第17話 古代の少女は静かに微笑む
どんよりとした雲が空を覆い尽くしていた。みぞれのようなべちゃべちゃとした雪が舞い落ちて、少しはねた黒髪を伝い、灰色のローブに汚点を付けていく。
ティルキアで最高位の魔術師達が集う『神秘の塔』。その唯一の出入り口、威圧感のある鉄の扉の前で、セトは一人、短剣を握りしめて待っていた。青い瞳はじっとその扉が開くのを待っている。
髪と同じ色の黒曜石の短剣は、もとより使うつもりはない。
だが、それをちらつかせるくらいには本気だった。
金属の門が、ぎいっと嫌な音を立てて開いた。
立っていたのは、長い銀髪をなびかせ、旅装束のローブに身を包んだ壮年の男だった。
彼の魔術の師匠、アレクサンダー・リュシオンだ。
やはり、ここで待ち伏せていて正解だった。
彼はセトを見て、露骨に機嫌の悪い顔をしてため息をついた。
「その話はもう終わっただろう、お前は連れて行けないと」
「嫌です。俺も一緒に連れて行って下さい!」
セトは叫ぶように言った。
ほとんど白に見える長髪を揺らしてリュシオンは首を振った。
「心配せずに大人しく待っていろ」
「いいえ、絶対一緒に行きます。これは、確実に魔王否定派の陰謀です!」
セトは頑固に言い張った。
「危険な魔王のいる場所へ行くというのに、どうして魔術師部隊を編成せず、先生一人で行かせるんですか? どう考えてもおかしいでしょう!」
現地調査が必要だと言っただろう、とリュシオンが呆れたように天を仰いだ。
「現地調査?
私もお手伝いしましたが、『多産の魔王』がレムナードの西の荒れ地に出現している、ということは、先生と私で各地の魔気を調べ、計算し尽くして得た事実ではないですか。
どうしても現地調査が必要ならば、それなりの部隊で行くべきです。
なのに、先生独りだけなんて。
魔王という存在を無視しきっています!」
ふーっと白い息を吐いて、リュシオンが真正面から金色の瞳でセトを見据えた。
「じゃあ聞こう。お前がついて来たとして、何ができる?
魔術師の杖を授けられて杖持ちになれるのは、何歳からだ? 答えろ」
「……十八からです」
「で、お前は幾つだ? 今年で十五のガキだ。
ついてきたところで足手まといにしかならん」
そう反論されると予想していたとはいえ、面と向かって言われると堪えた。
杖のない魔術師に、ろくな魔法は使えない。
せいぜい他人の魔力で作られた魔石を使ったり、薬を作ったりするのが精一杯だ。
体内魔力×杖の魔力出力×呪力。
この世の魔力の基本公式である。
体内で日々生成される魔力の源と、魔術師の精神そのものである杖、そして正しい呪文や魔方陣といった様々な魔力の出現方法。
この三つが合わさって初めて、炎や水を操る魔術師になれる。
つまり杖授の儀式を終えなければ杖持ちになれず、従って魔術師としては一生日陰の山野というポジションに甘んじなければならない。
セトには、その杖だけが欠けていた。
だが、その反論も予期していたことだ。
「でも、今までは先生の旅に同行していたではないですか!
