカレルの顔面に放った。ぎゃふっと声にならない声をあげて、彼の顔面がへしゃげる。カレルはそのままきりきり舞いをして倒れた。歯が数本散らばり、口は血まみれだ。本気の力があれか、とセトは悟った。手加減している、とマリアンが自分で言っていた平手打ちは随分痛いと思っていたが、カレル魔術師への暴力の比ではなかった。セトは人間に対しての暴力は基本反対だ。しかし、正直な気持ちを言うと、すかっと胸がすくような気がした。
「セト、動くなよ。今縄を切る」
そう言って、彼女は長剣をすらりと抜き、瞬く間に一撃で縄だけを切った。心臓に悪い縄の切り方は止めてほしいと思いながらも、彼はほっとして縄で痺れた手を振った。
まだ、少し頭が重いが、魔力増減症はましになっている。ようやく魔力が身体になじんできたのだろう。
「ありがとう。けれど、どうやってここまできたんだ? マリアンだって後宮に閉じ込められていたんだろう?」
彼女はにやっと笑った。
「警備兵を全員のしてきた」
また問題になるようなことを、と彼は頭を抱えた。もう従者ではなくなるので頭を抱える必要はないわけだが、それでもこの姫様の行く先が不安で仕方ない。
と、マリアンが突然茶色い革袋を袖から出し、セトに差し出してきた。面食らって、彼は尋ねた。
「これは?」
「当座の路銀と、通行許可証だ。もちろん、偽名のな」
彼は夢見心地で、それを受け取った。ずっしりと重い革袋だ。中を見ると、セトが見たこともないような銀貨の山が詰まっている。
「こんなの、もらえない」
「いや、もらっとけ。魔王を倒す英雄には、王族の援助は不可欠だろう?
それに、通行許可証がなきゃ、国外へは出られないぞ」
セトは革袋の底を探り、小さく巻かれた羊皮紙を取り出した。どこからとってきたのか、押印まで本物そっくりの通行許可証だ。というより、本物の紙を一枚くすねてきたのだろう。
そして、その名前欄には、はっきりとこう書いてあった。
『セト・フェニックス』
彼は思わず小さく笑ってしまった。偽名の臭いがぷんぷんするような名字になっているが、ありがたく使わせてもらおう。
「杖は使えるのか?」
「いや、酒を飲まされてるからあと数刻は無理だ」
セトがそう言った瞬間、廊下からざわめきが聞こえてきた。
「くそ、気づかれたな。走れ!」
マリアンが先に牢を飛び出し、たちまち角を回って見えなくなった。またもや兵の悲鳴が聞こえる。
「誰か姫様を止める者はいないのか! げほっ」
いないんだろうな、と一人笑みを浮かべ、セトは革袋を首にかけた。そして牢屋の小さな扉をくぐり抜け、マリアンに続いて牢の出口まで走った。
はたして、出口には文字通りのされた警備兵たちが床に伸びていた。彼女が次の角でセトに向かって手を振っている。
「よし、ここからなら十三番出口が一番近い! あそこに向かって走るぞ!」
待ってくれ、と言いそびれ、彼は必死でマリアンを追った。十三番出口はだめだ。マリアンは、城に秘密裏に出入りできる場所に、見つけた順番で番号をつけている。その中でも十三番出口は、セトの最も苦手とする出口だ。そう、城の裏手の絶壁に作られた、ぼろぼろになった古代の道だ。
「十三番は危険すぎる! 他の出口にしよう!」
「今更危険がなんだ! 大丈夫、お前の分も私が泳ぐから」
もう落ちる気でいる。冗談じゃない。そう思っていても、なぜか顔から笑みがこぼれてくる。これこそが、マリアンだ。
「お待ち下さい!」
後ろから、警備兵が追ってくる足音が聞こえてくる。流石にあれだけの人数を倒されれば、王女ですら本気で捕まえなければならないだろう。そもそも監禁されていた部屋からはどうやって抜け出したんだろうか。またシーツをつたって窓から降り、途中から飛び降りたのだろうか。世話のやけるひとだ。そして、誰よりも頼りになるひとだ。
「このまま一気に走り抜け!」
目当ての窓を見つけた彼女は、セトと歩調を合わせるようにして走った。そして、窓枠を次々と乗り越え、二人は古代の狭い崖の道へと着地した——はずだった。
脆い岩が、ばきん、と音を立てて砕けた。一気に二人乗ったせいだろうか。思わず、セトはマリアンの腕を掴んだ。波の音だけが聞こえる暗い海に、彼らはまるで餌をとる鷹のように、頭から一直線に突っ込んでいった。




