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挿絵:ときかさ実居里 様
この世なんて廃墟のようなものさ、と彼は言った。
きらびやかな世界も豪華な建築物も、全てには死が隠れている。見えないだけで、滅び廃れていく残酷な運命は、万物が平等に持ち合わせているものなのだ。
錆びて死にかける姿は美しいとは思えない。見ていたいとも思えない。でも、時に見たくなる。
惹き込まれるんだ、あいつらには得体の知れない強力ななにかを持っている。なにかは分からない。いっそのこと、幽霊でもいてくれたらその謎が簡単に解けるのに、そこで彼は笑った。
※※※
「おい、一体何度呼び出されたらわかるんだ?」
生徒指導室と呼ばれる小さな部屋には、自分と生徒の二人きり。呼び出した生徒は学校一の問題児で、赤点連発で、しかも自分が担任しているクラスの生徒で――という、いわゆる頭痛の種だ。
「…さぁ」
「さぁじゃないだろう。ま、お前の場合、心当たりが多すぎて分からないのも分かるけどな」
溜め息をつきそうになった。目の前にいる生徒は岸田郁人という。現在高二だが、歳にしたら十八だ。詳しくは知らないが、中学を出る頃問題を起こし、高校受験が一年遅れたらしい。
岸田はぱっと見不良という不良ではない。髪は少し長いけれど、染めてないし、ワックスもパーマもしていない。まあ服は着崩しているしピアスは開けているけれど、いわゆる大勢でつるんでいるような安い不良ではない。でも真面目というわけでもなくて、悪い意味でしょっちゅう話題になる。
「ほら、これだ」
おれはその岸田の前に一枚の紙切れを差し出した。岸田は椅子にのけぞり、やる気のなさそうな目でそれを遠くから眺めていた。
「おまえはこないだのテストですべて合格点に達してない。だから呼ばれた」
「……ああ、」
そんなことか、と言いたげに、あくびをした。そんな岸田を横目で見つつ、おれは話を続ける。
「こら、そんなことかじゃないだろう? 追試でも合格点を取れなかったら留年だからな!?」
ふーん、と岸田は上の空で相槌をうつ。八年間高校の教師をやってきたけれど、これほどやる気も誠意もない人間は初めてだ。
「これは冗談じゃないからな!? 本当に留年はあるんだからな。今日から毎日勉強すること。分かっ」
「はいはい」
人の話を聞かず、椅子から立ち上がっては教室を出ていこうとする岸田。苛立っていたおれはそいつを追いかけた。
「こら、人の話は最後まで聞…」
「うっせーよ」
引き止めようとしたところ、岸田がギロリと睨みおろしてきた。百八十センチはゆうに越す大男に睨まれると、かなりの迫力がある。
「な、何を口答えして…っ」
「分かった分かった。話はぜーんぶ分かったよ、浅川センセ」
岸田はバカにしたような笑いを浮かべ、手をひらひらと振って部屋を出ていった。あまりにも性格が歪んでいる。まるで取り付く島もない。
おれは言葉を失った。
自分がこの高校に異動になったのは、この春からだ。その前まで勤めていた学校は、まちなかにある進学校だった。学校は教育熱心で、優秀な生徒が山ほどいた。しかし、春から新たに用意された職場は、片田舎の辺鄙な場所にある学校で、とんだ落ちこぼれ学校だった。不良の生徒は山ほどいるし、毎日何かしら問題が起こる。教師にもやる気が見えない。いくら鈍いと言われてきたおれでも、 四月の頃は前の高校との落差に頭を抱えたものだ。
おれの担当は、二年生の就職希望クラス。生徒は一組から六組までおよそ成績順に分けられている。就職希望クラスとは、一学年六組ある中の、六組だ。二年六組は、毎年、「嵐のクラス」とも呼ばれているらしい。その中に、岸田もいる。
