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狼の水  作者: もぃもぃ
19/20

十七






 伝承とは、かくも定かならぬものよ

 と、その獣はいった。



 憐れんでいたのか、(わら)っていたのか

 いまとなっては、もうわからない。

 いずれも夢の(はなし)よと、嘆いていたのか、(いた)んでいたのか。

 血に濡れたいまとなっては、もう。



 わたしを、殺すの? 息だけがそれを問うた。


 出来うるならば。

 牙だけで獣は笑った。







 その鋭刃を屋敷の中で探しあてたとき、エンツィアはごく自然にそれを手にとっていた。方法などまるで思案の外だった。だが今となってはもはや些末なことだ。アスターもそう言った。

 鈍く重いような感触が手に伝わったとき、少なからずエンツィアは驚いた。アスターの驚きほどではなかったのかもしれないが。床に伏し、はくはくと息を吐き、手足を痙攣させるさまは醜かった。



「あなたがとまってくれないのなら、わたしがとめる」


 水の膜をはったような瞳と、水を湛える色の瞳がかち合ったが、一方はどんどんと渇いていった。


「あなたが死ねば…………、わたしで最後になる。もう、みんな終わりだよ」


 にわかに、少女の父母や祖母の顔が思い出された。

 光にみちた、微睡みのなかでやわらかい風をつかむような心地であったかもしれない。緑がゆれ、金の稲穂がさざめく。

 これからこの地は業火に呑まれるというのに、自分たちはなんと呆気ない終わりだろう。


“その尊き花は、湖のほとりに咲いていたのだよ”


“わたしたちの夢幻。神ですらつかめなかった()と花()――――”



「…………エンツィア」


「…………アスター」


 互い違いにつぶやきが重なった。各々が自身の名を、いや、それぞれの花と神の名をつぶやいたのだ。

 青年は胸に刺さったナイフの柄を握った。だが抜くことはせずに、この場にそぐわないほどの明るい表情で、



「アスターは、古いふるい昔の神の名と同じなんだよ。聞いたことはある?」


 エンツィアは当惑しながら(かぶり)をふった。


「おれは、こんな名は心底きらいだったよ。アスターは(ことわり)の神の名だった。理を司る神、全知の神、この世のすべて。そして、地に堕とされた愚かな神の名だよ」



 エンツィアはひそかに驚愕した。


「それは…………」


「それは、おれを名づけたひとは知らなかったのだろうよ。きみがアスターの名を知らなかったことと同じように」


 そんな、というエンツィアの囁きを青年は異なる意に受けとった。


「伝承なんていい加減なものだよ。言い伝えの神々は数多いたし、神々は生まれかわりもし、そのたびに名を変えた神もいる。もともとなにが最初かだったかなんて、もはや大事ではなかった…………。だからおれは村の人間を愚かだと思っていたし、伝承そのものも莫迦莫迦しかった」



「村の民はいつかは滅びるだろうと予感していたけれど――――っ………!」



 青年は血を吐いた。床に散った血を、彼はふるえる指で触れた。


「……いくら水色の瞳の民を手に入れたかったからといって、そう容易に増やすことはできない。うつくしいはずのものを集めても、それは所詮ひとときのものだ。水の民(我々)の慢心が蛮族を誘き寄せたともいえるだろうさ」


「わたしたちは静かに暮らしていただけだよ。どの道滅びたというのなら、そっとしておいてくれたのならよかったんだよ。そうしたら、アスターもこんなことをせずに済んだ。そうだよね?」



 青年は外の音に耳を澄ませるために瞼をとじた。「エンツィア、きみには聞こえるかい。ここからは、おれにはもう見えないんだ。森の火が間近にきているのなら教えてほしい。目を閉じていても火の音が聞こえないから」


 青年は弱々しく身を捩った。ときおり屋敷に吹きつける風が、きっと炎を巻きあげているのだろう。業火のあとには、荒涼とした地だけが遺るのであろう。



「……森の端ちかくに、湖があるんだ。そこの水をぜんぶ使ったとしても火はきっと消えないだろうな」


「――――森に湖があるの?」


 うん、と青年はあどけなくうなずいた。

 

「森に入ったときにみつけた。…………畔に青い花が咲いていたよ。エンツィアではないけれどね」


「……エンツィアはとっくに滅びたよ。神も、水の精霊をそっとしておいてくれればよかったのに」


「おれには(アスター)の気持ちなんてわからないけれど、求めずにはいられなかったんだろうよ。自分とはちがう、なにかうつくしいものを…………」



 エンツィアは、アスターの傍らに膝をついた。青年は目を開き、また閉じた。それ以上はもう動こうとしなかった。


「わたし、ここでは死なない……。あなたは、独りで死んでいくべきだと思う」


 彼はかすかに笑ったようであった。無情な風音が窓を叩いた。火の爆ぜる音を聞いた気がした。


「アスター、さよなら」


 エンツィアは立ちあがった。

 その青年の目は、ふたたびは開かなかった。







「あなたは、アスターという名だったんだね」



 語り継がれた昔話の終末を確かめたかったのかもしれない。それはお伽噺であったと、断じたかったのかもしれない。少女は湖の淵に立っていた。道々の木々は、凄まじい怒りを叩きつけるようにして燃えていた。どう辿ったのか、狼もまた、力尽きるようにして水辺に伏せっていた。風と炎で、樹木におおわれたうつくしい水面(みなも)は細くたなびく。



「いちど死のうとしたのだけれど、そのときも湖にいた気がする」


 あのとき見上げた空と湖に、父の瞳を想った。凄惨なふたつの記憶は、もう遠いように感じられた。少女は足元に咲く青い花々を見た。


「……アスターが言っていたとおりだ」


 赤い眼の獣が身じろいだ。エンツィアは獣のそばへ座りこんだ。そうして、神の名を問うた。いにしえの神だったものは、凪いだ目で湖面をみつめていた。


「朽ちたものは、元には戻らぬ。それを忘れておったとはな。我が滅ぼしたのならなおのこと。…………幻をみておったのやもしれぬ」


「……エンツィアは、夢幻の花だから」


「愚かよの」獣はちいさく(わら)った。


「求めたものは同じであったはずだった。かの()を手に入れること能わば、かつての至尊(しそん)が甦ろうはずであった」


 (ことわり)の気高き神は、かつて紫玉の色の瞳をもっていたという。天界から追放され、その瞳は赤く堕とされた。幾たびも幾たびも、滅びては生まれ、神であったころの記憶を継承しつづけた。その遠大なくり返しのなかで、溶け、零れていったものは、なんであったのか。

 ()()()()()()、自身が滅ぼした水の精の生まれかわりの傍らに微睡んだのは、いつの記憶であったのか。



「あなたを地におとした天の神々を恨んでいたの?」


 少女にもくり返し語られた呪文のような言葉を、彼女は反芻した。“みつかってはいけない”

 けれど、もはや、(つい)えるのだろう。この湖で。


「さての」獣は言った。

「遠き時のなかであっても、記憶は朽ちぬ。……そうと信じていたのやも知れぬな。よもや天の神々にも、けだし同じ神はないのであろうの」


 エンツィアは口を開こうとして、咽んだ。湖の対岸は森の端であり、木々の緑は明白なほど赤く染まっていた。



「――――古き神々とて生まれかわる。地に堕とした()のことなど、とうに忘れておろう。忘れておらずとも、我の望みはもはや潰えた。汝を供物とすることも、もうできぬからな」



 獣の眼はエンツィアを映したが、少女は青い花に手を触れていた。そうして、口ずさんだ。

 

 



  ――――むかしばなしをしましょう。

  





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