表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狼の水  作者: もぃもぃ
9/20






 伝承とは、かくも定かならぬものよ


 と、その獣はいった。



 憐れんでいたのか、(わら)っていたのか


 いまとなっては、もうわからない。



 いずれも夢の(はなし)よと、嘆いていたのか、(いた)んでいたのか。




 血に濡れたいまとなっては、もう。



 わたしを、殺すの? 息だけがそれを問うた。


 出来うるならば。

 牙だけで獣は笑った。




 餓狼(がろう)となり果てた我を嗤うか。神の名を忘れてしまった憐れなるものを。

 永久にも似た時のなかで、思いいずるものは、もう――――――――








「罠がない……」



 三日間待った。湖から家に戻り、日が暮れてからも火を焚いて、いまだ罠の置かれた場所ちかくでしばらく時を過ごしたりなどもしたが、あの獣と遭遇することはなかった。

 (うつつ)と夢の境を意識がさまようなかで、なにを待っているのか、なにをしているのか、それすら少女にはどこか(おぼろ)であった。




「返してもらわなきゃ……」




 酸鼻さんびをきわめた現場にあって、少女は茫洋とその痕跡を眺めた。少女と赤い双眸そうぼうの獣との遭遇の端緒となった刺々しい鉄の刃――――残虐な行為のすべてを目にしていたその刃――――は、姿を消していた。だが、なにか明確な理解として少女がそれを受けとめることはなかった。ただ、過去の凄惨せいさんな出来事の一端を少女の意識にかすめていった。




「おもいだしたよ、おばあさま……」




 祖母と呼んでいたひとは、痛ましいまでの顔をしていた。手をひかれながら走ったのは、暗澹あんたんたる道であった。

 とおい昔語りを聴かせらるるに、くり返し語られた言葉。父も母も、病で死んだのではなかった。自分は村を引き払ったのでもなかった。



“忘れなさい”

“なにからも見つかってはいけない”



 おとうさま。おかあさま。やさしいあのひとたちは、暴掠ぼうりゃくの限りが尽くされたあのとき、亡くなってしまったのだ。



 ああ、こんなことが!



 父の薄青の双眸ひとみが好きであった。母のやわらかなぬくもりに頬ずりした記憶は、なぜ褪せていたのか。少女は、薄青の空を仰いだ。 

 少女の父が愛した水色のひとみ。その夢幻の双眸から、透明な滴がこぼれて、落つ、その――――一拍。

 涙が地へ砕けたのがさきか、その獣の足音がさきであったか。

 血の滴る目をもつ狼は、牙を光らせていた。





 森は、木々を重々しくそのうちに閉じ込めている。朝の澄んだ空は、その間からおそるおそる分け入っていた。

 あの壁掛けを返してと、少女は総身をふるわせながら獣に相対した。獣は、少女を嘲弄(ちょうろう)する光をその赤い目に宿した。



「とうさまから貰ったの……大切な絵なの。おとうさまが描いてくださったエンツィアの絵なの」



「エンツィア?」



 ゆらり、と鈍い色が赤い双眸に立ったようであった。

 いまはなき、いにしえの花。その花の絵を、父は手ずから描いてくれた。これはわたしたちの祝福だからと言って。壁掛けの縫い目の隙間に忍ばせておいたものであった。忘れろという祖母の心痛を思うと同時に、かの一連の記憶をうしなってもなお、捨てられないものでもあった。



「……エンツィア、とな」



 不気味なほどゆっくりと、獣は笑った。不穏な気配に瞬きすら忘れた少女は、胸のうえで冷たい両手を握りしめた。晩秋の寒風が、頭上で葉擦れを起こした。



「あなたでしょう? わたしのおうちを、あんなふうにしたのは……。なにを持って行ってもいいわ。でも、壁掛けだけは返して。わたしとおとうさまの大切なものなの」



「愚にもつかぬとは、このことよの。蒙昧もうまいな人間のすることなど、我の関知するところではない。我が、汝がごとき矮小な存在を目にかけると思うてか」



「あ、あなたがなにを言っているのかわからない……。返してほしいだけなの。それだけがあれば……」



耄碌もうろくしておったわ。それなる色(・ ・ ・ ・ ・)のあさましき民……さやけき水の化身の恩恵をうける民の末裔……。その名がいまだ生きておったとはな。神々の能をもってすら、ついに予期できぬ人間どもの蛮行であったのにのう」


 なんの因果であろうかと、はらの底からおかしいとばかり、獣は喉を鳴らした。少女の理解など待たぬ獣は、よくよく少女の双眸を見た。水の膜をはったようなひとみ。水を湛えるひとみ――――。



「まあよいわ……万事整うた。供物の民が花の名を騙るとはな。されど汝はにえにすぎぬ。あとは、月のめぐりを待つばかりよ」



 禍々しいまでの血の色の目をした狼は、いっそやさしげに目を細めた。獣の生温かい息が、少女の肌を舐めるようであった。

 悲愴ひそうな思いで少女は叫んだ。



「わたしは、贄になんかなりたくない! むかしのこと、ぜんぶ思い出したの。だから、おとうさまやおかあさまのところにくの」



 壁掛けが、いや、父が描いてくれたあの絵がなければ、自分は、父や母や祖母に逢いにゆくことなどできない。祝福されたものがなければ、すぐには自分をみつけてはもらえないかもしれない。はやく、はやく逢いたい。降りかかったおぞましい現実など、一瞬にして散ればよいのだ。



「みつければいいんだ……。かならず、わたしはおとうさまの絵をみつけるから……」




 ひたと葉のざわめきがやんだ。

 純真な光は獣をひたむきに捉えたが、生温かい呼気は少女を嘲笑った。




「どこへなりと逃げるがよい。汝の血の匂いを追うことなど、たやすい。月のめぐりは神であっても追い越せまい」





 深閑な森は、いまこのときに世界はふたつの存在しかないとばかり、その身を微動だにさせなかった。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