今度だけ待ちぼうけなんて……」
「荷物持ち兼翻訳の手伝いとしてな。
今度の旅はどっちも必要ない。
それに、行き先はレムナード帝国。ゴルダ教原理主義者の国だ。
魔術師とばれるとすぐに異端審問にかけられて処刑される。
大人数で動くことはできないから、仕方なく私だけで行くんだ」
分かったら退け、とリュシオンは理路整然と言った。
セトはいよいよ言葉に詰まった。
だが、門の前から退こうとは思わなかった。
ここでリュシオン先生を見送ってしまったら、それが最期になるかもしれない。
そんな気がして仕方なかったからだ。
セトの一番古い記憶は、真っ暗な迷宮の中、彼の手を取って走る銀髪の魔術師だ。近づく魔物をガラスのように粉々に砕き、洞窟の外まで走り抜ける。光の世界へ彼を救い出してくれたリュシオン先生は、永遠のヒーローだった。
「嫌です!」
彼は意を決して叫んだ。
「どうしてもというのなら、俺を倒してから行って下さい!」
オリンピア邸は相変わらず埃まみれだった。彼はそこで一旦話を止め、天井から差す光に映った細かい埃に咳き込んだ。
「なかなか燃える展開だな。それでどうなった」
木箱の上に寝っ転がって聞いていたマリアンが興味深そうにセトの顔をのぞき込んだ。
「もちろん完敗だ。先生は魔法なんて使わなかった。気付いたら腹を殴られて泥の中に倒れ込んで気絶してた。三日は胃の調子が悪かったな」
セトはそのときのことを思い出して顔をしかめた。
それから一ヶ月待っても、さらには三ヶ月経っても便りすら届かず、完全に音沙汰がなかった。待ちきれなくなったセトが何回他の魔導師に調査隊を派遣して欲しいと嘆願に行っても、体よく追い返されるか、一笑に付されるかのどちらかだった。魔王肯定派は、魔術師を送れない地に生まれた魔王など、多少の影響が出たところで放っておくほうがよいという結論に達していた。否定派は、リュシオンが魔王などいなかったことに気づき、今更『神秘の塔』に戻れなくなって放浪しているのだろうと嘲笑した。誰一人、リュシオン先生個人を心配している者などいないことを、彼は思い知った。『神秘の塔』の派閥に興味が無く、どこにも属さなかった先生は、結局どの派閥からも煙たがられる存在だったのだ。
そして、ついに、魔王否定派の中心人物、カレル魔導師の手伝い人にされたとき、彼は一計を案じた。魔術師の杖は、自身の精神を具現化し、精神と物質世界をつなぐパイプのような役割を果たすものだ。精神を引き出し、魔術師に杖を与えることのできる人物は、『賢者』の称号を持つ魔導師に限られる。正確には、『賢者』の称号を持つ魔導師しか読んではならない禁術書に、その方法が書かれているのだ。
そもそも、最初に杖を持った人物は、誰から杖を授かったのだ? 自分で自分に、としか考えられない。
セトは腹を決めた。
「で、その禁術書を盗み出すのにも失敗して破門、と。お前、失敗してばかりだな」
「なぜそれを知ってる?」
「今の状況で大体わかるだろう。それに、あの宮廷魔導師も『裏切り者』だのなんだの言ってたしな」
驚いて尋ねたが、冷静に言われ、彼は納得した。マリアンも馬鹿ではない。いや、ある面では馬鹿だが、妙に頭の回るときも多い。確かに、破門にされなければ今ここで従者などしていないだろう。
君主の間は、絨毯もガラスも取り替えられ、数日のうちに元通りとなった。魔物が出たとはとても思えない美しい景観だ。何もなかったように、淡々と日々が過ぎていく。だが、地下牢からもう歌声は聞こえず、彼らが東宮へ行くこともなくなった。
マリアンは何事も無かったかのように、気丈に振る舞っていた。だが、セトは押さえつけられている悲しみを見抜いていた。
毎日、何もせず淡々と過ごしていていいものか、彼は歯がゆくて仕方が無かった。今もどこかで、第二第三のネフェリア王女のような魔物が生まれているかもしれないのに。
だから、彼女がただの英雄ごっこではなく、本当の意味で魔物を斬ったあの日、知っていること全てを打ち明けると決心した。異教徒であろうが、楽観的であろうが、もはや彼女は引き返せないところまで知ってしまっている。すでに一蓮托生の存在だ。
そういうわけで、彼は今オリンピア邸で、どうして『神秘の塔』を追い出され、この城へ来たかという話を初めから詳しく話していた。
「そして、最後の頼みの綱がこの王宮にある『初代魔王の杖』だ。この世にたった一つ、杖授の儀式がいらない杖。それを手に入れたら、莫大な力を使えるようになる。俺はそれを持ってレムナードへ魔王を倒しに行く」
セトはそう言って、建物の中から空を見上げた。屋根が半分落ちた廃墟からは、晴天の空が半分切り取られたように見えている。
「やっぱり、ここじゃないか? 魔王のペンダントも見つかったことだし」
マリアンが下を指さして言った。セトはうーんと唸った。言っていることは正しい。だが、このオリンピア邸だけでも恐ろしい広さだ。
