全てを捨てて進めないから
進路希望調査でふざけるなって怒られた。
別にふざけてないのに。
ボク、真面目なのに。
膝が隠れる長いスカートを握り締め、下唇を噛んだ。
目の前では担任が頭を抱えている。
ボクと担任の前にある机の上には問題の進路希望調査が置かれていた。
こんな紙一枚で、生徒の何を見出そうとしているのか良く分からない。
「作間、本当に考えた結果がこれなのか」
はい、とボクは頷く。
担任は溜息。
そんなもの何度聞かれても意味ないのに。
そう思いながら静かに背もたれに寄りかかる。
進路希望調査には進学とも就職とも書かれておらず、書いてあるのは赤ペンで『作家』の文字。
凄く真面目に考えて書いたんだけれど。
駄目とか意味が分からない。
「作間なら成績だって悪くないし……」
「うちの学校じゃ悪くないって言っても、全国的に見て中の下ですよ」
「普段の生活態度だって……」
「ボクよりいい人沢山います。ボクのは目立つことをしないように、普通に普通にしてるだけですから」
担任のフォローと言うか担ぎ上げと言うかを、全て流しながら答えた。
それも食い気味で早口で。
そのせいか、担任は冷や汗を流して口元を引きつらせ始める。
駄目だと思うんだ。
教師がこんなに簡単に押し負けちゃ。
背もたれに預けた背中を離して、今度は前のめりになる。
手を組んで机の上に置く。
下から担任を見上げながらも、淡々と思っていることを吐き出した。
「ボクがしたいのはこれだけなんです。これしかなくて、ここしかないんですよ。ずっとずっと、今よりもずっと前、物心つくよりも前からここがボクの居場所で行く場所で帰る場所だと思ってました。だから、これ以外の選択肢は必要ないんです」
担任が目を丸くするのを、どこか遠くで見ていたような気がした。
ボクが口を閉じれば水を打ったように静まるから、もうこれで話は終わりなんだと思う。
小さな音を立てて椅子から立ち上がると、ハッとしたように担任がボクを見た。
その目があの人と似ていて、チリチリと胸が焼けたような気がして仕方ない。
下唇を噛んで、頭を下げてから教室を出た。
教室を出た先の廊下では、幼馴染みが待っていてボクを見ると静かに片手を上げた。
***
「はい、いつもの」
ひたり、と頬に当てられたのはカフェオレ。
コーヒーとミルクが半々の。
これが一番美味しい。
「ありがとう」
「はいよ」
廊下で待っていてくれた幼馴染みと一緒に、屋上まで来た。
今時屋上が開いている学校なんて珍しいだろう。
ボクは柵に腕を預けながらプルタブを開ける。
間抜けな音を聞きながら放課後の空気を吸う。
放課後は独特の空気が流れていて好きだ。
あちこちから聞こえてくる吹奏楽だかブラバンの個人練習のメロディーや、合奏のメロディーが歪に絡み合う。
体育館ではバスケ部やバレー部のボールや掛け声。
グラウンドでは野球部のバッティング音が聞こえてくる。
幼馴染みは待っていた理由を言うでもなく、ボクと担任の話を聞くでもなく、ボクと同じように間抜けな音を立ててプルタブを開けた。
ブラックコーヒーを啜っている。
何でそんな苦いものを飲めるのか不思議でたまらない。
幼馴染みといる時間は好き。
小説を書いている時と同じくらい好き。
のろのろ流れる時間で深くゆっくりと呼吸が出来るから苦しくない。
息苦しいのも生き苦しいのも好きじゃないから。
「ねぇ、怜ちゃん」
ボクの呼びかけに顔を上げる気配がした。
ボクは変わらずにグラウンドやら校庭の方を見る。
「ボクにはこれしかないんだよ」
甘くて苦いカフェオレ。
