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不死鳥と番犬  作者: 久陽灯
第1章 伏魔殿
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第15話 絶望のアラクネ

 牢番は歳のわりに意外と粘り強かった。セトは牢番が諦めて牢へ戻らないように、少しゆとりをもって逃げようとしていた。が、その努力をしなくても牢番はじきに追い付いてきた。たっぷり五分は走り回っただろうか。セトは息を切らしてオリンピア邸へ駆けていった。マリアンとの待ち合わせ場所だ。牢番は怒るだろうが、これもマリアンの戯れだと言われれば、立場上引きさがざるをえないだろう。

 それに、ネフェリア王女には歩く元気も気力もある。空を見たいと言うのなら、病弱でもそれぐらいは許されてもいいはずだ。

 彼はそう思いながら、後ろを振り向いて牢番が追って来ているか確認した。その途端、額に激痛が走った。牢番が投げた大きめの石が、狙い過たずセトの頭に当たったのだ。ふらついた隙に、牢番はどんどん近づいて来て、セトの胸倉を掴み上げた。


「鍵を返せ! この馬鹿者が!」

「手元にはもうない」


 セトは息を切らしながらそう言って両手を広げた。


「まさか、お前……あの鍵を王女様に渡したのではあるまいな!」


 怒りでか、牢番の手は震えている。セトはその言い方にかちんときて言い返した。


「いいじゃないか、王女様が月夜に散歩ぐらいしても」


 彼が言い終えるなり、牢番がセトの頬を思い切り殴った。あまりに想定外だったので、セトは殴られて地面に尻もちをついてからも唖然としていた。

 牢番が雷のような声で怒鳴った。


「お前は、何をしでかしたか、分かっているのか!」

「 落ち着け、二人とも」


 警備兵の恰好をして、帽子だけを取ったマリアンが、そのときオリンピア邸の中から姿を現した。長い髪が風になびいている。どうせなら殴られる前に出て来てほしかった、と思いつつも、セトは安心した。マリアンを前にすれば、牢番の気持ちも和らぐだろう。だが、牢番は再び叫んだ。


「マリアン様、あんたはネフェリア様を危険に晒しているんですぞ! それがわかりませんか!」

「王宮の中を散歩するだけで、何の危険があるというんだ?

 むしろ、ずっと閉じ込めておく方に問題があると思うが」


 彼女は堂々とした調子で尋ねた。セトと同じことを言っているはずだが、牢番の態度は流石に違った。というよりも、牢番の目には涙が光っている。彼は嘆願するように言った。


「姫様を閉じ込めていたのは、私の本意ではありません! 王様の命令です!

  ネフェリア王女は二人もいらぬ、と! 私は姫様を、炎の中から助け出しました。ですが、姫様は生涯癒えぬ傷を負ってしまったのです!

 私は必死に慈悲をこい、地下牢から出さぬことを条件に、ようやく王女様をお守りしていたのです。王様はおっしゃいました。姫様が牢から出た場合……姫の命はないと!」


 セトは驚きに目を見張った。仮にも孫に対して、命を取るという祖父がいるだろうか。しかし、マリアンの顔はみるみる険しくなった。


「わかった、探そう!」


 真剣な声で、彼女は言った。


 異変が起こったのはそのときだった。

 金属を擦りあわせるような不愉快な音が聞こえた。その音はどんどん大きくなり、まるで女の悲鳴のように鳴り響く。

 瞬間、セトの全身に鳥肌が立った。今まで感じたこともないような恐ろしい魔気が周辺に漂っている。魔物だ。それもとんでもないレベルの魔物が王宮にいる。一体、どこにいるのだろう。

 マリアンも、牢番も魔物の声を聞き蒼白になっている。


「魔物だ! とにかくあれを倒そう! 皆が襲われたら大変だ!

