人違い
わたしは座布団に座り、ちくちくと手元で針を動かしている。裁縫をしているところだ。坂本さんは、着物があちこち破れたり解れたりしているのに気にせずそのままの格好で出歩こうとする。一見すると浮浪者のようで、あまりにもみすぼらしい。わたしは和裁の経験はないが、せっかく家にいるのだからと着物を繕い始めたのだった。
その坂本さんが、スエットを着てフローリングの床の上にごろりと寝転がっている。そして、瞬きもせずにじっとこちらを見ている。1メートル程離れているとはいえ、真正面からのあからさまな視線に、わたしは耐えかねていた。
「・・・なんですか?」
「いや、なんでもないがよ。あかねさんが縫い物しゆうところを見よるだけやきに、気にせんちょき。」
「そんなにじろじろ見られたら気になります。」
「うーん、そうかえ?おまんは何度見てもお加尾さまによう似ちゅうと思っての。」
着物の袖を広げながら、坂本さんの話に耳を傾ける。自分とよく似た人のことは、何となく気になるものだ。袖を広げてみると、袖口はほつれて縫い代が飛び出しているし、脇のあたりは大きく破れていた。これはみやつぐちとは別だろう。
「お加尾さま?」
「ワシの土佐の知り合いぜよ。友人の妹での。」
「へえ、どんなひと?」
「和歌も楽器も嗜む才女じゃった。」
坂本さんは、寝ころんだまま返事をする。彼はどうやら、お加尾さまとやらの顔を思い浮かべているらしい。少し上を向きながら、嬉しそうに頬を緩めて話をしている。
「仲良しやったんですね。なんか楽しそう。」
「おう。ワシの初恋やき、よう覚えちょる。」
「わあ、素敵。でも、結婚はしなかったんですよね。」
「土佐は身分制度が厳しいきに。お加尾さまの家は上士、ワシの家は郷士。ワシの身分では、なんぼ好いちょっても一緒にはなれんちや。」
「え?そんなもんなんですか?」
「おう。どうもならん。」
「そんな・・・悲しい。」
「他にも、馬鹿げた制度がこじゃんとあるがよ。列強に対抗しゆう力が要る今、このまま幕府に任せておいたら日本がダメになる。だから、ワシは日本を洗濯しよるんじゃ。」
急に険しい表情に変わった坂本さんは、がばりと起き上がる。アグラをかいて、ぎゅっと拳を握りしめた。
「あ、その洗濯の台詞、聞いたことあります。」
わたしがそう言うと、坂本さんは一瞬だけよくわからないような顔をした。けれど直ぐにふわりと微笑んで、座ったまま少しわたしに近づいて針仕事をする手元を覗き込みながら続ける。
「しかし、あかねさんがこういう事を知らんちゅうことは、今の日本には身分なんぞないんやろう。えい世の中になっちゅう証拠やとワシは思うがよ。ワシらぁのしゆうことが、実を結んだがかのう。」
坂本さんはにっこり笑った。大輪のひまわりを連想するような、明るくて力強い笑顔だ。その顔のまま、彼はお腹の辺りをぼりぼりと掻きながらあくびをしている。その仕草がかわいらしく思え、わたしは下を向いてこっそり笑った。
「しかしのう。お加尾さまとはもう今生では会えんと思うちょったが、まさかここで会えるとはなあ。しかも腹にはお子までおったき、嬉しいのう。」
「わたしはお加尾さまやありません。」
「わかっちゅう。けんど、おまんはまっことよう似ちゅうがよ。ちくと思い出に浸らせてくれ。初恋に破れた男への情けと思うて。」
そう言って、坂本さんは再びその場に寝転がる。ごろごろしながらじいっとわたしを眺めて、嬉しそうな顔をした。けれど、瞳の底には、物思いに沈んだような憂いが見えた気がした。
満月まで後少し。もう一度実験してみて、もしも坂本さんの仮説通りだったなら、彼はは次の新月の夜に帰ってしまうだろう。それは即ち、直ぐに暗殺されてしまうことになるということにもなる。こんなにも理想に燃えた優秀や人物なのに勿体ない。帰ってくれないと困るのだけれど、本当に帰してしまっていいのだろうか。何が正しい選択なのかがわからなくなってくる。
もしも、向こうの世界でも同じように時間が流れていれば、坂本さんが暗殺される予定の日はとっくに過ぎているたろう。けれど、実際にはどうなのかはわからない。そうだったらいいのに、とわたしは思わずため息をついた。