真ん中くらいが丁度いい。
いつも真ん中を選んできた。
人っていうのは丁度いい場所を探していて、平均とか普通とかを望む生き物だ。
ボクもそう。
皆そうだろう。
でも、一つだけ違う物があった。
それが小説。
気付いたら書いていて、気付いたら目指していた。
多分それは普通とかじゃない。
真ん中にいられないもの。
それでも手放せずにいる。
「『これしかない』って言えるものがあるのは、私からしたらいいものだと思う」
怜ちゃんの低過ぎず高過ぎない、綺麗なよく通る声が響いた。
怜ちゃんの声は好き。
綺麗だから。
耳を通り越して頭に入ってくるような、透明で鮮度のいい水みたい。
「怜ちゃんにだってあるよ」
「それは、アンタから見たらでしょう?私自身がそう思わなきゃ、意味がない」
ボクは口を噤んだ。
怜ちゃんの言うことももっともで、ボクが決めていいことじゃないんだから。
カフェオレに口をつける。
今日もやっぱり美味しくて冷たくて、緊張していたらしい喉を潤してくれた。
カキーン、と金属バットが硬球を打つ音。
綺麗な線を描くそれをここから見ていた。
青春だ、なんで呟いて。
「若いうちが花よ。歳を取れば取るほど失敗が怖くなって、挑戦することを諦めるんだから」
今やっておかないと後悔する、と怜ちゃんが言う。
怜ちゃんは優しい。
私が出会った人の中でも特に優しい。
欲しい言葉をくれる。
望んだ言葉を選んでくれる。
あの時もそうだった。
高校受験に失敗した時。
本当は進学校に行くはずだった。
私立のお嬢様お坊ちゃん学校。
それをボクのお父さんは望んでいたのだ。
でも、ボクはその期待に答えられなかった。
勉強なんてそんなに好きじゃない。
する理由があればきっと楽しめた。
やれと言われて楽しく出来るほど、ボクの心は広く穏やかではなかったのだ。
ボクはそれを投げ出した、逃げた。
その時のお父さんの目は今でも忘れない。
ボクを駄目だと言った。
それは諦めにも似ている。
もう要らない、必要ない。
ゴミだ、クズだ。
お父さんの目はそう言っていた。
失望……そう、お父さんはボクに失望したのだ。
「やりたいけど、怖いよねぇ」
たぷん、と缶の中には半分くらい残っているカフェオレ。
ボクはそれを一気に喉に流し込む。
怜ちゃんはそんなボクを見上げて「何が」と問う。
ボクも怜ちゃんを見る。
長いまつ毛に縁どられた目が、真っ直ぐにボクを射抜いていた。
怜ちゃんのこの目を見るといつも喉が締まる。
「やりたいよ。それしかないよ。でも、先に進むのはやっぱり少し怖い。いつも手探りだけど、見つけた先の人にまた失望されるのが怖い」
怜ちゃんが一度、二度、と瞬きをした。
ボクもそれに合わせて目を瞬く。
いつか怜ちゃんにもあの目をされるのかな。
それは嫌だなぁ。
そっと怜ちゃんの目から自分の目を逸らそうとした時、まるでタイミングを見計らったように怜ちゃんが立ち上がる。
ボクよりも長くて綺麗な髪が揺れた。
立ち上がった怜ちゃんと並ぶと、ボクの方が幾分背が小さい。
これが割と気にしていることでもある。
「進めばいいよ。好きな方向に好きなように。歳を取って出来ることなのか考えてみればいい。きっと出来ないから、今やるんだ」
ほら、ほら、怜ちゃんは優しい。
ボクに失望の目を向けない。
切り離さない。
切り捨てない。
信じてる。
やれる。
やれ。
怜ちゃんがそう言ってる。
背中を押してくれる。
ほろほろと涙が溢れた。
風に晒されて頬が冷たい。
袖で拭って拭って怜ちゃんにありがとうを言う。
先が見えない闇を進むのは、きっと、一人じゃ出来ないんだ。