「ここ一帯を掘り返すのは時間も手間もかかりすぎる。大体、そこまで大がかりなことをすると流石にばれるだろう。何か、もっと的確な証拠があればいいんだが」
そう言いながら、彼は秘密裏に作っていた王宮内の地図を広げた。王女がいないときや、夜中に一人で作りあげた正確な今現在の地図だ。寄ってきた王女が、こんなもの作ってたらそのうち死刑になるぞ、と脅した。
「他国のスパイだと間違われたらどうするんだ」
既に同じようなものだ。そう思ったが、彼は黙って地図をなぞり始めた。
「八百年前は、前宮や後宮はなかった。代わりに庭園と、兵士の施設、馬小屋があった。今、兵士の訓練所は外部にあるが、当時は群雄割拠の戦国時代だ。城壁の中にあるに越したことはなかったんだろう。位置的には東宮が前宮、このオリンピア邸が後宮として使用されていた。ただ、十二人の使徒の回廊はあったらしい。この城にまつわる古い記述に詳細が載っていた」
「中庭の回廊か。そう言えば、あの絵にも描いてあったな」
思い出したようにマリアンは言い、絵にかかった分厚い布をはねのけた。そして、正面のネフェリア王女の絵をじっと見つめた後、静かにその絵を後ろに差し替えた。
緑色の瞳を遠くに向けた少女が、ハチミツ色の髪をなびかせ、瞳の色と同じ服と弓を携えて回廊に佇んでいる。弓を持っているのは、多分軍関連の関係者だからだろうか。その微笑みは謎めいていて、美しいというよりも不思議な雰囲気を感じさせる。端的に言うと違和感だ。
「前に見たとき、この絵はどうもおかしいと思ったんだ。その理由が、この間分かった」
マリアンがそう言い、背景を指さした。どうやら、セトと同じことを思っていたらしい。安心して彼は感想を述べた。
「確かにおかしいな。背景がぼやけてる。まるで途中で投げ出したみたいだ」
「いや、それは二十年ほど前に流行った背景の描き方だ。投げ出してるわけじゃない」
眼からうろこが落ちた。違和感の原因はこれだったのだ。この絵は、どう考えても古い年代の絵だ。少なくとも装束は八百年前の貴族のいでたちだ。ならば、背景だけが二十年前に流行った描き方になっているのはどういうわけか。
「多分、お父様が描き直させたんだ」
ついでに、完成した大尖塔の自慢も兼ねたかったんだろう、とマリアンは言った。確か、大尖塔が完成したのは現王が即位三十年を迎えたとき、今から二十年程前だ。それがきっちりと絵に入っている。疑うべきところはそこだった。
「しかし、いくら皇太子だからといって昔の美術品に手を加えてもいいものなのか?」
「そりゃ、画家にすりゃ気分はよくないだろう。だが王太子の命令とあらば、いくら高名な宮廷画家でも逆らえないからな」
「つまり、この絵の下に昔の絵があるということか」
「ああ。それに、貯水池もおかしい。回廊の貯水池は、ここまで水が張っていない」
せいぜいこの線までだ、とマリアンは手入れされた爪で正しい位置を引っかいた。と、ぼろっとその当たりの絵の具がはがれ落ちた。おっと、と言ってマリアンは手を引っ込める。
「ちょっと触っただけなのに。やっばり半野外に置いていたらまずいよな」
だが、セトはその台詞を聞いていなかった。絵に宮廷画家のプライドを目の当たりにしていたからだ。マリアンが引っかいたあたりに、絵の具に混じって薄い紙が見えた。思わず、その薄い紙を引っ張って剥がす。その下には、古びた色で、美しく装飾された階段が精密に描かれているのが見えた。彼は何かに憑かれたように、薄紙を剥がしていった。おそらく、レムナードからきた紗のような薄い紙だ。それを指で剥がす度、現代に描かれた背景は消えていき、昔の貯水池の様子が蘇ってくる。
やはり、宮廷画家は画家以前に、美術愛好家だった。背景を描き直せ、と命じられた画家は苦悩しただろう。いくら無名の画家が描いた絵であれ、この絵の凄みは中央の人物からも伝わってくる。だからこそ王太子も東宮に飾りたいと願ったのだ。もちろん命令に従わない訳にはいかない。しかし、画家は純粋に描き直したのではなかった。絵の背景全体に薄い紙を貼り、その上に背景を描き直したのだ。いつか、皇太子が亡くなり、遠い未来にこの絵の本当の姿が暴かれることを信じて。
すっかり薄紙が剥がれたとき、その絵は様変わりしていた。ふわふわとしていた背景ははっきりと形を成した庭園と、オレンジ色の屋根の建物が遠くに見えている背景に変わった。大尖塔を含め、前宮など影も形もない。
が、驚くペきはそこではなかった。セトとマリアンは、眼を丸くしてその絵に見入っていた。信じられないことに、貯水池は貯水池ではなかった。階段が続き、地下ともいえる場所——おそらく、今は貯水池の底となっている場所に、しっかりとした石造りの床があり、彫刻の施された大きな扉が描かれていた。
そして、その扉には、巨大な紋章がついていた。骨の翼とダイヤ型の身体、そして三つの尾をもつ金色の鳥。二人は思わず、ペンダントの紋章と見比べ、どちらからともなく叫んだ。
「初代魔王の紋章だ!」




