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はつゆきさくら

作者: 灰鷹茶毛

 純白が、世界を覆っていた。

 宙を舞い散る桃色の六花が、仰ぐ視界にチラつく。

 見事なまでの雪化粧を果たした世界はさながら、悠久の時を超えてやってきた黄昏の地を連想させる。

 だからこそだろうか。

 目の前で泣く少年が、とても儚げで、愛おしく思えたのは――……。


  ◇

 少女――初雪 サクラ(はつゆき さくら)は外の世界を知らなかった。

 理由は至極単純だ。親に外に出るなとキツく言い聞かされたからだ。

 外は危ない。でれば凶暴な獣たちが颯爽と森の茂みから姿を現し、喰らいに来ると。

 と言っても、親は仕事のために里を離れて近くの都にまで出向く。だから外の世界が親が言うほど危ないものではないとは理解しているし、親がいない中で律儀にその言いつけを守る必要性もない。

 それでも、桜は言いつけを守って外には出なかった。両親があそこまで言い聞かせるのだ。何かしらあるのだと警戒したというのもあるだろうが、何よりも、言いつけを守らなかったらきっと親が悲しむと思ったのだ。

 だからサクラは、一日の大半を自室のベッドの上で過ごし、絵本と窓から外を眺めることを自らの日常とした。

 幸いにも、ここは季節や日の調子に影響を受けやすい里のようで、毎度変容する外の世界は見ていて飽きはしなかった。

 図太い黄金の日差しと濃緑に満ちた夏の姿。

 灰色の空から光の粒達のような雪を降らせ、世界を白へと変える冬の姿。

 艶やかな紅葉で真っ赤に里を染め上げる秋の姿。

 だが、一つだけ、この里にはない景色があった。

 春の姿……つまりは桜だ。

 サクラは桜を見たことがなかった。外に出ていないのだから無理もないが、大半の景観は自室から眺める事が出来たので、ある意味でサクラは空想上だけのものと認識してしまっていたのだ。

 だが、その絵本の世界に広がる桃色の景色を、サクラはたまらなく見たかった。まさに夢というようなものでないだろうか。

 そんなある日、サクラはいつも通り自室のベッドで絵本を開いていた。

 しばらくしたら絵本にも飽きたのか読み進めていた手と目を止めて、窓の外へと視線をやる。

 いつも通りだった。いつもと変わらない。本に飽きれば外を眺め、外を眺め飽きれば再び本の世界に戻 る。そのローテーションでサクラの一日は費やされ、構成される。

 だが、今日は違ったのだ。

 窓の向こうで、少年がこちらを覗いていた。

 見ない顔だった。そもそも外に出ないサクラは両親以外の人間を見るのは初めてであった。

 必然的に交わるサクラと少年の視線。どちらもその瞳に孕ませるのは好奇と興味。互いが互いをじっくりと観察しあう。

 そんな探り合いの終結を告げたのは、少年の方だった。

 こんこん、と窓を二回ノック。

 サクラはびくりっと肩を震わせた。知らない人間、それに人と触れ合う経験値が絶対的に乏しいのだ、怖くて当たり前である。

 だが、向こう側の少年はこちらの意を察せず、再び二回ほどノックをリピートさせると、「ねぇねぇ!」とまだ幼い声を張って呼び掛けてきた。

 えっえっ? と慣れていない騒々しさに挙動を隠せないサクラだったが、少年が窓の鍵に指を指して、ジェスチャーをして見せる。

(開けて……ってこと?)

 何となく伝わったのか、サクラはベッドから身体を起こして、忍び足で窓に接近する。

 そして、サクラは鍵に手を掛けて、恐る恐る施錠を解いた。

 その瞬間だった、扉がガンッと勢いよく開かれて、

「遊ぼうっ!!」

 これが、外を知らない少女、初雪サクラと外の世界へ誘う少年、夏目(なつめ) (しゅう)の出合いであった。


 こんこん、と。

 お決まりの二回ノックの訪れを悟って、サクラは絵本に向けていた目を窓の向こうに移行させて、輝きを生む。

 輝く視線の先には、雪色に埋もれた世界を背景ににこやかに手を振る少年――夏目修の姿だ。


 サクラの瞳がさらに輝き、爛々と星を散らばめかせた。

 ガバッと掛け布団を払い、ベッドから飛び出るように窓へ忙しく向かい、鍵を開けた。

「修! 今日はどこに行くの!?」

 興味と好奇の孕んだ言葉を、気持ちを、サクラは抑えられなかった。

 そんな少女の姿が可笑しく見えたのか、修はクスクスと小さくほくそ笑んで、

「うん、今日は綺麗に雪が積もってるし、丘に登ってこの里一帯を眺めようかなって思ってる。行く?」

「もちろんっ!!」

 ハキハキと、サクラは返事を返して、急いで支度を始める。

 少し寒いので毛皮の付いた上着を羽織り、クローゼットに隠していた母の靴を取り出して履くと、自室の窓から外へ出る。

 両親に見つかると怒られるので、玄関からは出られない。出ると鍵が閉められないから、もしも早めに両親が帰ってきたら外出したことがバレてしまうからだ。

 そんな泥棒みたいなちょっぴりスリリングな感覚が、サクラの心を更に愉しませる働きを促していた。そんなことを思っている自分に気付いて、いよいよ自分は悪い子だな、とサクラは自覚してしまう。

