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箪笥侍  作者: 豊福 れん
1/5

迷子のいごっそう

 午後の光りが徐々に薄らぎ、夕暮れの気配があたりに漂う頃のことだった。つい先ほど、見知らぬ男が突然目の前に現れて、今わたしの目の前にいる。


 わたしは取り込んだ洗濯物を畳んでいた。箪笥の傍らに畳んだ洗濯物を置いて、引き出しを開けようと取っ手に手をかける。すると突然、引き出しが音を立てて勢いよく開いた。中から男が飛び出して、そのままわたしの後ろにどさりと落ちる。わたしは驚いて叫び声を上げ、その場に尻餅をついた。辺りには、今日の夕食のサンマの焼けるにおいと、なぜか醤油の香りが漂っていた。

 わたしは、お恐る恐る男を振り返る。男は痛いと唸りながら、大きな体をゆっくりと起こしてあぐらをかいた。ボリボリと頭を掻き、辺りを見回している。男の表情はぽかんとしていて、「何が起こったのかが分からない」と、いった風だった。

 彼は、紋付きの黒い着物に袴を着けて、左の腰には短い刀の様なものを下げている。しかし、着物はドロドロに汚れ、袴もヒダがどこにあるのかがわからないくらいにヨレヨレだ。袴は、恐らく仙台平だと思われるが、これではなんだかもったいないと思うほど酷い有様だ。髪は、一応後ろで纏めてあるようだが酷い癖毛で、鬢のあたりはそそけ立ち、ボサボサしている。少々汚いが、時代劇から抜け出てきた侍のような恰好だった。

 わたしが唖然としていると、男もわたしに気が付いたようだ。彼は柔らかい笑みを浮かべて、わたしに「こんちゃ」と言った。わたしはゴクリと唾を飲み込む。どう見ても不振な上に、刀のようなものまで持っている。それに、ちょっと臭う。夫は長期出張中で当分帰らない。恐ろしく、どうしようかと思っていると、男はわたしに話しかけてきた。



「おや、近江屋にはこんな部屋もあったがか。」


「・・・近江屋?」


「しばらく世話になっとろう。ほれ、ワシじゃ。坂本ぜよ、坂本龍馬。」


「あの、ここはわたしの家ですが・・・。」


「なんと、ほんまか。こりゃあすまんかった。しかし、おまん、何ちゅう恰好をしゆうんじゃ。まるで夷人のようじゃき、京では危ないぜよ。それにしても、おまんなの着物はなかなか斬新やのう。」



 自称坂本龍馬と名乗る男は驚き、慌てた様子で謝った。しかし、この格好が危ないとはどういうことだろう。わたしは自分の服装を見下ろして考える。今日はベージュの薄いシャツワンピースを着ていた。そんなに変わった格好でもないと思う。



「京?危ない?」


「・・・んんん?おまん、もしや、お加尾さまかよ?」



 彼はわたしの話はあまり聞いていないのかもしれない。一瞬、わたしの顔を見て何かはっとしたような表情をした。けれど、お加尾さまなんて知らない。人違いだ。



「・・・違います。それより、何で箪笥にいたんです。引出から出てくるなんて。」


「ワシが?引き出しから?ほんまか?」



 男は顔を上げて首を捻り、腕を組んで考えているようだ。わたしは出たままになっていた引き出しを戻す。大の男がこんな所に入っていたのだ。中身はさぞ荒れているだろう。それに、何か盗られてはいけないと思い中を覗いてみる。しかし、引出の中は何事もなかったかのように整然と洋服が並んでいた。



「あれ?」



 中身が無事なのだから良かったのだが、もっと荒れている事を想像していた。なんだか拍子抜けしまう。わたしは、坂本と名乗る男と引き出しを交互に見比べる。



「そうじゃ。近江屋に見慣れん箪笥があったがじゃ。その引き出しを開けたら中に吸い込まれてしもうて、気づいたらここに居った。」



 男は拳をポンと手のひらに置き、思い出したようにそう言った。泥棒の新たな手口だろうかとも思ったが、何も盗られていないようだし、引出の中身は綺麗なままだ。とは言え、男の言い分は信じがたい。それに、男の腰にある刀のようなものが気になる。そもそも、「坂本龍馬だ」などと言われても、信じろという方が間違っている思う。わたしが押し黙っていると、男はおろおろし始めた。