 牢番、あんたは姉様を探して守れ!」


 マリアンがそう言い、すらりと警備兵の剣を抜いて、金切り声のするほうへかけていった。牢番もぜえぜえと息を吐きながら後へ続く。セトも萎えかけた脚を無理矢理動かして、音の方へと走りはじめた。マリアンの足は速い。途中で幾人かの警備兵と出会ったが、全て追い越して走っていく。音は断続的に大きくなり、すぐにその場所は知れた。回廊を通った後宮側にある、君主の間だ。


 何回目かの金切り声が聞こえたとき、セトはマリアンより遅れて部屋に入った。とたんに、頭の上を警備兵の帽子がとんでいき、彼はぎょっとして身を屈めた。既に、数人の警備兵がランタンに照らされた床に倒れ込んでいた。血にまみれ、身じろぎもしない。背中には、魔物の黒く固い脚が刺さっている。

 ただ一人、長剣を持ち、油断なく正面に構えている警備兵がいた。いや、あれはマリアンだ。セトの背筋がぞわぞわする。

 黒い甲羅のような頭に、十の丸く表情のない瞳がマリアンを見据えている。その下には、二本の牙が見えるあぎとがあり、がちがちと何かをはんでいた。胴体はおぞましい黄色と黒の横縞がはしっている。八本の脚が、頭と胴体を繋ぐ胸部から出ていて、鋭い爪で数人の兵士を突き刺していた。

 蜘蛛だ。人の三倍は身長がある蜘蛛が、こちらの隙をじっと伺っている。

 だが、本当に恐ろしいところは、そこではなかった。セトとマリアンが牢の鉄格子の隙間から無理矢理押し込んだ、白い孔雀の羽根がついた夜会帽が、魔物の頭の上にちょこんとのっている。まるで冗談のような、悪夢の光景だ。

 マリアンもそれに気づいているのか、剣を構えながらも顔が青い。いつも攻撃するときにはもっと思い切りがいいはずだが、長剣を構えてじっと間合いをはかっているだけだ。


「姫様、姫様!」


牢番が回廊で叫んでいるのが、大きな窓越しに見えた。

ネフェリアがこのあたりにいないか探しているのだ。この魔物が彼女だとは、誰も思うまい。


と、魔物が動いた。また悲鳴のような金属を擦り合わせたような不愉快な音を立てたのだ。あまりに大きな悲鳴に、次々と大きな窓が割れていく。セトは思わず腕で目を覆い、ガラスの破片がこちらへ飛ばないように願った。外からぎゃっと声がして、牢番が倒れていくのが見えた。背中に窓のガラスが刺さっている。そんな喧噪の中、マリアンは微動だにもせず、蜘蛛と向かい合っている。いや、向かい合うというより、動けなくなっているといったほうが正しい。蜘蛛はじりじりとマリアンに近付くと、ガチガチと牙を動かして、急にに胴体をねじった。


「危ない!」


 思わず、セトは部屋へ走り込み、マリアンを突き飛ばした。刹那、セトの足ががくんと揺れ、動くことができなくなった。魔物が、しゅっと蜘蛛の糸を飛ばしたのだ。足にかかった糸はねばねばしていてるわりにすぐ表面が固まり、足を動かせなくなる。こちらへ向き直った魔物相手に、彼は絶望的な気持ちで黒曜石のナイフをポケットから取り出した。


「キャァアアアア!」


 魔物が鳴き、セトの上に鋼鉄でできているような脚を振り上げる。このままでは、突き刺される! 一触即発で、彼はナイフでブーツの革紐を切り、靴を片方捨てて転がった。果たして、セトがいたところには黒い脚が分厚い絨毯に突き刺さる——と思えた。金属と金属のぶつかり合うような、澄んだ音が聞こえる。黒い脚と、鋼鉄の剣がぶつかり合い、競り合っていた。突き飛ばし方が足りなかったのか、マリアンはセトのすぐ側に立っていた。そして、ついに長剣を振るったのだ。セトを救うために。ギィンという音と共に、蜘蛛の脚が離れる。そして、また急に方向を変えようとした。また糸を出そうとしている。セトはマリアンに手を引かれるようにして走った。片方しか靴をはいていないので走りにくかったが、彼らを追うように次々と糸は発射される。ついに、マリアンとセトは再び魔物の頭の方へ回り込んだ。掠れた声で、マリアンが尋ねる。