 けれど、やめられるはずがなかった。

「さ、行こっ! 修!」

「うん、行こう!」

 だって、彼が見せてくれる外の世界はいつも綺麗で、サクラの足りなかった何かを満たしてくれるのだから。



 サクラと修が初めて出合って三カ月。

 あの日から毎日のように修はサクラを外に連れ出してくれる。

 実は言うと、最初は拒んでいた。外に出てはいけないと、獣に食べられちゃうからと言って。

 けれど、彼はそれでも「大丈夫、僕は現にここに居るでしょ?」と言って、「外は綺麗だよ。楽しいよ。だから一緒に遊ぼう」っと毎日毎日やってきてくれた。

 一週間くらいがすぎて、サクラが渋々折れ、一度だけならと彼の要望に応えることにした。

 そこでサクラは、世界に囚われた。

 溢れかえる山の紅、さえずる小さな小鳥たち、どんぐりを手にするリスなどの小動物、流れる心地よい川音、空気の匂い、味。

目に映る全てが、新鮮で可憐で、眩しく映った。

 窓からじゃ決してわからなかった、知ることのできなかった沢山のそれは、サクラを魅了するのに十分だった。


「世界はこれだけじゃないよ? これはほんの一部。もっと、もっと広くって、いろんな姿があるんだよ」


 ふと修が言ったその言葉が忘れられなくて、サクラは外のことばかりを想うようになった。

 もっと知りたい、もっと観たい。

 この目で、この耳で、この鼻で、この口で、この心で、たくさんの姿を感じて観たい。

 それから毎日、二人は外に出るようになった。

 山にも行った、川も辿った、動物たちとも触れ合った、里に置かれたマチにもこっそり行った。

 けれど、飽きなんてこなかった。むしろ好奇心は深まるばかりだった。

 ――だから今日も、サクラは外の世界に出向いた。

「うわぁ、キレイ……」

 眼前に広がる辺り一面の雪原。

 それは神秘的で、ふかふかの綿か雲の上に居るような気持ちにさせる。

 だからきっと気持ちいいんだろうと思ったのだろう。

「うわーい!」と声を上げて、雪の大地へダイブ。

 ボフッと音を立てて、サクラの身体サイズに陥没して、埋もれた。

「飛び込んだ感想は?」

「…………思ったより硬くて痛かった」

 率直な感想に、修は思わずぶっと吹き出す。

 当たり前だよ、と言って次にサクラの隣に腰を下ろす。

「けど、今は気持ちいいよ……? ひんやりしてて、ちょっと柔らかくて」

 仰向けに身体を捻って、修を見上げてニコッと雪まみれになった顔で笑って見せるサクラに一瞬たりとも見惚れてしまった修は、小恥ずかしくなって顔を背ける。

 そんな彼の反応に「ん?」と小動物のように小首を傾げるサクラは鈍感なほうなのかもしれない。

「そ、そんなことよりもホラ! 見てみなよ、マチが雪で真白!」

「ふわぁ、ほんとだ~!」

 修が指さす場所は、里にある唯一の町、というよりも村に近い。

 だが、彼らは都会や町への憧れからそれを村とは決して呼ばない。「マチ」と呼ぶのだ。

「そういえば、修のおうちはマチにあるんだったんだよね?」

「まぁね。サクラの家みたいなレンガなんかで建てられた大きな家じゃないけどね。オオカミの鼻息一つで吹き飛んでいくようなもんさ」

「わたしの家ってそんなに大きいほうなのかなぁ?」

「大きいさ、だからマチの外れにサクラの家はあるんだし」

 マチの集落にある住屋は皆、ひ弱な木造りで屋根も藁を用いたとても軟弱そうな造りだった。

 そんなマチに一つだけレンガ造りの洋風家宅があったらどうだろうか? 家はある意味でその家庭の裕福さの象徴だ。そして人はそういった優劣に敏感である。心持ちとしてよく思うはずがない。タチの悪い住民ならば事あるごとに金をせびってきたり、金銭トラブルを巻き起こすこともあり得る。それらを考慮してマチ外れに住居を置いたのだろう。

だが、気になるのは、なぜこの里に居るか、だ。

 家宅の立派さだけを見れば、都の住宅街に住んでいてもおかしくはない。

「ねぇ修? どうかしたの?」

 サクラの呼びかけで、修はハッと意識を戻す。

 思考に没頭しすぎていたようだ、サクラが拗ねたような表情でこちら睨めつけている。

「もぅ、何回呼んでも無視するんだから! 意地悪してるつもり!?」

「そ、そういうつもりじゃなかったんだけどさ……その、ごめん」

 申し訳なさそうに苦笑しながら言うと、サクラはその頬をぷくぅっと膨らませて、不機嫌ですとわかりやすく顔に表わす。

 不快で苛立ちを覚えてるんだろうが、これも申し訳なく可愛いと思ってしまう修であった。

 と言っても、このまま拗ねさせておくわけにもいかないだろう。一呼吸置いて、修はサクラに問い掛ける。

「そういやぁ、サクラには観たい景色とかある?」

「えっ?」と風船のように膨らんでいた頬の 空気がシューっと抜けて、お次は意表を突かれたような顔だ。

「わたし、どんな景色も観たいよ? いっぱい色んな景色をこの目で観たい」

「いや、それはわかってるんだけどさ。ほら、今一番見たい景色とか物とか……ない?」

「一番……観たい?」

 うーん、と腕を組んで唸るサクラ。

 そんなに悩むものだろうか? と思う一方で、一番と言われて好きな景色を言うでなく、馬鹿正直に本当の一番を模索するのだからとことん真面目な子なんだな、と実感させられる。

「……桜?」

 ポツリ、と。

 サクラが漏らしたのは、雨粒のような言葉だった。

「わたし、桜が観てみたい! 今まで一度も観たことがないの! だから、今一番観たいのは桜っ!!」

 華のようにパアッと表情を綻ばせて告げるサクラの顔は、まるでお伽話の夢世界にでも行きたいと言っている子どものようだった。

 彼女の願い事に、修も腕組みをして記憶を模索し始める。

「ん~……桜の木がある場所はどこかは知ってるけど……今は冬だし、この里じゃないからなぁ」

「えっ!? そうなの!?」

「うん、この里には桜の木はないよ。何でも昔に滅茶苦茶な大量伐採が行われたせいで無くなっちゃったらしい」

「そ、そうなんだぁ……」

 落胆を隠しきれず、大袈裟に肩を竦めるサクラ。

 さすがにこの里を離れて他の町にまで出向くわけには行かない。親のこともあるし、そこまでする勇気がサクラにはなかった。

 そして、数度目になる溜息が零れそうになったときだった。

「あっ! そういえば、一本だけこの里にも咲く桜の木があるんだっけ……」

「へ!? ほ、ホントに!??」

 襲いかかる勢いでサクラが身を乗り出す。余りの食い付き具合に修は身を退かせて息を呑んでしまう。

「う、うん。確か、山の少し奥にまで登ったところに唯一手を掛けられなかった桜があるって聞いたけど……」

「けど?」

 口ごもってしまった修を、神妙な顔つきで見詰めるサクラは修の次の言葉を待った。

「その……いつ咲くか、わからないんだって」

「え?」

 やや濁して絞り出した答えに、サクラは疑問符を浮かべずにはいられなかった。

「狂い桜って呼ばれてるらしい。咲く季節がバラバラで、春はもちろん、夏にも秋にも冬にも咲くんだって。しかも咲いている期間もバラバラで、二カ月ほど咲いていることもあれば、一日で全部散ってしまうこともあるらしい。だから唯一手を掛けられなかったんだって」