ここは山奥の学校というわけではないが、校舎は森に閉ざされていて、その周りは田畑と家以外何もない。勉学を勤しむにはもってこいの環境だが、果たしてここの生徒にはどうなのだろうか。
自転車で十分ほど行ったところの最寄り駅には、シャッターの多さが目立つけれど、一応商店街らしきものと、怪しげなホテル街がある。生徒たちは主にそこで遊んでいるらしい。本当に寂れた田舎だ。この地域は過疎化が進んでいると聞いたこともある。
「は〜…」
田舎の学校ということはまだしも、問題児が多いのは気にかかる。もちろん真面目な生徒はたくさんいる。しかし、やはりというか、高卒の学歴が欲しいだけに来ている生徒も少なからずいて、勉強に身が入らず、遊び呆けている者も多い。
岸田もそのうちの一人なのかもしれない。
(ああ、岸田よ……)
せめてお前にもう少し人間味があったら。おれはおまえがわからない。
※※※
「…はい、授業はここまで。引き続きホームルームするぞー」
水曜日最後の授業が終わった。授業が終わるとともに、教室は騒がしくなる。
「せんせー、」
「何だ、錦」
教壇の正面の席の小柄な男子生徒が、目をキラキラさせている。
「今度の保健医、超美人ってのは本当っすか」
「あー、本当だ」
「よっしゃっ! おい、みんな聞いたか! 今回もやべえぞ!!」
錦の掛け声に、教室内の生徒(主に男子)は、ウェーイと野太い声で喜ぶ。放送禁止用語が飛び交い、授業の時とは比べ物にならないくらい、笑顔に満ち溢れている。
「おいおい、女の先生をそんな目で見るな」
「いや無理ッス。先生、胸でかい?」
「にしきー、それしか頭にないのか?」
「はい!」
気持ち良いくらい爽やかな笑顔で返事をする錦。あどけなさが残る顔とは裏腹に、やることはやっているらしい。まったく、下半身じゃなくて頭を使ってほしいものだ。
「…それは会ってからのお楽しみだな。ほら、明日の予定言うぞー」
錦たちをかわすと、教室中にブーイングが巻き起こった。まったく、ここの生徒はどこまでソレばかりなのだろうか。
「…以上でホームルームは終了だ」
手短に終わらせ、生徒たちを帰らせた。ふと、窓際の一番後ろの席を見やる。
今日も岸田は来ていなかった。
(あいつ、昨日注意したばかりなのに…)
本当にあいつは大丈夫なのだろうか。学業が、というより人間的に心配になる。
初めて会った時から、あいつは人となにかが違った。
グレているところは他の人と変わらない。しかし、人と群れることはない。あいつはいつも一人だった。
悲しいでもない、苦しいでもない、嬉しいでもない、あの氷のような瞳と口元。憂いを帯びた眉と睫毛。
やる気はない。けれど淋しそうだった。人生を捨てているように、いつもなげやりになっていたのが気になっていた。
この学校に初めて来た時、最初に出会った生徒は岸田だった。そうだ、あいつは森の入り口でタバコを吸っていた。近づいてきたおれに、アンタ誰、やつは問いかけた。おれは答えた、四月からここの先生だ、タバコはダメだろう、かしなさい、おれは岸田からタバコ奪った。岸田は冷めた目で、おれを見上げていた。感情の読み取れない目に、背筋がぞくりと寒くなった。
「かっこいいねぇ、センセー。そうやって生徒を救えるなら」
やつが言ったのはこの一言だけだった。むっとするおれをよそに、岸田は二本目のタバコに火をつけていた。
春からあいつの担任になった。やるきのない岸田は、休み時間でも授業中でも、ずっと窓の外を見ていた。多分、森を眺めていた。
岸田は森が好きなのだろうか?
