第12話 花束と詩とワイン
セトは、腹ばいになり、クルップヘンの花束を暗い窓に向かって差し出した。かさりとした手応えの後、持っていた花束がなくなった。
ネフェリア王女の嬉しそうな声が聞こえる。
「こんなにたくさん? いいのかしら」
「ここには沢山生えているので。誰も取らないし」
「よかった。ちょうど、以前いただいたものがしなびてしまったのよ」
あれから、マリアンは魔物退治や脱走も控えて、出来るだけここに通って話をしていた。彼女たちが親友だったのは疑いようもない事実で、いつも笑って話していた。だがマリアンの社交界デビューが近付くにあたり、彼女は輪をかけて忙しくなっていった。ちょうど一月後、建国記念の日に、社交界お披露目の舞踏会がある。十六歳になる大貴族の娘達が王宮に集い、各国の親善大使も呼ばれ、盛大な舞踏会が催されるのだ。セトもそのせいで連日舞踏会のダンスの練習に付き合わされ、足をヒールでがつがつと踏まれる毎日に辟易していた。
ここティルキアでは、王族や大貴族に伝わる特別なダンスのステップがある。『ティルキアンステップ』と呼ばれるそれは、高い難度と華麗な足さばきで有名だ。その踊りを見ようと来る外国の貴族達も多い。しかし、それを習得するまでには、足を百回は踏まれなければならないという苦行もついてくる。いっそのことフルプレートの騎士に足の部分だけ貸して貰いたい、とセトは練習台にされる度に思った。
「マリアンは今日いないの?」
ネフェリア王女の声で、彼は現実に引き戻された。
「服の採寸です。相当嫌がってた」
「ふふ」
あの子、本当にじっとしているのが嫌いなのよね、と彼女は朗らかに笑った。
「でも、あの子が今身代わりをしてくれて助かっているわ。貴方たちのおかげかしら、私このごろ身体の調子がいいの。私が元気になったらまた入れ替わればいいわ。そうすればマリアンも元の生活に戻れるでしょう? そのほうがあの子にとっても幸せよ」
その言葉に、セトの額にじっとりと汗がにじんだ。この王女は、今の状況を分かっているようで分かっていない。マリアンのことを、あくまでも王女が回復するまでの身代わりと思っているのだ。それを否定することは、はばかられた。だが、セトにはわかっていた。帝王学を身につけ、君主の間に肖像画を飾られて、社交界デビューまで果たしてしまえば、マリアンのほうが本当の王女として顔が知られてしまうことになる。怪我が治ったからといって、それを後で覆せばどういうことになるか——。顛末はどうあれ、とんでもない大事になるに違いない。
「ねえ、頼んだもの持ってきて下さった?」
「ああ、はい」
セトは慌てて緑色の皮表紙の本を取り出した。パルシア・レイセルの詩集を持ってくるよう、頼まれていたのだ。マリアンに許可すらとらず、部屋の本棚から抜いてきた。本の一つや二つ減ったところで、彼女は気にも留めないだろう。元々、彼女が好きこのんで本を読んでいる姿を見たことがない。
「読んで下さる? お気に入りの詩があるの。『暗闇に潜む愛』の詩よ」
セトはページをめくった。美しい装丁に、凝った挿絵もついた豪華本だ。彼が研究していたときに使った誰が写したかもはっきりしない汚い写本とは大違いだ。開き癖がついていたので、『暗闇に潜む愛』はすぐに見つかった。
『愛は暗闇に潜みて静かに音もなく忍び寄る。
それはときに死神のように、それはときに憎しみと化して。
光差す庭にあふれた愛は美しく、皆に祝福される愛は、女神のように崇められる。
しかし暗闇の愛は誰にも賞賛されることもなく、それでいて消えることのない炎となって燃えさかる。
ほとんどの人々が、自身の運命の相手が誰であるかを知らない。
私はその答えを手に入れた。
その愛はどれだけ私の心に響いたか。
もう愛とは呼べぬ妄執と化してなお、その煌めきは永遠である。
純粋である。そして残酷である』
一国の王女にしては不穏な詩が好きらしい。セトはこのあたりの詩には興味がなかった。どちらかと言えば土着の民謡や、古代の地形や植物が描写されている部分を集中的に研究していたからだ。それに、この詩は、格好付けているが昔の不倫をうたったものだ。
うっとりとした声で、王女は言った。
「いい声ね。私がマリアンと話している間は、貴方遠慮して話に入ってきてくれないでしょう?」
「従者ですから」
「貴方とも、もう少しお話したいのよ、従者さん。レイセルの詩を知っている人に出会えたのは初めてなんだから。貴方の顔も見てみたいわ。黒髪で陶磁器の人形みたいに白いってマリアンは言っていたけれど、きっと素敵なんでしょうね」
「期待しないで下さい」
セトは赤くなって言った。容姿を褒められるのは慣れていない。今まで暮らしていた魔術師の聚落『神秘の塔』は女人禁制だったので、そういうことに免疫がついていないのだ。
それから、王女の希望する四、五編の詩を読み、レイセルの生涯や果ては白山の歴史にまで話は及んだ。驚いたことに、彼女はセトが舌を巻くほど博学で、一般の研究者には知られていない逸話までもがその口から語られた。大陸で一番大きな山、白山は、レイセルの時代にはただの小さな山だったという説だ。白山は今では静かなものだが、レイセルが生きていた千年ほど昔には、活火山だった、という話である。もちろん確証は取れていないが、レイセルの詩をよく読むと、霊峰白山がいかに低く、ろくな木も生えない山だったかという実態が浮かび上がってくるのだ。