 一年間咲かないこともあるって聞くし、と付け加えた修の顔は苦虫を噛み潰したかのようだった。

 だが、サクラは違った。

「それって、すっっっごいラッキーじゃない!!」

「えっ?」

 そう言うサクラは、そのガラス玉のような輝きを放つブラウン色の瞳を真っ直ぐに修へ届けていた。

「だってさだってさ! もしかしたら春まで待たなくてもいいんでしょ? この里を出ずに桜が見られるかもしれないんでしょ? 凄いラッキーだよそれって!!」

 てっきり観られないのかと思って残念に思ってたし、とサクラは胸を下ろし、わくわくしている表現なのか、両肩をうずうずと震わせて縦に振っている。

「よぉし、そうと決まれば今からさっそく行こう! もしかしたら咲いてるかもしれないし!!」

「ちょっ、待って! さすがに今日は止そう?」

 高ぶりすぎた気持ちに従って行動しようとするサクラに、修は咄嗟に制止を掛けた。

「どうして? もしかしたら咲いてて、明日には枯れてるんだよ? そんなの嫌だよ!」

「それはそうかもしれないけど、今から行っちゃうと日が暮れて山から帰れなくなってかえって危険だよ!」

 辺りが暗み始めた夕方過ぎ。暗闇の山はそれこそ方向感覚というものを奪い、人を神隠しへと招く。

「それに山にはちゃんと獣だっている。オオカミとまではいかないまでも、イノシシや熊や野犬だっている。彼らに見つかったらそれこそ食べられちゃうよ?」

「うっ……」

 サクラが以前から食われるというキーワードに弱いことを修は知っていた。そう強く教えられてきたからかもしれないが、こういう時の説得にはとても効く薬だった。

 案の定、サクラは人が変ったようにシュンっとおとなしくなって、「わかった?」と言うと、こくりっと首だけを縦に振った。

「じゃあ、明日にでもまた行こうね! 桜を観にさ!」

「…………」

「咲いてるといいな~! 僕も桜観るのってそんなにないからさぁ~! 特に真冬の桜ってすごい綺麗だよねきっと!」

「…………」

「……お菓子食べる?」

「…………(バッ)」

「お菓子だけは食べるんだね……」

 ただ、この薬は効きすぎる面があってたまにキズである。

 有頂天な気分から一気にどん底レベルにまで叩き落とされるのだから無理はないのかもしれないが、やはり一緒に居て気分良くはない。

 さて、どうするか、と案を手探りしていると、修はある事を思い出した。

「サクラ、前々から気になってたけど、サクラの履いてるその靴、おっきいよね?」

 修が指摘し、注目したのはサクラの履いているスニーカーだった。

 これは元々サクラの母の物であり、まだ十二、三歳の少女が履くには少々大きすぎた。

 それはサクラも重々承知していることだったが、サクラの靴は玄関の靴箱にあるなかで合計二足しかない。

 そもそも外を出歩くことがないのだ、親としても必要がないなら買わないのは当然だし、もしもという時のためだけの靴であるため、使用されることはほとんどなかった。

 だから、砂埃や泥の汚れが目立つし、何よりたった二足しかない靴が靴箱から一足でも消えていたらすぐにバレる。

 その点、母親の靴なら大量にあるし、一足くらい無くなっていても気付かないものだ。ましてや汚れが付いていてもバレないような薄汚れたスニーカーをあえて選択したのだ。部屋にあることがバレても、話次第で適当にごまかせる。

 そう言った理由から、サクラは大きくても使える母のスニーカーを使用していたのだ。

 が、それが何だと言うのだろうか? 返事や反応はしないまでもサクラは彼の次の言葉に耳だけを傾けていた。

「やっぱりそれだけ大きいと歩きづらいよね? だからさ、これ……持ってきたんだ」

 言って、ごそごそと修が懐から出したのは、藁で編まれた手製の草履だった。

 それを視界に入れて、サクラは目を瞬かせた。

「これ、マチの人が大半履いてるものなんだ。母さんに頼んで作るの手伝ってもらった」

「えっ……?」

 修から伝えられる言葉に、驚きと疑問が混ざってそのまま外に流出する。

 ――作るのを手伝ってもらった? つまりは……手作り? どうして?

 なんて考えるまでもないことを無駄に思考する。

 だって、その草履が差し出されてて、彼の自分を見る目が言っているのだから。

「これ、サクラにあげるよ」

 照れくさそうに笑って、ぐいっともう一押し。

「いい、の?」

「いいも何も、サクラのために作ったんだよ? 受け取ってくれなきゃこっちがかっこ悪いことになって恥ずかしいよ!」

 まぁ今サクラが履いてるのに比べればオンボロで安っぽいけどさ、と唇を尖らせて修は言う。

 静かに受け取ったサクラは、どう反応すればいいのかわからなかった。

 ただ、凄く、凄く嬉しかったから、

「……今から履くね」

「えっ!?? ちょいきなり!?」

 宣言して、ぶかぶかで脱ぎやすいスニーカーを脱ぎ捨てる。

 そうして、受け取った草履に履きかえて、雪の地を踏みしめて立つ。

 スニーカーに比べると足元が冷たくて、踏みしめた時の感覚もイマイチ悪い。強度も弱いのか一瞬ミシッと嫌な音が鳴った。

 それを察知した修は苦い顔を浮かべて、

「あ~、やっぱいらなかったかな? すごいボロボロだし今ミシッて言ったし足は冷えるし、さっき履いてたのに比べるとてんで酷いもの――」

「ちょうど」

 修の卑屈語りを遮るように、サクラは口にした。

 これまた「うぇっ?」と間の抜けた声を上げるが、

「これ、わたしの足にちょうど」

「あ、あぁ~それはよかった。目測でこれくらいかなぁ~って思って作ったんだけど、ほんと合ってよかった」

「うん……、ありがとう……凄い、嬉しい」

「え、あぁ……うん、よかった……」

 向けられた真摯な感謝の言葉に、頬を掻きながら応える修。

 結局、修が気にするようなことは、サクラは一切気にも留めていなかった。

 確かに、オンボロだ。

 下手くそな編みのせいで所々藁がかみ合ってないし、スニーカーに比べると移動しづらいし、足だってほぼ素足だから酷く冷える。

 けれど、自分のために編んで、自分のために作ってくれた、サイズがちょうどの草履。初めての友達からもらった、初めてのプレゼント。

 それだけで、サクラにとってこの草履は十分な宝物になりえたのだ。

「大切に、するね……」

「う、うん……よろしく……」

 結局、和ませようとした空気は更に気まずくて小恥ずかしい、けれど心暖まる居心地の良い空気と化したのだった。


ノックが、鳴った。

これは三回だ。それに窓からでもなかった。修じゃない。

「サクラ? お夕飯持って来たのだけど、いいかしら?」

心地よくて優しい声だった。母の声だ。

「はーい」と応答すると、静かに扉が開かれた。

おぼんに乗せられて運ばれてくるシチューからは甘い香りが漂わせられ、思わずサクラも鼻を伸ばしてしまう。

ベッドに設置された小型食卓テーブルに夕飯が置かれる。

鼻腔を燻ぶり、大きく開口してしまう。言っては悪いが不細工な顔だ。

「いただきまーす!」とサクラはスプーンを掻っ攫うようにして鷲掴み、シチューを口元へ乱暴に運んで行く。美味しい料理は景色と同じで心身を暖かく包んで満たしてくれる。サクラにとって景色を眺める同様、ある意味で至福の時だ。

「サクラ、ちょっといい?」

そんな至福の時の中、母がサクラに声をかけた。

「なに?」サクラは幸福に満ちた表情で食にありつきながら応答して見せる。

「あなた……外に出てないでしょうね?」

ピクッと軽快に運んでいた手を、サクラは止めてしまう。

――そんな、まさか……バレた?