「ワ、ワシは怪しいもんやないきに。そう怖がらんでくれ。」


「はあ。坂本さん、でしたか。」


「ワシ、そろそろ帰ろう思うんやけんど、ここは京のどのあたりじゃろうか。教えとうせ。」


「ここ、大阪ですよ。」


「なぬ?大阪?ワシは確かに京に居ったはずやけんど、おかしいのう?」


「わたしは、ずっとここにいました。だから、確かに大阪です。」



 わたしは坂本さんとやらの顔をじっと見る。彼は袋手にして、頭を悩ませているようだ。



「うーん。困った。早よう帰らんと・・・・はっ。」



 坂本さんは、はっと顔を上げた。まるで「しまった」と、顔に書いてあるような顔をしている。



「ど、どうしました?」


「刀を、部屋に置いてきてしもうたんじゃった。」



 坂本さんは肩を落とし、しょんぼりとしている。大きな体が小さく見えるほど、頭を項垂れた。



「腰に、差してあるのは・・・・?」


「こりゃあ、脇差しぜよ。これでは少々心許ない。京は物騒やいか。」


「あの、今時、そんな物持ってる方が物騒や思いますけど・・・?」


「そうか?」


「・・・それ、本物やったんですか。」



 わたしは、坂本さんの脇差しを見つめながら言った。



「おう。えいじゃろ。ワシのお気に入りじゃ。この鞘がミソで・・・。」



 刀の自慢話が始まってしまった。どう見ても不振人物なのに、何故だか憎めない人だ。初めは怖かったけれど、その様子からは少なくとも斬られる心配はしなくてもいいのかもしれない、とまで思えた。

 ふと、坂本さんの動きが止まった。一点をじっと見つめて動かない。その目線の先を辿ると、壁にかけてあった日めくりのカレンダーに行きついた。彼は目が悪いのか、少し目を細めて見ている。わたしはこの表情を見て、はっとした。有名な坂本龍馬の古い写真の顔と、同じだと思ったのだ。まさかとは思うけれど、そう思うとますますあの坂本龍馬に見えてきた。



「あ、あの、坂本さん。その日めくりが、どうかしましたか。」


「ん、あ、いや・・・・今日は、10月13日かと思うちょったんじゃが。」


「まだ9月ですよ?」


「それに、あれは・・・へいせい、と読むんがか?ありゃなんじゃ?」


「何って、年号ですけど。知らん事はないでしょう?」


「いや、知らんちや。おまんこそ、今は慶応やなかったがか。」


「慶応いうたら、150年は昔の年号やないですか。」


「ほんまか?」


「本当ですよ。嘘やと思うなら、新聞でもニュースでも、いくらでも証明できますよ。」


「しんぶん?にゅうす?」



 男は首を捻った。わたしは彼に今日の新聞紙を見せるが、彼はどうもピンと来ない様子だった。



「けんど、そんなこと言うたち・・・。まあ、とにかく。ワシは帰るぜよ。邪魔をした。玄関はどこじゃろうか。」


 

 彼はそう言って立ち上がり、キョロキョロと玄関を探し始めた。わたしは彼を案内する。玄関まで来ると、坂本さんはまたしょんぼりした。



「そうじゃ、ワシ、草履もないんじゃった。すまんが、貸してくれんかの。」


「ありませんよ、草履なんて。」


「草履が、ない?ほうか、ワシ、えらい嫌われてしもうたんじゃな。」



 坂本さんは、益々しょんぼりしてしまった。泣きっ面に蜂、とはこのことだったのだろうか、と思えるほどに。



「いえ、そうじゃなくて、我が家には草履はないんです。誰も履けへんから。」


「・・・しゃあないき、裸足で帰るか。それにしても、大阪にもこんな洋館があったがか。グラバーさんの屋敷を思い出すぜよ。お上に目を付けられなければえいが・・・。」



 わたしが話を飲み込めないでいるうちに、坂本さんはドアを開けた。一歩踏み出し、外の景色を目にした坂本さんは、そのままピタリと動きを止めた。



「ここは、ほんまに、大阪なんか・・・?」



 坂本さんは目を見開いて、辺りの風景をじっと見ていた。

 空はすっかり暗くなっており、ぽつぽつと街灯が灯り始めている。空にはぽっかりとまん丸の月が浮かび、そこを飛行機がすっと横切っていく。五階立てマンションの最上階は、眺めは良いが特別珍しい事はないと思う。けれど、坂本さんは、信じがたい、というような面持ちで立ち尽くしていた。

 ノブを掴む手はプルプルと小刻みに震えて、足元も崩れそうなのを必死で絶えているかのようだ。目が悪いようなのでどのくらい見えているかはわからない。けれど、その様子は冗談だとか、ふざけている、などという雰囲気ではない。本当に、心底困惑しきっているようだった。

 わたしは追い出そうとしていたものの、だんだん気の毒に思えてきた。本当に150年前から来たのだとしたら、本当に坂本龍馬だとしたら。この時代に、彼が帰る場所なんてないはずだ。

 気が付けば、わたしはたまらずに声をかけていた。



「あ、あの、坂本さん。よかったら、お茶でも飲んで行きませんか。」



 坂本さんはノブを掴んだまま、くるりと振り向く。



「けんど、おまん。迷惑やないんかえ。」


「でも、行くところ、ないんでしょう?」


「しかし・・・」


「それに、今から京都に行っても、もう近江屋はありません。寺田屋は、昔に復元した建物が伏見に残ってるそうですけど・・・。」


「・・・近江屋が、ない?なんで知っちゅうがか。」


「跡地の石碑と、説明書きみたいなんだけ残ってるそうです。わたしは見に行ったことはないけど、有名な話です。」



 坂本さんは暗い顔をして、ますます落ち込んでしまったようだ。その表情は、困惑と不振と悲観とが入交る、とても見ていられない程悲壮なものだった。

 わたしはそっと玄関を閉めて、彼をリビングに通した。 

 







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