何度目かの呼び出しで、それを尋ねたことがある。やつは笑って言った、そりゃあ、秘密基地があるからな、気にもなるさ。それから何度か、森に入っていく岸田を見た。
一度だけ、気になって自分も森の中に入ってみたことがある。森の奥の薄暗いところに、不気味な廃屋があった。 どれくらいほったらかしにされていたのだろうか。古くて、おんぼろで、今にも崩れそうな昔造りの民家だった。怖くなって、おれはすぐに来た道を引き返してきた。そして、二度と行かないと決めた。
岸田は、あそこに行っているのだろうか。
「せんせ、気の浮かない顔してますねぇ」
生徒の教室から教員室に戻ると、同じ英語科教師の和田井先生が言った。
「…はぁ、」
「もしかして岸田ですか」
「え!? あ、」
図星だった。危うく持っていたものを落としてしまうところだった。
「え、もしかして図星? まぁあいつはあまり構わない方がいいですよ…適当に単位あげて、ほっとくのが一番ですよ」
和田井先生は笑顔でおれの肩をポンポンと叩いた。皆、岸田に対する反応はこうだ。
もやもやする。
自分の机に移動すると、和田井先生は椅子ごとこちらに振り返った。
「あ、浅川先生、そういえばさっき岸田を見ましたよ」
「え? 今日は休んでたはずじゃ…」
「私もついさっき見たんですよ。森の中に入っていくところでしたよ。岸田のことだから、関わらないほうがいいと思って止めませんでしたけど」
――気づけば、森の中を走っていた。
五時半を回った森の中は真っ暗だった。今はもう十一月の初めだ。
おれはスマートフォンで足元を照らし、獣道を慎重に進んだ。
『なぜ引き止めてくれなかったんですか…っ!』
数分前、おれはいつのまにか、声を荒げていた。
『どうしたんだい、浅川先生』
『こんな暗くなっているのに、おかしいと思うでしょう! 何かあったら…』
『まあまあ、』
和田井先生は、コーヒーで眼鏡を曇らせながら、興味なさそうにしゃべった。
『岸田のことだ、ほっといた方がいいんだよ。干渉されるのが嫌だからな。去年、それで怪我させられた教員もいる。あいつは異常だ。そして治らないんだよ』
確かに岸田は風変わりなやつだ。乱暴なやつだし、壊れたものが好きなんだと言っていた。
でも、そうして腫れ物扱いしてしまうのは、いかがなものか。少なくとも関係のない人物から、異常だの治らないだの言われる筋合いはないはずだ。
『…様子を見てきます』
怒りをかみ殺しながら、職員室を飛び出した。岸田が気がかりだった。背後から、和田井先生がそれほどのことか、と叫んでいたが、決して振り返らなかった。
森が少し開けたところに出ると、例の廃屋が目の前に現れた。暗いだけに、その不気味さは昼間のときと比べものにならない。まるで時が止まったようだ。異次元世界にいるような錯覚に陥ってしまう。
「きしだ、きしだーっ!」
おれは無我夢中で叫んだ。返事の変わりに自分の声が反響する。カラスが鳴ち、飛び立った。さわさわと木々が揺れ、底知れない恐怖に襲われる。
「きしだ、いるか!? 返事しろ!!」
自分の叫びが半ば悲鳴のようだった。誰もいない森の中ほど、怖いものはない。
ひざが震えそうになった。その時だった。
「……んだよ、うっせーな」
廃屋の影から、声がした。
すっくと立ち上がった男は、まさしく岸田だった。背の高い岸田だった。
おれは安堵して、そいつに駆け寄った。
しかし、いつも見慣れている淋しげな岸田と少し違った。
まるでこの廃屋、この森の主のように、堂々として威厳があった。
「岸田…っ、よかった、生きてた…!」
「何しに来てんだよ。しつこいな」
「おまえこそここで何をしている。まさか隠れてヤクとか…」
「んなつまんないことやってねぇよ」
岸田は不機嫌そうに言い放ち、あくびと伸びをした。しかし薄着なためか、肩を震わせた。
「さみぃ」
「当たり前だ! こんな季節なのに、制服の上に何も着ていないんだろう。これを着なさい」
おれは自分のジャケットを岸田に羽織らせた。そして腕を掴み、来た道を戻る。
岸田に会ったことで、森の恐怖はすっかり消えていた。
「ったく、昨日あんなに言ったのに、こんなところで何をやっている。学校に来たなら、授業に出なさい。せめて学校にいる間くらいは、きちんと勉強しなさい。そしてちゃんと家に帰りなさい」
「んだよいちいちうるせぇな。浅川に言われる筋合いなんてな」
「あるだろう! わたしは担任だ。クラスの生徒の面倒を見る義務がある。ったく、心配したんだぞ」
岸田は無言になった。森を抜けるまで、おれに引っ張られるままになっていた。校舎に入っても、おとなしかった。
その流れで、珍しく従順な岸田を生徒指導室に連れ込んだ。昨日岸田とここで話したばかりだ。今日もこんなことになるとは思ってもいなかった。
「岸田、」
勉強机をはさんで正面同士で向かい合う。岸田は悪びれもしない顔で、斜め下を睨んでいた。
「授業に来ないで、こんな暗くなってから森へ行って、何をしていた?」
特に何も、小さな声が返ってきた。
「…用なんて、ない」
「じゃあ何であんなとこ行くんだよ。危険だろ?」
「浅川は」
言いかけながら、岸田は面を上げた。不意打ちに、おれは心臓が高鳴った。
岸田は強い視線を向けながら、もう一度おれの名を口にした。
「浅川は、見ただろ。あの家。廃屋」
「あ? ああ」
「…たまに見たくなるんだ。…ただそれだけだ」