サクラの心中は動揺で膨れ上がっていく。

「今日たまたま里のマチのほうで聞いたの。小さな男の子がここ最近、パジャマ姿で毛皮の付いた上着を着た女の子と遊んでいるっていうのを……」

「ふ、ふーん。そうなんだぁ……」

サクラは他人事のように相槌を打ち、手の動きを再起動させる。

そうだ、別に気にする必要なんてない。明確にバレたわけじゃない、と己に言い聞かせながら。

「マチじゃあまり見ない女の子らしいの。だからマチの人達が噂してるんだけどね」

「ふーん……」

「十二、三歳の女の子らしいわ。藁じゃなくゴム製のスニーカーを履いてたんですって」

「……そうなんだ」

「……サクラ、私のスニーカー一足無くなったみたいなんだけど……知らない?」

「…………、」

今度こそ、サクラは言葉を詰まらせた。

話の進め方次第でどうにかなると思っていた。ごまかせると思っていた。

けど、いざその場に立つと、サクラはどうすることも出来なかった。否定も、肯定も。

その様子の異変は、端から見ても一目瞭然だった。食を進めていた手も止まって、顔は俯かせて、口を閉ざす。

だからこそ、サクラの母は嫌な予感が過って、けれどその嫌な予感を信じたくなくて、

「……クローゼットの中、見るわね」

言って、清潔な白色のクローゼットへ意識を向けた。

証拠を、確証を、得るために。

マチに広まる噂の少女として外に出ていたという証拠をではなく、自分達の言いつけを守ってベッドで“安全”を確保してくれているという信用の確証がほしいがために。

だが、事実は母の信頼を裏切ることになる。その先にある結果のビジョンはすでに視えている。だから、サクラの胸中の思いは動揺から焦燥にすり替わった。

――きっとスニーカーが見つかれば、お母さんは自分に失望する。

元々、罪悪感を持ってやっていた事だ。だからこそ、初めて親に“怒られる”という恐怖が脳裡を過った。

「お、おかあさ――ッッ!??」

焦りから急いて起き上がったところ、小型食卓テーブルに身体をぶつける。

シチューを入れた食器が宙を舞い、床に衝突したと同時に辺りへ破片を拡散させた。

食器の割れる甲高い音に反射的に振り返った母は、血相を変えてサクラの元へ駆け寄った。

「サクラ!? 大丈夫!?? 何処も怪我してない? 血は? 血は出てない!?」

サクラの身体の各所を触り、何度も何度も安否を問う母。

動揺か何かに恐れているのか、不規則で荒い息遣い。声も震動して上擦っている。瞳孔は激しく開けられていて錯乱している事を示す挙動を見せる。

このような姿はサクラも今まで見たことがなかった。ここまで自分を心配する母の姿を。

「うん……大丈夫」

「ほんとに? ほんとに何処も痛くない? 破片が刺さったとかぶつけたところが内出血してるとか、我慢してないのね!? ほんとのほんとに何ともないのよね!?」

「だ、大丈夫だって! というか……!」

だが、今はそれが逆にサクラの気持ちを揺さぶり、苛立たせるに至った。

「もし仮にわたしが外に出てたら何だって言うの!? そもそもなんでわたしは外に出ちゃ行けないの!?? こんなところで一日本を読んで外眺めて何もせず、何も見ずにさ……!」

奥歯を噛み締めながらサクラは断腸の思いで言葉を紡ぐ。

初めてだった。誰かに本気で憎悪的な怒りを覚えたことも、それをぶつけたことも……。

だから当然、母のほうもそれを体験するのは初めてで、「えっ……?」と呆気にとられた。

「わたしは、これからもずっとこの中で閉じ込められて生きてかなきゃならないの!? 世界はもっと広くて大きくて綺麗なのに、わたしの世界はこの部屋と窓から眺める景色だけ……? そんなの鳥籠に入れられた飛べない鳥と一緒じゃないッ!! 餌と環境だけ渡されて鳴いてるだけの、何も出来ない哀れで惨めなペットと同じ!!!」

ずっと抱いていた心の叫びをそのまま言葉という形に変換して撒き散らす。

喉が震える、頭と目頭が熱い、怒ってるのか悔しいのか辛いのかわからない。

ただ、ずっとモヤモヤしていた心の洪水は、壊れた水道のように垂れ流しに、止まることを知らない。止められない。

「わたしは……わたしは、お母さんとお父さんのペットじゃないッッ!!!!」

苦しく、辛く、悲しい絶叫。

発せられたそれに、サクラの母は放心状態となった。

――自分達は、娘にそんな思いをさせていたのか、と……。

「サ、サクラ……私……私達は――!」

「出てって……」

「サク、ラ……?」

「――出てってよッ!!!」

悲痛に染められた拒絶を聴いて、母は表情をしわくちゃに歪めて静かに部屋を出た。

母は何も悪くない。心配した故の行動。行為。サクラを想って、サクラを守りたくて――。

けれど、見たい世界がある。知りたい世界がある。感じたい世界がある。

触れて、嗅いで、味わえる幾多の世界の存在。

その広さを、その美しさを、それが“ある”とサクラは知ってしまったから。だから――。

後に残されたのは、閑散とした冷たい空気と胸を締め付ける悲痛と少女の殺された嗚咽だけだった……。


「それで、今でも元気がないってことなんだね」

清潔な白に染められた森の茂みを掻きわけながら歩を進める修が合点した様子で口にした。

今朝迎えに来た頃からずっと気落ちしていたサクラの様子を尋ね、その答えを得て今に至る。

理由を聞いてなんとなくサクラの心中は察することができた。要は過去の自分の過ちを悔いる悔恨というやつだろう。

自責の念にかられ、自身を咎め、罪悪感に苛まれている。

だからこそ、修は可笑しく思えて笑った。

罪悪感を抱いているなら、彼女が苦悩していることはとてもちっぽけで、とても簡単で、救いのあるもののはずなのに、この世の終わりとでも言いたげな顔をしているから。

悩んでいるサクラにとっては堪ったもんじゃない。ムッと顔をしかめ、修を下から睨みつける。

それを認識して、修は笑いを堪えるが、可笑しさに負けて尚も涙が目の端に浮かんでいた。

「ごめんごめん」修は軽く詫びごとを並べて、「けど、サクラは本当はもうどうすべきかわかってるんじゃないの?」

指摘するように向けられた質問に、サクラはうっと息を詰まらせて、居心地の悪そうに顔を背けた。

「そりゃサクラの言ってることもわかるよ。外に出ていっぱい遊びたいもんね。色々新しい事に触れたいもんね」

けど、と修は雪の積もった小枝や葉を掻きわけながら続ける。

「隠れて言いつけを破ってたのはこっちのほうだし、だから今サクラはお母さんにじゃなく自分に怒ってるんでしょ? どうしたらいいのかって悩んでるんでしょ? そしたら自然と答えは出てるはずだよ」

まぁ連れ出してる僕が言うのもアレだけどね、と苦笑する修。

そう、サクラは自分が悪いと思っている。正しく理解している。自分の言いたいことだけ言って、相手の言葉も気持ちも聞かなかった。聞く耳を持たなかった。それどころか、母の想いを傷つける言葉を口走ってしまった。