白山の話に夢中になっていたセトは、城の影が長く伸びていることにはっと気付いた。マリアンの採寸の時間はとっくに終わっている。セトがオリンピア邸にいなければ、ここにいるのはわかっているはずだ。なのに、今日は姿を見せない。嫌な予感がする。
「まずい。ちょっと行ってきます」
彼は急いで立ち上がり、青い服から草を払った。
「あら、残念。どうしたの」
「あの王女様……いや、マリアンがまた何かやらかす前に、見つけ出さないと!」
そう答えて、セトは城下町への出口へ向かって走り始めた。この頃控えていたくせに、また脱走だ。今度は何をしでかすか、考えが読めないのが困りものだ。
しかし、城下町に出てすぐに、彼女の居場所は分かった。カモメ亭でワイン早飲み大会が開かれている、という話を通りすがりの商人から聞いた瞬間、そこだと確信した。やはり彼女はそこにいて、ワイン十本をどれだけの早さで飲めるかという競技に参加し、見事に優勝を果たしていた。
彼が見つけたのは、幸か不幸か優勝が決まった後だった。よれよれで真っ赤な顔をした赤騎士が、陽気に叫んだ。
「ようセト! お前も一緒に飲んでいくか?! 私はまだまだ飲み足りない!」
十本を飲みきった優勝者の言葉に、周りの客が一斉に感嘆の声を上げ、グラスを掲げた。
赤騎士はついに十一本目のワインを、グビグビと水のように飲んでいる。
「酔っ払いって本当にたちが悪いよなー」
一歩引いた席で頬杖をついてシチューを食べているローシュが、他人事のように言った。
「どうせ、お前が教えたんだろ? この大会のことを」
「まあな。俺もどさくさに紛れて飯も食えるし」
最近会えなかったから、ろくなもん食ってなかったんだぜ、と恨みがましくローシュは言い、食べ尽くしたシチューの皿の底まで綺麗になめとった。
「救貧院にはいかないのか?」
「あんな退屈なところにいるくらいなら、浮浪児のほうが百倍ましだよ」
それに、俺は俺でちゃんと生活しているから、とローシュは胸を張って言った。どうせ最初にセトが会ったときのように、無知な田舎者からせしめているに違いないと思ったが、この少年の気概はうらやましかった。
赤騎士は最近忙しいが、また来るようになる、とセトがいうと、ローシュの顔がぱっと明るくなった。
「そうか! そうだよな、やっぱりヒーローは必要だよな!
実は、あの竜の襲撃も、赤騎士様が何とかしてくれたんじゃないかって、ずっと思っていたんだ!」
ローシュの頭の中では、赤騎士は本当に何でもできる英雄と化しているらしい。竜の件に関しては事実だが、その原因までが赤騎士だとは思っていないだろう。
「おーい、シチュー追加! 赤騎士様の付けで!」
ローシュが手を上げて店員に頼み、その後セトに耳打ちした。
「今だ、好きなものを頼め! 赤騎士様の付けって言えば、何でも食えるぜ!」
セトは、既に十二本目に突入している赤騎士を苦笑して眺めた。カウンターを瓶が占領し、笑いっぱなしで飲んでいる。セトが持っている重大な秘密や、陰鬱な気分を一気に吹き飛ばすような、そんな楽しげな様子だった。
「兄ちゃん、何にするんだい?」
太った女将さんが、直々にシチューのおかわりを持ってきて尋ねた。
「じゃあ、俺もシチューで」
「あいよ!」
女将さんは笑顔で当然のように言った。
「あんたの分も、赤騎士様に付けておくからね!」
「ああ〜、道が三つに見える〜」
流石に飲み過ぎたのか、セトはマリアンが肩にのしかかる重みを感じながら、一歩一歩城へと帰って行った。マリアンがあまりにはしゃいでいるので、ついセトも制止しなかったのかまずかった。今までにないくらいに、酔っ払っている。
「どうして王女様に会いに来なかったんだ。あの人は貴方と話すのを楽しみにしているんだぞ」
「いや、行ってみたんだよ? でもさあ、レイチェルだっけ? なんだっけ? そんな人のこと私は知らないしさあ。なんか盛り上がっているしさあ。これはもう城下町で遊ぶしかない、と思って出ていったら、ローシュが早のみ大会やってるよーっていうからさあ」
どこかから、セトと王女の話を聞いていたようだ。仲間はずれにしたようで少し悪い気はしたが、彼女は酔っ払っていて呂律が回っていない。何かを喋らせるよりも一刻も早く寝かせた方がいい。
「……セト、私は決心したぞ」
相変わらず呂律が回っていなかったが、マリアンがぼそっと耳元で囁いた。
「私は王女の名を捨てる。こんな重い名前、私は向いていないんだ。
それに、本当の王女様が生きているんだから。私が名乗る理由もない」
セトも同感だった。どう考えても、マリアンは上手に嘘を付ける人間ではない。周りの人々が、無理矢理彼女を王女に仕立て上げたのだ。しかし、王女として二年、ここまできてしまった手前、どうするつもりなのだろう。
「でも、どうやって取り繕う?」
「明日、国王陛下に直談判して考えるさ……そのための景気づけのワインだ」
マリアンが、にへっと笑ってセトに一層もたれかかった。
「まあ、見てろ。私は英雄赤騎士、リアン・フェニックス! 姉様を、絶対にあの暗闇から救い出してみせる!」