「どうすればいい? そもそも、あれは姉様なのか?」

「……ああなってはもう、人へは戻れない!」


 セトは血を吐くような思いで、そう叫んだ。何がネフェリアを魔物にさせたのかは分からない。だが、これだけは確かだ。人は、絶望で魔物となる。様々なことで、人々は絶望に陥る。それは家がなくなったり、大切な人が死んでしまったり、村で飢餓が起こったり。全ての希望が断たれたそのとき、多産の魔王はたやすく人の心に入り込むのだ。そして、こうなってしまって元へ戻れた例を彼は知らない。長年、師匠のリュシオン先生と共に魔物を研究した結果がこれだ。

 キィイイイイイイ、と魔物はまた金属を擦り合わせるような声を上げた。そして、セトだけに分かる魔物の言葉が、広間に反響した。


「あなたが全てを奪った! 私の名前も、私の将来も、私が得るはずだった何もかもを!」


 その言葉の意味が分かる前に、魔物はすごい勢いでこちらへ脚を振り下ろした。彼らは転がって、危うく難を逃れた。


「……だめだ、やっぱり姉様を攻撃なんてできない!」


 マリアンがセトに向かって懇願するように叫んだ。ほとんど泣きそうな顔をしている。セトはもう一方のブーツの紐も切り、裸足で立ち上がってナイフを構えた。


「……わかった」


 マリアンが攻撃できないのなら、セトがやるしかない。そうは言っても、この短いナイフでは蜘蛛相手に一太刀浴びせられるかどうかも怪しかった。彼はナイフを逆手に持ち替え、蜘蛛と真正面で相対した。わきわきと動く脚に生理的な恐怖もあるが、ここで倒さなければ、よけい犠牲者が増えるだけだ。十個の瞳が彼を見つめている。前脚の二本が容赦なく彼を襲ってくる。セトは意を決して、蜘蛛の方へ跳び込んでいった。黒曜石のナイフで胴の柔らかいところを狙うつもりだった。しかし、もう二本の脚がセトに迫る。危なく串刺しになりそうになり、胴へ行き着く前に横に転がって離脱せざるをえなかった。しかし魔物の追撃は終わらない。離脱したと思った場所に、びちゃっと蜘蛛の糸が吐き出された。その糸は寝転がったセトの身体にまともに当たった。まずい。動かせない。手にもべったりと糸がつき、さっきのようにブーツを脱いで逃れることも不可能だ。

 黒く尖った脚が振り下ろされるのを、彼はなすすべもなく見ていた。


「待て!」


 凜とした声と共に、その脚が吹っ飛んだ。マリアンが、長剣を振るって脚をはじき飛ばしたのだ。キャシア、と苦悶の声を上げ、魔物はひるんだ。マリアンは、セトの前に立ちはだかっていた。その顔は見えないが、背筋は伸び、長剣はしっかりと魔物に向けられている。


「姉様」


 静かな声で、マリアンは魔物に語りかけた。


「私は守りたい。国を、民を守りたい。今ここで、戦っていた兵士たちも。そして、この私の従者も」


 魔物は、シュウシュウと臭気を吐いた。もはや、そんな演説など聞く耳を持ってはいないのだ。そして、蜘蛛は自分の脚を弾いた相手——に向かって、四本の脚を次々に繰り出した。しかし、マリアンはそれをひらりとかわして、回り込む。

 そして、距離を十分とり、再び向き合って叫んだ。


「私を憎んでください! 私は貴方の憎しみごと、貴方に成り代わる!」


 大蜘蛛が突進してきたその瞬間、彼女は目にも止まらぬような速さで剣を振るった。

 あれこそが、英雄赤騎士の剣術だ。セトは息もできずにそれを見ていた。

 魔物と交錯した後、ゆっくりと魔物は沈み込んだ。黒と黄色の胴体からは、おびただしい血が漏れている。白い孔雀の羽根がついた夜会帽が静かに落ち、赤い血に染まっていく。そして、蜘蛛の瞳からは、緑色の光がじんわりと消えていった。

 マリアンは下を向いたまま、剣を拭うこともせず、床に落ちた夜会帽をじっと眺めていた。

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