だったら、サクラがどうすべきかは自ずと明かされていた。

「……ありがとう、ちょっとだけ胸が晴れた」

心配掛けてごめんね、と付け足して言うサクラの顔にはもう愛らしい笑顔が戻っていた。

その咲いた花のように柔らかな笑みに修は不覚にも可愛いと思ってしまい、やっぱり小恥ずかしくなる。

そんな修を置いて、サクラは一歩前に飛び出し、

「せっかく桜観に行くんだから、元気じゃなきゃね!」

言って、修を追い越して坂を駆け始めた。

この辺りは木の根が浮彫で、地も凹凸が多く、転びやすい。

修はギョッとして、注意のため声を張る。

「ちょっ、危ないよ!? ケガでもしたら……!」

「大丈夫大丈夫! ほら早くしないと置いてっちゃ――キャッ」

注意空しく、ボロボロな藁草履が仇となったか、サクラは運悪くも剥き出しになっていた木の図太い根っこに僅かに解けていた藁を引っ掛け、小さな悲鳴を上げて盛大に転げた。

ズシャリッと雪地にめり込みながら滑るというデジャヴな展開。

「おいっ!?」と心配になって修はサクラの元へ駆けつける。

「だ、大丈夫?」

「うぅ~……痛いぃ~」

「ほら、言わんこっちゃない……立てる?」

優しく差しのべられた手に、ドキリッとサクラの胸が一瞬高鳴る。

同じように少し億劫そうに手を伸ばし、指先を掛ける程度に掴む。そうすると高鳴りは更に高まって、激しく脈を打つ。

「どこか痛むの?」

「うぇ?」異変を察してか、唐突の安否の確認に言葉になりきれていない声がでる。すぐにぶんぶんぶんと首を横に振って意思を伝える。が、

「あっ、足……」

何か発見したのか、修がサクラの膝辺りを指さす。

釣られて目を向けると、紅い血が滲むようにして流れていた。きっと転倒の際に擦ってしまったのだろう。だが、全然痛くはなかった。修に言われるまで気付いていなかったくらいだ。

「大丈夫だよ。ちょっとだけ擦っちゃったのかな? 全然痛くはないし、これだったら前に顔から飛び込んだ時の方が痛かったから」

強がりでもなんでもなく、事実を並べたつもりだったのが、修は少々違った受け取り方をしてしまったようだ。

「無理しなくてもいいよ。ほら」

と言って、背中をこちらに向けて屈みこんだ。

これは、おんぶするという意思表示なのだろうか。そう悟って、いよいよサクラの頭は緊張でパンクしそうになった。

自分が変な態度を見せていたから悪いということもあるが、だからってここまでほいほいとキザなことをされるとサクラも緊張してしまうというものだ。

「何してるの? ほら、早く乗りなよ」

「い……いい、いい!! 大丈夫! 大丈夫だからほら!」

ガバっと勢いよく立ちあがって、心配無用と胸を張る。

「そ、そう?」と修は未だ拭えない一抹の不安を表情に残していた。

「心配しすぎ心配しすぎ。ほら、時間もないし、早く探しにいこ!」

言って、元気を誇示するように、又は逃げるように再度走り出すサクラ。

「また転ぶよ!?」と後ろから投げ掛けられる注意には耳もくれず、サクラは思った。

――そう言えば、血を見たのは初めてだ、と……。


「あれぇ?見つからないな……」

修の口から、呻くように弱々しい声が漏れた

探索を始めて、あると噂されている辺りに辿りついたわけだが、如何せん肝心の桜の木が見当たらない。これでは散った散っていない以前の問題だ。

それなりに長い間捜索した自信はある。事実、空はもう夕焼け。あと少しで闇が侵食し始める頃合いだ。

「おーいサクラ~! そっちはあったー?」

少し声を張って、離れた位置にいるサクラに呼び掛けた。

あまりに見つからないために手分けをして探索していたのだ。

だが、何やらおかしいことに修は気づく。返事が返ってこないのもそうだし、こちらに向かって歩いて来てるのだろうが、フラフラとおぼついた千鳥足で頼りなく、首も堕ちていて顔が見えない。

さっきまではあんなに元気だったのに、と顕著な異変を感じ取っていたところ……――サクラの身体が崩れた。

とてもゆっくりと長い時間を掛けて沈んだように見えた。

まるで糸の切れた操り人形のように儚く、静かに……。だから修は一瞬思考という機能を奪われて、伏せたサクラを黙視してしまった。

「サ、サ……サクラァぁぁッ!!!!」

叫んで、走った。

全速で、人形のような儚い少女に向かって。

「サクラ! サクラ! 大丈夫なの!? サクラッ!!」

呼び掛けても、反応がなかった。

伏せて、動かない。本当に壊れた人形のように……。

近くに駆け寄っても、それは変わらなかった。

修は心のどこかで、期待していた。

駆け寄ったらいつもみたいににへらっと力のない笑みを作って「痛いぃ~」なんて和やかな響きを奏でてくれる。雪にまみれた優しくて可愛らしい華やかな笑みを見せてくれる。

そう期待していた。願っていた。

だが、現実は違った。

少女はその華奢な身体を冷たい地に伏せ、その顔を上げてくれない。

「さ、サク……――ッ!?」

不意に、修はその目で辿った。彼女が歩いてきたであろう白雪の道筋を。

そして、視界で認識したものに絶句した。

残された、小さくてか弱そうな足跡とそれらに付き纏うようにただれる赤。そうだ、それは赤だ。ずっと少女を付き纏って、ずっと追いかけるように残される赤の痕跡。

――じゃあ、今“その赤”は何処に……?

恐る恐る、修は倒れこむ少女の全体を眺めた。

少女は――赤に埋まっていた。

純白の雪で積雪されているはずの地が、彼女の矮躯な身を中心に深紅の湖の如き夥しい赫が白のキャンバスを塗り潰していた。

それは尚もキャンバスを濡らし、広がりつづける。

彼女から流れ、抜けていくそれを、修はしばらく理解できなかった。

「し、しゅ……う……?」

小さな形を成す空気が、修の耳に届けられた。

ハッとなって、「サクラ!?」とまた決死に呼び掛けた。

「あ、あはは……なんでだろうね……? すごい、クラクラ……して、さ……。それで、気が……付いたら、身体が言うこと、を……利かなく、って……」

少女は苦しそうな息を吐きながら、必死に紡いだ。身体を動かそうとしているのか、震えるというよりは蠢くように身体を細動させているだけで何も出来ていない。虫の息とは、まさにこのことなのかもしれない。

