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狼の水  作者: もぃもぃ
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 悲鳴をあげることもままならぬ恐怖のなかで、おなじように走っていたという記憶があった。

 なにかから逃げていた、とも。

 顎も膝もがくがくと震えているのに、あらわれるのはひたすら闇だったとも。走っても走っても眼前には胡乱うろんな闇しかみえぬ。けぶる視界はなにもかたちを明らかにはしてくれない。

 息を吸うことを躊躇ためらうほどの木の焦げる臭いも、耳を塞ぐほどの轟音も目が焼けるほどの火の赤も背にして、骨まで浸透したかに思えるおののきが水色の双眸から涙となって流れ出た。




 ――――けっしてみつかってはいけない――――




 そのことだけが自分の手足を動かす残酷な励みだった。


 だれも救ってはくれない、だれも顧みてはくれない。

 いいや、だが――――、あのときは(・ ・ ・ ・ ・)だれも( ・ ・ ・ )おなじ( ・ ・ ・)だった( ・ ・ ・)

 自分だって顧みなかった。ほかのだれをも。

 自分とおなじもの(・ ・)をもった、ほかのだれをも。



***



「いやあ、いやぁっ、たすけて!」


 なにか(・ ・ ・)と、現在いまが混在するただなか、がむしゃらに少女は走っていた。

 みつかってはいけない、みつかってはいけない、その思いだけが頭の中に反響する。

 なまあたたかい息遣いと、己の手足、髪までをもその色にとりこもうかという闇がくる。自分を追ってくる――――。


 少女の頭上の空は夕暮れと夜陰がまじりあう。月光は重く厚い森の葉にひとしく降るだろう。だがこの森は音も光もすべてを呑みこみ、そのうちに閉じこめる。すでに夜気を吐き出しはじめた葉の陰は少女の頬をやわく突き刺した。少女の四辺あたりすべてが少女の肌におぞましい湿りけを伝えるものだった。

 手指はすでに凍るように温度をなくしていた。ふと、き出しの足裏から異様な寒さが這いのぼった。なにか硬質なものがひやりと踵に触れ、それを確かめようとして落ち葉を踏んだ――――、土の湿りのうえにあってなお乾いた音を感じた――――そのとき、全身が総毛立った。



 とん、と生温かい重みが少女の両肩にかかった。

 ふり向いたが同時、闇からこちらを見つめる赤が二つ。少女の顔の、ごく間近に。


 そのとき少女は立っていたのか、すでに伏していたのかなどもう判然とはしないだろう。肩にかかった重みはほぼ感じなかったとのちに回顧する。

 ああ、ごく近い間におなじ光景のなかに自分はあったと、背筋に感じる氷の刃のような悪寒のなかでこのとき少女は茫洋ぼうようと想起していた。

 はじめにとらえたのはただの赤色だったか、地に立った火の赤だったか。月の赤、したたる血の色のひとみわらう(・ ・ ・)牙。あかい、オオカミ。


 

 転瞬。

 少女は獣の爪のもとに伏していた。ひとがもつものよりも一段高い熱が、少女の背をおおいつくしていた。顔はいきおい、土に押しつけられた。火傷するほどの擦過熱が頬に起こり、ぎりりと獣の爪が少女の肩に喰いこんだ。少女が細い悲鳴をあげるに構わず、獣はくつくつと喉をふるわせた。



「可笑しくてならぬ。ほんに、神のなんと蒙昧もうまいたることよ。地上の民のそれなる(・ ・ ・ ・)色をすべて滅したつもりであったか。あさましき民どもの業なるは、ゆうに神の域を凌ぐがゆえとついに神は予期せなんだと……」 



 獣は呵々(かか)と大笑した。あるいは咆哮だったのやも知れぬ。

 暗鬱をかかえた夜気は何事かを嘲弄ちょうろうする獣の息に生々しく濡れた。

 あさましき民とは、いったい自分はなんのために追われていたのか、何故、なにがと渦巻く疑念に思考は沈んだ。


 痛みと疑念に茫洋とした境地にあった少女はそのとき、闇に黒光りする硬質ななにかを目に入れた。さきほど踵に触れたそれは、刺々しい鉄の刃だった。

「……あのときの、罠……」

 少女と赤い双眸の獣との遭遇の端緒となったもの。

 手入れされているから暗くても光るんだなと、覚束ない視界のなかで少女は思った。





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