「なんで、だろね……? どこも……痛く、ないのに……身体は、冷たくって……寒い、はず、なのに生温い、お湯に入ってる、感じ……」

「あ、ああ……ああっ……」

そこで修は気付いて、絶望の淵に落とされた。

――この広がる赤は、彼女の血なのだ、と。

彼女の足から、膝辺りから鮮血は広がっていた。思い当たるのは一つしかなかった。

あの時の転倒で負った擦り傷。それしか、なかった。

だが、あれは単なる擦り傷だったはずだ。毒性の葉や棘に中てられているにしても、これは異常だった。

そんな事を考えている内にも、目の前の少女が衰弱していくのが感覚的にも、理性的にも、察することができた。

「っ……! 止まれ! 止まれよっ!!」

少女を仰向けに転回させて、傷口を抑えた。

目一杯、力ある限り全力で、両の手を使って、抑えようとした、塞ごうとした。

けれど、とめどなく流れるその紅血は止まってくれやしなかった。ドクドクと特有の鼓動と温かみを垂れ流していくばかり。

それはまるで――彼女の生命が流れていくようで……。

「くそ! くそっ! くそおぉぉっ!!」

抑えても、抑えても、この手をすり抜けて行く彼女の命。

それを感じられて、それが認識できて、修は悔しくて惨めで辛くて、歯を噛み砕く勢いで歯噛みした。

――自分が、こんなにも無力だったなんて……。

――苦しんでいる大切な人が目の前にいるのに、何も出来ないなんて……。

「しゅ……、う」

「黙って! 何も喋らないで! 今助けるからっ! 絶対……絶対に助けるから!!」

止まれ止まれと念じて抑えながら、修は言った。

けれど、例のように血は止まらない。修の願いになんて何一つ応えてくれやしない。

「おん、ぶ……して」

その時、サクラが口にした言葉は願い事であった。

修は一瞬膠着してしまうが、すぐに正気を取り戻して、

「そ、そうだね! サクラをおんぶして今から山を下りればきっとどうにかなる! マチにだって少ないけど医者はいるし、サクラのお父さんかお母さんもきっとどうにかしてくれるよね!」

「ちが……う、よ」

サクラから返された否定の言葉に、修は「は……?」と固まる。

「わたし……桜、観たい……」

サクラの願い事を聞いて、今度こそ思考が吹き飛び、代わりに怒りが込み上げてきた。

「何馬鹿なこと言ってんだよ!? こんな状態で桜なんて言ってる場合じゃないだろ!?? しかも咲いてるかも、存在するかもわからない代物のためにそんな事するのか!? ふざけんなよっ!!」

「しゅ……う、聞い……て」

「聞かない、聞きたくない! 誰が聞くかそんなお願い!! 桜の木なんてもうどうでもいい! そんな事のためにサクラが居なくなるなんて僕は嫌だっ!! 絶対に、絶対にマチまで連れて帰って助ける!」

「それ、は……無理。出来、ない……」

「無理じゃないっ! 出来なくないっ!! サクラを抱えてマチにまで運ぶ! 絶対に!!」

「しゅう……じゃ無理。……わたしを抱え、て、山を下りられるほ、ど……力、ない……。それ、に……きっと、わたしが……そこま、で、もた……ない、から……」

苦痛の吐息と一緒に吐きだされる告白。

それは事実だった。いくら華奢で軽量なサクラと言っても、身体が未発達な同じ年代の少年ではそれを担いで山を下りるなど不可能に等しい。

もし仮に下りることが出来たとしても、その頃にはサクラはきっと力尽きている。現在進行形でその身を危険に晒しているサクラにはその確信があった。

――自分は、どちらにせよ死ぬ、と……。

だから――

「だから、修。わた、しに……桜、を観せ……て」

「そ、……そんなのわからないじゃんか! 下りられないとか、下りてもサクラがもってないとか!! そんなの、そんなのって……!」

修は、震える声で必死に否定をしたがった。

サクラの言う残酷な未来絵図をか、現在目の当たりにしてる惨劇の現実をかはわからない。もしかしたら片方をかもしれないし、両方かもしれない。

ただその中に、過去はなかった。

過去はいつも、優しい思い出はいつも、返ってこないから。どうすることも出来ないから。

そんな過去が脳裡にフラッシュバックして、余計に修は聞く耳を持ちたくなかった。耳も目も鼻も、全部を塞ぎたくなった。

視たくない、聞きたくない、嗅ぎたくない。

彼女の苦しんでる姿も、掠れた声と息遣いも、鼻を突く血の匂いも。今の彼女の何もかもを、現状を否定したかった。

「しゅ、う」

サクラに、呼び掛けられる。

視たくないのに、聞きたくないのに、嗅ぎたくないのに。

修は、彼女の姿を、言葉を、匂いを感じて、それから背けられなかった。

だって――

「わた、し……夢、だった、の。……桜、を観る、の……」

彼女は、こんなにも瀕死な状態なのに――

「一番……観たく、って、一番の夢……なの」

彼女は、こんなにも震えて、怖いはずなのに――

「だ、から……観たい……な」

いつもと変わらない優しくって、愛らしくって、華のように綺麗な囁きと笑みを、修に見せる。

背けられるはずがない。逃げられるわけがない。

――彼女がこんなにも、懸命に自分に微笑んでくれているのを……。

「っ……! わか、ったよ……!」

苦渋の決断だった。

この行為は、彼女が生きられるという可能性を全て不意にする行為。ある意味で、“サクラを殺す”決断だったのだ。

英断とは称えられないだろう。賢明だとは褒めてはくれないだろう。

むしろ責められ、憎まれ、咎められる最低最悪の凶悪的判断――人殺し、と数多の人間達に糾弾されて当然の事を、修は行ったのかもしれない。

けれど、修はこの行動を選択したのだ。

「ありが、とう……修」

彼女が、喜んでくれるから。ただ、彼女の笑顔を守るために……。

――修は、自らを悪者にした――



こんなにも軽かったのか、と雪地を踏みしめながら修は知った。

背中に乗る彼女の肌身は冷たくって、首に掛けられた細々とした両腕は非力で、耳元に届けられる吐息はだんだん静かになって、まるで彼女の姿が、存在が時間の経過とともに軽薄になって行くような嫌な感じを覚えさせた。

「はは……しゅ、う、って……けっ、こ力ある、んだね……」

もう話すことも億劫そうな、そんな囁きに修は涙を堪えるので必死だった。

けれど、泣いてはいけない。なぜなら、一番苦しいはずの彼女がそれでも笑いかけてくれるのだから。

「これ……だった、ら……山、下りれた、かも、ね……」

「馬鹿。そんな後悔させるようなこと言わないでよ。僕が一番気にしてるのに」

「はは……ごめ、ん……ね」

こんな状況下でもそんな冗談が言えるのか……いや、そんな状況下だからこそ何かを諦められて言葉にできるのかもしれない。どちらにせよ、今の修には理解ができなかった。

「あれって……!?」

一驚して、修は声を上げた。

見つけた、確かにあった桜の木。

その木の下を目指し、修はサクラを担いで歩を速めた。

堀が深く、しわがれた腐ったミイラの様な樹皮。丸太を何個も並べたように太い幹。幾数にも分岐し、歪曲する枝。かなり年齢のくった樹木であることはすぐにわかった。

「修……? 桜、あった……の?」

顔を上げて見ればわかる答えをわざわざ訊ねるサクラ。

いや、もうきっと上げたくても上げられないのだ。どこにも力が入らなくて、首を持ち上げることも叶わないのだろう。首に回された手にもはや力というものがないのを感じて、修は察 した。だから、答えてあげなければならないのだ。

「ああ、あったよ……。すごくおっきくて立派な桜の木が……」

「そっ、か……よかっ、たぁ……」

安堵に満ちる彼女の声に、修は胸を締め付けられた。

こんなにも苦しんだなかで来たのに、彼女の本当の意味での最後の夢だったのに……――。

――桜は、咲いていなかった。

剥き出しになった枝が嫌らしく思えた。一つも芽も成っていない桜が苛立たしかった。

どうしてこんなに世界は非情なんだろうか、と。どうしてこんな優しい子の最後の願いも叶わないんだ、と。

世界に嘲笑われてる気がして、世界が彼女を見捨てたような気がして、心が荒れた。

「ね、ぇ……しゅ、う。もう、ひと……つ、お願い、いぃ……?」

「なに? 言って。僕に出来ることならなんでもするから」

世界が見捨てても、自分だけは――。

その思いで、修は訊き返す。

「桜の木の……下、で……寝かし、てくれ……ない、かな?」

「え……?」

それはある意味で、残酷なお願いであった。

どうやら彼女は“桜が咲いている”と思っているようだ。いや、誰でもそう思うかもしれない。この状態になれば、希望を前提に物事を考えるのは至極当然だ。なぜなら、それが今彼女の命をこの世に繋ぎ止めている『願い』なのだから。

だが、現実は違う。少女の『願い』なんて目もくれない。

だから、修はきっと教えてあげなければならない。咲いていないと彼女の夢を踏みにじらなければならない立場にあるのかもしれない。

「ねぇ……しゅ、う」

「く……っ!」

――そんなこと、出来るわけがなかった。

最後に彼女に絶望を与えるなんて、修にはそんな勇気がなかった。

だから結局、世界に頼った。

憎たらしい現実を、悪なる現在を突きつける役目を、憎むはずの世界に投げたのだ。自分では言えるはずがなかったから。

修はそっと、桜の下でサクラを寝かせた。そうして、

「ごめ、ん……っ!」

謝った。咲いている桜を見せてあげられなくて、最後の夢も叶えて上げられなくて、その他も含めて、全部に謝った。

「どうし、て……謝る、の……?」

けれど、サクラが観ている世界は違った。

「こんな……にも、綺麗、な、のに……」

そう言って、サクラは満足そうに口元を綻ばせた。

サクラの観ている世界には、確かに映っていたのだ。

純白に覆われた世界の中、宙を遊ぶようにして舞い振る桃色の六花が……。

彼女は、雪降を桜と錯覚しているのだった。ぼやけた不明瞭な視界で、それでも観ようとした結果だった。

「さ、サク……ラ……ッ!!」

閉じそうな瞼を必死に開けて、虚ろな瞳で空を仰ぐサクラの痛々しげな姿を見て、修はもう耐えられずに涙を溢れだしてしまう。

嫌だ、死んでほしくない。生きていて欲しい。もっと色んなトコロに、もっと色んな場所に、もっと色んな世界で、二人で遊びたい。笑いあいたい。

一度涙が出ると、頭の中は願いで溢れかえって、妄想と粘液の流出が止まらなくなった。

「どうし、て……泣く、の?」

サクラサクラと連呼し、泣き喚く目の前の彼にサクラは問い掛けた。

「泣か、ないで……? わた、し……修、が泣くの、なんて……見たく、ない、よ……」

目一杯力を込めて動かない腕を懸命に持ち上げて、彼の頬に触れ、撫でる。

「あな、たのおかげ、で……わたしは、夢、を叶えられ……た。世界、を知れ……た。あなたが教え、てくれた、から……わたし、は楽し、かった……」

冷たい氷のような掌からは、日のような優しさの温もりがダイレクトに送られてくる。

輪郭をなぞっていた大量の雫も、彼女のその手に吸収される。

「しゅ、う……おね、がい……笑っ、て……」

三度出された彼女のお願いは、変わらずわがままで、優しかった。

今の自分に出来ることは、彼女のお願いを聞いてあげること。彼女の喜びを守ること。

それが、今唯一修がサクラに成し得る事のできる“救い”だから。

修は、笑った。

涙と鼻水でまみれ、嗚咽や表情の強張りで筋肉の張った引き攣ったブサイクな笑顔だったけど、

「やっぱ……り、修、の笑ってる顔、が一番……好き……」

彼女も応えて、頬笑み返してくれた。

「サクラ……ッ!!」たまらなくなって修は抱きしめた。膝からの止まらない出血なんて気にしない。彼女が愛おしくて、彼女が遠くへ行かせたくなくて、引き寄せるように力強くその小柄な身を抱きしめた。

「修……わた、し……狂い桜、好き……だよ?」

「……どうして?」耳元で紡がれる小声に、問いを投げる。

「自分の咲きたい、ときに、咲い、て……自分の散り、たいときに散る……ってすご、く羨ましい、から……。何にも……縛られ、ずに、自由に、咲き誇れる……強さ、がある、気がして……」

サクラは、自由を欲していた。自由を持てる強さを求めていた。

鳥籠のなかの非力な飼い鳥じゃなく、空を優雅に羽ばたく白鳥のような美しさが欲しかったのだ。だから、気ままに自分の力だけで咲く事が出来るこの狂桜の話を聞いて興味が沸き、魅了されたのかもしれない。

「わた、し……生まれ、変わったら……狂い桜になりたい、な……」

「はは……自分から望んで狂い桜になりたいだなんてそうそういないよ?」

「そう、かな……?」

「そうだよ……」

指摘すると、えへへっとサクラは笑んだ。

もう後どのくらい話していられるだろう、どのくらい、彼女の存在を感じていられるだろう。

「しゅ、う」また、彼女から話し掛けられ、「なに?」と修は応答を返した。

「わた、し……あなたのことが……好き……」突然の、けれど必然の告白だった。

「誰よりも……どんな、景色、よりも……修が、一番……好き……」

「……ッ! うん! 僕も、サクラが好きだ、大好きだ!」だから行かないで、その言葉は噛み締めて、修は言った。

「ホント、に……?」

「ほんとさ……」

「ホントのホント、に……?」

「ホントのホントだよ……」

「そっ、か……うれ、しい……」

そう言って、耳元で初めて彼女の啜り泣く声が聞こえてきた。怖いのもある。辛いのもある。悲しいのもある。

けれど何よりも、修からもらった答えが嬉しくて、最後に“本当の夢”が叶えられて、サクラは感泣に浸ったのだ。

「しゅ、う……」

涙に濡れたまま、サクラは呼び掛けた。最後にしっかり、思いを届けるために――。

「本当に……本当、に……ありが、とう……!」

――告げられたと同時に、耳元で聴こえていた小さな空気の音も、聴こえなくなったのだった。



あれから、一年近くの月日が過ぎた。

彼女が亡くなった後は、案外あっけないものだった。

山に入ったきり帰ってこない修と家に居ないサクラを探してマチの人間もサクラの父母も捜索隊を引き連れて山へ潜った。そして真冬の山奥で凍えていた修と抱えられたサクラの亡骸が発見され、確保され、無事に保護。

一番あっけなかった、というよりは驚いたのがサクラの両親から感謝の言葉を告げられた時だ。

後に聞いた話、なんでも彼女は先天性の白血病という持病を抱えていたらしい。

『血液のがん』とも呼ばれているらしく、骨髄から病的な血液細胞がコントロールされることなく、無秩序的に増加する病らしい。症状は貧血や発熱、そして出血傾向と呼ばれるものが代表的で、出血傾向とはつまり出血しやすく、血が止まりにくいということを指す。原因としては血中に正常な血小板が減少することにより血の凝固作用が低下するかららしい。

だからサクラの両親は、彼女を家に隔離し、外に出ないように言い聞かせ、都では毎週彼女の生活習慣や異常がない、あとは骨髄移植手術のための適合臓器(ドナー)の確認で訪れるために仕事場をそこに決めたらしい。

家宅をこんな里に置いたのも、外に出られないならせめて景観の良い飽きないトコロがいいだろう、と話し合った結果、ここに住むようになったとか。

――全ては彼女のため、全ては彼女を守るため。

ペットなんかじゃない。サクラの両親はずっと、いつでも、サクラの事を想っていたのだ。

だからこそ、最初は憎んだと修は彼ら両親から告白された。

大事な一人娘を奪った、勝手に外に連れ出して娘を殺した憎き悪党として、憎んで、恨んで、呪った、と。

けれど、我が元に帰ってきた愛娘の顔を見て、そうではないと悟ったらしい。

なぜかはわからない。

ただ、その表情がとても幸せそうで、満足そうで、安らかだったように見えて、自分で選んで何かを観たのだなと察する事が出来たのだ。

恨めしいという思いが消えていないのは確かだが、彼女に自分達では与えてやれなかった世界を、幸福を与えてくれたことには感謝の気持ちはある、と告げられた。

正直、その言葉だけで修は救われた。

自分が行った事が彼女を殺すことで、両親から一人の娘を奪い取ったのだと認識していたから。認めて、人殺しとしての悪者の皮を被ることを覚悟していたのだ。

そんな自分に、感謝の意を告げられるとは思っていなかったから、ずっと責めていたから、だから救われた。

今思えば、サクラの両親のあの言葉が無ければ、修は今日まで生きてこられなかったかもしれない。本当に助けられたな、と修はしみじみ思う。

「ふぅ~……発見」

大袈裟にも袖で額を拭う仕草をして、修は目的地へ辿りついた。

幾時の数を刻みつけたかのように掘られた樹皮に、丸太を幾つも並べたほど図太い幹、無数の分岐を果たして形成される枝、そして……――桃色満開の桜の華吹雪。

「また咲いてるとは、僕は相当ラッキーなのかな?」

修はそう言って、桜の木の下で腰を下ろした。

ある日から、修はこの狂い桜のもとへ頻繁に訪れるようになった。

悪夢と悲劇の残された場所のはずなのに、彼はなぜだか吸い寄せられるようにここへ来てしまう。

理由はわからないが、ここに来るとよくサクラのことを思い出せるのだ。

山に行って木の実を見つけて食べあった事、川を辿って修が落っこちたこと、動物たちと触れ合ってサクラがリスに懐かれた事、こっそり一緒に行ったマチで一緒に芋を食べた事。

たくさんの眩耀で、美しい思い出がふっとフラッシュバックされて、まるで彼女に会って遊んでいる気持ちにさせてくれる。

「……今日も、綺麗だな」

ゴツゴツとした木の幹に寄り掛かって、見上げると、六輪の花が付いた桜の花がふらふらと遊ぶようにして何枚も舞い降りてくる。

彼女はあの時、どんな桜を観たんだろう? これよりも綺麗で幻想的なものなのだろうか? だったら嬉しいな、と考え事を巡らせる。

あの時は世界が非情だ、彼女を見捨てた、と憎んだが、最終的には彼女は世界に“救われた”のではないだろうか? と思う頃が今になってある。

桜は確かに咲いていなかった。けれど、彼女には確かに何かが見えていた。とても佳麗で神秘的な美しさを誇った桜の花びらたちが目に映っていたはずだ。

だから彼女は、あんなに幸せそうな顔で天に逝けた。思い残すことなく、満足そうに……。

「さて、そろそろ帰ろうかな」

そう言って、修は名残惜しそうに重い腰を上げて、立ち去る決意を示す。

「あっと、また持って帰るところだった」

せっかく作ったのに持って帰るなんてほんと馬鹿だな、と自身の罵り口を叩いて、懐を漁り、あるものを取り出した。

「ずいぶんと、上手くなったもんだな僕も」

そう言って、桜の木の下に置いたのは藁草履だった。あの頃の彼女の足のサイズに合わせた立派な藁草履だった。

「それじゃ、行くね」

一声かけて、桜の木に背を向ける。

後悔する事なんて幾度もあった。言っては何だが今だって後悔することは多々ある。

あの時もしも彼女を背負って山を下りていれば、あの時自分があんなボロボロの草履を渡していなければ、あの時彼女に出合っていなければ――。

何度思い、願い、悔いた事だろう。数えるのも馬鹿らしい。

だけど、その度に気付かされるのだ。

あの外を知らない少女と出合った事で、自分は今でもこうして生きていられる、と。

強く、必死に、前を向いて、自由に生きられるんだと。

だから、彼女と出合っていなかったらなんていう世界は、修には想像できなかった。なぜなら、彼女あっての修の世界であるから――。

「修! 今日はどこに行くの!?」

「っ!??」

背後から聞き慣れた、久しい少女の声を聞いて、修は勢いよく振り返った。

だが、当然の如くそこに小さな少女の姿はなく、桜がさざめくだけであった。

けれど、修はふっと微笑む。そして、再び背を向けた。

きっと幻聴かもしれない。彼女が居てほしいと強く願った自分の心が生み出した残響なのかもしれない。

けれど、それでもよかった。

そこに幻聴でも、願望からの空耳でも、彼女からそのような声が向けられたなら、返すのは一つだった。

「――また遊ぼうね、サクラ」

片手を上げて、いつも通り遊びの約束をする。

さよならは言わない。だってそこには彼女が確かにいるから。

空からは、小さな白い結晶が里全体に降り始めていた。

初雪の降りそそぐなかで、狂い桜は優しく、その暖かい花を咲かせて揺れていた。

それは、一人の少女の笑顔によく似ていたのだった――。


物書きの友人に見せるために作った短編小説です。

テーマは、世界と出合いの共通。

袖触れ合うも他生の縁とある通り、人の生きる世界には出合いが伴い、そこに無駄な出合いも、必要のない世界もない、と。

数多の出合いを得て、今の自分の世界がある。

それらを伝えたいな、と思って書き上げました。

どうぞお暇なときにでも覗いて頂けると嬉しいです!

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[一言] 久しぶりに読んだけどやっぱいい作品だな畜生!
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